第二章 空の青と真紅の神官 2
侍女が部屋をさがると、王女はさっそく行動を起こした。
ベッドから出ると、出来るだけ動きやすい質素な服に着替え、廊下に誰もいないのを確かめると、なるべく音を立てないようにして歩き始めた。
途中、見回りの兵に遭いそうになり、慌てて彫像の後ろに隠れる。
見回りの兵が何も気づかず行ってしまうと、王女は普段あまり人が使わない小さな階段を降りた。
この階段の壁という壁には歴代の王や王妃の肖像画が飾られている。
人があまりここを使わないのは、これに原因があるのだ。
しかも、ここをずっと下れば王の墓所にもあたる。この城の地下には壁かけの肖像画の人物達が眠っているのだ。
気味悪くて通るものはまずいない。
だが王女は怖いとは思わない。いつか自分の絵も亡骸もそこに入るのだと思えば、怖いはずがあろうか。
それに墓所には王族だけが知っている抜け道もある。
王女は墓所の、中央にある建国の英雄王アルフエールのひときわ大きい石棺の前に来ると、トントントンと三回ほど足を踏みならした。
墓所中にその音が響く。
やがてアルフエール王の石棺の組み合わせた石の一か所が、ゴトリと音をたてて引いていく。
そして、やがてそこには獅子のレリーフが現れた。
その獅子の口の中の大きな把手を思いっきり引っ張ると、レリーフの下の石がガタンと動き、それは人一人が通れるくらいの通路になった。
王女はランプを片手に中に入り込んだ。
城は切り立った崖の上に建てられていて、東側は海に面しているが、その反対側の西には丘の裾野から森が広がっている。
抜け道は、その森の小さな洞窟に続いていた。
森は城下街の西側をぐるりと囲む形で広がっていて、その森の終わりである街の郊外に、ヴァルメーダ神殿があった。
つまり、このまま森を迂回していけば、神殿につけるのだ。
夜になると森に入る人などほとんどいない。
王女は安心して神殿へ向かった。
王女が毎晩若い男の元へ通っていると侍従長が知ったら、どうするだろうか?
王女は薄暗い林道を歩きながらくすくす笑った。
きっと、有無を言わさず結婚への運びとなるだろう。たとえやましいことを、何一つしていなくても。
そんなことを考えているうちに、王女はいつのまにか神殿の敷地内に入っていた。
祭りの日のように正面から入っていくと、門番や警備の人に出会ってしまうが、森から入っていく道にはほとんど人通りはない。
誰にも見つからないで王女は、奥の小神殿にたどり着いた。
通い始めのうちは、王女が付く時にはすでに祈りは始まっていたのだが、最近は、王女が来るのを待ってから始めるようになったようだ。
たいした進歩だ。
どうってことない事なのだが、それでも、この男がそれだけ気をきかしてくれることが、多少なりとも嬉しい。
垂れ幕を上げて部屋に入ると、すでに若い神官はヴァルメーダ神像の前に立っていて、王女の姿を見ると深く礼をした。
そして祈りを始める。
王女は頭から被っていたフード付きのマントを外すと、粗末な椅子に腰かけた。
今日の祈りは、今までに聞いたことのないものだった。
だが、王女の耳をやさしく打つ。
自然と、肩の力が抜けてくるのを感じた。即位についてのゴタゴタや、忙しさ、煩わしさ、そして、なによりも不安が消えていく。
この無愛想で、感情のないような男の口から、よくこんなにやさしく暖かい祈りが出るものだと思う。
……いや、だからこそなのかもしれない。
自分のためでも、王女のためでも、まして国のために祈っているのでもない。
そして、神のためでもない。
王女には、彼が、何か見えない漠然としたものへ祈っているように感じる。
だからこそ、こんなにも、安らかで、優しい。
たぶん、自分でも何のため祈るのか判らないのかもしれない。
聞きながら、若い神官の横顔をそっと見た。
女性なら、敬遠してしまうほど整った顔。
男だって、並んで歩きたいとは思わないだろう。
俗物的な興味だが、こうなると幼なじみの恋人という人物をますます知りたくなる。
感動したことすらなさそうな、あらゆる感情に欠けている、けれど美貌の男を恋人にしようなどと、よほどの度量のある人物か、そのことに気づかない鈍感な者に違いない。
いずれにせよ、大物だ。
ぜひとも知りたい。
昼間は大神官がいたから聞けなかったが、今日こそは聞いてみよう。
そう思っていると、不意に声が止んだ。
祈りが終わったのだろうか?
いや、そうではない。
外で話し声が聞こえた。
――男と、女の声だ。
女の方には覚えがないが、男のボソボソとした声には聞き覚えがあった。
あの銀色の位の神官だ。