魔王の日誌
『10月12日
エマは毎日エヴァンの世話に追われている。あんまり忙しいものだから、昨日は少し喧嘩になってしまった。
俺も手伝ってるつもりなんだがな……と言ったら、手伝うとかいう言葉遣いが気に入らない、お前が産んだ子だ、と来た。すっかり母親らしくなってきたエマ。何とも頼もしい。
ウェンディのあの要請を受け、エマは自身の片方の卵巣を竜族に提供することにしたそうだ。エマの卵巣ひとつで、竜族は向こう三千年は安泰になるという。その手術の前後は、俺がエヴァンの世話をしなければならない。手伝うとか言ってる場合じゃなかった、やれやれ。
エマは、次に竜族を救う。魔王を倒し、魔族を蹴散らし、なのに彼女は、まだ人間世界を救えなかったことを気にしているようだ。完璧主義過ぎて、少々可哀想になって来る。
俺が、こんなにしてやってもまだ勇者の影から離れられないのか……
問題は、なかなかに根深い。
水瓶で見たエマのこれまでを思うと、人のための行動を押し付けられ過ぎ、自分のための行動を見失ってしまったのだろう。
エマ。
勇者を辞めろと言った手前、正面切っては言えないけれど、俺はお前ほどの英雄を知らない。
ギルモア王国だって、代々の王が魔族だったという衝撃から立ち直ろうとしている。あの閃光で魔族の王が消し飛ばされてしまったとあって、アンドリューとミリアムが中心となって、騎士学校の連中を中心に次の国の在り方を模索しているのだという。あいつらだって、結局のところエマの愚直さに負けたのだ。何だかんだ己の務めを果たそうとする辺り、エマに感化されたのかもしれない。
俺もきっと、そのひとりなのだろう。
闇欲に任せて拾ったはずの女。水瓶で観察していた女。孤独を埋めるために住まわせた女。
彼女だって分かっていることだろうが、そんなわけはない。全部俺が俺を欺くために用意した詭弁だった。
俺とお前は同じ。
本音では、お前が次々背負わされる重荷を、どうにか下ろしてやりたかったのだ。
お前の重責が消えた時、俺の重責も消える。
そんな気がしたから──』
トントン。
ドアをノックする音が聞こえた。ウィルは時空を曲げ、その空間に魔王の日誌を素早くねじ込んだ。
時空の歪みが消えるのを見届けてからカウチに腰掛け、ウィルは言った。
「入っていいぞ」
ドアがそうっと開けられる。
エマが立っていた。
「……ウィル?」
「何だ」
エマは後ろ手に扉を閉めた。
「エヴァンが寝たから、こっちに来たの」
ウィルは微笑む。エマも笑って、ウィルの腰掛けるカウチの隣に座った。
エマがウィルの肩に、頬をすり寄せて来る。
「……どうした、エマが自ら甘えて来るなんて珍しいな」
「……そうかしら」
ウィルはエマの頬に自らの頬を寄せる。そして、じっと何事かを考え込んだ。
「ようやく、か」
エマは顔を上げる。
「何が?」
「自分の気の向くまま、求めただろ」
「……いけなかった?」
「いけなくない。今、凄く嬉しい」
ウィルはエマの頬に触れる。二人はついばむような軽いキスを交わした。
エマは少し上の空で唇を離す。
「ウィル、今、日誌書いてた?」
ウィルは若干の間を置いて、頷いた。
「そうだが……なぜそんなことを聞く?」
「ウィルの指から、インクの香りがしたから。ねえ、ウィルの日誌ってどうしたら見られるの?」
「……答えると思うか?」
ウィルはエマに発言させまいとするように、彼女の唇を自らの唇で塞いだ。エマは身じろいだ。
「見せられないの?まさか私の悪口書いてたりして」
「冗談はやめろ」
「じゃあ、今日は何て書いたか教えてよ」
ウィルはエマをじっと見つめると、こう答えた。
「エマへの愛だ」
「あら、白々しい」
それを受け、彼はこう言ってのけた。
「そこまで言うなら、教えてやろう。調教の甲斐あって、俺と息子の世話に明け暮れている、ざまぁないと書いておいたんだ」
エマはくすくすと笑った。
「……それが、ウィルの愛なの?」
ウィルも、泣き出しそうな顔で笑う。
「……愛、かな」
ウィルはエマをカウチに組み敷く。エマは彼の肩に腕を回した。
「日誌って、一生書くの?魔王って大変ね」
「前は負担だった。だが今回色んな事件を体験して、未来の魔王たちのために、やはり重要なものだと再認識した次第だ」
「……本当ね。私達、過去の魔王にさんざんお世話になったわ」
ウィルはふと、慎重に言葉を紡ぐ。
「俺が、魔族の魂の集合体だとして──」
エマはその言葉を受け、寝転がったまま弾けるように首を横に振った。
「ウィルは、ウィル。エマはエマ。それじゃ駄目かな」
ウィルは目を見開く。エマは笑った。
「私、ウィルといると心が少し軽くなるの。だからウィルもそうだったらいいなーって……」
それを聞いて、ウィルは神妙な顔になった。
「あれ?ウィル……」
エマがウィルの目尻に触れる。
「ウィルったら……何で泣いてるの?」
ウィルはエマの肩に顔を埋めた。
「調教した甲斐があったと思って」
「……馬鹿」
ふたりはふかふかのカウチで、ゆったりと互いの存在を確かめ合う。そこには、互いの形しかなかった。そのほかのことは、今の二人には必要ない。
この世界から、勇者と魔王という存在は消え失せた。
残ったのは、妙に長生きの青年と、強い心を持った少女──
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