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完結『あの夏、甲子園の裏で──名門野球部暴力事件の真実。甲子園常連校の暴力問題 腹が立つので書いてみました。』  作者: カトラス


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第二話「寮に潜む影──密室の支配と孤独」

 清風寮の一日は、点呼の笛で始まる。


 午前六時三十分。まだ薄暗い廊下に、笛の甲高い音が突き刺さった。布団を跳ね上げる音、スリッパを引きずる音が一斉に響き、各部屋の扉が次々と開く。拓真も慌てて布団を整え、列に並んだ。肩越しに感じる空気は重く、寝起きの湿気と緊張感が混ざって息苦しい。


 名前を読み上げる上級生の声が響く。返事をする一年生たちの声はどれも張り詰めている。拓真の番が近づくと、心臓の鼓動が耳に響いた。呼ばれた瞬間、声が遅れた。乾いた喉から出た返事は少し掠れ、思わず背筋に冷たい汗が流れる。前列に立つ黒田俊介が振り返り、鋭い視線を投げた。


「おい、声が小さいぞ」


 その一言に拓真の胸が凍る。笑みを浮かべているはずなのに、その瞳はまるで凍りついた刃のようだった。拓真は慌てて表情を整え、口角を上げる。けれど唇の端はひきつり、胸の奥に残ったざらつきは消えない。(目をつけられたらどうしよう……ここでは絶対に隙を見せちゃいけないんだ)


 点呼が終わると、列は食堂へと流れていく。白い湯気を立てる味噌汁、塩気の効いた焼き魚、ご飯の入った茶碗。見慣れた献立が並ぶが、食堂の空気には温かさがない。笑い声ひとつなく、箸と茶碗がぶつかる音がやけに大きく響く。


「……」


 向かいの席に座った村井直樹が無言で拓真を見やり、すぐに視線を逸らした。その一瞬の冷たさに、拓真は喉の奥が詰まり、無理やりご飯を飲み込む。味は感じない。ただ食べる速度を間違えてはいけないと、背筋を伸ばしたまま箸を動かす。(少しでも変に思われたら、きっと何か言われる。ここでは、普通にしていることさえ難しい……)


 食後、クラブ活動へ向かう支度が始まる。廊下を行き交う足音は規則的で、誰もが無駄なく動く。だが、その静けさの中にふと混じる舌打ち、小声の囁きが、拓真の耳にまとわりついた。振り返ることはできない。ただ歩調を乱さぬように足を運ぶ。外に出れば朝日が昇り始めている。校舎へ続く道は黄金色に照らされていた。だが、その光のまぶしささえ、拓真には皮肉に見える。(こんなに整っているはずなのに、どうして息苦しいんだろう……)


 ここでは規律を守ることがすべて。それを破れば何かが待っている――。拓真の胸に、そんな強迫観念がひたひたと広がっていった。けれど同時に、心の奥の小さな声が囁く。「何かがおかしい」と。


 夕食を終え、練習で汗を流した部員たちがぞろぞろと洗面所に集まる。白い蛍光灯の下、蛇口から勢いよく水が流れる音と歯磨きの泡立つ音が重なっていた。


 拓真は隅の洗面台に立ち、歯ブラシを口に入れようとした瞬間、背後から足音が近づいてきた。黒田俊介と高森亮。二人は無言で拓真の隣に立つと、彼が使おうとしていた洗面台に腕を置いた。


「……悪い、替われよ」


 俊介の声は低かったが、拒否できる響きを持っていなかった。拓真は慌てて歯ブラシを握り直し、隣へ移る。胸の奥で小さくため息をつきながら、水を流す音に耳を紛らわせた。(これはいじめじゃない。上下関係なんだ……そういうことなんだ)


 洗面所を出て廊下を歩く。足元に響く自分のスリッパの音がやけに大きく聞こえる。曲がり角を過ぎたところで、村井直樹とぶつかった。いや、ぶつかられた。肩が強く押され、体がよろめく。


「おっと、ごめんごめん」


 村井は口元に笑みを浮かべ、しかし目は笑っていなかった。拓真は苦笑いを返すしかない。(わざとだ……でも、ここで何か言ったら終わる)


 その場を取り繕うように歩みを速めた瞬間、背後から高森亮の声が飛んだ。


「おい、三浦。声が小さいんじゃないのか?」


 笑いを含んだからかいの調子。拓真は振り返らず、「すみません」とだけ呟いて笑みを作る。頬の筋肉が引きつり、心臓が早鐘を打っていた。


 廊下の空気は重く、蛍光灯の光が白々しく照らす中で、誰も助け舟を出さない。同級生もすれ違うが、皆、無言のまま目を伏せて通り過ぎる。その沈黙が、何よりも雄弁だった。


(これは“しつけ”なんだろうか、それとも“いじめ”なんだろうか……)


 拓真は自分に問いかけ、答えを出せずに唇を噛んだ。だが胸の奥には確かに残っていた。「ここでは、何か言い返したら終わり」――その冷たいルールが、体の芯まで浸み込んでいくのを感じていた。


 消灯の合図が鳴り、清風寮は静けさに包まれた。蛍光灯が一斉に落とされ、薄暗い非常灯だけが廊下を照らす。布団に潜り込んだ拓真は、身体の熱を落ち着けようと深呼吸を繰り返した。


 だが、耳を澄ませば澄ますほど、妙な音が聞こえてくる。


 ――トン、トン。


 壁を叩くような乾いた音。最初は気のせいだと思った。けれど間を置かず、今度は廊下を駆ける足音が響く。スリッパの底が床を打つ軽い音が、不規則に近づいてくるのがわかる。


(……誰だ? 見回りじゃない、もっと荒っぽい)


 拓真は布団を握りしめ、息を殺した。やがて低く押し殺した声が混じる。笑い声とも怒鳴り声ともつかない、不穏な響き。心臓が痛いほど打ち、耳の奥で反響した。


 ――ドンッ。


 何かが蹴られたような鈍い音。その直後、短く鋭い怒鳴り声が夜を裂いた。


「ふざけんな!」


 拓真の喉がひゅっと鳴る。布団から飛び出しそうになる身体を必死に抑え込む。隣のベッドでは同じ一年生が布団を頭まで被り、硬直しているのがわかった。肩が小刻みに震えている。


「な、なあ……聞こえたか?」

 拓真が囁くように声をかけた。返事はなかった。だが布団越しに震えが強くなるのを感じ、言葉が胸の奥で止まる。(言っちゃいけない。聞こえなかったふりをしろ。そういう空気だ……)


 布団の中で耳を澄ませば、誰かが押し殺した声で「やめろ」と叫んだのがかすかに届いた。直後にまた鈍い衝撃音が響き、それが喉の奥を凍らせる。拓真の心は叫んでいた。(助けなきゃ……いや、無理だ。俺まで狙われる……)


 隣の寝姿から伝わる無言の圧が、拓真を縛り付ける。「ここでは見てはいけない、聞いてはいけない」――その暗黙の掟を、全身で思い知らされる。


 拓真は布団の中で目を固く閉じた。けれど耳だけは閉じられない。遠ざかる足音、再び叩かれる壁の音、そして重たい沈黙。すべてが頭の中で反響し、眠気を完全に奪い去っていた。


 夜の清風寮。拓真が恐怖に震えていたその同じ時間、別の一年生――佐久間健太も眠れずに天井を見つめていた。


 布団を被っても、壁越しに聞こえてくる怒声と物音が耳にこびりつく。誰かが泣き声を上げ、すぐに押し殺される。その断片的な音のすべてが、彼の鼓膜を揺らして離れなかった。布団の端を握りしめ、何度も目を閉じようとするが、まぶたの裏は暗闇に光る恐怖でいっぱいだった。


(……こんなはずじゃなかった。甲子園を目指して夢の学校に来たのに、どうしてこんな夜を過ごさなきゃならないんだ)


 外から吹き込む風が窓を震わせ、カーテンを揺らす。差し込む月明かりが床を斑に照らすと、隣のベッドから小さな声がした。


「なあ、健太……起きてるか?」


 声の主は同級生の山本だ。呼吸の合間に震えが混じっている。拓真と同じように、彼も息を殺していたらしい。


「……ああ、起きてる」


「聞こえたよな、さっきの……」


 山本の声は掠れていた。佐久間は喉の奥がからからに乾いて言葉が詰まる。それでも絞り出すように答える。


「聞こえた。でも……言うな。誰にも言うな」


 山本は短く息を呑んだ。「……うん」と小さく返事をし、それきり口を閉ざした。二人の間に長い沈黙が落ちる。風が窓を叩く音さえ、鼓動を乱すように重苦しく響く。


(もし俺たちが声を上げたら、次は自分たちがやられる。そういうことなんだ……)


 佐久間は拳を布団の中で握りしめた。爪が掌に食い込む痛みが、自分の無力さを突きつける。悔しさと恐怖が胸の奥で渦を巻き、息が詰まりそうだった。


 外からはまだ低い笑い声が断続的に届く。抑えた笑いが、暗闇の中で権力を持つ者たちの「余裕」を示しているように思えた。耳を塞ぎたくても、音は容赦なく忍び込んでくる。


「健太……俺たち、どうすればいいんだろうな」

 山本の小さな声が闇に溶ける。


「……生き延びるしかない。今は、それしか」


 自分でも驚くほど低い声が出た。自分に言い聞かせるように吐き出したその言葉は、同時に自分を縛り付ける鎖のようにも響いた。


 やがて笑い声も物音も途絶え、寮は静寂に包まれた。しかし佐久間の目は冴え続け、眠りは訪れない。胸の奥で燃え残る苦い感情を抱えながら、彼は悟った――ここでは、正義を語ることすら許されない。沈黙こそが唯一の生き残る術なのだと。



登場人物紹介

主人公・被害者


三浦拓真みうら たくま

東雲学園硬式野球部1年生。真面目で素直な性格だが、寮生活の厳しい規則に不慣れで、夜食禁止の掟を破り「コンビニ弁当」を食べたことをきっかけに、2年生上級生からの暴行と屈辱的な行為に巻き込まれる。

心身に深刻な傷を負い、やがて野球への情熱を断たれ、転校を余儀なくされる。


三浦みうら 健一けんいち〔父〕


 職人気質で寡黙な人物。息子のことを誰よりも信じ、支えようとする。事件後、学校や高野連の対応に強い不信感を抱き、転校を「逃げではなく、生き延びるための脱出」と表現する。その言葉には、息子を守るために社会と闘う覚悟と憤りが込められている。被害者家族の声として、世論に大きな影響を与える存在。


三浦みうら 真理子まりこ〔母〕


 穏やかで優しい性格だが、息子の心身の変化に敏感で、いち早く異変を察する。拓真が夜眠れないことや、無理に笑顔を作る姿を見て心を痛める。転校後は新しい環境で少しでも安心して生活できるよう、献身的に支える。母としての愛情が、拓真の心をつなぎとめる最後の砦となる。


佐久間さくま 健太けんた


 東雲学園硬式野球部1年生。拓真と同じ寮に暮らす同期。体格は平均的で、特に目立つ存在ではないが、野球に対しては誠実で地道な努力を惜しまないタイプ。

 しかし、寮内での暴力や威圧の空気に早くから違和感を抱き、不眠に悩まされるようになる。外伝では「声を上げたら次は自分がやられる」と悟り、沈黙こそが生き延びる術だと心に刻む。拓真とは直接深く関わらないものの、同じ恐怖を共有する存在。


山本やまもと 祐介ゆうすけ


 東雲学園硬式野球部1年生。健太の隣のベッドで生活する同期。気弱でおとなしい性格のため、上級生からの圧力に強く怯えている。


学校・部活動関係者


尾上哲史おのえ さとし

東雲学園硬式野球部監督。名門校を率いる指導者として知られるが、勝利至上主義の体質が根強い。事件発覚当初、被害者に「嘘をつくな」「2年生の対外試合がなくなってもいいのか」と心理的圧力をかけ、隠蔽疑惑が持たれた。


尾上翔おのえ しょう

野球部コーチで哲史の息子。若くして父の後を継ぐ形でコーチに就任。部員への威圧的な態度が目立ち、恐怖の存在となっている。事件当時も監督とともに初動対応を誤り、被害者を守らなかった。


校長・教頭・担任教師(名前未定)

学校の「伝統と名誉」を最優先し、事件を小さく収める姿勢を取る。結果的に、被害者が孤立する原因を作る。


加害生徒(当時2年生)


※ 拓真への集団暴行と屈辱的行為に関与した4人。


黒田俊介くろだ しゅんすけ

野球部次期キャプテン候補。暴行の中心人物。仲間を扇動し、拓真に屈辱的な行為を強要した。


村井直樹むらい なおき

レギュラー内野手。表向きは明るく人気があるが、裏では後輩支配を好む。暴行にも積極的に加担。


高森亮たかもり りょう

投手。気性が荒く、暴行現場で威嚇や罵声を繰り返した。将来を嘱望されていたが、事件で名前を汚す。


江藤悠馬えとう ゆうま

外野手。暴行だけでなく金銭要求や口止めにも関与。被害者をさらに孤立させる役割を担った。


OB・告発者


入江智弘いりえ ともひろ

東雲学園野球部OB。現役時代に寮内で性的いじめや暴力を受けた経験を持つ。社会人になってから、拓真の事件をきっかけに自ら実名で告発。「これは単発の不祥事ではなく、構造的な問題だ」と世間に訴え、事件を大きく社会問題化させた。


学校


東雲学園高等学校しののめ がくえん

広島市近郊に位置する甲子園常連の名門私立校。硬式野球部は全寮制で「清風寮」を拠点とする。表向きは厳格な規律と礼儀を掲げるが、実際は閉鎖的な上下関係が暴力の温床となっていた。

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