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変節の宰相:馮道:4章:李従珂時代①

〇馮道の独白 ~李従厚と李従珂の確執と後唐末期の争乱(933年~936年)~


後唐こうとう皇位こういをめぐるあらそ


後唐こうとう――五代十国ごだいじゅっこく混乱こんらんなかわたくし馮道ふう・どう文官ぶんかんとして政務せいむたずさわりながら、くに未来みらい見守みまもっていた。


とくに、九三三年きゅうひゃくさんじゅうさんねんから九三六年きゅうひゃくさんじゅうろくねんあいだは、李従厚り・じゅうこう李従珂り・じゅうかという二人ふたり皇族こうぞくりなす複雑ふくざつあらそいに、わたくしこころつづけた。


ここで、かれらの関係かんけいをはっきりさせておきたい。


李従厚り・じゅうこう――かれ後唐こうとう第三代皇帝だいさんだいこうていであり、正真正銘しょうしんしょうめい皇帝こうてい李嗣源り・しげん実子じっしである。血筋ちすじ正統せいとうものとして、その存在そんざい当然とうぜんながらおおきなおもみをっていた。


一方いっぽう李従珂り・じゅうか――かれ李嗣源り・しげん養子ようしである。のつながりはないが、養子ようしとしてむかれられたかれは、政治的せいじてき強力きょうりょく支持しじけ、皇位こういねら立場たちばとなっていた。


この「実子じっし」と「養子ようし」というちがいが、兄弟きょうだいでありながらけっしてまらぬみぞしたのである。


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権力けんりょくをめぐる対立たいりつ


李従厚り・じゅうこうは、ちち遺志いし軍事力ぐんじりょくすぐれた指導者しどうしゃとして皇位こういいたものの、宮廷きゅうていはすでに複雑ふくざつ派閥争はばつあらそいにつつまれていた。


李従珂り・じゅうか養子ようしながら強大きょうだいな後ろうしろだてて、皇位こういへの野心やしんかくさず、李従厚り・じゅうこう対抗たいこうして勢力せいりょく拡大かくだいかれらのあらそいはつながりをえた権力争けんりょくあらそいへと発展はってんしていった。


わたくし文官ぶんかんとして、政務せいむ尽力じんりょくしながらも、両者りょうしゃ対立たいりつくにむしばさまあたりにした。


実子じっしである李従厚り・じゅうこうこそ正統せいとう皇帝こうてい」としんじるものと、「養子ようし李従珂り・じゅうかにもちからがある」となす勢力せいりょくはげしくせめぎい、長安ちょうあん緊張きんちょう渦中かちゅうにあった。


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皇位こうい交代こうたい歴史れきし教訓きょうくん


そして九三六年きゅうひゃくさんじゅうろくねん養子ようし李従珂り・じゅうか勢力せいりょく優勢ゆうせいとなり、実子じっしである李従厚り・じゅうこう皇位こうい退しりぞくことを余儀よぎなくされた。


この決断けつだんたんなる家族かぞく問題もんだいではなく、後唐こうとう命運めいうん左右さゆうするおおきな転機てんきとなった。


実子じっしである李従厚り・じゅうこう養子ようし李従珂り・じゅうか――この二人ふたり対立たいりつは、後唐こうとうという王朝おうちょう苦悩くのう混迷こんめい象徴しょうちょうしている。


わたくしいまおもう。もしのつながりのちがいをえ、ともくにおも結束けっそくできていたならば、後唐こうとう歴史れきしもまたちがったものになったかもしれない、と。


しかし、時代じだいきびしく、かれらのあらそいはくにるがす激動げきどう一幕ひとまくとして歴史れきしきざまれたのだった。




〇馮道の独白 ~李従珂り じゅうかという人物と新たな政権の幕開け(936年頃)~


後唐こうとう皇帝こうてい李従珂り・じゅうか


五代十国ごだいじゅっこくという動乱どうらん時代じだいにあって、わたくし馮道ふう・どうは、後唐こうとう文官ぶんかんとして激動げきどう政務せいむになっていました。


九三六年きゅうひゃくさんじゅうろくねん後唐こうとうみやこ長安ちょうあんにはあらたな皇帝こうてい君臨くんりんしました。


その李従珂り・じゅうかかれ後唐こうとう第三代皇帝だいさんだいこうてい明宗めいそう李嗣源り・しげん実子じっしではなく、養子ようしでした。


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わか皇帝こうていちと政権せいけん


李従珂り・じゅうかわかくして皇位こういきましたが、そのちや性格せいかくは、政権せいけん不安定ふあんていさを象徴しょうちょうするかのようでした。


幼少期ようしょうきから政治せいじ表舞台おもてぶたいつことはなく、おも養父ようふ李嗣源り・しげん側近そっきん軍部ぐんぶちから背景はいけいそだちました。


かれ本来ほんらい皇位継承こういけいしょう正統せいとう血筋ちすじものではありませんでした。にもかかわらず、強固きょうこ軍事力ぐんじりょく背景はいけいに、当時とうじ実力者じつりょくしゃたちの支持しじ皇帝こうていとなります。


このことは後唐こうとう皇室内部こうしつないぶおおきな亀裂きれつみ、皇族こうぞく有力者ゆうりょくしゃたちのあいだ不満ふまん対立たいりつこす原因げんいんとなりました。


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政務せいむ安定あんてい課題かだい


李従珂り・じゅうか性格せいかく慎重しんちょう計算高けいさんだかく、しかしまだわかさゆえに政治的せいじてき経験けいけんとぼしかったのです。


そのため、かれみずからの権力基盤けんりょくきばんかためるべく、文官ぶんかんである私たち馮道ふう・どうのような人物じんぶつおおくをゆだね、政務せいむ安定化あんていかはかろうとしました。


同時どうじに、軍部ぐんぶ地方ちほう節度使せつどしたちと良好りょうこう関係かんけいきずき、内外ないがい不満勢力ふまんせいりょくおさもうとつとめたのです。


わたくし馮道ふう・どう李従珂り・じゅうか政権せいけん重用ちょうようされ、とく中央集権ちゅうおうしゅうけん強化きょうか官僚機構かんりょうきこう整備せいびに取りみました。


混乱こんらんつづ後唐こうとうにあって、官吏かんり任用制度にんようせいどみだれ、人心じんしんはなれていました。そこでわたくしは、公正こうせい人材登用じんざいとうよう厳正げんせい評価制度ひょうかせいど提案ていあんし、政務せいむ効率化こうりつか信頼回復しんらいかいふくつとめました。


しかし、李従珂り・じゅうかかかえた最大さいだい課題かだいは、かれ皇帝こうていとなることに不満ふまんいだ勢力せいりょく存在そんざいでした。


とく李従厚り・じゅうこう――明宗めいそう実子じっしであり正統せいとう皇位継承者こういけいしょうしゃ――と李従珂り・じゅうかとのあいだには根深ねぶか対立たいりつがありました。


この対立たいりつ後唐こうとう政権内部せいけんないぶ抗争こうそう激化げきかさせ、李従珂り・じゅうか政権せいけんつね緊張きんちょう不安定ふあんていさをはらんでいました。


私たちは政治せいじ軍事ぐんじ両輪りょうりんまわしながら、かろうじて政権せいけん安定あんてい模索もさくしました。


私は書斎しょさい夜毎よごとにこうつぶやきました。


わか皇帝こうてい未来みらいは、この乱世らんせなかでどれほどのひかりはなつのか。」


それでも、李従珂り・じゅうか文官ぶんかん助言じょげんつつも、激動げきどう時代じだいを生きこうと必死ひっしでした。


このように、李従珂り・じゅうか後唐こうとう末期まっきにおける複雑ふくざつ政治状況せいじじょうきょうなかで、あらたな皇帝こうていとしての責務せきむ背負せおいながら、わかくして苦闘くとうした人物じんぶつです。


そしてわたくし馮道ふう・どうもまた、そのかれもと政治せいじ奔走ほんそうつづけたのでした。


李従珂り・じゅうか治世ちせいは、後唐こうとう運命うんめいにどのような影響えいきょうあたえたのでしょうか?




〇馮道の独白 ~迫りくる石敬瑭せき けいとうの影~


石敬瑭せき・けいとう蜂起ほうき馮道ふう・どう苦渋くじゅう


――わたくし馮道ふう・どう後唐こうとうまつりごとあずかる老臣ろうしんにございます。


この老骨ろうこつもまた、動乱どうらんまれ、こころおく幾度いくどとなくふるえをおぼえてまいりましたが……こと石敬瑭せき・けいとう殿どのとの対峙たいじは、殊更ことさらこころこおらせるものでございました。


とき九三六年きゅうひゃくさんじゅうろくねん後唐こうとう末期まっきみやこ洛陽らくようには不穏ふおん空気くうきちておりました。


石敬瑭せき・けいとう――あのおとこみみにせぬはなくなっていたのです。


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石敬瑭せき・けいとう人物像じんぶつぞう


石敬瑭せき・けいとうというおとこは、元来がんらい節度使せつどし一人ひとりでありました。晋王しんおうほうじられたことから「石晋せき・しん」とばれることもありますが、けっしてただの地方軍閥ちほうぐんばつではございません。


かれは、かの明宗めいそう李嗣源り・しげん皇帝こうてい娘婿むすめむこであり、まつりごといくさ双方そうほうにおいておもきをかれる存在そんざいでございました。


表面上ひょうめんじょう忠臣ちゅうしんよそおいつつ、うちには猛火もうかはらんでいた――それが石敬瑭せき・けいとうという人物じんぶつです。


その眼光がんこうひややかにしてふかく、凡庸ぼんよう武将ぶしょうのような粗暴そぼうさはなく、むしろ寡黙かもく沈着ちんちゃく。けれどもそのむねには、あきらかにひとつの意志いしえておりました。


「このくにのかたちを、えるのは自分じぶんだ」と――。


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契丹きったんとの結託けったく馮道ふう・どう決断けつだん


九三六年きゅうひゃくさんじゅうろくねんのある夜更よふけ、わたくしつくえうえふでめ、しずかにいきをつきました。


報告ほうこくはいりました。石敬瑭せき・けいとうが、反旗はんきひるがえしたのです。


しかも、その背後はいごには――契丹きったん姿すがたがありました。


くに北方ほっぽうにあって、ながらくえびすとしてあなどられていたその異民族いみんぞくが、ついに中原ちゅうげん政争せいそう介入かいにゅうしてきたのです。


石敬瑭せき・けいとうは、かれらに「燕雲十六州えんうんじゅうろくしゅう」を割譲かつじょうするという条件じょうけん援軍えんぐんいました。


まさに国土こくどって帝位ていいようという奸計かんけい――しかし、そのさくが、おどろくほど機能きのうしていたのです。


わたくしかんがえました。いや、幾度いくども、ねむれぬかんがきました。


「このままでは、みやこたぬ」と。


李従珂り・じゅうか皇帝陛下こうていへいか御治世ごちせいも、その御心みこころのままにはまいりませぬ。いくさたみも、みな石軍せきぐん進軍しんぐんおそれおののいております。


民心みんしんはすでに、京畿けいきそとにまではなれていたのです。


わたくしすべきは何か。


正義せいぎかかげ、忠節ちゅうせつつらぬくことか――それとも、のこり、まつりごとまもることか。


わたくしは、しずかに石敬瑭せき・けいとうのもとに使者ししゃおくりました。


いや、誤解ごかいなきようもうせば、これは密使みっしではありません。ただ、さき見越みこした、調整ちょうせいという一歩いっぽでございます。


石敬瑭せき・けいとうが、もし天下てんかにぎるのであれば――混乱こんらん最小限さいしょうげんにとどめ、たみまももの必要ひつようとなりましょう。


わたくししんじるのは、つねに「まつりごと」であり、「秩序ちつじょ」であり、民草たみぐさ命運めいうんにございます。


たとえだれ帝座ていざすわろうとも、儒臣じゅしんたるわたくしつとめはわらぬのです。


いまも、夜風よかぜまどたたきます。


わたくしいたこころしずかに、そしてふかいかけます――


はたして、これがただしかったのか」と。


けれど、ときの流れ(ながれ)は残酷ざんこくにしてやさしく、こたえをたずにぎてゆくのです。


――わたくし馮道ふう・どう今日きょうもまた、いのちあるかぎり、まつりごとつかさどるのみ。

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