第4話 レナへの試練
レオン・ヴァレントは、今日も“完璧”だった。
授業中の返答は過不足なく、声は柔らかく、姿勢は崩れない。実技では無駄な動きが一切なく、魔力の収束も、詠唱の速度も、制御も、まるで採点表の理想形をなぞるようだった。
休憩時間に誰かが話しかけても、短く頷き、当たり障りのない言葉で返す。愛想はある。距離はある。優等生の外面はどこまでも滑らか。
周囲はやたらとうるさかった。
質問、視線、ささやき声。期待と好奇心がまとわりつき、息をするだけで擦れる。
レオンはそれらを一つ残らず受け流す。
その内側で、何かが摩耗していた。だからこそ、昼休みくらいは、音のない場所が欲しかった。
昼休み。誘いを断ると、軽い食事を手に、レオンは学院の屋上へ向かった。
屋上へ通じる扉の鍵は、魔術で封印されている。少なくとも普通の生徒は立ち入れない。
扉の中央に刻まれた封印紋は、複雑に絡んだ線で構成されている。だが、術式そのものは単純で、“相応の魔力”を持つ者が指先で紋をなぞれば、錠が静かに外れるように作られていた。
レオンは指先で紋を一度、なぞる。金属が擦れるような微かな音。錠は抵抗もなく外れた。
扉を押し開けると、冷たい風が頬を撫でた。空が近い。校舎の屋根が広がり、遠くに街の輪郭が見える。
そして──先客がいた。
屋上の隅、壁際に寄るように座って、紙袋を膝に乗せている赤い髪。
レナ・ファリスだった。
レオンは歩みを止めることなく、言った。
「ここで何してる」
レナは顔を上げ、少しだけ目を瞬いた。
「お昼ごはん食べてるだけですけど」
その声は小さく、素っ気ない。怯えと諦めが同居した声だ。レオンは彼女の周囲を一瞥し、扉へ視線を戻した。
「どうやって入った? 扉の封印は簡単に開かないはずだろう」
レナは紙袋を抱え直す。
「以前のパートナーに教えてもらったんですよ。鍵の開け方。もう……いないけど」
“もういない”。その言い方が、妙に乾いていた。レオンの記憶に、耳にした噂が引っかかる。
「森で見捨てたパートナーか?」
レナの眉がわずかに寄った。
痛々しい表情になる。
「違う……見捨てたんじゃない。助けてくれたんです。そのせいで、死んでしまった。皆が勝手に言ってるだけで……」
レオンは風の匂いを吸い込み、吐いた。
「弱い者は死ぬ。それがこの世界の理だ」
言い切ってから、続ける。語尾が冷える。
「……Eクラスではお前がパートナー殺しだって噂になってるが、何で反論しない? 少し脅せば、あんな奴ら簡単に意見を変えるのに」
「お……おど……す?」
物騒な言葉に、レナが目を丸くする。
「……あの、もう戻ってもいいですか」
レナは視線を逸らし、立ち上がる。紙袋を抱え、階段の方へ歩き出した。
「好きにしろ。ただ、ここに俺がいたことは誰にも言うな。Eクラスの奴らが煩いんだ。飯くらい静かに食いたい」
レオンは屋上の中央に立ち、風を受けたまま言った。レナは足を止めず、肩越しに小さく返す。
「……それだけ有望と思われてるんですよ」
「フン。どうせ見た目と強さだけだ」
レオンは鼻で笑うように吐き捨てた。
「──中身なんて見ちゃいない」
その言葉が落ちた瞬間、レナが小さく笑った。
「そうですね……黙ってたら格好いいと思いますよ。黙ってたら、ですけど」
レオンの口元が、ほんのわずかに引きつる。
「……やけにそこを強調するな。おい。明日もここに来いよ」
レナは首を傾げる。ほんの少しだけ、警戒と好奇心が混ざった顔。
「いいですけど……なに?」
レオンは答えなかった。風がもう一度、屋上を撫でていった。
***
翌日の昼、レナは昨日の言葉通り、屋上へと足を運んでいた。
「こ、こんにちは」
膝を立てて座っているレオンの姿を見つけ、恐る恐る話しかける。
「お前、何の用件かも分からないのに、よくのこのこやってこれるな」
「え、お昼ごはんじゃないんですか?」
レオンはゆっくりと立ち上がり、屋上の端に歩み寄る。
そこには淡く揺らめく結界が張られていた。
「今日呼んだのはあるものと戦ってもらうためだ。そこにある結界の中に、昨日俺が捕らえた魔物を封じ込めてある」
「……魔物?」
「パートナーとして相応しいかどうか見定めさせてもらう。そんなに強い魔物じゃない。これで負けるようなら──終わりだ。生きたいのなら、勝て」
そう言いながら、レオンは片手を上げた。
指先で空中に紋をなぞる。青白い光が線となって走り、屋上の床に薄い円が描かれる。次いで、壁際から壁際へ、見えない膜が張られていく。
風の音が一段だけ遠のいた。外の気配が薄れる。結界の内側だけが、別の温度になる。
レナの背に緊張が走った。
「なっ、なに考えてるんですか!? 屋上に魔物って……先生が見たら……!」
「結界が張ってある。外からは見えない」
レオンの声は変わらない。
「五分だ。死にたくないなら、本気出せ」
レナの喉が詰まる。
模擬討伐演習が脳裏をよぎった。あの時、自分が“ほんの少し”触れたもの。誰にも知られるわけにはいかない。
光の揺らぎの中から、四足の獣型魔物が姿を現す。灰色の皮膚、赤い瞳。唸り声が空気を震わせた。
レナは反射的に後退した。
魔物が跳ぶ。
鋭い爪が、顔の横を紙一重でかすめた。冷たい風が裂け、レナの心臓が喉まで跳ね上がる。
逃げる。走る。息が乱れる。足音が石に跳ね返る。
魔物を遠目に見たことはあっても、戦った経験は一度もない。一撃でも受ければ終わりだ。だが、このまま逃げ切れるはずもない。
(……確か、結界には綻びがある。そこに術式を流し込めば……)
教科書のページを思い出す。解除、応用、理論。頭の中で文字が踊る。座学だけは、叩き込んでいた。
(でも……こんな状況で、落ち着いて描ける?)
魔物が再び跳ぶ。回避が遅れた。肩口に、熱が走った。
「……ッ!」
制服が裂け、赤が広がる。痛みが遅れて刺さり、視界が滲んだ。
結界の外側で見ているレオンは、一切動じない。
(……“血の魔力”は人前では使わない。あれは、絶対に……)
頭の奥で、固く線を引く。震える息を一度飲み込み、床へ視線を落とした。
紋の流れ。光の筋。術式の偏り。
(……あった……!)
結界の縁、光の薄い場所。綻び。そこだけが“閉じ切っていない”。
レナは歯を食いしばり、片手で空中に魔法陣を描く。学院で習った解除術式を、最低限に削って流し込む形へ変える。
爪が迫る。影が落ちる。
生存本能が背骨を駆け上がった。
「……死にたくない……!」
最後の一筆を描き終え、綻びに触れる。
淡い光が一気に収束し、結界が“噛み直される”ように閉じる。中の魔物は押し潰されるように歪み、次の瞬間、光の粒となって霧散した。
風だけが残った。
レナは膝に力が入らず、息を吐いた。肩口の熱がじわじわ広がる。
結界の外で、レオンがゆっくりと瞬きをした。




