第2話:「干渉禁止」のルールは、初日の夜に崩壊する
引っ越し初日の夕方。私はリビングのダイニングテーブルに両手を突き、目の前に座る元カノに対して、厳粛に、かつ毅然とした態度で言い放った。
「――以上の三点。異論はないね、市之瀬さん」
手元のルーズリーフには、私が猛スピードで書き殴った『ルームシェアにおける鉄の掟』が並んでいる。
一、私たちは既に別れた他人である。
二、お互いの私生活や人間関係(特に恋愛関係!)には一切干渉しないこと。
三、高校時代の思い出話、およびそれに類する接触は原則禁止。
このまま何の決め事もなく同じ屋根の下で暮らしていたら、私の心臓が何個あっても足りない。さっきの『柔軟剤の匂い』の一件で完全に危機感を覚えた私は、荷解きもそこそこに、緊急家族会議ならぬ緊急同居人会議を招集したのだ。
美空はテーブルに肘をつき、綺麗な指先で顎を支えながら、提出されたルーズリーフをじっと見つめていた。相変わらず何を考えているのか分からない、完璧なポーカーフェイスだ。
「……そうだね」
やがて、美空は短く呟くと、顔を上げて私を見た。
「お互い、もう過去のことだし。ただの同居人として割り切ろう。異論はないよ」
「よ、よし! 交渉成立ね!」
あっさりと承諾され、私は心の底からホッと胸を撫で下ろした。
そうだ。美空だって、終わった恋をいつまでも引きずるような女じゃない。高校時代の彼女はいつだってクールで、合理的で、私をフる時だって驚くほど淡々としていたのだから。
これでいい。私たちはただの同居人。都会の荒波を生き抜くための、ビジネスパートナーのようなものだ。
――そんな風に安心していた自分を、一時間前に戻って殴りつけてやりたい。
「……できたよ。初日だし、買ってきたお惣菜とレトルトのご飯だけど」
夜になり、私は電子レンジで温めたご飯と、近くのスーパーで買ってきた惣菜の唐揚げをテーブルに並べた。お皿に盛る色気すらなく、パックのままだ。美空は「ありがとう」と小さく言って、私の向かい側に腰掛けた。
「いただきます」
二人で小さく手を合わせ、夕食が始まる。
箸を伸ばし、お互いに無言で唐揚げを口に運ぶ。沈黙は相変わらず気まずいけれど、昼間ほど刺々《とげとげ》しい空気ではない。
冷蔵庫の中、食材はまだ何もないが、調味料だけは既に買い揃えていたことをふと思い出した。
私は、本当に、頭で何も考えることなく。ごく自然に、呼吸をするのと同じくらいの滑らかさで、冷蔵庫から『ある調味料』を取り出し、美空の目の前に置いた。
赤いキャップの、マヨネーズの容器。
「あ」
置いた瞬間に、自分の過ちに気づいて全身の血の気が引いた。やってしまった。完全に身体が、高校時代の習慣を覚えていた。
市之瀬美空は、自他共に認める重度のマヨネーズ好きだ。だいたいの食べ物にはマヨネーズをかけて食べるし、特に唐揚げやフライドポテトなんかには親の仇かというくらいマヨネーズをぶっかける悪癖がある。そんな彼女の好みを知っていた私は、デートでカラオケやファミレスに行くたび率先してマヨネーズを確保してあげていた。
(ルールその三! 過去の思い出話およびそれに類する接触は原則禁止!!)
さっき決めたばかりの掟が、私の無意識のせいで初手から木端微塵に砕け散る。
「ち、違うの! なんでもない!」
慌ててマヨネーズを回収しようと手を伸ばした。
しかし、それよりも早く。美空の白い手が、すっとマヨネーズの容器を確保した。
「……助かる」
美空は表情一つ変えないまま、パカッとキャップを開け、唐揚げのパックに躊躇なく白い山を作っていく。そして、マヨネーズまみれの唐揚げを美味しそうに口へ運んだ後、じっと私を見つめた。
その綺麗な唇の端が、ほんの、わずかだけ、フッと上を向く。
『私の好みを、まだ覚えてるんだね』
言葉には出さなかったけれど、彼女の瞳が確かにそう語っていた。
「……っ」
私は猛烈な敗北感に襲われながら、俯いて白米を口に詰め込んだ。割り切るなんて無理だ。この女と暮らすの、難易度が絶望的に高すぎる。
部屋の間取りは2DK。お風呂は一つ。
夕食の後、先に私が湯船に浸かり、次に美空がお風呂に入った。
リビングのソファでスマートフォンをいじりながら、大学の履修登録のスケジュールを確認する。明日からは新入生オリエンテーション。そして、サークルの新入生勧誘、通称『新歓』も始まる。素敵な先輩のいるサークルにでも入って、今度こそ普通の、健全なキャンパスライフを送るのだ。
「ふぅ……」
そんな未来の計画を立てて現実逃避をしていると、脱衣所のドアが開く音がした。
お風呂から上がってきた美空が、リビングへと足を踏み入れる。
「楓、お風呂上がったよ」
「あ、うん。そう……って、ちょっと!?」
振り返った私は、思わずソファから転げ落ちそうになった。
美空が着ていたのは、随分とサイズの大きな、ネイビーの古着のパーカーだった。小柄な私なら膝まで隠れそうなその服を、スタイルの良い美空が着ると、ちょうど太ももの真ん中あたりまでの丈になる。
問題は、その下だ。
パーカーの裾から、スラリと伸びた、お風呂上がりでほんのり桜色に火照った生足が、一切の容赦なく露出している。
しかも、そのパーカーには見覚えがありすぎた。
高校二年の美空の誕生日に、私がなけなしのお小遣いを叩いて買った、メンズサイズのブランドパーカーだ。そうそう、こういうパーカーはオーバーサイズで着るのが可愛いから。――いや、そうではなく。
「な、何着てんの、あんた……!」
「ん? 部屋着だけど」
美空は濡れた髪をタオルで拭きながら、悪びれもせずに言った。
「へ、部屋着って……! それ、私が昔あげたやつじゃん! しかも下、穿いてないし!」
「穿いてる。ショートパンツ。裾に隠れて見えないだけ」
そういう問題じゃない。
美空が一歩歩くたびに、パーカーの裾が揺れて、健康的な太ももが眩しいくらいに視界に飛び込んでくる。目のやり場がなさすぎて、私は天井の照明を見つめるしかなかった。
「っていうか、なんでそれ着てるの。他にも服あるでしょ」
「荷解きをしていたら、たまたますぐ出せる場所にあっただけだから。別に気にしないで。部屋着なんて、着られれば何でもいいし」
美空はそう冷淡に言い残すと、濡れた髪のまま自分の部屋へと戻っていった。
気にしないで、と言われて気にしないでいられるほど、私は聖人君子ではない。ソファの上で一人、枕に顔を埋めて声にならない叫びを上げた。
あの女、確信犯だ。絶対に私の動揺を楽しんでいる。クールな顔して、奴は昔からちょっと意地悪なところがあった。
――夜の十二時。
自室のベッドに潜り込んだ私は、毛布を頭まですっぽりと被っていた。
大丈夫。明日は大学の新入生オリエンテーションがある。外に出れば、新しい出会いがたくさんある。美空のことなんて、家にいる時だけやり過ごせばいい。私たちはただの同居人、ただの同居人……。
自己暗示のように心の中で唱え、ようやくウトウトと眠気が訪れかけた、その時だった。
コン、コン、と。静まり返った室内に、ドアを叩く控えめな音が響いた。
「……楓、起きてる?」
美空の声だ。私が返事をする前に、ガチャリとドアノブが回り、廊下の明かりが薄く差し込んできた。
眩しさに目を細めながら上半身を起こすと、そこには、自分の枕を両手でぎゅっと抱きしめた美空が立っていた。お風呂上がりのあのパーカー姿のままで。
「ちょっと、何よ、夜中に……」
美空はゆっくりと私のベッドに近づいてくると、少しだけ視線を泳がせ、蚊の鳴くような声で言った。
「……東京の夜、外の物音が酷くて眠れない。人の声とか車の音とか聞こえるし。パトカーのサイレンはうるさいし。最悪。……高校の時みたいに、一緒に寝て」
「はぁ!?」
私は思わず絶叫した。
「外の物音くらい我慢しなさいよ! っていうか、さっき決めたルールはどうしたのよ!? 私生活には干渉しない、過去の接触は禁止って――」
「これは干渉じゃなくて、睡眠不足という体調不良を防ぐための相互扶助」
「都合のいい屁理屈、言わないで!」
拒絶する私を無視して、美空はずかずかとベッドの横まで来ると、当然のような顔をして掛け布団をめくった。そして、流れるような動作で私のベッドへと潜り込んでくる。
「ちょっと、美空……っ!?」
狭いシングルベッドの上で、二人の身体が密着する。
引き剥がそうとした私の背中に、美空の細い両腕が回された。後ろからぎゅっと、壊れ物を扱うみたいに、けれど拒絶を許さない強さで抱きしめられる。
耳元で、美空の規則正しい吐息が聞こえる。
お風呂上がりの、あの柑橘系のシャンプーの匂いが、私の世界を瞬時に埋め尽くした。
背中から伝わってくる彼女の体温が、驚くほど温かくて、心地よくて――。
「……おやすみ、楓」
美空は満足したようにそう呟くと、本当にそれきり動かなくなった。
私の心臓は、さっきからうるさいくらいの爆音を立てて鳴り響いている。
美空の身体の柔らかさを間近で感じるとどうしても高校の頃のことを思い出してしまう。
美空と触れ合っている時、私がキスよりもさらに一歩踏み込もうとすると彼女は必ず拒んだ。
高校を卒業して大学生になってからにしよう、と。
そのたび、私は自分の浅ましさを恥じ、美空の冷静さと慎ましさを尊敬した。
その一方で浮かれてもいたのだ。高校を卒業すれば美空とそういうことができるのだ、と。
しかし、その期待は高校三年生の三学期のあの日に粉々に打ち砕かれた。
美空にフられ、絶望に打ちひしがれる頭の片隅では卑しい思考が燻っていた。
これでもう、美空とそういうことできないじゃん、と。今までずっと、ずっと我慢してきたのに。
――だが、この状況は。
「えっ。な、何これ。ど、どうなってんの……? まだワンチャンある……!?」
作ったばかりのルールは、初日の夜に、粉々に粉砕された。
忘れるなんて、新しい恋なんて、絶対に無理だ。
私の理性がいきなり限界を迎える音が、静かな部屋に確かに響いた気がした。




