第1話:東京の新居のドアを開けたら、私をフった元カノがいた
東京の空は、地元のそれよりも少しだけ狭くて、随分と白く霞んで見えた。
山手線に揺られ、スマートフォンを片手に慣れない道を歩いてたどり着いたのは、築浅の綺麗なマンションの前。コンクリート打ちっぱなしの外観は、いかにも都会の洗練された暮らしを象徴しているようで、見上げるだけで気後れしそうになる。
「よし……今日から、ここが私の新しいスタートラインだ」
両手に提げたボストンバッグを握り直し、私は小さく深呼吸をした。
中道楓、十八歳。この春から都内の大学に通う、しがない女子大生だ。
田舎での窮屈な高校生活を終え、念願の一人暮らし――正確には、ルームシェア生活が今日から始まる。
『楓、東京で一人暮らしなんて物騒だしお金もかかるでしょ? ちょうどお母さんの知り合いの娘さんも同じ時期に上京するらしくて、良い物件を折半しようって話になったの。女の子同士だし、安心でしょ?』
実家を出る数週間前、母親からそう告げられた時は、正直に言えばガッツポーズをした。
知らない相手と二人暮らしなんて御免被りたいが、同居人が同い年の女の子となれば話は別だ。お互いに気を遣いすぎず、適度な距離感で楽しい女子大生ライフを送れるに違いない。サークルの愚痴を言い合ったり、お互いの恋バナで盛り上がったりするのを想像して、胸を膨らませていた。
そう。あの時の私は、これから始まる生活に、ただ純粋な希望だけを抱いていたのだ。
エレベーターで目的の階へ上がり、指定された部屋の前に立つ。ポケットから真新しい鍵を取り出し、ドアノブに差し込んで回した。カチャリ、と軽い金属音が静かな廊下に響く。
「……お邪魔しまーす。今日からルームシェアすることになる中道です」
少し緊張しながらドアを開け、一歩中へ足を踏み入れる。
新築特有のワックスの匂いが鼻をくすぐった。玄関を抜け、短い廊下を通ってリビングへと向かう。
南向きの大きな窓からは、明るい春の陽光が差し込んでいた。
その光を背に受けて、リビングの真ん中に一人の少女が佇んでいる。
すらりとした、モデルのような高い背。光に透けて微かに茶色く見える、流れるような美しい黒髪。
都会的なオフホワイトのシアートップスを着こなした彼女は、荷解きの手を止めて、ゆっくりとこちらを振り返った。
逆光の中に浮かび上がったのは、彫刻のように整った、けれど氷のように冷ややかな美貌。
「――っ」
心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。手元から力が抜け、ボストンバッグが床にドサリと重い音を立てて落ちる。
見間違うはずがなかった。切れ上がった涼しげな目元も、形の良い薄い唇も、その凛とした佇まいも。
市之瀬美空。
高校時代、私の初めての恋人であり。そして――三ヶ月前。私を木端微塵にフりやがった、最悪の元カノだった。
高校三年生の三学期。地元の国立大学への推薦入学が決まった美空に「遠恋になっちゃうけどこれからもよろしくね」と告白した私を、奴は「遠距離は大変だからもう終わりにしよう」と一蹴したのだ。
「なんで……」
声が震えた。
美空は驚いた風でもなく、ただじっと、感情の読めない瞳で私を見つめている。
なぜ彼女がここにいる?
美空は地元の国立大学に行くと言っていたはずじゃなかったのか。なんで東京の、しかも私のルームシェアの相手として、そこに立っているんだ。
お互いに一歩も動けず、リビングに息が詰まるような沈黙が満ちていく。気まずさが天井を突き破って、そのまま宇宙まで飛んでいきそうだった。
今すぐ荷物をまとめてこの部屋から飛び出したい。そんな衝動に駆られた、まさにその時。
私のポケットの中でスマートフォンがけたたましく鳴り響いた。
「ひゃいっ!?」
情けない声を上げながら、慌てて画面を見る。ディスプレイに表示されていたのは『お母さん』の文字。
私は救いを求めるように、必死に通話ボタンをタップした。
「も、もしもし! お母さん!? これ、どういうこと――」
「あ、楓? 無事に部屋に着いた?」
受話器の向こうから、地元ののんびりとした母親の声が聞こえてくる。
「言い忘れてたんだけど、ルームシェアの相手、市之瀬さんのところの美空ちゃんだったのよ。ほら、高校も一緒だったし、確か小学校の時には同じクラスだったでしょ? 市之瀬さんから『うちの娘も東京の私立に行くことになって』って相談されてさ〜。美空ちゃん、昔から頭も良いししっかりしてるから、お母さん安心しちゃった! お互い地元の友達同士、仲良く助け合って頑張るのよ?」
「……は?」
頭が真っ白になった。
市之瀬さんのところの、美空ちゃん。
そうだ。私と美空が付き合い始めたのは高校に入ってからで、親たちには『仲の良い友達』としてしか紹介していなかった。高校では一度もクラスが一緒になることはなかったから、親たちもまさか私たちがそんな深い仲だったとは思いもしなかったはずだ。
親世代からすれば、これは『同級生女子二人を子供に持つ同士が、都会の治安を心配して結託した、完璧に善意100%のライフハック』なのだ。私たち二人がかつて、互いの身体の体温を知るほどの関係だったことなど、一ミリも、これっぽっちも知る由がない。
「じゃあ、お母さんこれからパートだから。美空ちゃんによろしくね〜」
無慈悲に通話が切れた。ツーツーという電子音だけが、虚しく耳元で響く。
私はゆっくりとスマートフォンを耳から離し、再び目の前の元カノに視線を戻した。
完璧に仕組まれた罠だった。いや、罠を仕組んだ親たちに悪気は一切ないのだから余計にタチが悪い。
美空は相変わらず、微動だにせず私を見つめていた。彼女の綺麗な瞳に、私の間抜けな動揺がしっかりと映り込んでいる。
沈黙が再び部屋を支配していた。あまりの気まずさに、胃のあたりがキリキリと痛み始める。
何か言わなければ。とりあえず「部屋、間違えました」と言って帰ろうか。いや、私の鍵で玄関を開けて入ってきたのだから無理がある。
私が脳内で不毛な言い訳を乱発させていると、美空が小さく息を吐いた。
そして、高校時代と少しも変わらない、低くて心地よい、けれど冷徹なトーンで口を開いた。
「……久しぶり、楓」
「あ、う、うん。……久しぶり、市之瀬さん」
咄嗟に他人行儀な名字で呼んでしまった。美空の眉が、ほんのわずかにピクリと動いたような気がしたけれど、気のせいかもしれない。
「ひとまず、荷物を中に入れたら。さっきからずっとドアの前を塞いでる」
美空は冷淡にそう言うと、興味を失ったかのように私から視線を逸らし、自分の足元にあった段ボールに手を伸ばした。
「あ、そうだよね。ごめん……」
私は這うような足取りでボストンバッグを拾い上げ、リビングの隅へと移動させた。
これからこの人と、同じ屋根の下で暮らす?
キッチンも、お風呂も、トイレも共有で?
あり得ない。絶対に何かの間違いだ。明日、いや今日中に不動産屋に駆け込んで別のマンションを――。
そんな絶望的な思考を巡らせていた、その時だった。
「先に部屋、決めちゃった。私、向こうの部屋を使うから。楓はそっちね」
「あ、うん。別にこだわりはないからいいけど……」
美空が段ボールを抱えて、リビングから廊下の向こうにある彼女の個室へと移動しようとした。
そのすれ違いざま。
すっと、美空の身体から、馴染みのある香りが漂った。思わず懐かしさを感じる。何も変わらないのだな、と思った。
しかし、その時、彼女は歩みを緩めることなく、私のすぐ耳元に顔を寄せ――。
「相変わらず。甘い柔軟剤の匂い、変えてないんだね」
低く、掠れた声が、鼓膜を直接揺らした。
「――っ!?」
心臓が跳ね上がる。
高校時代。美空と抱き合って唇を重ねていた時の記憶が一気にフラッシュバックしてくる。あの時も、確か同じようなことを言われたのだ。
『……楓の匂い、好きだな。落ち着く』
『ええっ。私、臭い? 汗かいてたかな』
『そうじゃないよ。良い匂い。……甘い匂いがする』
『自分じゃあ分かんないや。柔軟剤の香りかなぁ――』
美空の唇にそっと触れた時の優しくて柔らかな感触さえ蘇ってくるような気がした。
慌てて振り返った時には、美空は既に廊下の向こうへ歩き去っており、バタンと冷たいドアの閉まる音だけが響いた。
リビングに取り残された私は、自分の両耳が信じられないほど熱くなっているのを感じていた。
「な、なんなの、もう……っ!」
忘れようと思っていたのに。東京で新しい恋をして、全部過去の思い出にしようと決めていたのに。
最初から、刺激が強すぎる。あの女、私をフって最悪の思い出を植え付けやがった癖に、相変わらず顔はド好みだしスタイルは抜群に良いのだ。
私の東京生活は、最悪で、最高の元カノと共に、波乱万丈なスタートを切ったのだった。




