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変節の宰相:馮道:3章:李従厚時代①

〇「馮道、宰相の座にあって――皇帝の交代、そして動乱の兆し」


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李存勗り・そんきょくから李従厚り・じゅうこうへ:後唐こうとう転換期てんかんき


九世紀末きゅうせいきまつ混沌こんとんとした五代十国時代ごだいじゅっこくじだいっただなかにあって、後唐こうとう激動げきどう渦中かちゅうにありました。そのなかで、馮道ふう・どう枢密副使すうみつふくし宰相さいしょうとして国家こっか政務せいむり、文治政治ぶんちせいじいしずえきずこうとしていました。かれ手腕しゅわん文官ぶんかんなかでもきんており、混乱こんらんする宮廷きゅうていにあってもしずかなかぜ存在そんざいだったのです。


そのころ後唐ごとうひきいていたのは、初代皇帝しょだいこうてい李存勗り・そんきょくかれはかつて後梁こうりょう打倒だとうし、後唐ごとうおこした武人ぶじん皇帝こうていでした。戦乱せんらんなか何度なんどぐんひきい、くに基礎きそかためたその偉業いぎょういまも人々(ひとびと)の記憶きおく鮮烈せんれつきざまれています。


しかし、たたかいのつかれはからだにもこころにもおもくのしかかり、李存勗り・そんきょく健康けんこうは徐々(じょじょ)にむしばまれていきました。戦乱せんらん合間あいま宮廷きゅうてい権力抗争けんりょくこうそう激化げきかし、内外ないがい圧力あつりょくかれかたにのしかかります。そんな時代背景じだいはいけいなか馮道ふう・どう文官ぶんかんとして政務せいむ安定あんてい目指めざし、必死ひっし手綱たづないていたのでした。


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あらたな皇帝こうていへの期待きたい複雑ふくざつ心境しんきょう


ある馮道ふう・どう宮殿きゅうでん書斎しょさい書簡しょかんみながら思案しあんしていました。「ちんからだよわっていく。しかし、このくに未来みらいたくものは、まだわか未熟みじゅくだ。李従厚り・じゅうこう――あのおとここそ、この乱世らんせをまとめるちからがあるかもしれぬ」


李従厚り・じゅうこう後唐こうとう有力ゆうりょく将軍しょうぐんであり、数々(かずかず)の戦場せんじょうでその手腕しゅわんしめしてきました。李存勗り・そんきょくがそのいのちえるころ後唐ごとう重臣じゅうしんたちはあらたな皇帝こうていめぐ動揺どうようしながらも、強力きょうりょく軍人ぐんじんとしての李従厚り・じゅうこうしました。


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李存勗り・そんきょく李従厚り・じゅうこう即位そくい


やがて、九二六年きゅうひゃくにじゅうろくねん李存勗り・そんきょくはこのります。かれ後唐ごとうおおきな衝撃しょうげきあたえましたが、そのかげしずかに皇位継承こういけいしょう準備じゅんびすすんでいました。馮道ふう・どう宰相さいしょうとして、政治せいじ安定あんてい最優先さいゆうせんつとめます。


李従厚り・じゅうこう即位そくいすれば、軍事ぐんじちからくに秩序ちつじょたもち、内乱ないらんめるかもしれぬ。しかし、それは一方いっぽう文官ぶんかんたちの立場たちばきびしくすることにもなる……」馮道ふう・どう内心ないしん複雑ふくざつおもいをいだきながらも、時代じだい変化へんかれねばなりませんでした。


李従厚り・じゅうこう武勇ぶゆうすぐれ、武人出身ぶじんしゅっしん皇帝こうていとして後唐ごとう軍閥ぐんばつたばね、しだいに中央ちゅうおう政治せいじにもつよ影響力えいきょうりょくおよぼすようになります。かれ即位そくいは、後唐ごとう政治構造せいじこうぞうおおきくるがすものでしたが、馮道ふう・どう冷静れいせい政務せいむり、文化振興ぶんかしんこう政治安定せいじあんていのために尽力じんりょくしました。


後唐こうとうはこうして、あらたな時代じだいへとあゆすのです。それは、ぶんのせめぎい、そして次第しだいたかまる権力闘争けんりょくとうそう序章じょしょうでもありました。




〇馮道の独白――新皇帝・李従厚の歩みを振り返る


武人ぶじん生涯しょうがい李従厚り・じゅうこう足跡あしあと


わたくし馮道ふう・どう宰相さいしょうしょくにあったおりあらたに即位そくいした李従厚り・じゅうこう様のことをおもかえすことがあった。


かれちはおおよそ、八六九年はっぴゃくろくじゅうきゅうねんごろさかのぼるとされる。 だが、正確せいかく出生年しゅっしょうねん記録きろく曖昧あいまいで、時代じだい混乱こんらんまれたそのまれは、おおくの歴史家れきしか推測すいそくいきぬ。 それでもかれは、後唐こうとうという激動げきどう五代十国時代ごだいじゅっこくじだいにあって、たしかに力強ちからづよ成長せいちょうしたひとりの武人ぶじんであった。


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乱世らんせでの台頭たいとう


九〇七年きゅうひゃくななねんのことだ。 かの後梁こうりょう成立せいりつし、中国ちゅうごく一層いっそう混迷こんめいふかめていた。 李従厚り・じゅうこう様はまだわか軍人ぐんじんとして、地方ちほうき、へいひきいておった。 分裂ぶんれつつづける群雄割拠ぐんゆうかっきょ時代じだい、その荒波あらなみまれながらも、かれ軍事ぐんじさいは徐々(じょじょ)に注目ちゅうもくあつめていった。


そして、九二三年きゅうひゃくにじゅうさんねん。 このとし李存勗り・そんきょく様が後梁こうりょうたおし、後唐こうとう建国けんこくした。 李従厚り・じゅうこう様はこの建国けんこく大業たいぎょうふかかかわり、その勇猛ゆうもうさと戦略眼せんりゃくがんおおくのたたかいに勝利しょうりおさめた。 このころかれは、ただの地方武将ちほうぶしょうから、後唐こうとう柱石ちゅうせきとしてみとめられつつあった。


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後唐こうとうかなめとして


九二六年きゅうひゃくにじゅうろくねん李存勗り・そんきょく様が戦乱せんらんなか戦死せんしすると、その義弟ぎてい李嗣源り・しげんだい2だい皇帝こうていとして即位そくいする。 この時期じき李従厚り・じゅうこう様は重要じゅうよう軍事官職ぐんじかんしょくまかされ、くに防衛ぼうえいかなめとしてそのうでふるった。 後唐こうとう内情ないじょう複雑ふくざつきわめ、皇帝こうていとともに権力けんりょく均衡きんこうらぎはじめていたが、かれは黙々(もくもく)と任務にんむたしつづけた。


九二七年きゅうひゃくにじゅうななねんから九三〇きゅうひゃくさんじゅうねんにかけては、節度使せつどしとして各地かくち治安維持ちあんいじたり、地方ちほう反乱はんらん派閥抗争はばつこうそう鎮圧ちんあつ奔走ほんそうした。 後唐こうとう国土こくど一触即発いっしょくそくはつ緊張きんちょうつつまれ、その混迷こんめいしずめるためにはかれ軍事指揮力ぐんじしきりょくかせなかったのである。


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あらたな時代じだいへの期待きたい


やがて九三一年きゅうひゃくさんじゅういちねん李従厚り・じゅうこう様は政務せいむからき、軍事ぐんじ専念せんねんするみちえらんだ。 後唐ごとう皇帝こうてい健康けんこうおとろえ、宮廷内きゅうていない権力争けんりょくあらそいは日増ひましにはげしさをすばかり。 混乱こんらんおさめるには、ちからこそが必要ひつようとされていたのだ。


わたくしはそのときかれちからおおいに期待きたいせていた。 激動げきどう時代じだいを生きくため、李従厚り・じゅうこうこそが後唐こうとうささえるあらたなかなめであると、つよ確信かくしんしたものである。


後唐こうとうという時代じだいは、まさにぶんはげしくせめぎ時代じだいであった。 馮道ふう・どうとして、わたくし文治ぶんちみちまもりながらも、李従厚り・じゅうこう様のような武将ぶしょう存在そんざいなしには安定あんていはおぼつかぬことを痛感つうかんしたのだ。




〇馮道の眼に映った後唐末期の激動 ~933年から936年~


李従厚り・じゅうこう治世ちせい馮道ふう・どう奮闘ふんとう


後唐こうとう――それは五代十国ごだいじゅっこく乱世らんせいた、みじかくも波乱はらんちた王朝おうちょうであった。


この時代じだい渦中かちゅうにあって、わたくし馮道ふう・どう文官ぶんかんとして政務せいむ仕切しきり、日々(ひび)奔走ほんそうしていた。あらたに即位そくいした李従厚り・じゅうこうという皇帝こうていもとで、国家こっか安定あんていねがいながら。


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武人皇帝ぶじんこうてい即位そくい


李従厚り・じゅうこう――かれ後唐こうとう第三代皇帝だいさんだいこうていであった。ちちである李嗣源り・しげん死去しきょともない、九三三年きゅうひゃくさんじゅうさんねんにその重責じゅうせきいだ。生粋きっすい軍人ぐんじんであり、かつて節度使せつどし地方軍ちほうぐん長官ちょうかん)として幾多いくた戦場せんじょうけてきたかれは、たしかな軍事ぐんじ手腕しゅわん豊富ほうふ経験けいけんっていた。


かれ即位そくいは、たんなる世襲せしゅう継承けいしょうではなかった。ぐんつよ支持しじけ、武力ぶりょく背景はいけい政権せいけん掌握しょうあくした。だが、そのさきけていたのは、熾烈しれつ宮廷内外きゅうていないがい抗争こうそう混迷こんめいであった。


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宮廷きゅうてい様相ようそう皇帝こうてい言葉ことば


後唐こうとうみやこ長安ちょうあん戦火せんか爪痕つめあと色濃いろこのこし、城壁じょうへき隙間すきまからも荒涼こうりょうとしたかぜけていた。かつての栄華えいがかげひそめ、群雄割拠ぐんゆうかっきょ時代じだいきびしさを痛感つうかんさせる。朝廷ちょうてい表面上ひょうめんじょう荘厳そうごん儀礼ぎれいかえしているが、その内実ないじつ派閥抗争はばつこうそう渦中かちゅうであった。


皇族こうぞく高官こうかんあいだには疑心暗鬼ぎしんあんき蔓延まんえんし、だれ味方みかただれてきなのか判然はんぜんとしない状態じょうたいであった。臣下しんか同士どうしあらそいは熾烈しれつきわめ、ひそかに策謀さくぼうめぐらすもの跋扈ばっこしていた。


そんな状況じょうきょうなか李従厚り・じゅうこうわたくしせ、真剣しんけん眼差まなざしでこうった。


馮道ふう・どうよ、どうか陛下へいかのためにちからしてほしい。いまこそ文官ぶんかんちから必要ひつようなのだ」


かれには、不安ふあん決意けついが入りじっていた。つよ軍人ぐんじんでありながら、皇帝こうていとしての責任せきにんおもさにれる人間的にんげんてき一面いちめん垣間見かいまみた。


わたくしまよわずおうじた。


陛下へいかのため、そしてこのくにのために、わたくし尽力じんりょくいたします」


こうしてわたくしたちは政権せいけん安定あんてい目指めざし、軍事ぐんじ文治ぶんち調和ちょうわはかろうとつとめた。ぐんちから背景はいけいにする李従厚り・じゅうこうと、政治せいじ舵取かじとりをになわたくしたち文官ぶんかん――その両輪りょうりん機能きのうしなければ、くにたぬと痛感つうかんしていた。


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きびしい現実げんじつ皇帝こうてい覚悟かくご


しかし、現実げんじつきびしかった。


後唐こうとう各地かくちでは反乱はんらん火種ひだねえず、地方ちほう節度使せつどしたちは独自どくじ勢力せいりょく拡大かくだいしようと画策かくさくした。かれらは中央政府ちゅうおうせいふ命令めいれいうたがい、ときには武力ぶりょく抵抗ていこうした。中央ちゅうおう地方ちほうみぞふかまり、政権せいけん基盤きばんらぎはじめていた。


朝廷ちょうてい重臣じゅうしんたちもまた、みずからの派閥はばつ拡大かかだいせんときをかえす。内輪うちわもめはくに存続そんぞくあやうくし、皇帝こうてい権威けんいは徐々(じょじょ)にうすれていった。


わたくしよなよな書斎しょさいこもり、時折ときおりしずかにつぶやいた。


皇帝陛下こうていへいか御威光ごいこうも、みだれにはあらがいきれぬのか――」


だが李従厚り・じゅうこうは、けっしてくっしなかった。


かれはたとえ疲弊ひへいしようとも、率先そっせんしてぐん指揮しきし、戦場せんじょういた。るがぬ覚悟かくごむねに、最後さいごまでくにまもくことをちかっていた。


その姿すがたは、わたくしたち文官ぶんかんにとってもおおきなささえであり、また、時代じだい激流げきりゅうあらが一筋ひとすじ光明こうみょうでもあった。


後唐こうとう末期まっきのこの激動げきどう数年すうねんわたくしはその現場げんば歴史れきし証人しょうにんとなり、痛切つうせつ国家こっか浮沈ふちん見届みとどけたのである。

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