第一話「清風寮へようこそ」
本作はフィクションです。登場する学校名・人物名・団体名・地名・出来事はすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
しかし、その背景には、2025年に広島県内の某有名高校野球部で発覚した暴力事件が存在します。
練習や試合の栄光の裏に隠された暴力と沈黙、閉ざされた寮での人間関係、そして組織や周囲の対応――これらは、今まさに社会で問われている問題でもあります。
現実の事件から着想を得て、事実とは異なる形に置き換えながらも、閉鎖空間に潜む圧力や恐怖、そこから抜け出そうとする人間の葛藤を描くことを目指しました。
この物語を通じて、読者の皆さんが「もし自分がその場にいたらどうするか」を考えるきっかけとなれば幸いです。
冬の午後、吐く息が白く溶けて空に消える。東雲学園の正門をくぐった三浦拓真は、背負った荷物の重みが肩に食い込む感覚を確かめながら、敷地の奥に立つ三階建ての建物を見上げた。校舎とは離れた場所に構えるその建物こそ、これから彼が暮らす陽明寮だった。
玄関前には数人の上級生が集まり、寒空の下で笑い声を響かせている。制服の第一ボタンを外し、スニーカーの踵を踏み潰したままの姿が、ただの世間話にもどこか威圧感を纏わせていた。拓真と目が合った瞬間、彼らの笑いはぴたりと止み、次の瞬間には含み笑いに変わる。その理由を探る暇もなく、拓真は足を踏み入れた。
玄関の内側は、暖房の熱気と消毒液の匂いが混ざり合っている。靴を脱いだ途端、奥から背の高い中年の男性が姿を現した。厳しい目元に薄い笑みを浮かべるその人は、寮監だった。
「三浦拓真くんだな。今日から一年三組、内野手だと聞いている」
「はい」
「ここはルールが多い。門限、消灯、掃除当番……そして夜食は禁止だ。食事は必ず時間内に済ませること」
夜食禁止という言葉が、異様に重く耳に残った。練習で腹をすかせる日が来るのは明白だが、反論などできる雰囲気ではない。拓真は小さくうなずき、胸の奥に小さな棘を飲み込んだような感覚を覚えた。
寮監に案内されて廊下を進む。古びた床板は足音に応じて軋み、壁に貼られた「生活心得」は蛍光灯の光を反射して冷たく光っている。すれ違う先輩たちの視線は言葉を持たないが、全身を値踏みされるような重さがあった。
四人部屋のドアが開くと、すでに二人の一年生が机に向かっていた。鉛筆の先が紙を走る音と、規則正しく整えられた教科書、練習予定で埋まったカレンダーが目に入る。
「ここがお前のスペースだ」
指差されたベッドと机に荷物を置くと、洗いたてのユニフォームの匂いがふわりと立ちのぼった。拓真は深く息を吸い、固まった肩の力を抜こうとしたが、窓の外から響く掛け声が、もう次の時間へと彼を急かしていた。
この閉ざされた空間で、三年間を過ごす――その現実を意識した瞬間、胸の奥に冷たく硬い緊張の塊が芽生えた。
夕暮れ時、清風寮の食堂は、低く響く声や食器の触れ合う音が交錯していた。練習を終えた部員たちは、まだユニフォームの袖口に土を残したまま、列を作って席へと向かう。窓の外には夕焼けが残り、赤く染まったグラウンドに白線がぼんやりと浮かんでいる。空気には汗と土埃が混ざり、微かに漂う味噌汁の匂いが鼻をくすぐった。
奥の長テーブルには、監督・尾上哲史が座っていた。腕を組み、無言で全員を見渡すその視線は、まるで一人ひとりの内側まで見透かすかのようだ。尾上の哲学は単純にして絶対――「勝つことがすべて」。その言葉が、この寮の空気を隅々まで支配している。
配膳が始まると、上級生が先に動き、下級生は壁際で待機する。皿を渡す順序や、箸の置き方一つにも厳然たる暗黙のルールがある。笑い声が大きくなれば、すぐさま鋭い視線が飛ぶ。水の入ったコップを置く音すら慎重にしなければならない。
「三浦、もっと背筋伸ばせ」
隣の席から低く押し殺した声が届く。拓真は肩を震わせ、慌てて背筋を正した。手のひらには冷や汗がにじみ、箸を握る指先まで硬くなる。隣の一年生も黙々と飯をかき込み、湯気の立つ味噌汁を一口すすることさえためらっているようだった。
「……はい」
声がわずかに上ずった。視線を落とした先、白飯の湯気が顔にかかり、心臓の鼓動が耳の奥でやけに大きく響く。
食堂の壁際には、尾上が直筆で書いたとされる短冊が掛けられている。『勝利は日常に宿る』――その黒々とした文字を見上げるたび、拓真はここがただの食事の場ではなく、日常そのものが「勝つための訓練」と化した場所であることを、痛いほど思い知らされるのだった。
夜の清風寮は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。しかしその静けさの底には、別種の緊張が潜んでいる。練習後の湿った空気が廊下やシャワー室に残り、排水口から上がる湿った匂いと石鹸の香りが混じって鼻をつく。
シャワー室では水音が途切れるたび、短く鋭い声が響いた。
「おい、タオル置きっぱなしだぞ」
「……すみません」
返事をした一年生の声は、湿ったタイルに吸い込まれていくようにか細かった。笑い声が上がっても、その輪の中心はいつも二年生で、下級生は頷くだけ。会話の隙間に漂う優位と服従の空気が、否応なく肌にまとわりつく。
拓真が廊下を歩いていると、背後から肩を軽く押される感触があった。振り返れば、二年生のひとりが何事もなかったように前を向き、ゆったりと歩き去っていく。その背中からは、言葉にしない圧力がじわじわと流れ込んでくるようだった。
すれ違いざま、別の二年生と視線が合った。口元には笑みが浮かんでいるのに、その瞳の奥は冷たく、硬質な光を帯びている。一瞬で、拓真の背筋は氷のように固まった。
「……」
声を発すれば、その場の空気が変わる。そんな予感が喉元に棘のように引っかかる。
――ここでは、何か言ったら終わりだ。
胸の奥で呟いた言葉が、鼓動に合わせて重く響く。遠くの洗面所から聞こえる笑い声さえ、どこか鋭く耳を刺した。
消灯のベルが鳴ると、陽明寮の蛍光灯が一斉に落ち、廊下も部屋も闇に沈んだ。布団に身を沈めた拓真は、練習で酷使した筋肉がじんわりと重く、疲労が体を覆っているはずなのに、不思議と眠気がやってこない。暗闇の中、耳だけが異様に敏感になっていた。
――コツ……コツ……。
遠くの廊下から小さな足音が響く。最初は軽やかだった靴底の音が、次第に急ぎ足になり、乾いた床板を叩く音に変わる。やがて、壁を叩くような硬い音が間隔を空けて届き、その度に空気がわずかに震えた。
その合間に、押し殺した低い声が混じる。言葉の輪郭までは拾えないが、湿り気を帯びたその響きが、じっとりと肌にまとわりついてくる。
音は次第に近づき、やがてそれは短く鋭い怒鳴り声となった。
「……何してんだ!」
その瞬間、隣のベッドの一年生が布団の中でぴたりと固まった。微かに震える肩越しに、浅く速い呼吸が伝わってくる。暗闇の中で顔は見えない。それでも、その体の緊張が、まるで自分に向けられた無言の命令のように響く――「聞かなかったことにしろ」。
拓真は息を潜め、目を閉じた。胸の奥に生まれた冷たい塊が、唇を噛みしめる力を強くしていく。外から聞こえる足音が遠ざかっても、その塊は微動だにしなかった。
翌朝の食堂は、味噌汁の湯気と食器の触れ合う軽やかな音で満ちていた。冬の朝日が窓から差し込み、テーブルの上の湯飲みに柔らかな光を落とす。湯気の向こうで、湯気に揺れる影が淡く滲んで見えた。
列に並んだ拓真は、配膳台の前で「おはようございます」と小声で挨拶し、受け取った盆を両手で支えて一年生用の席に腰を下ろした。椅子の脚が床を擦る音がやけに大きく感じられ、背筋が自然と伸びる。
ふと視線を動かすと、二年生の席に昨夜の怒声の主と思しき男がいた。短く刈り上げた髪、笑うと目尻に寄る皺――その口元は大きく開かれ、豪快な笑い声を上げている。
「お前、昨日の守備練のときさ…」
隣の二年生が話しかけ、彼は箸で鮭をほぐしながら軽口を返す。周囲も笑い声を重ね、食堂の一角だけが暖かい空気に包まれているように見えた。まるで夜の出来事など、最初から存在しなかったかのように。
その光景は、拓真の胸の奥に鋭い針を刺した。あの声も、あの足音も、今目の前にいる人間とは無関係の幻だったのか――そう錯覚しそうになる。だが、背中に残る緊張は確かに現実のものだった。
箸を握る手がわずかに止まり、白い湯気が視界を曇らせる。隣の一年生は俯き加減で黙々と飯をかき込み、誰も目を合わせようとはしない。
――ここでは、何が起きてもなかったことにする。
心の奥でその言葉が沈殿していくのを感じながら、拓真は冷めかけたご飯を口に運んだ。味は、やはり薄かった。