第三章 海辺の国の女王 7
王女が自分の身体の異変に気づいたのは、あの夜から二ヵ月近くたってからのことであった。
食欲がなかった。 それに微熱も続き、身体全体がだるく感じられた。
そのことに、王女自身が訝しげに思うのと同時に、王女の身体の不調について最古参の侍女が勘づいた。
「女王様」
食事を前にして、気分が悪くなってしまった王女に、水を差し出しながら今年二十八歳になる侍女は言った。
「いったい、どうなされたのです? 最近、女王様は変です……」
「……ああ……」
どうなされた、と聞かれても、王女自身何がどうなっているのかわからないのだ。
具合が悪いのは、女王としての激務に疲れが出たせいだと思っていた。
「忙しいからなぁ。すっかり体調をくずしてしまった。そなたにも迷惑かけるな」
「いえ。……でも、王女様、疲れていると思うのなら、夜出歩くのはお止めください」
侍女がはっきりした口調で言うので、王女はびっくりしてしまった。
今まで噂になっていたが、直接お忍びについて言ってきた者はいなかったから。そして、侍女が叱るように言ったから。
「ただでさえ大変な実務をこなしておられるのに、睡眠時間を削って夜出歩くなんて、体調をくずして当然です。もうお止めください」
「…………」
女王が顔をしかめて黙ってしまったので、侍女は他の侍女を下がらせ、女王の私室に二人きりになった。
「女王様。私が初めて女王様にお仕えしたのが、十五の時。女王様は五つでした。それ以来十年以上、私は女王様にお仕えし、女王様と共に生きてまいりました。……私はいつでも貴女様の味方です。なにがあろうと、護ってみせますわ。女王様。仰ってください。一体、毎晩どこへ行かれるのですか? 何をしているのですか?」
「…………」
「悪いようには致しません。力になります。他の者には黙っています。……女王様っ」
「…………」
王女は俯いた。
出来るなら、やましいことはしていないと、彼女を安心させてやりたい。
しかし、それは嘘になる。
一度、たった一度だけ、王女は信頼を裏切るようなことをしてしまった。
老神官は、女王を信じている、と言った。皆も信じているから、何も言わないのだと。
……なのに。
つん、と鼻の頭が痛くなった。涙が出そうになる。
その様子を見て、侍女は目を見開いた。こんな王女は今まで見たことがなかった。
それゆえに、王女の身に起きた事全てを知って、力になってあげたいと思った。
「女王様。おっしゃって。お願いです。私がいます。皆、皆、女王様の幸せのために、尽力をつくしますわ……」
王女は顔をあげた。
こんなに心配してくれる人間に、嘘はつけないと思った。
それに、老神官同様、王女は彼女を信頼していた。
それで、王女はぽつりぽつりと話しだした。初めて会った時のこと。サリアのこと。祈りのこと。そして……あの夜のことを。
侍女は、ヘルウェールのことを知って、ひどく憤慨したようだった。
「許せませんわ。あの男。女王様を、女王様を、事もあろうか、襲うだなんて……! それで、何ともなかったのですね?」
だが、彼女は王女と若い神官のことは怒らなかった。やさしく笑って、
「だって、女王様は、あの方の事お好きなのでしょう? 好いた方と結ばれたのを、何で怒りましょうか?」
王女はその言葉にあやうく涙が出そうだった。
そして、女王として、こんなに優しく頼もしく、自分をもりたててくれる人達が傍にいてくれたことを感謝した。それには、当然、老神官の事も含まれている。
「女王様があの方と結ばれるのに、何の障害はありませんわ。この国では国王の伴侶は貴族から、という法律なんてありませんものね。現に女王様の母君は、普通の庶民でしたもの」
突然侍女の話が、あの神官との結婚にまで至ってしまったので、王女は慌てた。
「ちょ、ちょっと待て。私とあの男は別にそんな仲なのではないぞ? それに、私自身、彼を男として意識しているのか判らないんだから」
「いいえ、女王様はあの方のこと愛しておられます。そうでなければ、なぜあの方が、女王様にとって特別なんですの? 女王様がお好きだから『特別な』なのでしょう」
「……そう、なのか……?」
「はい。……でも……」
笑っていた侍女は、そこで少し顔を曇らせた。
「……ここで問題なのは、女王様がその方をどう思っているのかでも、あの方が女王様をどう思っているのかでもありません。……女王様の、最近の体調のことです。私は結婚しておりませんし、当然子供もいないんですけど…………」
その台詞で、王女は侍女が何を懸念しているのかが判った。
「ま、まさか……? いや、だって、あれ一度なのに……」
思わずお腹に手をやる。
「一度だって、何だって出来るものは出来ますわ。……ずっと食欲がないんですよね? 微熱はあるし、身体がだるいのですよね……?」
心配そうに、でも諭すように言う侍女の言葉に、王女はぎゅっと両手を握りしめた。
―――懐妊。
―――あの神官との、子供。
胸が締めつけられる思いだった。
「……私、お医者様連れてきますわ」
意を決したように顔をあげ、部屋を慌てて出ていく侍女を見送り、何かの予感にそっと身体をふるわせる王女だった。