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【相愛・二人の物語】  作者: motomaru
第四章

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名前を知らないバラードと希恭の投問

「よし、こんなもんだろ……」


 放課後、誰もいなくなった教室に残り、日誌をつけ終えた希恭は、一人で納得したように呟いた。


「さてと、帰るか……」


 席を立って鞄を背負うと、日誌と教室の鍵を持って廊下へ出る。


 戸口に鍵を掛けながら、ふと思った。


(充、もう帰っただろうな……?)


 職員室へ向かう希恭の耳に、どこからかふいにピアノの音が流れてきた。


 それは、聴き間違えるはずのない、あのメロディーだった。


(この曲……)


 立ち止まってふと正面を見やると、廊下の突き当たりにある器楽室の扉が開いていた。


 希恭はその音に誘われるように、ゆっくりと器楽室へ歩き出した。


 戸口からそっと中を覗き込む。


 そこには、穏やかな顔で無心にピアノを弾く佐理の姿があった。


 この曲を弾いている時の佐理は、いつも少し寂しげで、それでいて驚くほど優しい顔をしている。


 バラードらしいのだが、何度曲名を尋ねても教えてくれない、彼のお気に入りの曲だ。


 希恭はひどく懐かしい思いに囚われ、戸口にもたれ掛かったまま、じっとその音色に耳を傾けていた。 


 ――いや、実際にはピアノを弾いている佐理の姿に、ただ見入っていただけなのかもしれない。 


 突如として激しい不協和音が器楽室の静寂を切り裂いた。


 鍵盤を強く叩きつけるような鋭い響きに、ハッとして希恭は我に返った。


「そんなところに突っ立って何してるんだ?」


 佐理が希恭のほうへ目をやって、少し呆れたように尋ねた。


「あ……その、ピアノの音が聞こえたから、ちょっと覗いてみたんだ。もう――弾かないのか? あの曲……」


「ああ、もうやめた」


 少し気落ちしたような希恭の顔を見て、佐理はわずかに口角を上げた。


「創立記念にはまた弾くよ」


 それを聞くと、希恭はピアノのところに寄ってきて佐理の側に立った。


「チケットのこと、聞いてないのか?」


「聞いてるよ。どうして?」


「いや、何も言わないから……」


「そのことについては、別に何とも思ってない。だから、何も言う必要はないだろ?」


 佐理は柔らかに微笑む。


「このごろ機嫌がいいんだな?」


 希恭が静かに問いかけると、佐理は再び流れるようなポロネーズを弾き始めた。


「そう見える?」


 鍵盤の上で指を滑らせながら、何気なく聞き返してくる。


「ああ。それにあの曲を弾く時はいつも機嫌がいい」


 そう言った希恭は、少し感慨深げな表情をしていた。 


 彼の言葉に佐理の手がわずかに揺れた。


「そうだな……上機嫌だよ」


「何か良いことでもあったのか?」


 佐理の機嫌がいいと、自然と嬉しくなる。


 春の暖かい陽射しに包まれた時のように、希恭の心も和《やわ》らいだ。


「ああ、宝物を見つけた……」


 ピアノを弾く手の動きに合わせて微かに身体を揺らし、柔らかな旋律《しらべ》を奏でながら佐理は答えた。


「宝物……?」


 希恭は身体を横へずらして、ピアノの上に頬杖をつくと、問いかけるような眼差しを向ける。


「そう。もう一つの……宝物」


「何を見つけたんだ?」


「それは……言えない。――宝物は秘密だからこそ宝物なんたろ?」


 佐理は希恭を見つめながら、その瞳の奥に悪戯めいた光を宿して微笑んだ。


「じゃあ、もう一つは? 一つくらい教えてくれたっていいだろ?」


 佐理はピアノを弾く手を止め、真っ直ぐに希恭を見つめた。

 

「もう一つは……俺の一番大切な宝物。――誰にも教えない……」


 悪戯っぽく注がれる視線は、いきいきと輝いていた。


 こんな瞳をした佐理を見るのは、本当に久し振りのような気がする。


 しかし佐理は、「この話はこれで終わり」とでもいうように不意に楽譜を開くと、また別の曲を弾き始めた。


 今度のは息つく間もないほどテンポが速い。


 ピアノをやっていない希恭には、聴き覚えのない曲だ。


「凄いな……何て曲?」


 頬杖をした手を下ろして、楽譜を覗いてみる。


「モニューシュコのピアノ連弾のための五つの小品」


「初めて聴いた」


「なまった腕にはもってこいの曲だ」


 希恭は上から楽譜の端をつまんで、苦笑する佐理のほうを見る。


 それから、彼が軽く頷くのを見ると、楽譜を捲ってやった。


「さすがに楽譜を見ながらじゃないと弾けない」


 佐理が一瞬だけ希恭へ視線を移して微笑んだ。


 穏やかで、優しい笑顔だった。

 

「佐理……教えてくれないか……」


 希恭が真剣な顔つきになって唐突に訊いた。


 佐理の手が止まる。


「俺が……憎い……? 俺のこと恨んでる? お前の――本当の気持が訊きたい……」


 希恭をじっと見つめる佐理のその顔に、もう笑みはなかった。


「もし恨んでるなら……俺は……どんなことをしてでも償いたい。――だから……答えてくれ」


 切なく歪んだ希恭の顔とは対照的に、佐理の顔からすべての表情が消えていった。


「俺は……」


 唇が微かに動く。だが、希恭にはよく聞き取れない。


「お前を……」


 その唇を、希恭は食い入るように見つめている。


 しかし、希恭に視線を留めたまま、次の言葉を言いあぐねるように薄く開かれた佐理の唇は、それっきり動こうとはしなかった。


 それぞれの想いを縛り付けるような沈黙が、二人を包む。 


「……う」


 漏れでるような佐理の息が、静寂な空気を微かに震わせた時だった。


「こんなトコにいた!探したんだぞ!」


 突然、不躾で遠慮のない不可の声が響き、佐理は完全に口を噤《つぐ》んでしまった。

 

 ――邪魔が入ったこの状況で、もはや彼から答えが得られるとは思えない。


 希恭は諦めたように俯いて小さく息を吐くと、日誌を手にした肩を落として器楽室を出ていった。  


 すれ違った希恭を目で追うように見送った不可が、眉を上げ、冷やかしを含んだ口調で佐理に尋ねた。


「な〜に話してたんだ?」


「別に。それより何か用か?」


 佐理は相変わらず素っ気ない。


「ああ、チケットの売り上げ。土曜に集計して、月曜に掲示することにした。それでいいだろ?」


「ああ、いいよ」 


 気のない返事を返す。


 珍しく目も合わさず、俯き加減に答える佐理に、不可は少し不快な顔をした。


「それから課題のことだけど……」


「どうした?」


「今、高田と九瀬《ここのせ》が担当してる。明日には終わるけど、次はどうする?」


「課題はしばらく中止にしよう。――そうだな……創立記念が終るまで」


「いいのか?」


「ああ、チケットの販売に支障が出ると困る。しばらくはそっちに専念しよう」


「どうしたんだ?」


 何か他のことに気を取られているような、ぼんやりとした佐理の様子に、不可は思わず問いかけた。


「何が?」


「なんか元気ないな?」


「そうか……?」


「そうだよ、心ここに在らずって感じだぞ」 


 顔を上げた佐理は、それには答えず次の言葉を投げた。


「二木は……?」


「もう帰ったんじゃないか、何か用があったのか?」


「いや、別にいいんだ……」

 

 そう答えてから、佐理はふっと口角を上げた。 


 二木が「俺が必要なのは“あの時”だけか?」と言ったことを思い出していた。


「何だよ、気持ち悪いな……」


「そうだ、これ」


 引き気味の不可を余所に、佐理は突然思い出したようにポケットから封筒を取り出して差し出した。


「何だよ、これ?」


 不可は訝《いぶか》しげな面持ちで受け取ると、佐理の顔を見返して尋ねた。


「星河のチケットの代金」


「星河の……?」


 不可は眉間の皺《しわ》をますます深くする。


「それで完売ということになるだろ」


 佐理はそう言いながらピアノを閉じて立ち上がると、戸口へ向かった。


「そんなんでいいのかよッ!!」


 不満げな言葉を不可が背中にぶつけてくる。


しかし、佐理は振り向きもせず、軽く手を挙げると、そのまま何も言わずに立ち去っていった。


「ったく!! 勝手なことばっかしやがって!!」


 不可はピアノの椅子を蹴り上げて吐き捨てるように言うと、自分も器楽室を後にした。








 


 


 

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