〇「馮道、宰相の座にあって――皇帝の交代、そして動乱の兆し」
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李存勗から李従厚へ:後唐の転換期
九世紀末、混沌とした五代十国時代の真っただ中にあって、後唐は激動の渦中にありました。その中で、馮道は枢密副使・宰相として国家の政務を執り、文治政治の礎を築こうとしていました。彼の手腕は文官の中でも抜きん出ており、混乱する宮廷にあっても静かな風を吹き込む存在だったのです。
その頃の後唐を率いていたのは、初代皇帝・李存勗。彼はかつて後梁を打倒し、後唐を興した武人の皇帝でした。戦乱の中で何度も軍を率い、国の基礎を固めたその偉業は今も人々(ひとびと)の記憶に鮮烈に刻まれています。
しかし、戦いの疲れは体にも心にも重くのしかかり、李存勗の健康は徐々(じょじょ)に蝕まれていきました。戦乱の合間に宮廷の権力抗争も激化し、内外の圧力が彼の肩にのしかかります。そんな時代背景の中、馮道は文官として政務の安定を目指し、必死に手綱を引いていたのでした。
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新たな皇帝への期待と複雑な心境
ある日、馮道は宮殿の書斎で書簡を読みながら思案していました。「朕の体は日に日に弱っていく。しかし、この国の未来を託す者は、まだ若く未熟だ。李従厚――あの男こそ、この乱世をまとめる力があるかもしれぬ」
李従厚は後唐の有力な将軍であり、数々(かずかず)の戦場でその手腕を示してきました。李存勗がその命を終える頃、後唐の重臣たちは新たな皇帝の座を巡り動揺しながらも、強力な軍人としての李従厚を推しました。
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李存勗の死と李従厚の即位
やがて、九二六年、李存勗はこの世を去ります。彼の死は後唐に大きな衝撃を与えましたが、その死の陰で静かに皇位継承の準備が進んでいました。馮道は宰相として、政治の安定を最優先に努めます。
「李従厚が即位すれば、軍事の力で国の秩序を保ち、内乱の芽を摘めるかもしれぬ。しかし、それは一方で文官たちの立場を厳しくすることにもなる……」馮道は内心、複雑な思いを抱きながらも、時代の変化を受け入れねばなりませんでした。
李従厚は武勇に優れ、武人出身の皇帝として後唐の軍閥を束ね、しだいに中央の政治にも強い影響力を及ぼすようになります。彼の即位は、後唐の政治構造を大きく揺るがすものでしたが、馮道は冷静に政務を執り、文化振興や政治安定のために尽力しました。
後唐はこうして、新たな時代へと歩み出すのです。それは、武と文のせめぎ合い、そして次第に高まる権力闘争の序章でもありました。
〇馮道の独白――新皇帝・李従厚の歩みを振り返る
武人の生涯:李従厚の足跡
私、馮道が宰相の職にあった折、新たに即位した李従厚様のことを思い返すことがあった。
彼の生い立ちはおおよそ、八六九年頃に遡るとされる。 だが、正確な出生年は記録も曖昧で、時代の混乱に飲み込まれたその生まれは、多くの歴史家も推測の域を出ぬ。 それでも彼は、後唐という激動の五代十国時代にあって、確かに力強く成長した一りの武人であった。
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乱世での台頭
九〇七年のことだ。 かの後梁が成立し、中国は一層の混迷を深めていた。 李従厚様はまだ若き軍人として、地方の荒れ地に身を置き、兵を率いておった。 分裂し続ける群雄割拠の時代、その荒波に揉まれながらも、彼の軍事の才は徐々(じょじょ)に注目を集めていった。
そして、九二三年。 この年、李存勗様が後梁を打ち倒し、後唐を建国した。 李従厚様はこの建国の大業に深く関わり、その勇猛さと戦略眼で多くの戦いに勝利を収めた。 この頃の彼は、ただの地方武将から、後唐の柱石として認められつつあった。
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後唐の要として
九二六年、李存勗様が戦乱の中で戦死すると、その義弟・李嗣源が第2代皇帝として即位する。 この時期、李従厚様は重要な軍事官職を任され、国の防衛の要としてその腕を振った。 後唐の内情は複雑を極め、皇帝の死とともに権力の均衡は揺らぎ始めていたが、彼は黙々(もくもく)と任務を果たし続けた。
九二七年から九三〇年にかけては、節度使として各地の治安維持に当たり、地方の反乱や派閥抗争の鎮圧に奔走した。 後唐の国土は一触即発の緊張に包まれ、その混迷を鎮めるためには彼の軍事指揮力が欠かせなかったのである。
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新たな時代への期待
やがて九三一年。 李従厚様は政務から身を引き、軍事に専念する道を選んだ。 後唐の皇帝の健康は衰え、宮廷内の権力争いは日増しに激しさを増すばかり。 混乱を収めるには、武の力こそが必要とされていたのだ。
私はその時、彼の力に大いに期待を寄せていた。 激動の時代を生き抜くため、李従厚こそが後唐を支える新たな要であると、強く確信したものである。
後唐という時代は、まさに武と文が激しくせめぎ合う時代であった。 馮道として、私は文治の道を守りながらも、李従厚様のような武将の存在なしには安定はおぼつかぬことを痛感したのだ。
〇馮道の眼に映った後唐末期の激動 ~933年から936年~
李従厚の治世と馮道の奮闘
後唐――それは五代十国の乱世に咲いた、短くも波乱に満ちた王朝であった。
この時代の渦中にあって、私、馮道は文官として政務を取り仕切り、日々(ひび)奔走していた。新たに即位した李従厚という皇帝の下で、国家の安定を願いながら。
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武人皇帝の即位
李従厚――彼は後唐の第三代皇帝であった。父である李嗣源の死去に伴い、九三三年にその重責を継いだ。生粋の軍人であり、かつて節度使(地方軍の長官)として幾多の戦場を駆け抜けてきた彼は、確かな軍事の手腕と豊富な経験を持っていた。
彼の即位は、単なる世襲の継承ではなかった。軍の強い支持を受け、武力を背景に政権を掌握した。だが、その先に待ち受けていたのは、熾烈な宮廷内外の抗争と混迷であった。
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宮廷の様相と皇帝の言葉
後唐の都、長安は戦火の爪痕を色濃く残し、城壁の隙間からも荒涼とした風が吹き抜けていた。かつての栄華は影を潜め、群雄割拠の時代の厳しさを痛感させる。朝廷は表面上は荘厳な儀礼を繰り返しているが、その内実は派閥抗争の渦中であった。
皇族や高官の間には疑心暗鬼が蔓延し、誰が味方で誰が敵なのか判然としない状態であった。臣下同士の争いは熾烈を極め、密かに策謀を巡らす者が跋扈していた。
そんな状況の中、李従厚は私を呼び寄せ、真剣な眼差しでこう言った。
「馮道よ、どうか陛下のために力を貸してほしい。今こそ文官の力が必要なのだ」
彼の目には、不安と決意が入り混じっていた。強き軍人でありながら、皇帝としての責任の重さに揺れる人間的な一面を垣間見た。
私は迷わず応じた。
「陛下のため、そしてこの国のために、私は尽力いたします」
こうして私たちは政権の安定を目指し、軍事と文治の調和を図ろうと努めた。軍の力を背景にする李従厚と、政治の舵取りを担う私たち文官――その両輪が機能しなければ、国は持たぬと痛感していた。
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厳しい現実と皇帝の覚悟
しかし、現実は厳しかった。
後唐の各地では反乱の火種が絶えず、地方の節度使たちは独自の勢力を拡大しようと画策した。彼らは中央政府の命令を疑い、時には武力で抵抗した。中央と地方の溝は日に日に深まり、政権の基盤は揺らぎ始めていた。
朝廷の重臣たちもまた、自らの派閥を拡大せんと駆け引きを繰り返す。内輪もめは国の存続を危うくし、皇帝の権威は徐々(じょじょ)に薄れていった。
私は夜な夜な書斎に籠り、時折、静かに呟いた。
「皇帝陛下の御威光も、世の乱れには抗いきれぬのか――」
だが李従厚は、決して屈しなかった。
彼はたとえ疲弊しようとも、率先して軍を指揮し、戦場に身を置いた。揺るがぬ覚悟を胸に、最後まで国を守り抜くことを誓っていた。
その姿は、私たち文官にとっても大きな支えであり、また、時代の激流に抗う一筋の光明でもあった。
後唐末期のこの激動の数年、私はその現場で歴史の証人となり、痛切に国家の浮沈を見届けたのである。