第05話
お昼下がりの、王子様の私室。
わたし・アンゼリカは、ひとりきり。彼のベッドの上で、ぽわぽわ、ぼうっとしつづけている。
お休みが明けたリュート様は、執務室だったらしいお隣のお部屋へ、お仕事に行ってしまった。
……とても、静かだ。
時折耳へ微かに届くのは、執務室の扉の開閉音と、恐らくかなり高位であろう部下らしきかたの、なにか尋ねるような声。
リュート様の声が、その度に短く返されているみたいだった。
ベッドにちょこんと座ったわたしの足首には、変わらずリュート様の『鎖』が懐くように絡みついている。
いつもだったら、魔術式の研究に勤しんでいる時間。
この領域に研究に使える器具や図書がないのもあったけれど、ただ、もしもすべて、充分すぎるほどそれらが揃っていたとしても、今日は手をつけられなかったように感じる。
――このようなこと、今までなかったのに。
本当に、初めてだった。粛々と、魔術式のことだけできれば、わたしはそれだけでよかった。
けれど今はもう、ただ胸に広がった『かなしい』だけではない、この『気持ち』の名前――答えが、知りたくて。
考えても考えても、しかしまるで、口に含めば淡く溶ける綿菓子みたいだった。確定はせず、すりぬけるばかりだった。
手持ち無沙汰なのは確かで、わたしはそのうち、正座の状態から丸まるように座りなおす。
気の向くまま、目に入った、生きものみたく小さく蠢く『鎖』を、折り曲げた人差し指の背ですりすり、と撫ぜてみた。
途端、隣の部屋から、ごんっ! と、なにやら固いもの……? がすごい勢いで、なにかに打ちつけられたような音が響く。
「殿下ぁあああぁあ!?」
続いて、先ほどからリュート様と遣りとりをしていたと思しき、偉い感じの部下のかたがたの悲壮な声が轟いたことに、わたしは、ぴゃ、と『鎖』から手を離す。
お隣と、びくびくとどこか嬉しそうに動く『鎖』を交互に見て。
(うん……??)
取りいそぎ、できるだけ足を伸ばして『鎖』から距離を取ることに決めた。
***
とんとんとん。
不意に、重厚な扉のノック音が響く。
わたしのいる、リュート様の私室宛だ。
ベッド上できょろきょろと視線を惑わせるも、『鎖』の反応はない。
出ても、だいじょうぶ、なのかな……?
わたしは恐る恐る、声を上げた。
「はい……? ど、どうぞ……?」
“失礼いたします!!”――そう、凛々しく響いた明るい声と、かちゃかちゃと付随する鎧が奏でる金属音。
わたしは、覚えのある彼女……ううん、彼の声に、目がきらきら輝く。
「うぉおおおん! 今日もあまりにかわいくって、どうもありがとうございますー! アンゼリカ殿~!!」
ベッドにダイヴする勢いで飛びこんできたのは、ハンスさん。
武に秀で剣を愛し、遂には齢二十一という異例の若さで、王国騎士団長の地位に就いた、お城では有名なかただ。
リュート王子様の乳姉弟でもあるらしいこのかたは、わたしとの初対面で、本来のハンナという名前でなく、ハンスと呼んでくれると嬉しい! と、にこっと笑いかけ、まるで演武のように麗しい騎士としての礼をとってくれた。
ぎゅうぎゅうに抱かれ、わたしは、はぷはぷ、必死に息を継ぐ。
「ハンスさん、ちょっとだけ、くるしい……」
「あっ、申しわけない……! でもいい香りする! 柔らか! 天上というのは、美少女の温もりの中にしかない!! って、痛ァ!!」
とうとう、リュート様の『鎖』が背後からハンスさんの後ろ頭を、とんでもない勢いで叩いた。
ハンスさんもさすがのもので、その瞬間、『鎖』に向きなおったかと思うと、それらを手繰り、掴み、ジャララっ! と、幾筋もの『鎖』とハンスさんの、取っ組み合いみたいなかたちになってしまった。
「ちぃっ、このむっつりが! アンゼリカ殿の衣服、何だこの趣味全開さ!! 最高にかわいいな、私はこのデザインなら黒派かもしれない!」
反射的にわたしは、純白の、胸もとが大きく開いた衣装をばっと腕で覆った。
リュート様の『鎖』も、“それもいいですね……?”と言わんばかりに、逡巡するような動きを見せないこと! あとで叱る。
「まったく、かっこよく登場を極めたかったのに……台無しじゃないか。リュート……主君よ、これより先は動いてくれるなよ」
もう手遅れじゃ……とごくり、と息を呑んだわたしへ、ハンスさんは先ほどまでの楽しさが嘘のように、恭しく跪いた。
「アンゼリカ殿、我々のほとんどは、全てを知らされておりません」
「……」
「知らないまま、我が君が築いた人徳だけで、城の者たちはおふたりを取りもとうとしておりました。この……『鎖』すら、王族を除く国の上層部で知りえているのは、私の家と、あとひとつほどでしょうね。――怖いですか?」
わたしは自身の身を腕で抱いたまま、続きを促すことしかできない。
「間違いなく、我が国の暗部です。ただ、個人的には……」
ハンスさんは、美しい太陽のようなオレンジの瞳で、わたしをまっすぐに見た。
「私は、『番』であらせられる貴女が……貴女だからこそ、リュートを止めませんでした」
「ハンスさ……」
力なく垂れていた『鎖』が、ぴくり、と動く。
「もし逃れたいならば、お声がけくださいませ。逆賊となろうとも、このハンス=ルーカス、アンゼリカ殿をお守りいたす」
「――……」
そう言って、ハンスさんはわたしへ跪いたまま、目を静かに伏せた。
(わたしは。向きあわなければならない)
今、わたしが言えることは。
「わたし、本当にわからないことしかないです」
「……はい」
「ただ、ひとつ決めたこともある。――ちょっとえっちに見えるお洋服しか用意していないリュート様を、まずはいっぱい叱ります!!」
「――は、」
「知らないことは、知る可能性もあること。ひとつひとつ尋ねて、それは違う気がする、とか。くるしかったらわかるまで考えたい。わたし、なぜかはわからないけれど……どうしてか、リュート様にはそう在りたい、と思う、です……」
説明が、きっと上手にできていない。
けれどハンスさんは、きれいな顔をくしゃっと歪め、涙目になりながらも笑んだ。
“貴女が、リュートの運命でよかった”と言って。
***
ハンスさんに再びぎゅうぎゅうと抱きしめられていると、再び控えめなノック音がした。
「失礼いたします~。アンゼリカ様、お茶のお時間で……あらあらぁ、お邪魔でしたかしら~」
その姿に、わたしだけでなく、ハンスさんまでびくぅっ、と反応する。
まず最初に、上ずった声で応えたのはハンスさんだった。
「イイイ、イブ殿!! アッアッ、ご機嫌麗しゅう!」
がばっ、と勢いよくわたしから離れたハンスさんのお顔は、心配になるほど真っ赤である。
「ふふふっ、いいのですよぉ。構わず続けてくださいなぁ」
とても楽しげに、とても美しい所作でお茶を淹れはじめた、お城の女性用給仕服をまとった彼女。メイド長を任されている、イブさんだ。
おだんごにして横髪だけわずかに垂らした髪は淡い水色をしている。柔和な笑みを浮かべたまま、宝石でできた蜘蛛がアクセントになっている髪飾りが、イブさんが動くたびに、しゃらり。上品にきらめいた。
……実は、わたしはちょっとだけ、ここまで優しげなイブさんなのに、どうしてか怖い、と思ってしまっている。
一方のハンスさんは、なぜか錯乱しているのかなと心配になるほど、手を左右に忙しなく高速で振りみだし、言いつのった。
「違います! 私はどちらかというとピュアに属する紳士でして、下卑た思いで女体に触れるような不埒者では決して……ッ!!」
「へ~ぇ、そうなんですかぁ~。……ああ、でもぉ」
はんなり、と微笑んだイブさんは、つうっ。豊満な胸を寄せるように自らの腕を操り、艷やかにうるんだ唇を妖しくなぞりながら、言葉を継ぐ。
「わたくしには、掠るほども触れてくださらなくて……寂しいかもしれませんわぁ……?」
わたしは、あわあわとなりながら、忙しなく両者へ視線を送る。
これ以上ひとは赤くなれないだろうという赤さを遥かに超えて肌を紅潮させるハンスさん。
鈍いと言われがちなわたしにも、びっくりするくらいわかった。ハンスさんって、イブさんのこと……。
当然と言えば当然だけれど、ハンスさんは、即座に音を上げてしまった。
「ぴ、ぴいいぃ! 本日は失礼、アンゼリカ殿、イブ殿おおぉ!!」
奇声をほとばしらせ、逃げるように王国最強の騎士団長は退出を図る。けれどハンスさんは、やはり良家の血筋らしく、部屋から飛びだす直前で、失礼いたしました、おふたかた、何卒素敵な一日を!! と勢いよく頭を下げていった。
「あぁん、逃げられてしまいましたわ~、ほんっとうにかわいい……♡さ、アンゼリカ様、お茶をどうぞ~」
今にも舌なめずりが始まってしまいそうなイブさんだけれど、あまりに何事もなかったかのように麗しく茶器を差しだされ、わたしは虚を衝かれたようになる。
「あぅ、どうもありがと、ございます……」
「では、わたくしは下がっておりますね~」
やわらかい笑みとともに、優雅に去ろうとした背の高い彼女のエプロンドレスの裾を、わたしはとっさにつかんでいた。
「ま、待って……!」
わたしはわずかに怯えながらも、彼女に声をかける。
「はい~?」
続いたわたしの言葉に、イブさんは珍しく、ちょっとだけ意外そうに、その金色をした瞳を見開いた。
「いっしょに、お茶をしませんか……!」
***
「これはぁ……、リュート殿下にやっかまれちゃいますねぇ〜」
向かいあうように座ったイブさんは、洗練された立ち居振る舞いでティーカップに口をつけ、にぃっ、と蠱惑的な笑みを浮かべる。
みずみずしく濡れたくちびるが、探るようにかたちを蠢かせてゆく。
「……それで、アンゼリカ様はどうしてわたくしをお茶へお誘いに?♡」
リュート様の『鎖』は、わたしの足へ確実に巻きついたまま、まるで不機嫌なときのねこさんのように、ふかふかな絨毯を、たしっ、たしっ。軽い音を立てながら叩いていた。
わたしは、王子様の『鎖』を安心させるみたいに、そっと柔らかく触れる。それからあたたかなカップを手に包みなおし、目線は下のまま、イブさんへ伝える。
「……いっぱい『展開』しているから。びっくり、しちゃうくらい」
わたしの魔力は、紅色の瞳が示しているように、すごく高いらしい。その目は魔術式の流れを見定めるのにも適しており、イブさんのからだから数えきれないほどの魔術式が展開されているのを捉えていた。
しかも、あまりに保持困難かつ複雑な、それでいて基本は同一の魔術式構成――。恐らく、組まれている術式の正体は……。
イブさんの整いきった顔をちらっとうかがう。
穏やかに紅茶を嗜むイブさんの表情は、驚くほど凪いでいた。
「へぇ〜! ――気づかれたこと、なかったのに」
“もしかして、どんな魔術式かも丸裸だったりするのかしらぁ〜?”。
そう、誘うように笑うイブさんの目は、冷えきっており、かけらも笑っていなかった。
ただ問われるままに、わたしは応える。
「……『分身』」
ついっ、とイブさんは視線を外した。上がった口角は、少しだけ皮肉げに歪んでいた。
「本当に、驚いたな」
素っ気ない、実直さがにじむ口調。『ほんとうのイブさん』、なのかもしれない。
「べつに、だれかに話すつもりはなくて……多分リュート様も知っていることと、思った」
現に『鎖』も、沈黙を守っていた。
「そうですねぇ……、ハンスさんにすら、『しー』ってしていることなので、そちらだけお伝えしておこうかな」
「本当に、言わないです」
イブさんが日常から操る、目を瞠るほど複雑な魔術式。恐らく古来より改良が重ねられ、もはや禁術に近しい構成だった。
見かける度、気になって考えてはいたけれど、回答としては、やはり『分身』。
王国騎士団長という国の要であるハンスさんすら知らない責務。
リュート様の『鎖』にも、一切動じることはない――。
そしてもうひとつのイブさんにかかる、人体の定義を壊す『呪』すらも……恐らく『ご自身で解ける』性質のそれには、触れないまま。
「わたしの、わがまま。お話も要らないの。少しだけ、からだを休めて……倒れちゃったら、悲しいから」
「――不思議なかた」
ひとりきりのときより、静かな時間。
見たくないものも、きっと今もたくさん探して見てしまっている『彼』。
イブさんのみならず、ハンスさん。そして、リュート様……。多くのかたがたの苦しみや痛みの上に国が成っている。
リュート=シュヴァルツェトレーネン様。第一王子様で、唯一の王位継承者。
彼に求められたわたしに、できることってなんだろう。
わたしはどこか縋る思いで、カップへ口を寄せた。
***
日も落ち、お仕事を終えたらしいリュート様が私室へ戻る。
耐えかねる、焦がれていたといわんばかりに、彼はわたしへ腕を伸ばした。
刹那、ふたりを遮りたいと言わんばかりに、ひらりと、氷のように透明で澄んだ封筒が、炎をまとってふたりの前で舞った。
「……あ!」
警告のように燃えつきた封筒。わたしには、もちろん見覚えがあった。この魔力、そしてこの封筒が示すものは。
「アンゼリカ! 怪我は!」
がばり、と庇うようにわたしを抱いた美しい王子様へ、わたしは焦ってきゅう、と彼の衣服を小さく掴みながら言いつのる。
「リュート様! お母さんが来る! すごく、怒っている……!!」
魔術師史上最強と謳われる、壊炎氷定の魔女――リリス=イストワール。
わたしはふにゃあ、と泣いてしまいそうになった。
この燃えかたをする手紙が送られたときの意味は。
『アンゼー! ちょっとそこまで地獄を起こしにゆくから、よろしくな……??』
という、破壊宣告、だったから――。




