第5話 仮面の下
「……ふぅん」
レオンが、口を開く。
「意外と頭は回るんだな。結界の綻びを利用して押し込むとは」
レオンは想定外のような声を出した。
「……っ、いい加減にしてください!」
レナは怒りと恐怖で声を震わせた。
「いくら実力を試すためって……魔物を呼ぶなんて、正気じゃない……パートナーなんて……破棄したいくらいです」
レオンは眉ひとつ動かさない。
「パートナー破棄は規則上できない」
「それなら退学します。貴方とは絶対にパートナーを組みたくないです!」
勢いで言葉が飛び出した。自分でも分かっている。退学なんて、できない。寮も支給金も、ここを出たら終わる。分かっていて、口が勝手に逃げ道を作った。
レオンは短く鼻を鳴らす。
「……それは困る。俺の進級が遅れる」
淡々とした声。怒りでも、焦りでもない。事務的な結論だけが落ちた。
それなのに――次の瞬間、ほんの僅かに、口元が緩む。
笑ったというより、形だけの変化だった。けれどレナには、それが一番気味が悪かった。
「もう試すような真似はしない」
宥めるような声色だった。柔らかいのに、薄い。人を安心させるための音だけが乗っている。
レナは返事ができなかった。
緊張がほどけたせいか、足から力が抜けた。膝が床につく。屋上の冷たい石が、皮膚越しに体温を奪う。
堪えていたものが、遅れて溢れた。
涙が一滴、二滴。音もなく落ちる。怒りの涙なのか、恐怖の涙なのか、自分でも分からない。ただ、止められない。
レオンはその姿をしばらく黙って見下ろしていた。
手を差し伸べもしない。背を向けもしない。
ただ、観察するように、何かを測るように。
風が吹き、レナの頬の涙を冷やした。
***
屋上での魔物騒動以降。
レオンの態度は、目に見えて変わった。
無用な挑発も、あからさまな敵意も見せない。あの薄い笑いも、刺すような言葉も、必要な場面以外では消えた。効率が悪いからだ。
実技の授業前には、淡々と簡潔な確認だけを寄こす。
「今日は防御から入る」
「連携のタイミングを変える。合図は俺が出す」
それだけ。命令に近いのに、不思議と“試す”感じがない。少なくとも、屋上の時みたいな乱暴さはない。
レナはその変化に戸惑っていた。
以前のように刃のような視線は消えた。見られてはいる。だが、刺されない。
授業の合間に同じ机を囲んで課題を解く時間も増えた。会話は必要最低限だったが、“最低限”の中身は変わりつつあった。
「レオンさん、聞きたいんですけど、この魔術って……」
レナが言いかけた瞬間、隣のレオンは手を止めずに、軽く首を傾けた。
「お前、いつまで敬語なんだ? レオンでいい。敬語もいらない」
その一言で、ほんの少しだけ削れた気がした。
「……れ、レオン」
レオンは特に反応を見せず、視線だけで続きを促す。
「それで? その魔術がどうした」
「……詠唱の省略、どうやってるのかなって。本当はもっと長いよね?」
「順序を削ってるだけだ。まず基礎式を――」
レオンが短く説明を始めた、その途中で、鐘が鳴った。
実技訓練の開始を告げる合図。教室の空気が一斉に動き、椅子の脚が床を擦る音が重なる。
「続きは歩きながらでいい」
レオンが紙をまとめる。レナも慌てて教本を閉じ、二人は人の流れに混じって教室を出た。
実技訓練室へ向かう廊下を、レオンとレナの二人は歩いていた。
説明は途切れず、レオンの声だけが続く。
「……要は、結び目を作る前に流れを決めろ。お前は最初から詰め込みすぎる」
「……うん」
レナは頷きながら、ふと視線を横に逸らした。廊下の端をのそのそ歩く小さな影に気付く。
「最近この辺に住み着いてるみたいだよ」
レナはしゃがみ込む。
「誰か餌あげてるのかな、人に慣れてる。かわいい」
差し出した手に、猫は警戒もせず額をすり寄せてきた。レナはふにゃっと笑い、その頭を撫でる。
レオンは、説明の途中で口を止めた。
その横顔を、じっと見た。
「……お前、そんな風に笑えるんだな」
「え?」
「俺といるとき、そんな顔、見たことがないぞ」
あまりにあっさりした物言いに、レナは一瞬驚きながら肩をすくめる。
「……そうかな? まあ、そうかも。命の危険がなければ、多少は笑えるよ」
レオンは、思わず短く息を吐いた。
猫は二人の間をするりと抜け、どこかへ消えていった。
***
その夜。街はずれの建物の裏口。扉の先は別世界だった。
金で動く者たち。情報を売り買いする者たち。命を賭ける者たちが集う。
その中に、一人の少年がいた。フードのついた漆黒の服を纏い、金の髪は布の奥へ隠している。
「……用件は」
「仕事だ。標的はこれだ。軍の実験から逃げ出した魔術師。昨晩目撃された」
少年は書類を受け取り、写真を一瞥する。
「場所は?」
「地下水路の旧魔導路。お前なら間に合う」
軽く顎を上げ、背中の剣に指をかける。
「先払いだ。信用はしない」
「……相変わらずだな、ヴァレント」
テーブルに置かれた金貨の入った袋を確認し、少年は何も言わず席を立った。
夜風に紛れて裏口を抜ける。地図に書かれた経路を頭の中で折り畳み、足を地下へ向けた。準備は移動中に終える。剣の位置、魔術陣の型、逃走経路。考えることはそれだけだった。
地下水路へとたどり着く。静寂の中に足音だけが響く。湿った石の匂いが肺に刺さる。
標的はすでに逃げていた。少年は無言で魔術陣を展開し、詠唱を始めた。
「──穿て、絶氷の杭」
氷の魔術が標的の足元を凍らせた。動きが止まる。次の瞬間、少年は剣を抜き、寸分の狂いもなく喉元を裂いた。標的は叫ぶ間もなく崩れ落ちる。
床に零れた血を見下ろしながら、彼の目には一切の感情はなかった。刃についた赤を、布で一度だけ拭う。処理はそれで終わりだった。
***
この学院に、裏社会で“処刑人”として動く生徒がいることなど、誰も知らない。
だが彼は夜明け前には帰ってきて、朝には平然とEクラスの席に座っている。




