第三章 海辺の国の女王 9
王女にとっては、目覚めたら大騒ぎになっていた、という感じだった。今回のことは。
確かに無理しすぎたようで、胸がムカムカしていたし、具合もあまりよくなかった。それでも我慢したのだが、いつの間にか、倒れてしまったらしい。
目が覚めたら、みんな青いか赤いかのどちらかの顔をして、王女の事を見ていた。
そして、状況判断の出来ない王女に向かって、開口一番、
「父親は誰ですっ?」
「どういうことですか?」
というような意味の事を、いちどきに言った。
バレたのは明白で、女王は途方にくれながらも、唯一事情を知っている侍女に、若い神官の元へ行くように密かに命じた。
彼の名を出すつもりはなかった。
子供まで出来てしまったのだ。否応なく大臣達は彼を王女の伴侶とするだろう。彼を国王とするだろう。
しかし、国王と大神官の地位は兼用できないのだ。彼は神官を止めざるを得なくなる。
王女は、それが嫌だった。
彼には何時までも神官でいて欲しかった。
いつまでも、神の前であのやさしい祈りを捧げていて欲しかった。
「…………」
「女王様。おっしゃって下さい。父親は、誰です? 誰なのですか?」
「………」
「陛下。父なし子なんて、国民に示しがつきません。どうぞおっしゃってください。女王陛下」
「…………」
女王は沈黙を続けた。どんなに問われても、何を言われても、けっして口を割らなかった。
ずっとそのまま平行線がつづく。
「そんなに言えない人物が、父親なのですか?」
「城では、男が近づくことなんてあり得なかった。噂では、女王様はよくお忍びをなさっていたとか……。その時の子なのですね?」
「まさか……行きずりの男との……?」
「陛下、いったいどこへ行ってらしたのです?」
といった、屈辱的な質問にも、じっと耐えて沈黙を守っていた。
エディアールとその一行は、城へついてもまっすぐ会議の間へは行かなかった。
「まさか、こういうことになっていたなんて……」
「今三カ月か……。ということは、俺たちが出発してから、幾日もたっていない時だな」
のんきな恋人たちは、この事態を純粋に楽しんでいるようだった。二人は、女王と神官がこの上は、結ばれるのは当然としていた。
「そなたたちは気楽だのぉ」
「本当に……」
あまり事態を楽観視できない残りの二人は、しかし心の中ではどうにかなると思ってはいるようだった。
当人たちの心はあまり問題ではない。
周りがどういう反応を示すのか、それがどういう結果になっているのか、それだけが今のところ不安な材料となっているだけである。
二人の懸念通り、会議の間では、今、多少やっかいな事態が起きていた。
いや、やっかいだと思ったのは王女一人だけであったが……。
あのヘルウェール・サヴァーニがやってきて、なんと父親の名乗りをあげたのだ。
「ちょうど、今から二月ほど前の時です。女王はお忍びでいらっしゃいました……。森でのことです」
などと平気でそんな事を言う男に、王女は憎々しげな視線を浴びせた。
これにはさすがの彼女もだんまりを決め込むわけにはいかなかった。
「それは違う。……いや、確かに違わないが……お前ではない。突然襲ってくるような奴に、誰が身をまかせようか……!」
しかし、今まで何も言わなかった王女が、ムキになって否定するので、逆に大臣たちは本当の事ではないかと思いはじめていた。
「その時、女王はランプを落とされていった。これがそのランプです」
そう言って、彼が掲げたランプは、間違いなく女王の部屋のランプである。
王女はぎりぎりと唇を噛みしめた。
あの夜の屈辱が再びよみがってくる。首すじや胸に触れた、あの男の感触。
……隙をつかねば逃れられなかった、あの悔しさ。
それらが全て蘇ってきて、今ここに刃物があろうものなら、王女は間違いなくあの男を刺していただろう。
しかし、今はそんなものはなく、男の虚言を止める手だてもない。
「間違いありません。私が女王のお腹の子の父親なのです」
宣言するように、高らかにヘルウェール・サヴァーニは言った。
その横で、父親のサヴァーニ伯はほくほくと喜んでいる。自分の息子が国王となることを考えているのだろう。
冗談ではない……! あの男と連れ合いになるくらいなら、死んだほうがましだ……!
王女が、再び否定の言葉を口にしようとしたその時、会議の間にりんとした声が響いた。
「それは違います」
驚いて視線を転じると、そこには老神官、パリス、サリアと、そして王女付きの侍女を大勢従えた大神官エディアールが立っていた。
「大神官殿、遅刻ですよっ」
大臣の一人が、叱咤する。
発言したその大臣に軽く会釈をすると、若い神官はそのよく通る声で言った。
「申し訳ありません。多少、用意するものがありまして……」
彼は微笑んでいた。優雅に、そしてどこか冷たく。
目を見開いて、彼の登場に驚いている王女に、若い神官は微かにうなずいてみせた。
―――王女と目があっている時だけ、彼の微笑みは、やさしさが溢れていた。
エディアールは、つと視線を王女からヘルウェールに移すと、笑みはそのままに淡々と冷たい口調で告げた。
「御子の父親は、そこにいらっしゃるヘルウェール殿ではありません」
美貌の神官の登場で静まり返っていた会議の間が、ふたたびざわめいた。
「……では誰だというんだっ」
わめいたのは当のヘルウェールだ。
彼の言ったことは、この場にいる誰もが問いたい言葉だった。
「私です」
また静まりかえってしまった場の中で、その様子にますます笑みを深めて、若い大神官は言った。
「皆様、信じられないような顔をしてらっしゃいますね。……もう一度言いましょうか? 女王様の相手は私です。私がその子の父親なのです」
その場にいる全員が、目を丸くした。唖然となった。
だが、一番びっくりしたのは王女だった。
彼にここに来ないように言ったはずだったのに。
なのに、いつの間にか帰ってきていたサリアとパリス、老神官や自分付きの侍女たちを連れて入ってきて、自分が子供の父親であることを宣言した。
こんな事態は想定してなかった。
なにがなんだか判らずにサリアの方に視線を転じると、それに気づいたサリアは小さく手を振ってくれた。
―――かすかな安堵と共に、胸の奥がじんわり暖かくなった気がした。
「しょ、証拠はっ!」
愕然としながらも、ヘルウェールは言った。
そんな彼に、エディアールはフッと笑ってみせた。
「証拠、ですか? ……私自身ですよ。私自身がそのことを知っています。覚えています。そして、女王様の宿っている命が、その証です」
ゆるぎのないその言葉と口調に、ヘルウェールは押し黙ってしまった。
パリスが一歩前へ出た。
「皆様。女王様が毎晩行っていた場所とは、大神官殿のところです。私と私の婚約者であるサリアも何度かご一緒いたしました。誓います。たしかに女王様でした。…これは証拠の一つになりませんか?」「そうです。何度も何度もご一緒しました」
とサリア。
「女王様がお忍びをしていたことは、私たち全員が証言します」
侍女たちがうなずく。
大臣たちは、ことの成り行きを黙って見守っていた王女と、そして問題のエディアール大神官を交互に見た。
二人は彼らにしか分からない視線を、じっと交わしていた。
―――数々の証言より、それが何よりの証明であった。