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第0部 第5話「一家の誇り」

第0部 第5話「一家の誇り」

 偽者騒動から数日が経った、よく晴れた昼下がり。

 ワルーイ一家の屋敷の裏庭では、木剣を握った少年が、汗だくになって素振りを続けていた。空色の髪が陽光を受けて、きらきらと揺れている。夏の名残の日差しが強く、少年の額からは玉のような汗が滴り落ちていた。裏庭の隅には水瓶が置かれ、時折そこから水を汲んでは喉を潤している。

「よし、もう一本!」

 少年の号令に合わせて振られる木剣は、まだ危なっかしいが、確かな芯が通り始めていた。振り下ろすたびに空気を切り裂く音が響き、その一振り一振りには、確かな成長の跡が刻まれている。

「ヒャッハー!いい振りしてんじゃねぇか!」

 通りがかった構成員が声をかけると、少年は照れくさそうに笑った。

「まだまだだよ。頭領みたいに、皆を守れるくらい強くなりたいんだ」

「なぁに、お前ならすぐだぜ。何せワルーイ一家の子だからな!」

 少年――ユーシャは、その言葉に嬉しそうに頷いた。孤児院からこの一家に引き取られて数年。まだ苗字を貰う日は来ていないが、いつか必ず、と信じて疑わない目をしていた。

「なぁ、ヒャッハーさん」

「ん?」

「頭領は、若い頃はどんな感じだったの?」

 構成員はしばし考え込むように顎を撫でた。

「頭領か……。俺が拾われた頃には、もう今みたいな頭領だったなぁ。寡黙で、それでいて誰よりも周りのことを見てる、そんな人だった」

「へぇ……」

「あの人がどんな苦労をして今のワルーイ一家を作り上げたのか、俺たちも詳しくは知らねぇんだ。ただ、誰も見捨てねぇ、筋を通す、その二つだけは、いつも変わらずここにある」

「お前もいずれ、頭領みたいになれるかもしれねぇな」

「そうなれたらいいな」

 ユーシャはそう言うと、また木剣を構え直した。その姿を見て、構成員は満足そうに頷き、屋敷の中へと戻っていった。

 一人になったユーシャは、しばらく素振りを続けた後、木剣を地面に突き立て、荒い息を整えた。空を見上げると、夏の終わりを告げる薄い雲が、ゆっくりと流れていく。

(もうすぐ月末の授与式だ)

 その日のことを思うと、自然と頬が緩んだ。この一家に来てから、ずっと夢見てきたこと。ようやくその夢が叶う日が近づいている。そう思うだけで、剣を振る腕にも力がこもった。

「よし、あと百本!」

 ユーシャは再び木剣を構え、素振りを再開した。汗が滴り落ち、地面に小さな染みを作っていく。それでも少年は止まらなかった。強くなりたい、認められたい――その一心が、彼を突き動かしていた。

                *

 その様子を、屋敷の窓から見つめる者がいた。ツマモである。

「あの子、また一段と逞しくなったねぇ」

 隣に立つスッゴクは、何も言わずただ小さく頷いた。

「アンタ、あの子のこと、本当に……」

「まだ何も決めちゃいねぇ」

 スッゴクは短くそう答えると、窓辺を離れていった。ツマモはその背中を見送りながら、小さくため息をつく。夫の胸の内にどんな迷いがあるのか、彼女には分からなかった。ただ、この男が誰よりもあの子の将来を案じていることだけは、確かだった。

 ツマモは窓の外に視線を戻し、剣を振り続けるユーシャの姿をしばらく見つめていた。

(あの子は、いつまでもここにいられるわけじゃない。それは分かってる。分かってるつもりだけど……)

 彼女は胸の奥にこみ上げる複雑な想いを、そっと飲み込んだ。母のように育ててきたこの子が、いつかこの屋敷を巣立っていく日が来る。それがどんな形であれ、その日は確実に近づいているのだと、彼女もまた感じ取っていた。

 窓の外では、ユーシャがまた新たな一振りを放っている。木剣が空を切る音が、屋敷全体に静かに響き渡っていた。

                *

 その夜、屋敷の広間には、久しぶりに一家の主だった顔ぶれが揃っていた。長机には所狭しと料理が並び、灯りに照らされた広間は、いつにも増して賑やかだった。

「今日はいい酒が入ったんでね。皆で一杯やろうと思ってさ」

 ツマモが大樽を運び込むと、集まった構成員たちから歓声が上がる。インテリは眼鏡を拭きながら苦笑した。

「相変わらず豪快なことです」

「ヒャッハー!インテリの旦那も飲めよ!」

「私はほどほどにしておきます。明日の帳簿がありますので」

「そう言わずに、たまにはよぉ!」

「では、一杯だけ」

 インテリが渋々ながら盃を受け取ると、周りから笑い声が上がった。長机には焼いた魔猪の肉や、蒸した野菜、焼きたてのパンが所狭しと並び、皆が思い思いに料理を頬張っている。今日という一日の疲れを労うように、誰もが心から寛いでいた。

 部屋の隅では、ニンニンが静かに盃を傾けていた。誰にも聞こえないような小声で、独り言のように呟く。

「今日も一日、誰にも気付かれずに済んだでござるな」

 その言葉に反応する者はいない。それでいいのだと、ニンニンは思っていた。この一家の在り方とは、そういうものだ。誰にも語られず、誰にも褒められずとも、この一家は今日もまた、誰かの生活を支え続けている。

(拙者もまた、この一家に拾われた一人でござる。頭領には、返しても返しきれぬ恩がある)

 ニンニンは盃を口に運びながら、遠い日の記憶を思い返していた。虫の息だった自分を拾い上げてくれた、あの日の頭領の言葉を。今でもその言葉は、彼の胸の奥で確かな灯火となって燃え続けていた。

 スッゴクは広間の奥で、ただ静かに酒を舐めていた。周りの喧騒には目もくれず、しかし誰よりも一人一人の顔を見ている。この一家に集った者たちは皆、かつてどこかで拾われ、救われ、そして今この場所にいる。血の繋がりなど関係なかった。

 構成員の一人が、酔った勢いで声を上げた。

「なぁ頭領!俺たちゃ、街のみんなに『悪の組織』って呼ばれてるけどよ、それでいいのかい?」

 広間が一瞬、静かになる。皆がスッゴクの言葉を待っていた。杯を傾けていた者も、料理を頬張っていた者も、皆その一言に耳を澄ませた。

「別に構わねぇ」

 スッゴクは盃を置き、ゆっくりと口を開いた。

「見た目や評判なんざ、俺たちが気にすることじゃねぇ。大事なのは、筋を通したかどうかだ。それさえ守ってりゃ、いつか分かる奴には分かる」

「頭領……」

「それに」

 スッゴクは珍しく、口の端を少しだけ緩めた。

「悪党面した連中が、街の弱い者を守ってる。そのギャップにこそ、俺たちの意味があるんじゃねぇか」

 その言葉に、広間からどっと笑いが起こった。構成員たちは口々に頷き合い、また酒を酌み交わし始める。

 少し離れた場所で、インテリが静かにスッゴクへと近づいた。

「頭領、月末の授与式の件ですが」

「あぁ」

「今回の候補者、何人か上がってきておりますが……ユーシャ殿の名前も、その中に含まれていました」

 スッゴクは何も答えなかった。ただ、盃を持つ手が、ほんのわずかに止まった。

「頭領のご判断を、伺いたく思います」

「……もう少し、考えさせてくれ」

「承知しました」

 インテリはそう答えながらも、内心では複雑な思いを抱えていた。ユーシャの剣の才は、他の構成員たちと比べても頭一つ抜けている。だがそれ以上に、あの少年の中には、この一家の枠に収まりきらない何かが眠っているように感じられてならなかった。それが何なのか、インテリ自身にもまだはっきりとした答えは見えていなかった。

「頭領、もし差し支えなければ、私の見解をお伝えしても?」

「言ってみろ」

「ユーシャ殿は、確かに優れた素質をお持ちです。ですが、それが単なる剣才に留まらないような、そんな予感がしております」

 スッゴクは目を閉じ、しばし黙り込んだ。

「……お前もそう思うか」

「頭領も、同じことをお考えなのですね」

 インテリは深く頭を下げると、静かにその場を離れていった。その足取りは、いつもより幾分か重く感じられた。スッゴクは一人、広間の喧騒の中で、じっと盃の中の酒を見つめていた。その胸の内には、まだ誰にも語られることのない葛藤が渦巻いていた。

「違いねぇ!頭領の言う通りだ!」

「ヒャッハー!!!俺たちゃこれでいいんだよ!!!」

 賑やかな声が広間を満たす中、ツマモがふと立ち上がり、皆を見渡した。

「今日という日を、大事にしとくれよ。こうして皆で笑い合える日々っていうのは、当たり前のようで、そうじゃないんだから」

 ツマモの言葉には、どこか予感めいた響きが込められていた。しかしそれに気付く者は、この時まだ誰もいなかった。

 その言葉に、構成員たちは一瞬静まり返り、それからまた頷き合った。誰もが、この温かい時間の尊さを、心のどこかで理解していた。

「そういや姐さん、今日のユーシャの稽古、見たかい?」

「あぁ、見てたよ。だいぶ様になってきたじゃないか」

「あの子、頭領に似てきたよなぁ。寡黙なとことか、諦めねぇとことか」

 その言葉に、周りの構成員たちも次々と頷いた。

「そういや、俺が初めてあの子と会った時、まだこんなに小さかったんだぜ」

 一人の構成員が手のひらで背丈を示しながら言うと、周りからどっと笑いが起きた。

「お前が拾ってきたんだったか、あの子」

「いや、拾ってきたのは頭領だよ。俺はただ、最初に飯を食わせただけさ」

「それでも十分な功労者だぜ、ヒャッハー!」

 周りの構成員たちが笑い声を上げる中、別の一人がしみじみと呟いた。

「あの頃はまだ、ここも今より狭くてよ。皆で寄り添って寝てたもんだ」

「懐かしいなぁ、それ」

「今じゃこんなに大所帯になっちまって……。頭領も大変だろうよ」

「なぁに、頭領のことだ。これからも変わらず、俺たちを見守ってくれるさ」

 賑やかな笑い声が広間を満たす中、ツマモは目を細めてその光景を眺めていた。この一家に集った者たちが、こうして一人の少年の成長を我が事のように喜んでいる。それこそが、この場所の何よりの財産なのだと、彼女は改めて感じていた。

 窓の外では、庭で素振りを続けるユーシャの影が、月明かりに照らされていた。稽古を終えたはずの少年は、まだ何かに突き動かされるように、一人黙々と剣を振り続けている。まだ何も知らない少年は、ただがむしゃらに、強くなることだけを願っている。虫の音が響く静かな夜に、木剣の風切り音だけが規則正しく続いていた。

 いつかこの屋敷を出て、広い世界を見ることになるとも知らずに。

 いつか、この場所へ「ただいま」と帰ってくる日が来るとも知らずに。

 スッゴクは、その小さな背中を、窓越しにいつまでも見つめていた。誰にも聞こえないほど小さな声で、彼はぽつりと呟いた。

「強くなれよ、ユーシャ」

 その声は、広間の喧騒にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。

 ただ一人、部屋の隅で静かに盃を傾けていたニンニンだけが、その呟きを聞き取っていた。彼は何も言わず、ただ静かに目を伏せた。頭領の胸の内にある葛藤を、これ以上詮索することはできなかった。

(了)

―――

 こうして、ハジマーリの街で「悪の組織」と恐れられながらも、誰よりも筋を通し、人々の暮らしを陰で支え続けるワルーイ一家の日常が過ぎていく。炊き出しのスープ、道を開ける叫び声、赤字覚悟の依頼、そして偽者を成敗する拳――そのどれもが、この一家の在り方を静かに物語っていた。

 見た目は悪党、中身は誰よりも人情に厚い。そのギャップこそが、この一家の誇りであり、存在意義そのものだった。街の人々のすべてがそれを知っているわけではない。それでも、少しずつ、確かにその真実に気付く者たちが増えていく。老婆と孫、仕立て屋の夫婦、冒険者ギルドの若者、区画に住む人々――彼らの心の中に灯った小さな理解の光は、決して消えることはないだろう。誰かがその光を胸に、また別の誰かへと語り継いでいく。そうやってこの一家の真実は、ゆっくりと、しかし確かに広がっていくのだった。

 だが、この静かな日々は、そう長くは続かない。

 やがて頭領スッゴクは、ある決断を下すことになる。

 それは、一家で誰よりも大切に育ててきた少年――ユーシャを、この一家から追い出すという決断だった。

 その決断がどれほどの覚悟を伴うものだったのか、この時はまだ、誰も知る由もなかった。ただ一人、スッゴクだけが、その重みを胸の奥深くに秘めていた。

 月明かりの下、剣を振り続けるユーシャの影は、まだしばらくの間、この屋敷の裏庭に映り続けていた。この穏やかな日常が、あと何日続くのか。それを知る者は、この場にはまだ誰もいなかった。夜風がそっと吹き抜け、屋敷の灯りを静かに揺らしていった。ハジマーリの夜は、今宵もまた静かに更けていく。

(第0部・完)

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