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変節の宰相:馮道:10章:郭威時代②

〇「郭威殿、後周の礎を築く――乱世を統べる軍事改革と国防戦略」


わたくし馮道(ふう・どう)がまた、語(かた)らせていただきます。郭威(かく・い)殿(どの)が951年(ねん)に後周(こうしゅう)を建国(けんこく)された際(さい)、その背後(はいご)には混乱(こんらん)の極(きわ)みであった五代十国(ごだいじゅっこく)の激動(げきどう)がございました。唐(とう)の滅亡(めつぼう)後(ご)、中原(ちゅうげん)は再(ふたた)び割拠(かっきょ)の時代(じだい)に戻(もど)り、大小(だいしょう)の勢力(せいりょく)が興亡(こうぼう)を繰(く)り返(かえ)しておりました。そんな乱世(らんせ)の只中(ただなか)にあって、郭威(かく・い)様(さま)は強(つよ)い軍事力(ぐんじりょく)を基盤(きばん)に天下(てんか)を治(おさ)めようと決意(けつい)されました。


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後周(こうしゅう)の軍事改革(ぐんじかいかく)


まず、郭威(かく・い)様(さま)が最初(さいしょ)に手(て)を付(つ)けられたのが軍隊(ぐんたい)の再編成(さいへんせい)でございます。かつての唐末(とうまつ)からの長(なが)き戦乱(せんらん)は、兵(へい)たちの士気(しき)を奪(うば)い、軍(ぐん)の規律(きりつ)も乱(みだ)れきっておりました。兵士(へいし)が統率(とうそつ)を欠(か)けば、どんな名将(めいしょう)であっても勝利(しょうり)は遠(とお)のく。郭威(かく・い)殿(どの)は自(みずか)らの軍歴(ぐんれき)に基づ(もとづ)き、その重要性(じゅうようせい)を身(み)に染(し)みて理解(りかい)しておられました。


そこで、彼(かれ)は徹底的(てってい・てき)に兵士(へいし)の訓練(くんれん)に力(ちから)を入(い)れました。厳(きび)しい規律(きりつ)の下(もと)での日々(ひび)の訓練(くんれん)を復活(ふっかつ)させ、武器(ぶき)の扱(あつか)いのみならず行軍(こうぐん)の基本(きほん)、戦場(せんじょう)での陣形(じんけい)の統制(とうせい)に至(いた)るまで細(こま)かく指導(しどう)を行(おこな)いました。士気(しき)を高(たか)めるため、単(たん)なる叱責(しっせき)や命令(めいれい)だけではなく、戦果(せんか)を挙(あ)げた兵士(へいし)への褒賞(ほうしょう)も積極的(せっきょく・てき)に行(おこな)い、兵士(へいし)たちの忠誠心(ちゅうせいしん)と士気(しき)を養(やしな)ったのです。


また、軍(ぐん)の指揮系統(しきけいとう)を明確化(めいかくか)することも急務(きゅうむ)でした。五代(ごだい)の時代(じだい)、多(おお)くの軍隊(ぐんたい)が司令系統(しれいけいとう)の混乱(こんらん)により無秩序化(むちつじょか)し、しばしば内乱(ないらん)や反乱(はんらん)の火種(ひだね)となっていたためです。郭威(かく・い)様(さま)は軍(ぐん)の階層(かいそう)を整備(せいび)し、命令伝達(めいれい・でんたつ)の一元化(いちげんか)を図(はか)りました。これにより、現場(げんば)での混乱(こんらん)は大幅(おおはば)に減(へ)り、迅速(じんそく)かつ的確(てきかく)な指揮(しき)が可能(かのう)となりました。


さらに忘(わす)れてはならぬのが兵站(へいたん)の整備(せいび)です。いくら強力(きょうりょく)な軍隊(ぐんたい)でも、物資補給(ぶっしほきゅう)が滞(とどこお)れば長期戦(ちょうきせん)は不可能(ふかのう)であり、士気(しき)はたちまち低下(ていか)します。郭威(かく・い)様(さま)は物資(ぶっし)の調達(ちょうたつ)・運搬(うんぱん)の体制(たいせい)を整(ととの)え、兵糧(ひょうろう)の安定的(あんてい・てき)な供給(きょうきゅう)に細心(さいしん)の注意(ちゅうい)を払(はら)いました。軍需品(ぐんじゅひん)の備蓄(びちく)を確保(かくほ)し、戦地(せんち)に迅速(じんそく)に届(とど)けるための道路(どうろ)や交通網(こうつうもう)の整備(せいび)にも目(め)を向(む)けたのです。


こうした軍事改革(ぐんじかいかく)は、ただ単(たん)に兵力(へいりょく)を増強(ぞうきょう)するだけに留(とど)まらず、軍(ぐん)の質(しつ)を根本(こんぽん)から変(か)えるものでした。郭威(かく・い)殿(どの)は軍隊(ぐんたい)が国家(こっか)の根幹(こんかん)であることを自覚(じかく)し、軍(ぐん)の安定(あんてい)こそが後周(こうしゅう)の安定(あんてい)に直結(ちょっけつ)すると考(かんが)えておられたのです。


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外交(がいこう)と内政(ないせい)


この時代(じだい)、外敵(がいてき)もまた後周(こうしゅう)の前(まえ)に立(た)ちはだかっておりました。北方(ほっぽう)には契丹(きったん)が勢力(せいりょく)を伸(の)ばし、南方(なんぽう)には南唐(なんとう)や呉越(ごえつ)などの諸国(しょこく)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)していました。郭威(かく・い)様(さま)は強化(きょうか)した軍事力(ぐんじりょく)を背景(はいけい)にこれらの勢力(せいりょく)と外交(がいこう)・軍事(ぐんじ)の均衡(きんこう)を図(はか)り、国(くに)の防衛(ぼうえい)と勢力拡大(せいりょくかくだい)を慎重(しんちょう)かつ着実(ちゃくじつ)に進(すす)められました。


後周(こうしゅう)の安定(あんてい)は決(けっ)して容易(ようい)ではありませんでしたが、郭威(かく・い)殿(どの)の不断(ふだん)の努力(どりょく)と鋭(するど)い統治眼(とうちがん)によって、五代(ごだい)の混乱期(こんらんき)に一筋(ひとすじ)の光明(こうみょう)をもたらしたのです。




〇後周の治世を語る ─馮道(ふうどう)の独白─


馮道(ふう・どう)が語(かた)る郭威(かく・い)の外交戦略(がいこうせんりゃく)


わたくしは馮道(ふう・どう)。この五代十国(ごだいじっこく)の動乱(どうらん)の時代(じだい)を生き抜(ぬ)き、後世(こうせい)に語(かた)り継(つ)ぐ役目(やくめ)を負(お)った者(もの)です。今日(きょう)は、後周(こうしゅう)(951年(ねん)から954年(ねん)にかけて)の統治者(とうちしゃ)、郭威(かく・い)様(さま)について、私(わたくし)なりの考(かんが)えをお話(はなし)しましょう。


まず時代背景(じだいはいけい)から簡単(かんたん)に説明(せつめい)しましょう。五代十国(ごだいじっこく)とは、唐(とう)王朝(おうちょう)が崩(くず)れた後(あと)の中国(ちゅうごく)の混乱期(こんらんき)です。各地(かくち)に大小(だいしょう)さまざまな国(くに)が乱立(らんりつ)し、戦乱(せんらん)が絶(た)えませんでした。そんな中(なか)、後周(こうしゅう)は中国(ちゅうごく)北部(ほくぶ)を中心(ちゅうしん)に短期間(たんきかん)ながら強(つよ)い存在感(そんざいかん)を示(しめ)した王朝(おうちょう)です。その創始者(そうししゃ)こそ郭威(かく・い)様(さま)でした。


郭威(かく・い)様(さま)はもともと軍人(ぐんじん)であり、乱世(らんせ)を生き抜(ぬ)くための戦(たたか)い方(かた)を熟知(じゅくち)していました。しかし彼(かれ)のすごさは、単(たん)なる武力(ぶりょく)ではなく、その外交(がいこう)の巧(たく)みさにあったのです。周囲(しゅうい)には強敵(きょうてき)が多(おお)かったからでしょう。


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北方(ほっぽう)の脅威(きょうい)と和親策(わしんさく)


特(とく)に北(きた)には契丹(きったん)という民族(みんぞく)がいました。彼(かれ)らは騎馬(きば)を中心(ちゅうしん)とした遊牧民族(ゆうぼくみんぞく)で、後(のち)に「遼(りょう)」と呼(よ)ばれる大国(たいこく)を築(きず)きます。契丹族(きったんぞく)は、当時(とうじ)の後周(こうしゅう)にとってはまさに脅威(きょうい)であり、常(つね)に国境(こっきょう)で緊張関係(きんちょうかんけい)が続(つづ)いていました。


しかし郭威(かく・い)様(さま)は、むやみに大規模(だいきぼ)な戦争(せんそう)を仕掛(しか)けることは避(さ)けました。なぜなら、無駄(むだ)な戦(たたか)いは国(くに)を疲弊(ひへい)させ、内部(ないぶ)の安定(あんてい)を損(そこ)なうからである。彼(かれ)が選(えら)んだのは「和親策(わしんさく)」――つまり、できる限(かぎ)り契丹(きったん)との平和的(へいわてき)な関係(かんけい)を築(きず)きつつも、必要(ひつよう)に応じて軍事力(ぐんじりょく)で牽制(けんせい)する、二面作戦(にめんさくせん)でした。


具体(ぐたい)的(てき)には、国境(こっきょう)の防衛線(ぼうえいせん)をしっかり固(かた)め、兵力(へいりょく)を分散(ぶんさん)させずに効率(こうりつ)よく配置(はいち)しました。軍(ぐん)の士気(しき)を保(たも)ちつつ、契丹(きったん)の動(うご)きを常(つね)に監視(かんし)する。外交官(がいこうかん)は契丹(きったん)との交渉(こうしょう)を重(かさ)ね、衝突(しょうとつ)の火種(ひだね)を抑(おさ)え込(こ)みました。こうして後周(こうしゅう)は北方(ほっぽう)の脅威(きょうい)に備(そな)えつつ、全面戦争(ぜんめんせんそう)を回避(かいひ)できたのです。


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南方(なんぽう)の諸国(しょこく)への対処(たいしょ)


一方(いっぽう)で南(みなみ)のほうはどうか。南中国(なんちゅうごく)は五代十国時代(ごだいじっこくじだい)の名(な)の通(とお)り、大小(だいしょう)の国々(くにぐに)がひしめき合(あ)い、日々(ひび)勢力争(せいりょくあらそ)いが繰(く)り返(かえ)されていました。郭威(かく・い)様(さま)にとっては、この南方(なんぽう)の不安定(ふあんてい)さも大(おお)きな問題(もんだい)でした。


郭威(かく・い)様(さま)は南方(なんぽう)の国々(くにぐに)にも単(たん)なる武力(ぶりょく)だけでなく、外交(がいこう)を駆使(くし)して対処(たいしょ)しました。和平条約(わへいじょうやく)を結(むす)び、時(とき)には軍事(ぐんじ)的(てき)な圧力(あつりょく)をかけつつ、要衝(ようしょう)の防衛(ぼうえい)を固(かた)めました。また経済面(けいざいめん)の交流(こうりゅう)も重要視(じゅうようし)し、物資(ぶっし)の安定供給(あんていきょうきゅう)を通(つう)じて地域(ちいき)の平和(へいわ)を保(たも)とうと努(つと)めたのです。


つまり郭威(かく・い)様(さま)の戦略(せんりゃく)は、多方面(たほうめん)にわたる外交(がいこう)と軍事(ぐんじ)のバランスを巧(たく)みに取(と)ることにありました。強硬(きょうこう)一本槍(いっぽんやり)ではなく、柔軟(じゅうなん)で賢明(けんめい)な対応(たいおう)こそが、彼(かれ)の短(みじか)い治世(ちせい)ながら後周(こうしゅう)が一定(いってい)の安定(あんてい)を維持(いじ)できた理由(りゆう)です。


今(いま)、こうして振(ふ)り返(かえ)ってみると、郭威(かく・い)様(さま)の外交(がいこう)と軍事(ぐんじ)の両面(りょうめん)における舵取(かじと)りの妙味(みょうみ)がよくわかります。北(きた)の強大(きょうだい)な契丹(きったん)に怯(ひる)まず、南(みなみ)の小国(しょうこく)の乱(みだ)れを静(しず)める。これらの狭間(はざま)で後周(こうしゅう)を守(まも)り抜(ぬ)くために、郭威(かく・い)様(さま)は自身(じしん)の信念(しんねん)と知恵(ちえ)を尽(つ)くしたのです。


後周(こうしゅう)は短命(たんめい)の王朝(おうちょう)でしたが、その影響(えいきょう)は後(のち)の時代(じだい)にも確(たし)かに残(のこ)っています。郭威(かく・い)様(さま)の治世(ちせい)は、混迷(こんめい)の五代十国(ごだいじっこく)のなかにあって、慎重(しんちょう)かつ果断(かだん)に国家(こっか)を運営(うんえい)した好例(こうれい)として、我々(われわれ)の教訓(きょうくん)となるでしょう。




〇後周の新たな時代 -馮道の独白-


わたくしは馮道(ふう・どう)と申(もう)します。後周(こうしゅう)という、短(みじか)くも波乱(はらん)に満(み)ちた時代(じだい)を、この目(め)で見届(みとど)けてまいりました。今日(きょう)は、あの年(とし)、953年(ねん)のことをお話(はなし)いたします。あの年(とし)、郭威(かく・い)様(さま)がこの世(よ)を去(さ)り、養子(ようし)である柴栄(さい・えい)様(さま)が後周(こうしゅう)の第二代(だいにだい)皇帝(こうてい)として即位(そくい)されたのでございます。


時代(じだい)は五代十国(ごだいじっこく)の混迷(こんめい)の只中(ただなか)。群雄(ぐんゆう)が割拠(かっきょ)し、誰(だれ)もが一瞬(いっしゅん)の安寧(あんねい)を願(ねが)いながらも、戦火(せんか)と陰謀(いんぼう)が絶(た)えない時代(じだい)でございました。郭威(かく・い)様(さま)は、その混乱(こんらん)から後周(こうしゅう)を興(おこ)され、短(みじか)い治世(ちせい)の間(あいだ)に国(くに)の基盤(きばん)を着実(ちゃくじつ)に固(かた)められた英雄(えいゆう)でございます。郭威(かく・い)様(さま)は冷静(れいせい)な軍人(ぐんじん)であると同時(どうじ)に、柔軟(じゅうなん)な外交手腕(がいこうしゅわん)をもって国(くに)を治(おさ)められました。しかし、そのご苦労(くろう)は並大抵(なみたいてい)のものではございませんでした。


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郭威(かく・い)の悲劇(ひげき)と柴栄(さい・えい)への託(たく)し


かつて、郭威(かく・い)様(さま)は前(まえ)の皇帝(こうてい)の冷酷(れいこく)な策略(さくりゃく)により、実(じつ)の家族(かぞく)を皆殺(みなごろ)しにされるという悲劇(ひげき)に見舞(みま)われております。愛(あい)する妻子(さいし)を失(うしな)いながらも、郭威(かく・い)様(さま)は国(くに)のために立(た)ち上(あ)がられたのです。その悲(かな)しみを胸(むね)に秘(ひ)め、国(くに)の未来(みらい)を見据(みす)えておられました。


郭威(かく・い)様(さま)には実(じつ)の子(こ)がおらず、そのため養子(ようし)の柴栄(さい・えい)様(さま)に後(あと)を託(たく)されました。柴栄(さい・えい)様(さま)は、郭威(かく・い)様(さま)の妻(つま)の縁戚(えんせき)であられまして、幼(おさな)い頃(ころ)より深(ふか)い信頼(しんらい)と愛情(あいじょう)をもって育(はぐく)まれてきた方(かた)でございます。若(わか)くして才気(さいき)に溢(あふ)れ、温(あたた)かさと強(つよ)さを併(あわ)せ持(も)つ、まさに後周(こうしゅう)を託(たく)すにふさわしい人物(じんぶつ)でございました。


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柴栄(さい・えい)の即位(そくい)と新時代(しんじだい)の幕開(まくあ)け


私(わたくし)が拝見(はいけん)した限(かぎ)りでは、郭威(かく・い)様(さま)と柴栄(さい・えい)様(さま)の間(あいだ)には、血(ち)の繋(つな)がりを超(こ)えた強(つよ)い絆(きずな)がございました。郭威(かく・い)様(さま)は柴栄(さい・えい)様(さま)に国(くに)を託(たく)す決断(けつだん)をされるにあたり、慎重(しんちょう)ながらも揺(ゆ)るぎない信頼(しんらい)を寄(よ)せておられました。柴栄(さい・えい)様(さま)もまた、その期待(きたい)に応(こた)えるべく、常(つね)に努力(どりょく)と覚悟(かくご)を胸(むね)に抱(いだ)いておりました。


郭威(かく・い)様(さま)の急逝(きゅうせい)は国中(こくじゅう)に大(おお)きな衝撃(しょうげき)を与(あた)えましたが、柴栄(さい・えい)様(さま)はすぐにその重責(じゅうせき)を受(う)け入(い)れ、即位(そくい)に際(さい)しては周囲(しゅうい)の不安(ふあん)を一掃(いっそう)するかのような落(お)ち着(つ)いたお姿(すがた)を見(み)せられました。柴栄(さい・えい)様(さま)は、亡(な)き郭威(かく・い)様(さま)の教(おし)えと遺志(いし)を胸(むね)に、後周(こうしゅう)をさらに安定(あんてい)した国(くに)へと導(みちび)くことを誓(ちか)われたのです。


私(わたくし)、馮道(ふう・どう)は、あの時(とき)の柴栄(さい・えい)様(さま)の姿(すがた)を今(いま)も鮮明(せんめい)に覚(おぼ)えております。若(わか)き皇帝(こうてい)の眼差(まなざ)しには、未来(みらい)への希望(きぼう)と責任(せきにん)の重(おも)さが共(とも)に宿(やど)っておりました。郭威(かく・い)様(さま)の遺志(いし)を継(つ)ぎ、この混乱(こんらん)の時代(じだい)を少(すこ)しでも平和(へいわ)に変(か)えていこうと、柴栄(さい・えい)様(さま)は静(しず)かに歩(あゆ)み始(はじ)められたのです。


こうして、後周(こうしゅう)の第二代(だいにだい)皇帝(こうてい)・柴栄(さい・えい)様(さま)の時代(じだい)が幕(まく)を開(あ)けました。短(みじか)くも激動(げきどう)の後周(こうしゅう)でございますが、その礎(いしずえ)を築(きず)かれた郭威(かく・い)様(さま)と、その志(こころざし)を継(つ)がれた柴栄(さい・えい)様(さま)の物語(ものがたり)は、今(いま)もなお私(わたくし)の胸(むね)に深(ふか)く刻(きざ)まれております。

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