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変節の宰相:馮道:10章:郭威時代①

〇馮道の独白 〜劉承祐の暴虐と郭威の決起、その激動の時代〜


わたくし、馮道(ふう・どう)が身(み)を置(お)いた宮廷(きゅうてい)は、五代(ごだい)の混乱(こんらん)のただ中(なか)にあった乾祐(けんゆう)年間(ねんかん)、表面上(ひょうめんじょう)の華(はな)やぎとは裏腹(うらはら)に、絶(た)えず暗雲(あんうん)が立(た)ち込(こ)めておりました。


劉承祐(りゅう・しょうゆう)――わずか十四歳(じゅうよんさい)にして皇帝(こうてい)の座(ざ)に就(つ)いた若者(わかもの)は、未(いま)だに政(まつりごと)の重責(じゅうせき)に慣(な)れず、また世情(せじょう)の厳(きび)しさを知(し)らぬ青二才(あおにさい)でございました。


父(ちち)・劉知遠(りゅう・ちえん)が急逝(きゅうせい)した直後(ちょくご)は、重臣(じゅうしん)たちの助(たす)けを得(え)て何(なん)とか政務(せいむ)を執(と)り行(おこな)っていたものの、やがて自身(じしん)の権威(けんい)を脅(おびや)かす者(もの)たちへの猜疑心(さいぎしん)が膨(ふく)らんでいったのです。


________________________________


郭威(かく・い)とその家族(かぞく)の悲劇(ひげき)


特(とく)に郭威(かく・い)――後漢(ごかん)建国(けんこく)の功臣(こうしん)であり、その剛毅(ごうき)かつ忠実(ちゅうじつ)な性格(せいかく)から周囲(しゅうい)の信頼(しんらい)を一身(いっしん)に集(あつ)めた男(おとこ)。


郭威(かく・い)の存在(そんざい)が、次第(しだい)に劉承祐(りゅう・しょうゆう)の胸中(きょうちゅう)に暗(くら)い影(かげ)を落(お)としました。


そしてついに、皇帝(こうてい)の猜疑(さいぎ)は頂点(ちょうてん)に達(たっ)し、郭威(かく・い)の家族(かぞく)にまでその矛先(ほこさき)を向(む)けてしまったのです。


郭威(かく・い)の妻子(さいし)、兄弟(きょうだい)、そして側近(そっきん)に至(いた)るまで――その命(いのち)は一夜(いちや)にして奪(うば)われました。


わたくしが知(し)る限(かぎ)り、あの時(とき)の凄惨(せいさん)な光景(こうけい)は、まさに戦乱(せんらん)の世(よ)における悲劇(ひげき)の極(きわ)みでありました。宮廷(きゅうてい)の静寂(せいじゃく)を切(き)り裂(さ)く悲鳴(ひめい)、焼(や)け落(お)ちる屋敷(やしき)、散(ち)り散(ぢ)りとなる人々(ひとびと)の姿(すがた)――若(わか)き皇帝(こうてい)の命令(めいれい)とはいえ、その非道(ひどう)さは誰(だれ)の目(め)にも明(あき)らかでございました。


この凄惨(せいさん)な出来事(できごと)は、郭威(かく・い)に計(はか)り知(し)れぬ深(ふか)い絶望(ぜつぼう)と激(はげ)しい憤怒(ふんぬ)をもたらしました。


父母(ふぼ)を奪(うば)われた子(こ)が嘆(なげ)き、妻(つま)を失(うしな)った夫(おっと)が嘆(なげ)くように、郭威(かく・い)の胸中(きょうちゅう)は怒(いか)りと悲(かな)しみで裂(さ)けんばかりだったのです。


彼(かれ)はもはや耐(た)えることができず、兵(へい)を挙(あ)げて皇帝(こうてい)に反旗(はんき)を翻(ひるがえ)す決意(けつい)を固(かた)めました。


________________________________


後漢(こうかん)の終焉(しゅうえん)と後周(こうしゅう)の興隆(こうりゅう)


翌(よく)951年(ねん)、郭威(かく・い)は自(みずか)らの軍勢(ぐんぜい)を率(ひき)いて京城(けいじょう)へ進軍(しんぐん)し、劉承祐(りゅう・しょうゆう)に刃(やいば)を向(む)けました。


この時代(じだい)、正義(せいぎ)と悪(あく)が必(かなら)ずしもはっきり分(わ)かれぬ中(なか)にあっても、郭威(かく・い)の行動(こうどう)はやむなきもの――自(みずか)らの家族(かぞく)の無念(むねん)を晴(は)らすための必死(ひっし)の抵抗(ていこう)であったと、わたくしは思(おも)います。


劉承祐(りゅう・しょうゆう)の滅亡(めつぼう)により、後漢(こうかん)は歴史(れきし)の表舞台(おもてぶたい)から姿(すがた)を消(け)し、郭威(かく・い)は新(あら)たな王朝(おうちょう)――後周(こうしゅう)を建(た)てました。


五代(ごだい)最後(さいご)の王朝(おうちょう)となった後周(こうしゅう)は、混沌(こんとん)とした世(よ)を終(お)わらせる一筋(ひとすじ)の光(ひかり)として、多(おお)くの人々(ひとびと)に希望(きぼう)をもたらしました。


わたくし馮道(ふう・どう)もまた、この新(あら)たな王朝(おうちょう)に仕官(しかん)し、名誉職(めいよしょく)に就(つ)くことを許(ゆる)されました。この混迷(こんめい)の時代(じだい)を生き抜(ぬ)くには、波乱(はらん)の渦(うず)に身(み)を投(とう)じ、巧(たく)みに立(た)ち回(まわ)るしかなかったのです。


劉承祐(りゅう・しょうゆう)の若(わか)さゆえの暴走(ぼうそう)、郭威(かく・い)の悲劇(ひげき)、そして後周(こうしゅう)の興隆(こうりゅう)――これらはまさに五代十国(ごだいじゅっこく)の歴史(れきし)の縮図(しゅくず)。


歴史(れきし)は冷徹(れいてつ)に人(ひと)の運命(うんめい)を翻弄(ほんろう)しながらも、必(かなら)ず次(つぎ)の時代(じだい)を紡(つむ)いでゆくのだと、わたくしは深(ふか)く感(かん)じております。




〇馮道の独白 ~郭威という男と後周の興隆~


馮道(ふう・どう)が語(かた)る後周(こうしゅう)の興隆(こうりゅう)と郭威(かく・い)


わたくし、馮道(ふう・どう)と申(もう)します。歴史(れきし)の波乱(はらん)に揉(も)まれた五代十国時代(ごだいじゅっこくじだい)、その中心(ちゅうしん)の一(ひと)つ、後周(こうしゅう)という王朝(おうちょう)の誕生(たんじょう)と盛衰(せいすい)を身(み)をもって見届(みとど)けて参(まい)りました。今日(きょう)はその後周(こうしゅう)の初代(しょだい)皇帝(こうてい)、郭威(かく・い)という男(おとこ)について、そして後周(こうしゅう)という国(くに)がいかなるものであったのかを、拙者(せっしゃ)の所感(しょかん)とともに語(かた)らせていただきます。


________________________________


後漢(ごかん)の功臣(こうしん)、郭威(かく・い)の生(い)い立(た)ち


郭威(かく・い)はもとは後漢(ごかん)の有力(ゆうりょく)な将軍(しょうぐん)であり、戦乱(せんらん)の中(なか)でその名(な)を高(たか)めていった人物(じんぶつ)でございます。後漢(ごかん)は五代(ごだい)の中(なか)でも比較(ひかく)的(てき)まとまった王朝(おうちょう)でしたが、その成立(せいりつ)に際(さい)して郭威(かく・い)の功績(こうせき)は筆舌(ひつぜつ)に尽(つ)くし難(がた)いものでした。劉知遠(りゅう・ちえん)という、当時(とうじ)の皇帝(こうてい)から厚(あつ)く信頼(しんらい)を寄(よ)せられていたのも頷(うなず)けます。


郭威(かく・い)の生(い)い立(た)ちを簡単(かんたん)に申(もう)せば、質実剛健(しつじつごうけん)な性格(せいかく)で知(し)られ、その誠実(せいじつ)さは戦乱(せんらん)の世(よ)にあっても稀有(けう)なものでした。軍略(ぐんりゃく)に長(た)けただけではなく、兵(へい)を率(ひき)いる指導者(しどうしゃ)としてのカリスマ性(せい)も兼(か)ね備(そな)えています。忠誠心(ちゅうせいしん)もまた人一倍(ひといちばい)強(つよ)く、劉知遠(りゅう・ちえん)に仕(つか)えるにあたっては、命(いのち)を賭(と)して彼(かれ)を守(まも)り抜(ぬ)きました。


________________________________


幼帝(ようてい)の猜疑(さいぎ)と郭威(かく・い)の悲劇(ひげき)


しかし、その忠誠心(ちゅうせいしん)ゆえに、のちに悲劇(ひげき)も生(う)まれます。乾祐(けんゆう)元年(がんねん)(948年)、劉知遠(りゅう・ちえん)が急逝(きゅうせい)し、その遺言(ゆいごん)によりわずか十四歳(じゅうよんさい)(数(かぞ)え年(どし))で皇帝(こうてい)となった劉承祐(りゅう・しょうゆう)が即位(そくい)しました。若(わか)き皇帝(こうてい)は経験(けいけん)に乏(とぼ)しく、政治(せいじ)は重臣(じゅうしん)たちの手(て)に委(ゆだ)ねられておりましたが、その中(なか)で郭威(かく・い)の存在感(そんざいかん)は次第(しだい)に増(ま)していきました。


ここに問題(もんだい)が生(しょう)じます。若(わか)き劉承祐(りゅう・しょうゆう)は、自分(じぶん)の権威(けんい)が重臣(じゅうしん)たち、とりわけ郭威(かく・い)に脅(おびやか)されているのを感(かん)じ取(と)りました。無論(むろん)、彼(かれ)にはまだ政治(せいじ)の全(すべて)を把握(はあく)する力(ちから)も経験(けいけん)もありません。しかし、若(わか)さゆえの焦燥(しょうそう)や不安(ふあん)が心(こころ)の中(なか)で渦巻(うずま)いていたのでしょう。


しかも、宮廷内(きゅうていない)には、劉承祐(りゅう・しょうゆう)に取り入(い)ろうとする奸臣(かんしん)たちが暗躍(あんやく)していました。彼(かれ)らは郭威(かく・い)の名声(めいせい)を貶(おとし)めるために、嘘(うそ)の噂(うわさ)や中傷(ちゅうしょう)を皇帝(こうてい)に吹(ふ)き込(こ)み、若(わか)き帝(みかど)の猜疑心(さいぎしん)を煽(あお)ったのです。やがて皇帝(こうてい)は、これら讒言(ざんげん)を信(しん)じ、郭威(かく・い)をはじめとする功臣(こうしん)たちを疑(うたが)い、次第(しだい)に彼(かれ)らを遠(とお)ざけていきます。


そして乾祐(けんゆう)二年(ねん)(949年)、劉承祐(りゅう・しょうゆう)は郭威(かく・い)と対立関係(たいりつかんけい)にある枢密使(すうみつし)の楊顒(よう・ぎょう)と史弘肇(し・こうちょう)を処刑(しょけい)しました。これに続(つづ)き、郭威(かく・い)の家族(かぞく)までもが皇帝(こうてい)の命(めい)により皆殺(みなごろ)しにされたのです。郭威(かく・い)にとって、それは耐(た)え難(がた)い裏切(うらぎ)りであり、最大(さいだい)の屈辱(くつじょく)でありました。


郭威(かく・い)は激怒(げきど)しました。忠誠(ちゅうせい)を尽(つ)くしてきたはずの皇帝(こうてい)から、その大切(たいせつ)な家族(かぞく)を奪(うば)われたのです。これはただの政治的(せいじてき)粛清(しゅくせい)ではなく、郭威(かく・い)の心(こころ)を根底(こんてい)から砕(くだ)く悲劇(ひげき)でありました。


もはや我慢(がまん)の限界(げんかい)を超(こ)えた郭威(かく・い)は、やむなく兵(へい)を挙(あ)げて反乱(はんらん)を起(おこ)します。彼(かれ)の決断(けつだん)は、単(たん)なる反逆(はんぎゃく)ではなく、自身(じしん)の誇(ほこ)りと忠義(ちゅうぎ)の狭間(はざま)で苦悩(くのう)した末(すえ)のものでありました。


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後周(こうしゅう)の建国(けんこく)と馮道(ふう・どう)の思惑(おもわく)


951年(ねん)、郭威(かく・い)はついに後漢(ごかん)を滅(ほろ)ぼし、新(あら)たな王朝(おうちょう)『後周(こうしゅう)』を建国(けんこく)いたします。後周(こうしゅう)は五代(ごだい)の中(なか)でも最後(さいご)の王朝(おうちょう)として、短(みじか)いながらも歴史(れきし)に強烈(きょうれつ)な印象(いんしょう)を残(のこ)しました。


後周(こうしゅう)の統治(とうち)は、郭威(かく・い)の強(つよ)い意志(いし)と手腕(しゅわん)により、戦乱(せんらん)の世(よ)の収束(しゅうそく)を目指(めざ)すものでした。彼(かれ)は内政改革(ないせいかいかく)に努(つと)め、軍備(ぐんび)の強化(きょうか)と民衆(みんしゅう)の安定(あんてい)に力(ちから)を注(そそ)ぎました。こうして後周(こうしゅう)は、新(あら)たな秩序(ちつじょ)と平和(へいわ)への礎(いしずえ)を築(きず)こうとしたのです。


私(わたくし)、馮道(ふう・どう)もこの時期(じき)に再(ふたた)び仕官(しかん)し、後周(こうしゅう)に仕(つか)えることとなりました。名誉(めいよ)ある職(しょく)に就(つ)き、郭威(かく・い)の努力(どりょく)と国(くに)の盛衰(せいすい)を肌(はだ)で感(かん)じながら、歴史(れきし)の流(なが)れの一端(いったん)を担(にな)うことができたのは幸(しあわ)いでございます。


郭威(かく・い)はただの武人(ぶじん)ではなく、乱世(らんせ)にあっても揺(ゆ)るぎない信念(しんねん)と誇(ほこ)りを持ち続(つづ)けた人物(じんぶつ)でありました。そして後周(こうしゅう)は、短命(たんめい)ながらも五代(ごだい)の混乱(こんらん)を終(お)わらせ、新(あら)たな時代(じだい)への橋渡(はしわた)しを果(は)たした王朝(おうちょう)であったと、拙者(せっしゃ)は深(ふか)く思(おも)うのです。




〇馮道の独白 ~後周建国と周辺諸国の詳しい情勢~


馮道(ふう・どう)が語(かた)る後周(こうしゅう)建国(けんこく)当時(とうじ)の中国情勢(ちゅうごくじょうせい)


わたくしは馮道(ふう・どう)と申(もう)します。歴史(れきし)の波乱(はらん)に揉(も)まれた五代十国時代(ごだいじゅっこくじだい)、その中心(ちゅうしん)の一(ひと)つ、後周(こうしゅう)という王朝(おうちょう)の誕生(たんじょう)と盛衰(せいすい)を身(み)をもって見届(みとど)けて参(まい)りました。今日(きょう)はその後周(こうしゅう)の初代(しょだい)皇帝(こうてい)、郭威(かく・い)という男(おとこ)について、そして後周(こうしゅう)という国(くに)がいかなるものであったのかを、拙者(せっしゃ)の所感(しょかん)とともに語(かた)らせていただきます。


郭威(かく・い)はもとは後漢(ごかん)の有力(ゆうりょく)な将軍(しょうぐん)であり、戦乱(せんらん)の中(なか)でその名(な)を高(たか)めていった人物(じんぶつ)でございます。後漢(ごかん)は五代(ごだい)の中(なか)でも比較(ひかく)的(てき)まとまった王朝(おうちょう)でしたが、その成立(せいりつ)に際(さい)して郭威(かく・い)の功績(こうせき)は筆舌(ひつぜつ)に尽(つ)くし難(がた)いものでした。**劉知遠(りゅう・ちえん)**という、当時(とうじ)の皇帝(こうてい)から厚(あつ)く信頼(しんらい)を寄(よ)せられていたのも頷(うなず)けます。


郭威(かく・い)の生(い)い立(た)ちを簡単(かんたん)に申(もう)せば、質実剛健(しつじつごうけん)な性格(せいかく)で知(し)られ、その誠実(せいじつ)さは戦乱(せんらん)の世(よ)にあっても稀有(けう)なものでした。軍略(ぐんりゃく)に長(た)けただけではなく、兵(へい)を率(ひき)いる指導者(しどうしゃ)としてのカリスマ性(せい)も兼(か)ね備(そな)えています。忠誠心(ちゅうせいしん)もまた人一倍(ひといちばい)強(つよ)く、劉知遠(りゅう・ちえん)に仕(つか)えるにあたっては、命(いのち)を賭(と)して彼(かれ)を守(まも)り抜(ぬ)きました。


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幼帝(ようてい)の猜疑(さいぎ)と郭威(かく・い)の悲劇(ひげき)


しかし、その忠誠心(ちゅうせいしん)ゆえに、のちに悲劇(ひげき)も生(う)まれます。乾祐(けんゆう)元年(がんねん)(948年)、劉知遠(りゅう・ちえん)が急逝(きゅうせい)し、その遺言(ゆいごん)によりわずか十四歳(じゅうよんさい)(数(かぞ)え年(どし))で皇帝(こうてい)となった劉承祐(りゅう・しょうゆう)が即位(そくい)しました。若(わか)き皇帝(こうてい)は経験(けいけん)に乏(とぼ)しく、政治(せいじ)は重臣(じゅうしん)たちの手(て)に委(ゆだ)ねられておりましたが、その中(なか)で郭威(かく・い)の存在感(そんざいかん)は次第(しだい)に増(ま)していきました。


ここに問題(もんだい)が生(しょう)じます。若(わか)き劉承祐(りゅう・しょうゆう)は、自分(じぶん)の権威(けんい)が重臣(じゅうしん)たち、とりわけ郭威(かく・い)に脅(おびやか)されているのを感じ取(かんじと)りました。無論(むろん)、彼(かれ)にはまだ政治(せいじ)の全(すべて)を把握(はあく)する力(ちから)も経験(けいけん)もありません。しかし、若(わか)さゆえの焦燥(しょうそう)や不安(ふあん)が心(こころ)の中(なか)で渦巻(うずま)いていたのでしょう。


しかも、宮廷内(きゅうていない)には、劉承祐(りゅう・しょうゆう)に取り入(い)ろうとする奸臣(かんしん)たちが暗躍(あんやく)していました。彼(かれ)らは郭威(かく・い)の名声(めいせい)を貶(おとし)めるために、嘘(うそ)の噂(うわさ)や中傷(ちゅうしょう)を皇帝(こうてい)に吹(ふ)き込(こ)み、若(わか)き帝(みかど)の猜疑心(さいぎしん)を煽(あお)ったのです。やがて皇帝(こうてい)は、これら讒言(ざんげん)を信(しん)じ、郭威(かく・い)をはじめとする功臣(こうしん)たちを疑(うたが)い、次第(しだい)に彼(かれ)らを遠(とお)ざけていきます。


そして乾祐(けんゆう)二年(ねん)(949年)、劉承祐(りゅう・しょうゆう)は郭威(かく・い)と対立関係(たいりつかんけい)にある枢密使(すうみつし)の楊顒(よう・ぎょう)と史弘肇(し・こうちょう)を処刑(しょけい)しました。これに続(つづ)き、郭威(かく・い)の家族(かぞく)までもが皇帝(こうてい)の命(めい)により皆殺(みなごろ)しにされたのです。郭威(かく・い)にとって、それは耐(た)え難(がた)い裏切(うらぎ)りであり、最大(さいだい)の屈辱(くつじょく)でありました。


郭威(かく・い)は激怒(げきど)しました。忠誠(ちゅうせい)を尽(つ)くしてきたはずの皇帝(こうてい)から、その大切(たいせつ)な家族(かぞく)を奪(うば)われたのです。これはただの政治的(せいじてき)粛清(しゅくせい)ではなく、郭威(かく・い)の心(こころ)を根底(こんてい)から砕(くだ)く悲劇(ひげき)でありました。


もはや我慢(がまん)の限界(げんかい)を超(こ)えた郭威(かく・い)は、やむなく兵(へい)を挙(あ)げて反乱(はんらん)を起(おこ)します。彼(かれ)の決断(けつだん)は、単(たん)なる反逆(はんぎゃく)ではなく、自身(じしん)の誇(ほこ)りと忠義(ちゅうぎ)の狭間(はざま)で苦悩(くのう)した末(すえ)のものでありました。


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後漢(ごかん)の終焉(しゅうえん)と後周(こうしゅう)の建国(けんこく)


951年(ねん)、郭威(かく・い)はついに後漢(ごかん)を滅(ほろ)ぼし、新(あら)たな王朝(おうちょう)『後周(こうしゅう)』を建国(けんこく)いたします。後周(こうしゅう)は五代(ごだい)の中(なか)でも最後(さいご)の王朝(おうちょう)として、短(みじか)いながらも歴史(れきし)に強烈(きょうれつ)な印象(いんしょう)を残(のこ)しました。


後周(こうしゅう)の統治(とうち)は、郭威(かく・い)の強(つよ)い意志(いし)と手腕(しゅわん)により、戦乱(せんらん)の世(よ)の収束(しゅうそく)を目指(めざ)すものでした。彼(かれ)は内政改革(ないせいかいかく)に努(つと)め、軍備(ぐんび)の強化(きょうか)と民衆(みんしゅう)の安定(あんてい)に力(ちから)を注(そそ)ぎました。こうして後周(こうしゅう)は、新(あら)たな秩序(ちつじょ)と平和(へいわ)への礎(いしずえ)を築(きず)こうとしたのです。


私(わたくし)、馮道(ふう・どう)もこの時期(じき)に再(ふたた)び仕官(しかん)し、後周(こうしゅう)に仕(つか)えることとなりました。名誉(めいよ)ある職(しょく)に就(つ)き、郭威(かく・い)の努力(どりょく)と国(くに)の盛衰(せいすい)を肌(はだ)で感(かん)じながら、歴史(れきし)の流(なが)れの一端(いったん)を担(にな)うことができたのは幸(しあわ)いでございます。


郭威(かく・い)はただの武人(ぶじん)ではなく、乱世(らんせ)にあっても揺(ゆ)るぎない信念(しんねん)と誇(ほこ)りを持ち続(つづ)けた人物(じんぶつ)でありました。そして後周(こうしゅう)は、短命(たんめい)ながらも五代(ごだい)の混乱(こんらん)を終(お)わらせ、新(あら)たな時代(じだい)への橋渡(はしわた)しを果(は)たした王朝(おうちょう)であったと、拙者(せっしゃ)は深(ふか)く思(おも)うのです。

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