第6話 激昂と制裁
街の喧騒は、もうすっかり遠ざかっていた。石畳にふたり分の足音が響く。夕食を終えて、寮に戻る途中の静かな時間だった。レナは手を後ろで組んで、とことこと歩く。レオンはその少し後ろを、ポケットに手を突っ込んだまま、無言でついていく。しばらく沈黙が続いたあと、レオンがぽつりと口を開いた。
「……他人に触れられるの、平気なのか。店長みたいな奴に」
足を止めることなく投げかけたその言葉に、レナの歩みがほんの少しだけ緩む。
「……平気じゃないよ」
言葉のトーンは軽い。けれど、その声には妙な静けさがあった。
「たぶん、店長は私が十五歳じゃないって、気づいてると思う。でも、平気なふりしないとね」
「すぐにクビになるから、か」
「うん」
「……辞めた方がいい。身元引受人もいらないような店なんて、まともじゃない」
「うーん、まぁ、そうかもしれないけど……でも、バイト自体は悪くないかな。居場所って感じがするし、接客とか楽しいよ」
「……何かあったら、じゃ遅いんだが」
吐き捨てるような声にレナは少し顔を上げて、夕暮れの空を見上げた。
「……そうだね。それでも、私はここで生きていかなきゃいけないし」
レオンの眉がわずかに動く。怒鳴りたいわけでも、責めたいわけでもない。どうして、彼女はいつも儚く見えるのだろう。言葉にする代わりに、レオンの足取りだけが重くなる。
「……危ないことがあったら、言え」
ぽつりと落としたその一言を残し、レオンは前を向いて歩き出した。レナはその背中を見つめながら、小さく呟く。
「……それ、本気で言ってる?」
返事はない。ほんの少しだけ、レオンの歩く速度が緩んでいた。
***
レナと喋ることは増えた。実技のパートナーとして、実技室では当たり前のように一緒に行動する。寮の廊下では、何度もすれ違った。
「あ、おはよう」
「……ああ」
声をかけられても、レオンは気乗りしないふうに返す。だが、無視はしなかった。
そして、時々、誰も来ない時間の屋上で、並んで空を見ながら他愛もない話をすることもあった。特に深い意味もない。ただ、静かで、煩わしくない時間。レオンは、ふと思った。
(……こいつは、別に害にならない)
自分に踏み込んではこない。質問をしても、核心には触れない。こちらが無口でも、それを責めたりしない。少し変わった女だとは思うが──ただそれだけ。
(危険じゃない。無害だ。だから──)
だから、そばにいても構わない。それだけだった。
自分の周囲に置く“必要最低限”の存在の一人として、レナを無意識に許容し始めていた。
そのことが、どれほど異常なことか。
彼自身はまだ、気づいていなかった。
***
閉店を告げるベルが、静かな店内にひとつだけ響いた。
最後の客が去り、扉の鍵がカチリと音を立てる。
「今日もありがとう。おかげで助かったよ」
カウンターの向こうで店長が笑った。その笑みは、いつもより湿り気を帯びていた。
「レナちゃん」
呼ばれて顔を向けた瞬間、足元の空気がひやりと冷たくなる。
「はい」
店長が一歩、距離を詰める。
「君ならもっと簡単に稼げる方法があるんだ。教えてあげようか」
首を傾げたレナの耳に、低く押し殺した声が落ちた。
「この店で特別扱いしてもらいたいだろ?君が俺の“相手”をしてくれたら、銀貨を上乗せしてあげるよ」
手首を掴まれた瞬間、全身の血が逆流するような感覚が走る。
「え……」
「仕事終わりに、宿屋でもいいし、ここでもいいからさ」
胸の奥が凍りつき、指先まで冷たくなる。
掴まれた腕を必死に振りほどき、レナは裏口の鍵を乱暴に回した。
「簡単なことでしょ?明日からのバイトも天秤にかけてごらんよ」
背後から、ゆっくりとした足音が追ってくる。
***
夜の裏路地は、人通りもなく、濡れた石畳が冷たく光っていた。レオンは古びた建物の影にもたれ、じっと裏口を見つめていた。なぜこんな場所で待っているのか、自分でも分からない。ただ、ここ最近はいつもレナの帰る時間に合わせて足を運んでいた。
「……遅いな」
低く呟く。扉の向こうから何か嫌な気配が漂い始めたそのとき、裏口のドアが勢いよく開き、レナが飛び出してきた。肩で息をし、泣きそうな顔でこちらを見上げる。
そのすぐ後ろから、ゆっくりと店長が姿を現す。
「簡単だよ。仕事終わりに俺とちょっと“いい時間”を過ごすだけ。俺の女になれば時給も倍だよ」
レオンの視線が、無音でそちらに向く。店長は気づき、肩を竦めた。
「あれ?君は……この前の……?」
「……面白い喫茶店だな」
声は冷え切っていた。
「店長が従業員に手をつけるのか。今まで何人、そうやって“落とした”?」
レナはレオンの殺気にぎょっとする。
「だ、だめ……」
「殺しはしない」
淡々と返しながら、レオンは一歩踏み出す。次の瞬間、鋭い音と共に剣が店長の真横の壁に突き刺さった。古びた石壁がボロボロと崩れ落ち、粉塵が舞う。刃が抜かれ、その切っ先が店長の首筋にぴたりと添えられる。
「次にあの女に触れたら……皮を一枚ずつ剥いで、嬲り殺す」
抑えた声だった。だがそこには怒鳴り声よりも、はるかに深く冷たい殺気が宿っていた。レナはレオンと店長を交互に見て、息を詰める。店長の顔は引きつり、足が震えていた。
「……帰るぞ」
低く告げると、レオンはレナの腕を掴み、迷いなくその場を離れた。振り返った路地の奥には、まだ立ち尽くす店長の影があった。だがレオンは一度も視線を戻さなかった。
──そして、それだけで終わらせるつもりなどなかった。
レナを寮に送り届けた後、レオンは迷いなく裏の情報屋に連絡を入れる。対象は一人、喫茶店の店長。
買春、脅迫、未成年への性的強要……。
闇に潜る者たちの口は金で緩む。吐き出された過去は、汚泥のように濁っていた。証拠は、十分すぎるほど揃っていた。
レオンは、“法”に渡す気はなかった。法は時間をかけ、やがて形骸化し、証拠は揉み消される。だから“処理”という形で終わらせる。
夜更けの路地に響く、短く湿った音。次の朝、店長は「原因不明の理由」で死亡。世間は自殺と呼んだ。
けれど、レオンは一言も語らなかった。
誰にも知らせず、ただ、終わらせた。
***
その日、レナがカフェに行ってみると、シャッターが下りていた。
「店主急病のため、当面休業します」
ただ、それだけの張り紙。翌週には、「店長が失踪した」「自殺したらしい」、そんな噂が広がった。レナは驚いたけれど、どこか腑に落ちる気もしていた。
(……なんか、変な噂も多かったし。何かあったんだろうな)
それくらいにしか、考えていなかった。レオンに話した時、彼はただ無表情に言った。
「……そうか」
たった、それだけ。
(また、バイト探さなきゃなぁ)
寮の階段を上がりながら、レナはため息をつく。
少し残念だが、もう“あんな思い”をしなくていいのなら、それで十分だと思えた。
ふと、レオンの部屋の前を通る。ドアはわずかに開いていた。中からは、何の音も聞こえない。けれど一瞬だけ、レナは感じた。
青い目の“視線”。
鋭くて、冷たくてずっと見られていたような、そんな感覚だった。
(……気のせいだよね)
苦笑まじりにそう呟いて、通り過ぎる。
その頃、レオンは部屋の中で窓辺の椅子に黙って腰かけていた。表情は読めないままだった。




