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変節の宰相:馮道:7章:耶律徳光時代②

〇馮道独白 ~遼の動乱と耶律徳光の道~


馮道ふう・どうかたりょう皇族こうぞくたち


わたくし馮道ふうどうもうします。ときの流れ(ながれ)はうつろい、くにわる。しかし、そのなかひとりなす物語ものがたりけっして色褪いろあせることがない。わたくし長年ながねん中国ちゅうごく政界せいかいき、おおくの激動げきどうあたりにしてきた。そのなかでも、とりわけわすれがたいのが、りょう出会であった人物じんぶつたちの姿すがたである。


りょうとは、契丹きったんという遊牧ゆうぼく民族みんぞくてた国家こっかであり、北方ほっぽう草原そうげんから中国ちゅうごく北部ほくぶにかけてひろがる広大こうだい領土りょうどおさめていた。かれらは漢民族かんみんぞく文化ぶんか制度せいど積極的せっきょくてきれつつ、独自どくじ伝統でんとうまもりながらくにささえていた。だが、そのなかけっして平穏へいおんではなかった。権力けんりょくあらそいと内紛ないふんえず、王族おうぞく同士どうしあらそいがくにるがせていた。


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耶律突欲やりつとつよく淳欽述律皇后じゅんきんじゅつりつこうごう


まずかたらねばならぬは、耶律突欲やりつとつよくというおとこである。突欲とつよくりょう皇族こうぞく一人ひとりで、たぐいまれなる野心家やしんかだった。かれは荒々(あらあら)しく、とき冷徹れいてつ政治せいじうごかした。契丹きったん伝統的でんとうてき騎馬きば民族みんぞく戦士せんしとしての勇猛ゆうもうさをちながらも、そのこころなかには権力けんりょくへのくなき欲望よくぼう渦巻うずまいていた。かれ一声ひとこえはっすれば、臣下しんかたちはふるがり、その意向いこうさからうもの容赦ようしゃなく排除はいじょされた。


しかし、その突欲とつよくささえ、かれ影響えいきょうおよぼしていたのが、かれははである淳欽述律皇后じゅんきんじゅつりつこうごう通称つうしょう月里朶ユリドゥであった。この月里朶ユリドゥ皇后こうごうはただの女性じょせいではない。契丹きったん歴史れきしにおいても稀有けう女傑じょけつとしてのこ人物じんぶつであった。彼女かのじょ聡明そうめい胆力たんりょくみ、くる政争せいそうなか家族かぞくくにまもるため、冷静れいせいかつ強靭きょうじん意志いしかじった。権力けんりょく渦中かちゅうでたくましくきる姿すがたは、おおくのもの畏敬いけいねんいだかせた。


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耶律徳光やりつとくこう兄弟きょうだい確執かくしつ


一方いっぽう、そのような強硬きょうこう突欲とつよく対抗たいこうする存在そんざいとしてあらわれたのが、耶律徳光やりつとくこうであった。徳光とくこうわか皇族こうぞくでありながら、おだやかでありつつもしんつよ人物じんぶつだった。かれ暴力ぼうりょくによる支配しはいではなく、慈悲じひ公正こうせいによってくにおさめることを理想りそうとしていた。徳光とくこう即位そくいには、おおくの困難こんなんともなった。あに突欲とつよくとのあいだおこったはげしい権力けんりょくあらそい、陰謀いんぼう裏切うらぎりが交錯こうさくし、おおくのものがそのあいだまれた。


わたくし馮道ふうどうはその混乱こんらんなかかれらのうごきを注意深ちゅういぶか見守みまもっていた。突欲とつよく暴力的ぼうりょくてき手法しゅほうによりくにらぎ、たみくるしんだ。しかし徳光とくこうちがった。かれあらそいのなかで、暴力ぼうりょくはしあにいさめ、もっとひろ視野しや国家こっか未来みらい見据みすえていた。月里朶ユリドゥ皇后こうごうもまた、そのあいだち、息子むすこたちの板挟いたばさみとなりながらも、くに安寧あんねいねが賢明けんめい行動こうどうした。


兄弟きょうだい確執かくしつ深刻しんこくであった。はつながっていても、かれらの信念しんねんおおきくことなった。突欲とつよくちからろうとすれば、徳光とくこうは人々(ひとびと)のこころつかむことでこたえた。わたくしはその狭間はざまで、調停役ちょうていやくとしてつとめることを余儀よぎなくされたが、それはけっして容易たやすいことではなかった。


しかしわたくししんじている。いかなる乱世らんせでも、指導者しどうしゃ慈悲じひ智慧ちえこそがくにすくうのだと。徳光とくこう殿どの目指めざした理想りそうこそが、りょう未来みらいひかりをもたらすものであると。


これが、わたくし馮道ふうどうた、耶律突欲やりつとつよく淳欽述律皇后じゅんきんじゅつりつこうごう月里朶ユリドゥ、そして耶律徳光やりつとくこう物語ものがたりである。みだれた時代じだいなかで、かれらの運命うんめい交錯こうさくし、国家こっかすえまっていったのである。




〇遼の野望と中原の波紋 — 耶律徳光と月里朶の挑戦


りょう中原ちゅうげん支配しはい耶律徳光やりつとくこう月里朶ユリドゥ挑戦ちょうせん


10世紀せいき半ば(なかば)の中国ちゅうごく大地だいちは、まさに激動げきどうっただなかにありました。五代十国ごだいじゅっこく混乱こんらんて、華北かほく中心地ちゅうしんち開封かいほうおさめる後晋こうしんは、表面上ひょうめんじょう統治とうち一方いっぽうで、内部ないぶ腐敗ふはいあらそいにれていました。くに中枢ちゅうすうはもはや実権じっけんうしない、後晋こうしん支配しはい基盤きばん風前ふうぜん灯火ともしびでした。


そんな状況じょうきょうするど見極みきわめていたのが、北方ほっぽう契丹きったん民族みんぞくひきいるりょうわか君主くんしゅ耶律徳光やりつとくこうでした。かれ幼少ようしょうよりいくさ政治せいじさいみとめられ、ちち遺志いしぎ、契丹きったん強国きょうこくすすめてきました。しかし、かれ目指めざすところはたんなる北方ほっぽう遊牧ゆうぼく国家こっか繁栄はんえいにとどまりませんでした。かれむねいだいていたのは、中原ちゅうげん中国ちゅうごく全土ぜんど掌握しょうあくし、りょう天下てんか中心ちゅうしんえるという壮大そうだい野望やぼうでした。


こうして耶律徳光やりつとくこうは、後晋ごしん内政ないせい混乱こんらん好機こうきて、ぐんひきいて中原ちゅうげんへの侵攻しんこう開始かいししました。後晋ごしん弱体じゃくたい軍事力ぐんじりょくりょう強襲きょうしゅうあらがえず、つい開封かいほう遼軍りょうぐんちます。後晋ごしん歴史れきし舞台ぶたいからり、契丹きったん中原ちゅうげん支配者しはいしゃとして君臨くんりんすることとなりました。


しかし、この「異民族いみんぞくによる中原ちゅうげん支配しはい」というあらたな現実げんじつは、当時とうじ漢民族かんみんぞくにとってがた屈辱くつじょくであり、不満ふまん反発はんぱつたねしました。街角まちかど市場いちばでは遼軍りょうぐん圧政あっせいなげき、ひそかに反遼はんりょうこえたかまりはじめたのです。民衆みんしゅうあいだには不安ふあんいかりが渦巻うずまき、それはやがてりょう統治とうちるがす波紋はもんとなっていきました。


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月里朶ユリドゥ懸念けねん賢明けんめい助言じょげん


りょう国内こくないにも、こうした状況じょうきょう危惧きぐするこえがありました。その中心ちゅうしんにいたのが、耶律徳光やりつとくこうははでありりょう政治せいじ絶大ぜつだい影響力えいきょうりょく女傑じょけつ月里朶ユリドゥです。月里朶ユリドゥ契丹きったん伝統でんとう遊牧ゆうぼく文化ぶんか背負せおいつつも、漢文化かんぶんかにもふか理解りかい才女さいじょでした。彼女かのじょおっと大望たいぼうささえながらも、中原ちゅうげん統治とうちには慎重しんちょうでした。


月里朶ユリドゥ宮廷内きゅうていないおおくの老臣ろうしん武将ぶしょうたちとみつ連絡れんらくり、現地げんち漢民族かんみんぞくたちの感情かんじょうこまやかにさぐりました。彼女かのじょは、「漢人かんじんたちはただのてきではなく、この広大こうだい土地とちぬしたるたみである。かれらのこころることなく、しん平和へいわ繁栄はんえいもありえない」とふかさとっていました。だからこそ、りょう強硬きょうこう軍事ぐんじ支配しはいたいして一抹いちまつ懸念けねんいだき、耶律徳光やりつとくこうに「暴力ぼうりょくだけではなく、慈悲じひ公正こうせいをもってくにおさめるべきだ」とかえ諫言かんげんしたのです。


しかし、権力けんりょくにある耶律徳光やりつとくこうは、とき強硬きょうこう決断けつだんせまられました。たみ反感はんかんたかまるなかでの統治とうち簡単かんたんなものではありませんでした。武力ぶりょくによる迅速じんそく支配しはい志向しこうするかれと、内政ないせい安定あんてい民心みんしん掌握しょうあくねが月里朶ユリドゥとのあいだには、とき緊張きんちょうはしりました。しかし、その対話たいわ協調きょうちょうがあったからこそ、りょうは徐々(じょじょ)に中原ちゅうげんたみともいをつけながら統治とうちかたち模索もさくしていったのです。


この時代じだい耶律徳光やりつとくこう月里朶ユリドゥ直面ちょくめんしたのは、たんなる軍事ぐんじてき征服せいふくではありません。文化ぶんか民族みんぞく交錯こうさく、そして政治せいじてき思惑おもわく複雑ふくざつからう、しん意味いみでの天下統一てんかとういつ試練しれんでした。北方ほっぽう民族みんぞくおうとして、かれらは未曾有みぞう挑戦ちょうせんかいながら、あらたな時代じだい幕開まくあけをひらこうとしていたのです。




〇《秋風、関を越えて──耶律徳光の帰還と馮道の選択》


耶律徳光やりつ・とくこう馮道ふう・どう決意けつい


そのとしあき中原ちゅうげん大地だいちには、ひときわはや冷気れいきながれていました。


耶律徳光やりつ・とくこう馬上ばじょうでじっと前方ぜんぽう見据みすえていました。かれかおには、ここすうかげつなやみと疲労ひろうかげ色濃いろこきざまれていました。契丹きったん――のちのりょうおこしたこのわか大君たいくんは、勇猛ゆうもう果断かだんをもってられ、かの後晋こうしんほろぼし、中原ちゅうげんせいしたおとこでした。


しかし、天下てんかにしても、たみこころまではつかめませんでした。


漢民族かんみんぞく民衆みんしゅうは、草原そうげんから征服者せいふくしゃしたがうことをしとせず、都市としでは言葉ことばをひそめて不満ふまんき、農村のうそんでは年貢ねんぐしぶものえました。仏寺ぶつじではそうたちがひそかに祈祷きとうし、科挙かきょ学徒がくとたちはふでててる。王朝おうちょう交替こうたいはげしい中原ちゅうげんではありましたが、異民族いみんぞくおうによる支配しはいは、あまりに異質いしつで、れがたいものでありました。


耶律徳光やりつ・とくこうは、すべてをっていました。いかにぐんをもってせいしても、民心みんしんうしなえば、やがてまつりごと瓦解がかいする。「ならば――かえろう」。そうこころさだめたのは、初冬しょとうかぜきたからはじめたころでした。


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月里朶ユリドゥ馮道ふう・どう帰路きろ


契丹きったん本国ほんごくでは、かれ帰還きかんをひたすらにのぞものがいました。はは月里朶ユリドゥ――契丹きったん王族おうぞくき、述律皇后じゅつりつこうごうしょうされたこの女傑じょけつは、わか徳光とくこうをそのそだて、帝位ていいへとみちびいた立役者りつやくしゃです。徳光とくこう中原ちゅうげんおもむいているあいだも、彼女かのじょりょう政務せいむたくみに仕切しきり、異民族いみんぞく部族ぶぞくたちをたばね、広大こうだい草原そうげん秩序ちつじょたもっていました。


ははきたへ――徳光とくこうには、決意けついほのおしずかに宿やどっていました。


そして、もう一人ひとり――かれ同行どうこうもとめられた漢人かんじんがいました。馮道ふう・どう五代ごだい王朝おうちょういた稀代きたい官僚かんりょうであり、乱世らんせをしなやかにわた智者ちしゃでした。おおくのもの変節漢へんせつかんあざけりましたが、馮道ふう・どうには確固かっこたる信念しんねんがありました。「まつりごとすには、たみ安寧あんねいこそ第一だいいち」――。


耶律徳光やりつ・とくこうは、このやわらかくもしんとおったおとこに、ふか信頼しんらいせていました。「馮道ふうどうよ、われとともに、きたもどろう」。その言葉ことばに、馮道ふうどうせ、おだやかにこたえました。


中原ちゅうげんっても、契丹きったんっても、まことくすことにわりはございません。殿とののぞまれるのであれば、わたくしはどこまでもおともいたします」


それは、たんなる忠誠ちゅうせいではありませんでした。馮道ふう・どうは、契丹きったんかんのあわいにち、融和ゆうわはしけようとする覚悟かくごいだいていたのです。


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耶律徳光やりつ・とくこうとその


一行いっこうきたけて旅立たびだちました。ふゆかぜほおし、地平ちへいてに雪雲ゆきぐもかびはじめていました。


しかし――その帰路きろ途中とちゅう悲劇ひげきこりました。


河北かほく栾城らんじょういたったころ徳光とくこう身体しんたい異変いへんしょうじました。寒気さむけせきまらず、ごとに衰弱すいじゃくしていく。軍医ぐんいは、道中どうちゅう疲労ひろう中原ちゅうげん湿気しっけが、北方ほっぽうおうわなかったのだとしずかにげました。


数日後すうじつご耶律徳光やりつ・とくこうは、まわりのものせることもなく、しずかにいきりました。わずか三十九歳さんじゅうきゅうさいでした。


そのほう契丹きったん本国ほんごくとどいたとき、月里朶ユリドゥは、沈黙ちんもくなかそらあおたといいます。けっしてなみだせず、ただながく、ながく、きたかぜつめていました。彼女かのじょにとって、息子むすこ一人ひとりおうであるまえに、草原そうげんそらしたそだてた我がわがこであったのです。


徳光とくこう遺骸いがい本国ほんごくへとはこばれ、契丹きったん王家おうけ墓陵ぼりょうほうむられました。その葬儀そうぎのさなか、月里朶ユリドゥ一言ひとことだけ、馮道ふうどうかたりました。


「我がわがこ意志いしぎ、なんじもまた、みだれたはしけよ」――


その馮道ふうどう中原ちゅうげんにとどまり、あらたな王朝おうちょうと、ふたたうこととなります。


かぜはまたはじめていました。たみいとなみも、まつりごとも、ときの流れ(ながれ)にまれながらつづいていくのです。乱世らんせきたものたちの、もなき選択せんたくうえに。

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