第5話 向けられない笑顔
午前の実技室での訓練が終わり、廊下を歩く。
「……今日は、よく動けてたな」
隣から、不意にレオンの声がした。
「え?」
思わず立ち止まり、レナは目を瞬かせる。
褒められるとは思っていなかった。
「結界の綻びを見つけた時もそうだが……無駄に慌てないのは悪くない」
レオンは前を向いたまま、淡々と話す。褒め言葉というより、観察結果を述べるような声音だった。
「……それって、褒めてるの?」
レナが少し笑い混じりに尋ねると、彼はわずかに口元を歪める。
「どうとでも取れ」
それだけ言って歩き出す。以前なら、無言で去っていったはずだ。けれど今日は、廊下の曲がり角まで、彼は歩調を合わせていた。
レナはその背中を見ながら、小さく首を傾げる。やっぱり、少しだけ変わった気がする。
***
午前の休憩時間の中庭。風が草花を優しく揺らし、ベンチの上には、柔らかな日差しが降り注いでいた。レオンは、その中にレナがいるのを見かけた。珍しく、誰かと楽しそうに話していた。見知らぬ男子生徒だった。
(普段は、いつも一人のくせに。あんなふうに笑ってたか?少なくとも、俺の前でそんな記憶は、ない。)
レオンの足が、無意識のうちにそちらへと向かっていた。理由もなく、ただ苛立ちだけが膨らんでいく。気づけば、足は勝手に速くなっていた。そして、そのままふたりの会話に割り込むように、鋭い声をぶつける。
「おい。もうすぐ授業だぞ」
レナが、ぱっと顔を上げた。
「えっ、そうだったっけ?」
「時計くらい見とけ。急げ」
有無を言わせず、レオンはレナの前に出るようにして歩き出す。ぽかんとした表情の男子を置き去りにして、レナは少し困ったように笑った。
「……じゃあ、またね」
そう言って、ベンチを立ち、レオンの後を追う。
「……急にどうしたの?」
「別に。時間にルーズなやつは嫌いなんだよ」
そっけなく言い捨てたその声には、わずかに棘が混じっていた。
──自分でも分からない。なんで、あんなに不機嫌だったのか。なんで、誰かと笑い合っている姿に、反応してしまったのか。言葉にできなくても、心のどこかがざわついていた。
***
階段を上り、鍵を外して屋上へ出る。屋上に吹き込む風が、金色の髪を揺らした。レオンは片肘を柵にかけ、ただぼんやりと空を見ていたつもりだった。
脳裏に浮かぶのは、中庭。ベンチで他の男と話していたレナ。あの時、ふわりと笑っていた横顔。自分に向けられたことのない笑顔。
理由はわかっている。結界の中で魔物と戦わせたこと。冷たい態度を取り続けてきたこと。その結果、彼女は自分の前で笑わない。理解はできる。だが、納得はできなかった。
「……いたんだ」
背後から声がかかった。振り向けば、レナが購買のパンを片手に立っていた。いつも通り、普通に話す声。けれど、そこに微笑みはない。それが当然だと知っていても、レオンは視線を逸らし、何も言わずに空を見上げた。
「……さっきのあの男。知り合いか?」
レナがきょとんとした顔で、レオンを見た。
「え?ああ……うん。Eクラスの隣の教室の人。模擬戦のときにちょっと話しただけだよ」
「……そうか」
レオンは視線を空に戻す。
「あっ、そうだ。一応言っとこうと思って。バイト、決まりそうなんだ」
レオンはその顔をちらりと見て、思わず目を細めた。
「……お前、年齢誤魔化したんじゃねぇのか」
「当たり前でしょ。“15です”って言った」
レナの無邪気に言う様子に、レオンはなんとも言えない気持ちになる。
「どこでバイトするんだ?」
「街の小さなカフェだよ。表通りから少し入ったところ。雰囲気すごくいいよ。よかったら、来る?」
「嫌だ。面倒くさい」
「だと思った。そういうの苦手そうだもんね」
「……ああ。苦手だ」
だが、もし彼女がそこで他の誰かと笑っていたら。
客の男たちと気軽に話していたら。
胸の奥がざわざわと軋む。
(……なんなんだ、俺は)
だからレオンはただ黙って、空を仰ぐ。空は、どこまでも青く、やけに高かった。
***
その日は、レオンにとってたまたまだった。街に出て、情報の受け渡しを済ませた帰り道で、あとは学院に戻るだけのはずだった。だが、視界の端に入った一軒のカフェが、レオンの足を止めた。
(……ここか)
レナが「バイト先」だと話していた場所だ。まさか本当に年齢をごまかしてまで働いているとは思っていなかった。けれど、アイツなら……やりかねない、とも思っていた。
扉のベルが小さく鳴る。レオンは中には入らず、店の外から、ガラス越しに中を覗き込んだ。
カウンターの奥、エプロン姿のレナがいた。忙しそうに立ち働き、客に笑いかけている。注文を受け、ドリンクを用意し、すばやく配膳して、よろけたトレイを慌てて立て直しながら、深く頭を下げていた。
(……本当に、詐称してんのかよ)
唇の端が、かすかに歪む。
(見た目も声も幼いのに、よく通ったな。……意外と、ちゃんとやってるんだな)
そう思った瞬間、自分自身に少し戸惑う。戦闘には向いていなくて、よく転んで、すぐ泣きそうになるやつ。それが“レナ”だと思っていた。だが今そこにいるのは、自分の足で立ち、働き、誰かの役に立とうとする“普通の少女”だった。客の笑顔に、レナが笑顔で返す。その柔らかい光景が、胸の奥をざらりとひっかいていく。
レオンはカフェから目を逸らした。だが、その場から、なぜか足が離れなかった。
***
その日は、珍しく早く仕事が終わった。裏の依頼を一件こなして、報酬を銀貨で受け取ったばかりだ。
手元の袋には、十分すぎるほどの金が入っている。
(……今日のあいつ、とうとうパンすら食ってなかったな)
レナはいつも食堂の質素なセットか、屋上でパンをつまむだけのような食事だ。節約だの学院からの生活支給金がどうのこうのと、そんなことを言っていたが、あんな食生活じゃ身体がもつはずもない。
(……最近いつも保健室で倒れてる。小柄なのも栄養失調のせいじゃないか?)
別に特別なことじゃない。
ただの、飯。
ただの、栄養補助。
無駄に倒れられたら、パートナーの自分に支障をきたす。そう自分に言い聞かせながら、足は喫茶店へ向かっていた。そして、店の前に立ち、扉に手をかけた――そのとき。ふと、ガラス越しに見えた。
カウンター奥。バイト終わりらしいレナが、エプロンを外して、店長らしき男と笑っていた。
だがら店長の手が、彼女の腕にふれた瞬間、レナは一瞬笑顔を引っ込め、肩をすくめた。その光景を見た瞬間レオンは胸の奥に、ぐつぐつと何かが煮えたぎるような感覚が広がった。
(……何してやがる)
音が消える。光が遠ざかる。代わりに、頭の奥に冷たい計算式が浮かび上がる。
(殺すか)
その言葉が、ごく自然に思考を支配した。指先に、魔力が滲みかける。だが、レオンは奥歯を噛みしめ、その衝動をねじ伏せた。
(……違う。今はそんな用じゃない)
静かに扉を押して、店内に入る。
中にいたレナがこちらに気づき、ぱっと顔を明るくした。
「レオン?どうしたの?」
「バイト終わったんだろ。……飯、まだだろ?行くぞ」
「……え?」
「何だ。食わねぇのか?」
「あ……ううん、行く!」
レナは店長にぺこりと頭を下げ、急ぎ足でレオンのもとへ駆け寄ってくる。
レオンは、ちらりとその背後――店長に視線を向けた。その目に、笑みはなかった。
(……次、触れたら。その指、落とす)
心の中で静かにそう呟きながら、先に歩き出す。ただの飯だ。それ以上でも、それ以下でもない。
本当はそうであるはずだった。
***
小さなレストランの窓辺の席。温かな灯りと、ほのかに香るバターの香り。レナはメニューを見ながら、久しぶりのまともな食事に目を輝かせていた。
「ねえ、これ見て。ハンバーグにチーズ乗ってる。美味しそう……!あっ、でも少し高いかな?」
「……好きにしろ。遠慮すんな」
レオンはそう言いながらも、落ち着かない表情を隠せなかった。向かいに座る少女は、何の警戒もなく、メニューと睨めっこしている。注文を済ませ、料理が届くと、レナは「いただきます」と言ってから、フォークを手に取った。
(……俺は、何故こんなところにいる?)
レナを見ながらレオンは自問する。たかが一食。たかが付き合い。そう言い聞かせてきたのに、どこかざわつく感情が、腹の奥で静かに渦を巻いている。
さっきの店長の手と、レナの笑顔が消えた一瞬。なぜ、あれほどに苛立ったのか。他人が何をしようと関係ないはずだ。
「……ほんとに奢ってくれるなんて、びっくりしたよ」
「別に。仕事の報酬が入っただけだ」
「うん……でも、嬉しい。ありがとう」
レナは柔らかに微笑むと、レオンは目をそらした。
「……やっと、笑顔になった」
「え?」
「……何でもない。食え。まだ足りてねぇだろ」
言葉はぶっきらぼうにしか出てこなかった。苛立ちの理由が、自分でもわからなかった。




