変節の宰相:馮道:2章:李嗣源時代②
〇墨の香は国を養う —— 馮道、文化の政を語る
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文治の宰相
洛陽の空に、うっすらと春霞がかかっていた。長興四年、西暦九三一年――この年、私は尚書左僕射・同中書門下平章事を拝命し、正式に宰相の座についた。
齢四十九。 戦乱に生き、諸帝に仕え、いつしか朝堂の中央に身を置くことになったが、ふとこうして筆を持ち、過ぎし日々(ひび)を振り返るたび、己の行路がまるで夢のように思えることもある。
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文治への道
この時代、後唐はかろうじて国の体を保ってはいたものの、都の外ではなお軍閥が力を振い、民草の暮らしは安らかとは言いがたかった。
だからこそ、私は思ったのだ。 剣ではなく、書で治めねばならぬと。 政とは、本来、民の心を養うもの。荒れた地に種を撒くように、学と礼を国に植えるべきなのだと。
「筆と墨の道こそ、乱世を鎮める灯である」
そう私がしばしば口にしていたのを、側近の者たちは覚えているかもしれぬ。 かつて戦の渦中にいた者が言うのもおかしかろうが、戦のあとに残るものは虚無だけだ。だが、書と学問は人の心に残る。
文治を唱える私の主張は、時に軍功派の者から「生ぬるい」と嘲られることもあった。
それでも私は、あえて進んだ。 民の声を集め、学堂を復興し、文館の蔵書を整備させた。 とりわけ、宮中に設けた「弘文館」――文士たちを集めて議論させ、古今の書を校訂させることを勧めたのは、私の提言によるものだった。
書庫を満たすのは、単なる冊子ではない。 それは、過ぎし時代の叡智であり、未来への道標である。
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若き才の育成と歴史の記録
とある日、私は若き書生のひとりが奏上してきた詩文を読み、目を細めた。
「三春の風を得て、墨はまた香る……か。よい言葉だ」
その者は、名を劉昉といった。 家は貧しく、朝廷に仕えるような門地ではなかったが、学問に打ち込み、いまや館の書記官にまで登りつめていた。
こうした若き才を拾い、世に出すのも、政のうちである。 私は彼に言った。
「書をよくすれば、世をよくする。筆は剣に勝る――忘れるでないぞ」
また、この頃には、歴代の史書をまとめ直す作業にも力を入れた。 後梁・後唐の治世を綴った記録の整備は、後の者がこの国の歩みを知るためにも必要な作業であった。 書かれざる歴史は、風に散る塵と同じ。記録しなければ、誰にもその意味は伝わらぬ。
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宰相としての務め
私は戦の政ではなく、文の政を望んだ。
それは、嵐のなかに一灯を掲げるような営みかもしれぬ。 だが、灯があるかぎり、人は歩みを進められる。
学び舎に子らの声が戻り、村に読み書きのできる者が増える――それが、やがて国を支える柱となる。私はその希望を信じた。
それが、宰相としての、私の務めだったと思っている。
夜の帳が落ち、書斎の燈火が静かに揺れる。 筆を置き、私はふと、窓の外を見やった。
その先には、まだ見ぬ未来があった。
〇春雷、未だ鳴らず —— 馮道、宮廷の影を見る
後唐の政争と馮道の苦悩
長興四年の春。洛陽の都に、妙に重たい空気が流れていた。
風は穏やかで、庭先の杏もちらほらと花をつけはじめていたというのに、朝廷の空気はまるで晩秋のように、冷たく、刺すようなものがあった。
私は、馮道。 宰相の任を授かり、すでに一年余りが過ぎようとしていた。
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皇帝の健康と後継問題
この年、九三一年――後唐を治める皇帝・明宗、すなわち李嗣源の体調が優れぬとの噂が、朝廷内外に流れ始めていた。
「ご年齢も五十を超えられておりますしな……」 「戦場で傷も負われたと聞きます。無理もございません」
誰もが声を潜めながらそう口にする。
皇帝の健康、それはすなわち国の安泰である。 だが、政の場では「不安」が「争い」へとすぐに姿を変える。
案の定、帝の後継を巡って、火種は各所で燻り始めた。
明宗には複数の皇子がいたが、そのなかでもとりわけ寵愛を受けたのが、皇太子・李継岌である。 文雅に通じ、穏やかな性格の持ち主で、明宗自らその資質を高く買っていた。
だが、兵権を握る一部の武将たちは、継岌の文弱さを忌み嫌い、他の王子――とくに軍務に通じた者を後継に推す動きを見せ始めていた。
宮廷内には、李継岌を推す文臣派と、それに反発する武人派が、密かにそれぞれの支持を集め、互いに探り合い、讒言と策略が飛び交うようになっていた。
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文官の苦境と広がる疑心
私は、その渦中にあった。
同じく宰相の趙鳳とともに、私は文官の筆頭として政務を取り仕切っていたが、軍出身の皇帝の時代ゆえ、文官の進言が通りづらくなっていたのも事実である。
ある日、朝議の席で、皇帝が不意に言われた。
「民が安んじているのに、なぜ太学の増築など急ぐ必要があるのか? 馮卿、答えよ」
やや語気を強めておられた。 文治主義を掲げる私の政策は、軍功派の者たちから煙たがられていた。
私は、言葉を選びながら進言した。
「学とは根でございます。いま国が静かに見えるのも、根が水を得ているからにございます。根を怠れば、枝葉はやがて枯れましょう」
明宗はしばらく沈黙され、それから小さく頷かれた。 だが、左右に並ぶ将軍たちの視線は冷やかだった。
そんななか、政争を鎮めるべく、明宗は粛清に動き始めた。 不穏な動きを見せた将校を左遷し、一部の文臣の入れ替えも命じられた。 だが、それはかえって不信と恐怖を広げただけだった。
「次は誰が咎を問われるのか」 「あれは忠か、それとも……」
誰もが口をつぐみ、目を伏せるようになった。
政の場から、議論が消えた。 あるのは、静かな沈黙と、目に見えぬ疑心のみ。
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宰相の焦燥と未来への予感
私の心には、ある種の焦燥があった。
後唐の政権は、外から見ればまだ整っていた。だが、中は違う。 信と和が崩れ始め、次第に綻びは広がっていた。
私は日々(ひび)、史書をめくりながら、自らに問うていた。
――この政は、どこへ向かおうとしているのか。
――そして、自分に何ができるのか。
都の西の空に、雷雲が現れた。
季節にはまだ早い。 けれど、その低い響きに、私は不意に胸騒ぎを覚えた。
雷はまだ遠い。 だが、それは確かに来ようとしている――
そのとき、私の手は、無意識に巻物の端をぎゅっと握りしめていた。
〇李嗣源の最期
李嗣源の最期と後唐の混迷
後唐――この時代、中国は五代十国の動乱期にあった。多くの政権が短命に終わるなか、後唐は李嗣源によって九二六年に再興され、その統治は一時の安定を見せていた。
李嗣源はもと軍人として頭角を現し、武断政治の力強さを背景に皇位に就いた人物である。だが、彼が国を治める道は決して平坦ではなかった。国は戦乱の傷跡深く、財政も疲弊し、地方軍閥の勢力は増大していた。
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健康悪化と宮廷の様相
九三一年の初め頃、李嗣源の健康は急速に悪化し始めた。長年にわたる戦いと政務の重圧が彼の体を蝕み、かつての威厳あふれる皇帝の姿は次第に衰弱していった。
彼は寝床に伏し、身動きひとつままならぬ日々(ひび)を過ごす。だが、その心はまだはっきりしており、何よりも後唐の未来を深く案じていた。
「馮道よ。余の身はもはやこれまでかもしれぬ。しかし、この国のことはお前に任せる。頼むぞ」
そう言い残し、側近の宰相馮道に向けて重い視線を注いだ。馮道はゆっくりと頭を下げ、言葉を選びながら答えた。
「陛下、どうかご安心くださいませ。後唐の安寧は私どもの責務。陛下の願いを必ず果たしてみせます。」
馮道は文治派を代表する重鎮であり、文化振興と政務の安定に尽力していた。彼の心中は複雑だった。皇帝の病は宮廷内の不安を一層増幅させ、後継問題が暗い影を落としていたからである。
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後継争いと権力抗争
皇帝の病が長引く中で、宮廷は不穏な空気に包まれていた。皇太子・李継岌を推す勢力と、他の王子を擁立しようとする派閥が対立。これが徐々(じょじょ)に激化し、皇室の結束は揺らぎ始めていた。
さらに、宦官や寵臣、文官と武人たちの間でも政治的な方針の違いから亀裂が走る。馮道が属する文官勢力は、武断派の軍人たちに対して慎重な政策を進めようとしたが、彼らの力は強く、宮廷は次第に分裂していく。
「このままでは、国はまた混乱の淵に沈むだろう……」
馮道は暗澹たる思いで夜空を見上げた。星々(ほしぼし)の輝きの下でさえ、彼の胸は晴れなかった。
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皇帝の最後の言葉と死
李嗣源は病床で、長年支えた側近たちと最後の時を過ごした。彼の口からは、国の安定と皇室の未来への切なる願いがこぼれ落ちた。
「我が後唐よ、どうか乱れぬように……。平和な継承を、願うのみじゃ……」
朦朧としながらも、皇帝の言葉には強い覚悟と祈りが込められていた。周囲の者たちはそれを聞き取り、深く胸を打たれた。
やがて李嗣源は静かに息を引き取った。彼の死は後唐にとって大きな転機となった。表向きは政権が維持されたが、実際には内部での権力闘争が激化し、後の動乱へとつながっていく。
馮道は、彼が遺した願いがどこかで生きていることを信じ、政務の安定に尽力し続けた。しかし、歴史は容赦なく動き出していた。
後唐の栄光と混迷の狭間にあった李嗣源の最期は、戦乱の世の儚さと共に、私たちに重い余韻を残しています。