第4話 仮面の下
「……はぁ、はぁっ……」
レナは魔物の鋭い爪を紙一重で避けながら逃げ回っていた。屋上全体を包む結界が、淡く揺れている。
(街に魔物はいないはずなのに……どこから持ってきたの、この人……しかも屋上が壊れないように結界まで張って……)
魔物を遠目に見たことはあっても、戦った経験は一度もない。一撃でも受ければ終わりだが、このまま逃げ切れるわけもない。
(……確か、結界には綻びがあるからそれを探せって教科書に書いてたな。……でも……)
結界の縁を探って逃げ回る。だが足がもつれ、反応が遅れた瞬間、爪が肩を裂いた。焼けるような痛みと共に、制服が真っ赤に染まる。
「……ッ!」
声にならない悲鳴を上げた。結界の外側で見ているレオンは、一切動じない。
(……“血の魔力”は人前では使わない。あれは、絶対に……)
頭の奥で、固く線を引く。視界が揺れる中、必死に綻びを探す。
(……あった……!この綻びに、別の術式を流し込めば……)
震える手で魔法陣を描く。学院で習った結界解除の応用を使う。
爪が迫る。生存本能が、背骨を駆け上がる。
「……死にたくない……!」
最後の一筆を描き終え、綻びに触れる。淡い光が一気に収束し、魔物は結界ごと呑み込まれ、光の粒となって消えた。
「……ふぅん」
レオンが、初めて口を開く。
「意外と頭は回るんだな。結界の綻びを利用して押し込むとは」
レオンは想定外のような声を出した。
「……っ、いい加減にしてください!」
レナは怒りと恐怖で声を震わせた。
「いくら実力を試すためって……魔物を呼ぶなんて、正気じゃない……パートナーなんて……破棄したいくらいです」
「パートナー破棄は規則上できない」
「貴方と組む人なんて、このクラスにはいないでしょう。いても、すぐ貴方に潰されるだけだ」
レオンは短く鼻を鳴らす。
「……それは困る。俺の進級が遅れる」
そして、ほんの僅かに口元を緩めた。
「もう試すような真似はしない」
宥めるような声色だった。だがレナは、その場に膝をつき、堪えていた涙を零した。レオンは、その姿をしばし黙って見下ろした。
(……さすがに、やりすぎたか)
そんな思考が、レオンの頭にようやく頭をよぎった。
***
医務室で、アリスが手際よく包帯を巻き、最後に軽く結び目を押さえる。
「……最近、怪我が多いわね。何があったの?」
アリスは穏やかな声だが、少し心配げだった。レナは視線を落とし、やがて溜め息混じりにぽつりと漏らした。
「……とんでもない人と、パートナーになった気がします」
アリスの手がわずかに止まる。
「……とんでもない人?」
「結界に魔物を放つ人、です。あり得ます?学院の屋上でですよ?普通の学校に行きたかったなあ……」
アリスは苦笑した。
「……レナちゃんには、そっちのほうが合ってるかもね。こんな場所よりも」
「……でも、孤児だし、寮と支給金がある場所しか居場所がないし。ああ、それにしても……あれのどこが優等生!?先生なんか簡単に騙されてるし。もう、顔も見たくない……」
「……あっ」
アリスが不意に扉の方を見た。
レナもつられて視線を向けた。そこには、ドア枠にもたれかかるように立つレオンの姿があった。金色の髪が光を受けてわずかに揺れ、青い瞳が無表情にこちらを見据えている。
「……元気そうで、何よりだな」
レナの頬が、一瞬で引きつった。
「……げっ、聞いてた!?」
レオンの返事はなかった。ただ、その目だけが、深く冷たい水底のようだった。
***
屋上での魔物騒動以降、レオンの態度は確かに変わっていた。無用な挑発も、あからさまな敵意も見せない。実技の授業前には、淡々と「今日は防御から入る」とか「連携のタイミングを変える」と、簡潔に打ち合わせをしてくる。
レナはその変化に戸惑っていた。以前のように刃のような視線は消えた。授業の合間に同じ机を囲んで課題を解く時間も増えた。会話は必要最低限だったが、確かに“最低限”の中身は変わりつつあった。
「レオンさん、聞きたいんですけど、この魔術って……」
言いかけた瞬間、彼は軽く首を傾けた。
「お前、いつまで敬語なんだ?レオンでいい。敬語もいらない」
その一言で、壁がほんの少しだけ削れた気がした。
***
レナは学院の裏手にある古い校舎に来ていた。屋上の扉の前で立ち止まり、小さく呟いた。
「……鍵よ、開いて」
指先に淡い光が走り、錠が静かに外れ扉を押し開ける。
「……わぁ」
視界いっぱいの青空。風は少し冷たいが気持ちがいい。いつものようにパンを取り出し、かじろうとしたその時だった。
扉の開く音。振り返れば、レオンが立っていた。
レナは眉をわずかに寄せる。
「お前、あからさまに嫌そうな顔だぞ」
「最近、毎日来てるじゃない」
「食堂は騒がしいからな。ここが一番静かだ」
「……ああ、そういえば。あなたを追いかけてる子、見たよ。ファンらしいね」
「暇なやつらだ」
「この学院は……そういう楽しみでもないとやっていけないんじゃないかな。虚像でも、ね。実際は──結界の中に魔物を放つ人でも」
「……虚像、ね。お前、根に持つタイプだな」
「当たり前でしょ。死にかけたんだから」
レオンは彼女の昼食をちらりと見た。
「……それで足りるのか?また保健室に行くことになる」
「Eクラスの給付金は少ないからね。節約してるの。私、孤児だし……年も若くて、バイトなんて全然見つからないから」
「……ふーん。お前十三だっけ?」
レオンは興味のなさそうな声を出す。
「今はね。もうすぐ誕生日」
「……俺は十五だ」
「レオンは、家族……いるの?」
2人の間に風が吹き抜けた。
「……いない」
「そっか。じゃあ、一緒だね」
レナはふっと悲しげに微笑んだ。
***
「おはよう、レオンくん」
クラスメイトがレオンに声をかける。
「……ああ」
レオンは軽く頷き返した。言葉数は少ない。だが誰にでも平等に接し、講師にも礼儀正しく振る舞う。課題提出は常に時間厳守で、授業態度も真面目だ。成績は、Eクラスの中でも抜きん出ている。
だが、生徒たちは皆知っていた。話していても、どこか心が凍りつくようだ。優しい声をかけられても、そこに“熱”は感じられない。
「……あいつ、何考えてんのか分かんねぇ」
「でも、無視するわけでもないし……下手な奴よりはよっぽどマシだろ」
「いや、逆に怖ぇよ。無関心っていうか、興味がないだけっていうか……」
孤高の氷壁──それがレオンに抱く印象だった。
「何でレナは平気なんだ?鈍感すぎだろ」
「レナって昔パートナー殺したんだっけ?あの男は死にそうにないな」
廊下の先で、レナが手振りを交えてレオンに何かを話しかけている。レオンも小さく口元を動かし、普通に応えていた。
***
実技訓練室へ向かう廊下をレオンとレナの二人は歩いていた。レナはふと視線を横に逸らし、廊下の端をのそのそ歩く小さな影に気付く。
「最近この辺に住み着いてるみたいだよ」
レナはしゃがみ込む。
「誰か餌あげてるのかな、人に慣れてる。かわいい」
差し出した手に、猫は警戒もせず額をすり寄せてきた。レナはふにゃっと笑い、その頭を撫でる。レオンは、その横顔をじっと見た。
「……お前、そんな風に笑えるんだな」
「え?」
「俺といるとき、いつも嫌そうじゃないか?そんな顔、見たことがないぞ」
あまりにあっさりした物言いに、レナは一瞬驚きながら肩をすくめる。
「……そうかな? まあ、そうかも。命の危険がなければ、多少は笑えるよ」
レオンは、思わず短く息を吐いた。
猫は二人の間をするりと抜け、どこかへ消えていった。
その夜。
レナは買い出しを終え、裏路地を通って寮に戻る途中だった。そこで見慣れた顔を見つけた。
「……レオン?」
振り向いた彼の顔は、昼間とは別人のように冷たかった。
「……ここで何をしてる?」
言葉を探すレナをよそに、彼は視線を逸らした。
「俺のことは見なかったことにしろ」
それだけを言い放ち、彼は歩き去った。
すれ違うとき、レナは空気が変わるのを感じた。
***
街はずれの建物の裏口。扉の先は別世界だった。
金で動く者たち。情報を売り買いする者たち。命を賭ける者たちが集う。
その中に、一人の少年がいた。フードのついた漆黒の服を纏っている。
「……用件は」
「仕事だ。標的はこれだ。軍の実験から逃げ出した魔術師。昨晩目撃された」
レオンは書類を受け取り、写真を一瞥する。
「場所は?」
「地下水路の旧魔導路。お前なら間に合う」
軽く顎を上げ、背中の剣に指をかける。
「先払いだ。信用はしない」
「……相変わらずだな」
テーブルに置かれた金貨の入った袋を確認し、レオンは何も言わず席を立った。
***
地下水路へとたどり着く。静寂の中に足音だけが響く。
標的は逃げていく。レオンは無言で魔術陣を展開し、詠唱を始めた。
「──穿て、絶氷の杭」
氷の魔術が標的の足元を凍らせた。動きが止まる。次の瞬間、レオンは剣を抜き、寸分の狂いもなく喉元を裂いた。標的は叫ぶ間もなく崩れ落ちる。
床に零れた血を見下ろしながら、彼の目には一切の感情はなかった。
***
この学院に、裏社会で“処刑人”として動く生徒がいることなど、誰も知らない。
だが彼は今日も、平然とEクラスの席に座っている。




