THINK DIRTY OUT
隙間風が抜ける廊下を抜けて2階へ続く階段の押し殺した泣き声のような軋みを思い、目線を下に向けた。床板の隙間から冷気が上がってくる。爪先から膝の裏まで、じわりと寒さが這い上がってくるようだった。廊下の端に置かれた古いストーブはとっくに消えていて、窓ガラスの向こうでは雪が降っていた。細かい雪が街灯の明かりを横切っている。地元の冬は寒い。といってもここ以外の場所なんて暮らしたこともないのだけれど。それでも、今年の寒さはどこか質が違う気がしていた。
古い家は、住む人間の気配に敏感になる。柱も床も、長年そこにいる者の重さや歩幅を覚えてしまって、他人には見せない声で鳴くようになる。この家が覚えているのは、私と友紀、たった二人分の足音だけだった。両親のぶんの軋みは、もうずいぶん前に忘れられてしまっている。それでいいと思う日もあれば、そのことに気づくたびに喉の奥が腫れ上がるように冷たく重くなる日もあった。今日はどちらでもなかった。ただ静かで寒いだけの日だった。
台所の換気扇の音だけが、この時間の家に唯一残る生活の音だった。鍋の底で味噌がゆっくり溶けていくのを見ながら、私は何度も同じ動作を繰り返す自分に気づく。菜箸で鍋の中身をかき混ぜ、火を弱め、また強め、蓋を少しだけずらす。誰に見せるためでもない儀式のようなものだった。手を動かしている間だけは、2階のことを考えずに済んだから。
盆に乗せた椀からあがる湯気が、暗い階段の途中でふっと揺れて消える。手のひらに伝わる熱だけが、この家の中でおそらくいちばんかけがえのないものだった。段を踏むごとに、その熱がわずかずつ逃げていくのが解る。2階の廊下は1階よりも寒い。窓の隙間から入り込む風が、閉め切られたカーテンの裾をわずかに揺らしている。裸足の足の裏に、板の目の凹凸が刺さるように冷たかった。
階段の中ほどで一度立ち止まり、椀の中の味噌汁が波打つのをじっと見ていた。表面に浮いた油の膜が、街灯の光を受けてわずかに光る。それだけのことに、しばらく見入ってしまった。時間を稼いでいるのだと、自分でも解っていた。あの部屋の扉を開ける前の、ほんの数秒。それだけが、私にとって唯一の猶予だった。
「友紀」
ノックもせずに扉を開けても弟は怒らない。慣れたものだ。なに、と唸る背中に、ご飯、と投げた。声は思ったより硬く出た気がしたが、気にしないことにした。
部屋の中は、いつものように光源がひとつしかない。モニターの青白い光が、机に向かう弟の輪郭だけを浮かび上がらせていて、その他のすべてを闇に沈めている。カーテンは今日も、いつからそうしているのか思い出せないくらい長く閉め切られたままで、外の雪明かりも、街灯の色も、この部屋には届かない。飲みかけのペットボトルと、電源の切れたままの携帯が、机の端で埃を被っている。空気は薄くお香の匂いを含んでいて、それが友紀の匂いなのか、この部屋自体の匂いなのか、もう区別がつかなくなっていた。ドアを開けた瞬間だけ、廊下の冷気とこの部屋の淀んだ空気が一瞬混ざり合い、すぐにまた分かたれる。
床には脱ぎ捨てられた服が幾重にも重なっていて、その上には空き缶が転がっていた。壁際に積まれた漫画本の山は、もう何ヶ月も動かされた形跡がない。埃の積もり方でそれが解る。かつては窓辺に置かれていたぬいぐるみが、今は部屋の隅で埃を被ったまま、こちらに背を向けて転がっていた。
「あと10分」
「その10分で何人見るの」
「今日は少ないよ」
キーボードを叩きながら友紀が声だけで笑う。乾いた、軽い笑い方だった。前はもっと違う笑い方をしていた気がするけれど、いつからこうなったのか、その境目を思い出すことができない。記憶を巻き戻そうとするたびに、どこかで映像がすり替わっているような奇妙な違和感だけが残る。
「7人」
ため息をついた。数字が、実際の重さを持たずに部屋の空気に溶けていく。それが恐ろしかった。
「それ少なくない」
「3ヶ月前よりは」
「前は何人だったの」
「100くらいだよ。だから今日は平和」
私はもうなにも言わなかった。指先が冷えているのが解る。椀の熱がまだ手のひらに残っているのに、それとは別のところから冷えが広がってくる感じがした。
「平和、か」
呟いた自分の声が、思いのほか乾いていて少し驚く。友紀は振り返らなかった。ただキーボードを叩く音だけが、規則正しく続いていた。その音を聞いていると、まるでなにかの心臓の鼓動を聞いているような気になった。誰の心臓かは、あえて考えないことにした。言葉を継げば、それがこの家の当たり前として固定されてしまう気がした。数字は数字のまま、弟の指先の下で増えたり減ったりしている。それだけのことだと、何度も自分に言い聞かせてきた。けれど本当は、その、それだけ、という言い方こそが、自分たちがどこまで来てしまったかを一番よく示している気がしてならなかった。
代わりに湯気の立つ味噌汁を机へ置く。椀の底が机の木目に当たって、小さく硬い音を立てた。それでも友紀の視線は画面から離れない。指はまだ動き続けていて、その先で何が起きているのか、私にはもう聞く勇気がなかった。モニターの光だけが、規則的な瞬きのように部屋の暗さを引き延ばしていた。
「今日、雪すごいよ」
「へえ」
「積もってる。窓開けてみる?」
「別に、いい」
友紀の返事はいつも短い。会話を続けようとする私の努力を、悪意なく削り落としていくような短さだった。それでも私は続けた。この部屋で交わされる言葉が減っていくことが、なによりも怖かったから。
弟はこちらを見ない。それを解った上で、冷める前に食べて、と念を押せば疲労の影を落とした笑顔がようやく振り返った。
「ありがとう」
その笑顔だけは、昔から変わらない。小さい頃、熱を出して寝込んだ私の枕元に、こっそり果物を持ってきてくれた時と同じ顔だった。変わってしまったのは、その笑顔の周りにあるものすべてだった。画面の中身も、部屋の暗さも、この家に流れる時間の質そのものも。あの頃の果物の甘さと、今この部屋に満ちているお香の匂いの間に、どれほどの距離があるのか、私にはもう測る術がなかった。
扉を閉めて廊下に出ると、また階段が低く軋んだ。今度はさっきよりも、少しだけ長く尾を引いた気がした。まるで、この家自体がなにかを堪えているみたいに。椀を持っていた手をきつく握りしめ、湯気の消えた廊下を一階へと降りていく。一段ごとに軋む音が、自分の鼓動と重なって聞こえた。
階段を降りきったところで、もう一度だけ2階を振り返った。扉の隙間から漏れる青白い光が、廊下の暗がりにひとすじだけ伸びている。それを見ていると、あの光の向こうにいる弟が、もう自分の知っている友紀ではないのかもしれない、という考えが頭の隅をよぎった。すぐにその考えを打ち消して、私は台所へ戻った。
***
事務所の窓には結露が降りていて、外の雪明かりを白く滲ませていた。狭い室内には煙草の匂いと油の匂いが染みついていて、その中で鳴る爪切りの音だけが、やけに規則正しく響いていた。ようやく俺たちのようなものにも回ってきたパソコンの狭いモニターの切り替わる低い唸りと、外を時折通り過ぎる車のタイヤ音が、その規則性の隙間を埋めていく。
壁には貼りっぱなしのカレンダーが、10月のページのまま止まっていた。机の脚元には飲み終えた缶コーヒーが3本、行儀悪く並んでいる。誰かが片付けようとした形跡はない。この部屋の乱雑さは、もう長いこと誰の目にも留まらなくなっていた。
「惨殺の動画?」
等間隔に爪切りを鳴らしていた三波が顔をあげた。手の甲についた鱗のような瘡蓋に、蛍光灯の光が反射していた。
「ああ、ここ数年だったかネットでそういうやつが高値で取引されるようになってな。まあまだ大事にはならない規模だが、もうすぐに広まるだろう」
「ふうん、変な奴らもいるんだな。で、それがなんなの」
「見りゃ解る」
パソコンの画面には粗い解像度の動画が一時停止されたまま光っていた。障子の柄も、庭石の並びも、静止したフレームの中では作り物じみて見える。画面のノイズが細かく揺れて、静止しているはずの映像がわずかに息をしているように見えた。
三波が椅子を引き寄せて画面に顔を近づける。その動きに合わせて、爪切りが机の上でカタリと小さな音を立てた。
「このサイトは個人のものでまだ新しい。こうやってサンプルの画像やcmみたいに短い動画が載せてある。変わったところは映っているほとんどが日本人……特に俺たちみたいな奴らのものなんだ」
「へえー、色々やるんだねえ」
「お前さ、なんか見覚えないか?」
そう問えば三波は疑問符を浮かべてみせた。
「映ってんだよ、俺」
三波の指がぴたりと止まる。ばちん、とまた爪を切るとふー、と細い息を吐いて男が立ち上がった。椅子が軋み、その音が事務所の空間全体をいっそう際立たせた。窓の結露が一筋、音もなく流れ落ちた。
「マジで言ってんの、お前」
「冗談で言うことかよ」
「いや、そりゃそうだけどさ……」
三波は画面に顔を近づけたまま、しばらく黙った。数秒の沈黙が、やけに長く感じられた。
「それにこの石灯籠、見たことある」
「あ?」
「動画に映ってる障子、庭、湯船の造りも見たことあるんだ」
画面を一度閉じ、それからもう一度開いた。動画の中央にいる男たちではなく、その奥を見る。カーソルが震えながら止まった場所には、確かに見覚えのある影が落ちていた。
障子。神代杉を使った柱。雨に磨かれた石灯籠。
指が導かれるように画面を叩く。
「見覚えある」
「なにが」
「この灯籠」
画面を拡大する。粒子が荒くなり輪郭が滲む。それでも記憶の中の形とは狂いなく重なった。頭の中で、去年見た景色の断片がひとつずつ噛み合っていく感触があった。
「去年、組長について行った時に見た」
三波の顔から笑いが少し消えた。それだけで、部屋の空気の質が変わったのが解った。
「どこだよ」
「知らねえ。場所は聞いてない」
そう言うとため息をついた横顔が、じゃあなんで覚えてんの、と口を動かした。
「変な形だったからだ」
「変なのはお前の記憶力だと思うけど?」
「うるせえな」
三波は画面を覗き込み、しばらく黙った。息を止めているような、それでいて何かを数えているような沈黙だった。爪切りの音が止んだ部屋は、いつもより一段静かに感じられた。
「……これさ、お前のこと撮ってんの?」
「まだ解らん」
視線を下げてもあれこれ動く手が目に留まる。
「じゃあ調べる?」
爪切りの続きを少し気にしている三波を見る。いつもより少しだけ低く落ちた声色に、答えを決めるまでもなかった。
「調べる」
「うお珍し、意見合ったな」
「仕事だからな」
「はいはい」
座り直すと三波はまた爪切りを鳴らした。今度はさっきより少しだけ遅かった。刃の合わさる音が、部屋の静けさにやけに長く残った。
窓の外では雪が横殴りに降り続いていて、街灯の光の輪の中を白い粒がひっきりなしに横切っていく。その光景を一瞥してからもう一度画面に目を戻した。動画の中で静止した男の顔には、薄明かりを差し引いても見覚えはなかった。だが背景にあるものだけが確かに記憶と繋がっていた。
***
数日後、事務所の机には古新聞と手書きの地図が山になっていた。三波はその上に足を投げ出すようにして座り、ペン先で頬を突きながら口を開いた。天井の蛍光灯がひとつだけ小さく点滅していて、その光の揺れが古新聞の黄ばみをいっそう際立たせていた。
「軽く調べたけどさ、その……お前の言ってた宿とかどこにもねえぞ」
非難ともつかない声を背に積まれた新聞の年月を見て、それを掴んで捲った。
「この新聞に古書店の求人が載ってるだろ。ここの電話番号へ夜の1時に3回掛けるとまず電話交換手に繋がって合言葉を言うと女将へ繋いでもらえるからそこでようやく部屋の大きさと温泉を選ぶようになってるんだ」
「凝ってんだなあ……あれ?お前温泉嫌いじゃなかったっけ」
「おかげさまでな、あんなおっさんの出涸らしに誰が入るか」
「ええー新山って時々頭おかしいよな、あんな快適なのほかにねえよ」
その言い合いの間にも、三波は手にしたメモの余白に電話をかける時刻を書き写していた。普段の悪筆よりも走り書きの文字のほうが角ばった几帳面さを湛えていて、それはなんだか机の上に散らばった雑多な新聞の山と比べてどこか妙に不釣り合いに見えた。
「で、合言葉ってなんて言うんだよ」
「まだ聞いてない。夜1時になったら電話してみる」
「なんだよそれ、行き当たりばったりじゃねえか」
「行き当たりばったりでも進む方が、動かねえよりましだ」
三波は肩をすくめて、ペン先を今度は自分の顎に当てた。その仕草に、今夜これから起こることへの緊張がわずかに滲んでいるように見えた。
***
組長の部屋を辞す時、廊下に響く足音は普段より重く感じられた。障子越しに差す午後の光は弱く、部屋の中はまだ煙草の匂いが薄く残っていた。部屋を出る前、組長は湯呑みを傾けたまま、こちらを見ようともしなかった。ただ、行ってこい、とだけ低く言った。その声には普段のような気安さがなく、静かな重さだけがあった。
なにかを考えている男が、結んでいた口元を解いた。
「今回の仕事さ、普通の人巻き込んだりしねえかな」
「それでもカタギに迷惑かけないのが組長の教えなら、俺たちはそれに従うまでだ」
こう言えば普段なら頷くはずの男が今回はしぶとかった。何度目かの念押しでようやく頭を動かしたが、いつまでも渋い顔をしていた。その表情の理由を、俺はあえて尋ねなかった。聞けば聞いただけ、答えの重さを引き受けなければならない気がしたからだ。
廊下を歩きながら、三波が後ろから小さく囁いた。
「組長、なんかいつもと違ったな」
「気のせいだろ」
「気のせいにしとくのはお前の得意技だもんな」
「……黙って歩け」
***
車は雪の残る国道を淡々と走っていた。フロントガラスの端で溶け残った雪が、ワイパーの動きに合わせて薄く筋を引いていく。エンジンの低い振動だけが、俺たちの間の沈黙を埋めていた。
「なあ、さっきから思ってたんだけど」
助手席で足を組み替えながら三波が言った。
「なんだよ」
「この車、灰皿ついてねえのかよ、不便すぎねえ?」
「俺は車に乗る間は禁煙してるからな」
「僕が生きるか死ぬかの時くらい一服させてくれてもよくない?」
俺からすれば噴飯もののクソジョークを男はやたらと真面目そうに吐き出す。それがもう面白かった。
「生きるか死ぬかね……お前が言うんなら帰ってこれるだろうよ」
口にぬるく広がる笑いを噛み殺せばはたから眠気が這い上がる。窓の外を白い田んぼが流れていく。三波はしばらく黙って窓に頭をつけていたが、不意に思い出したように声を上げた。ガラスに映る自分の顔を眺めているようでもあった。息で曇ったガラスの跡が、指でなぞらなくても輪郭を保ったまま残っていた。
「そういえばさ、あの宿の女将さんって声だけなんだよな。顔見た奴いんの?」
「知らねえよ、聞いたこともねえ」
「なんか都市伝説くせえよな。声だけの女将」
「お前はなんにでもオチつけようとすんな」
雪で白くなったサービスエリアを横目に車は静かに通り過ぎた。なにもない雪道を進み続け何度めかの迷ったか、が脳裏に浮かびかけてやがて辿り着いたそこは、看板の文字も、駐車場の白線も、積もった雪の下でほとんど見分けがつかなくなっていた。
見渡す限り白色しかなかった雪景色の時から、三波は空腹を訴えている。
「お前さ、さっき食ったよな」
「ラーメンって飲み物だから」
「どういう理屈……」
「だからもう腹減ったんだよ」
そして煙草に火をつけながらよく動く目が斜め上で止まった。煙が窓の隙間から細く漏れ出て、外の冷気にすぐさま溶けて消えた。
「なあ」
「今度はなんだ」
「宿ってさ、卓球ある?」
返す刀で、知らん、と投げても勢いの減らない声が返される。
「温泉と言えば卓球じゃん」
「お前遊びに行くんじゃねえんだぞ」
「解ってるって……でもあったらやろうぜ」
解っていた。こいつはこうなるとしつこい。
「やらねえ」
「絶対やろうぜ」
「やらねえって」
「負けるから?」
その部分だけ変にトーンを落とすと、男は悪戯が成功したように口端を上げた。
「うるさい」
その返事だけで三波はようやく満足そうに窓へ額を預けた。車内には彼の呼気で曇ったガラスの跡だけが残っていた。しばらくすると、規則的な寝息が聞こえ始めた。眠っているのか、それとも眠ったふりをしているのか、判断はつかなかった。ハンドルを握る手に、無意識に力がこもっていくのが解った。
***
しっかりと寝ていた三波を起こし、まだ寝呆けている足取りを軽く踏んだ。抗議の表情に俺はしゃがんで、カメラ買いに行く、と雪と一緒に投げつけた。
「えぇ、今からカメラ買うの?こんなとこであんのかよ、お前が金出せよな。僕今文無しなんだぜ?」
「来るまでも来てからも余計なもん買うからだろうが。いい加減お前は節制を覚えろ。それに俺はあてがあるから言ってんだよ。ついてこい」
歩き出した先、雪道の端に古びたワゴン車が停まっていた。屋根の雪はまだ誰にも払われておらず、車体の輪郭を白く鈍らせている。夜通しそこにあったことは、一目で解った。そして、それを目にした瞬間、三波は露骨に顔を顰めた。
「なんでブンヤなんか……あいつ苦手なんだよなあ、うるせえし。つうかなんでここいんだよ」
三波の愚痴を無視して、凍りついたドアハンドルに手をかけた。冷たさが指先から伝わって、一瞬だけ肌が強張った。
「おい新聞屋、目貸してくれ」
「おうおうなんや目だけか?私全部がおったほうが都合ええと思うんやけどなあ」
「解ってんならさっさと来い、時間の無駄だ」
背に聞きながらその返答に違和感を覚えた。声の張りはいつも通りなのに、どこか語尾が滑るような、力の抜け方があった。ドアを開けた瞬間、車内の空気が異様に湿っていることに気づいた。
「しかしおたくらこんなとこまでよう来たなあ。どうなっても文句いいなや」
眦を品なく下げたその顔に三波は、てめえこそな、と吐いた。
「いやあ前の仕事で壊れてもうてなあ……せっかくの私の新しい目がやくざどものために活躍せんでええことを祈りますわぁ」
そう言うと井佐美はハイライトに火をつけて両足をハンドルに乗せた。それからはもうなにを聞いてもまともな答えは返って来なかった。
***
雪原の奥に建つ宿の輪郭が、木立の切れ間から不意に姿を現した。屋根に積もった雪の白さが、周囲の暗さの中でひときわ目を引いた。妖館と書かれた大袈裟な表札を三波が睨んでいる。
「この宿……なんて読むんだ?」
「先輩が言うにはヨウカンだったはずだ」
「へえーしかし食えそうにねーな」
「……お前がそう言うと意味が増えるんだよ」
宿のかなり広く作られている駐車場はすでに満車で、仮設の駐車場を探してもそこも満車だった。目的地まで結構歩くような場所でようやく車から降りてひとり考えた。これだけ車があると言うことは相当な組の人間が出入りしているということだ。危ない橋を渡ることなんて今更躊躇いはないから、またとないチャンスだと思った。
吐く息が白く伸びて、すぐに闇に溶けていく。雪を踏む音だけが、しばらくの間ふたりの間にあった。足元の雪はまだ誰にも踏まれていない場所ほど深く、一歩ごとに靴が沈んだ。
「ここにいる奴らには基本手ぇ出すなよ」
「……うん」
「従業員も客もだ」
「解ってる」
重ねるほどに三波は少しだけ面倒そうな顔をした。
「巻き込むな」
その顔にもう一度叩き付ければ男は口を尖らせた。まるでガキだ。
「解ってるって」
「お前は忘れるから言ってる」
「忘れてねえし」
三波は雪を踏みながら数歩先へ進み、それから振り返った。吐く息の白さの向こうで、その表情はいつもより少しだけ柔らかく見えた。
「しかし組長も変な人だよな」
「なにが」
「僕らみたいなの拾って、カタギには迷惑かけんなって言うんだもん、普通逆じゃね?」
なんとなく、俺はそれに答えなかった。積もった雪の上に、自分の足跡だけがくっきりと残っていくのを見ていた。振り返れば、二人分の足跡が宿の灯りに向かってまっすぐ伸びているのが解る。
三波もそれ以上聞かなかった。
「ま、それだからついてってるんだけど」
そう小さく言いきると、さっさと先へ歩いた。その背中を追いながら、宿の灯りを見上げた。障子越しに漏れる光の色が、あの動画で見たものと同じかどうか、まだ確かめる術はなかった。
宿の門をくぐる直前、三波が足を止めて雪を見上げた。降り積もる粒が、街灯の光の中で無数に瞬いている。
「なあ、今夜のこれ、綺麗だと思わねえ?」
「思わねえな」
「思えよ少しは。人間らしくねえぞお前」
「人間らしさなんざ、とっくに刀の錆にでもなってるだろ」
吐き出した自虐に三波は息だけで笑って、それ以上は何も言わずに宿の玄関へと歩き出した。
***
雪明かりに照らされた宿の外れ、自動販売機の光だけが不自然に明るい一角があった。ボタンの並びに反射する雪の白さが、妙に現実感を薄めていた。機械のモーター音がかすかに唸り、周囲の静寂の中でやけに大きく聞こえた。
「なあ新山、なんか飲む?」
「別にいらねえ」
「いや奢るからさ、なんか言えよ。あ、奢るってのは当たったらな」
筐体のパネルランプには、今なら高確率!という文字が点滅している。
「……じゃあブラックの」
「うわ、ほんっと趣ねえよなお前。僕はこの謎の紫のジュース飲む」
「毒だろそれ」
「毒だとしても死なねえよ多分」
三波は買ったばかりの紫の缶を一口飲んで、微妙な顔をしたあと黙って缶を俺に差し出した。湯気の立たない冷たい缶の感触が伝わってきた。
「俺は毒味係か」
「いやあ?頼れる相棒だなって」
「思わなくていい」
空気に圧され一口飲んで、思ったより不味くなかったそれに舌打ちをした。三波はその反応だけで満足したように、残りを一気に飲み干した。潰れた缶が雪の上に落ちる音が、やけに軽く響いた。
「あ、」
三波の声に振り向くと、自販機のランプが点滅し急かすような間隔でピピピ、と僅かに鳴っている。
「やべ、忘れてた!」
「おい早くしろよ終わりかけてるぞ!」
「やめろ急かすなよ僕そういうの効くタイプなんだよ!」
「じゃあ黙ってやれ!」
急にIQの下がり始めた男はばんばんとパネルを闇雲に叩き出すかと思えば肩を下げて、あーあ、と唸った。
「壊れてる、この自販機」
「お前が壊したの間違いだろ」
「違えよ!見ろよこれ!」
刺した指の先にある釣り銭カバーの上には、当たり機能故障中、と紙が貼り付けてあった。
「俺、ブラックな」
「……えっと」
「ブラックな」
それだけ言って踵を返すと、少しして小銭の擦れる音がした。
宿の廊下を歩きながら、片手に缶を3つ持った三波が不意に横目でこちらを見た。雪の匂いが薄れ、代わりに畳と湯の匂いが濃くなっていく。廊下の板張りが足音を吸い込み、外の静けさとはまた違う質の静けさが辺りを包んでいた。結局あの自販機は誤作動中らしい。
「なあ新山、お前さ」
「なんだ」
「僕が寝てる間に刺したりしねえよな」
真剣そうな口ぶりに笑いそうになるのを堪える。
「しない」
そう答えると三波は勢いよく俺を覗き込んだ。
「即答かよ」
「寝顔がうるさい」
「悪口じゃねえか」
破れたように大口を開けて笑った。
「ま、お前嘘つかねえもんな」
そう言うと三波は俺に缶を押し付けると銭湯への角を曲がった。
部屋に付いた風呂で温まって備え付けの冷蔵庫からコーヒーの缶を取り出そうとした時、部屋の扉ががらりとあいた。
湯気の残る廊下の先、三波に肩を貸されながらまだ湿って重い白く脱色された髪をした男がふらふらしながら立っていた。壁に寄りかかったその輪郭は、普段のふてぶてしさよりも、どこか頼りなく見えた。廊下の温い湯気が、二人の輪郭を柔らかく滲ませていた。
「なんでそんな奴連れて……のぼせてたのか?」
そう聞けば三波はあからさまに目線を外した。風呂から出たばかりの首筋に嫌な汗が浮いた気がした。その反応だけで、話が単純なものではないことは解った。
「あー……ちょっと露天風呂で殴り合いになってさ」
「お前な……!一応聞いとくが風呂の庭とか壊したりしてねえよな?」
「ほんと待ってお前も聞けば解るって、大変だったんだよ?水風呂に突き落とされたり椅子と桶が飛び交ったりシャワー振り回したり」
「待てよ庭どころじゃないだろ……範囲広がってんじゃねえかどうすんだ馬鹿!」
「さすがに悪いとは思ってるよ、でも壊してねえって!」
ぬら、と光が動いて前髪にふくらむ水滴に歪ませた目をゆるめた男が、本当に壊れたりはしてないから信じてやってよ、と言った。その笑い方には、痛みを隠すための余裕のなさが薄く滲んでいた。
「そんなに信じられないんなら見に行く?まあ壊れてたってあんたらには請求なんかいかねえでしょ」
「いや……そうなら、」
じゃあいいじゃん、これから忘れたもんないか見に行くんだけどいいの?と薄笑いが続けた。
「あ、ああ。別に俺は用はないから」
「三波と新山、だっけ。二人はなんでこんなとこにいんの?」
男の発言にいち早く反応した頭から飛んだ滴にため息が出る思いだった。いや、実際に出ていたか。どうでもいい現実逃避を蹴り飛ばす騒がしい声が俺の失態をべらべらと話し、男もなぜか楽しそうにそれを聞いていた。
少しして、名刺ねえな、と呟いた男はふと電話台の脇にあったメモ帳へ手を伸ばした。ペン先が紙をこする音が、湿った廊下に妙にはっきりと響いて、杷一行と少し癖のある字が走ったメモの切れ端を寄越した。
「なにこれ、名前?」
「うん、サライヒトユキって言うんだ。読みにくいでしょ?おれは気に入ってるんだけどね」
「ふーん、仕事は」
「生コン屋」
「生コン?それってコンクリートが生で生コン?だよな?にしてもうちじゃあんま見ねえシノギだけど」
「いやいや、おれのは本業だよ?つるんでるのがやくざだってだけ。お得意さんからはコンクリート詐欺師って呼ばれてる」
「変なの、でもいいな。うちにも使わせてくれねえ?」
「殴ったくせによく言うよ」
「そっちのほうが乗り気だっただろうが」
「ははっ、そうだっけかな?まあおれが売るのは繋がりだからね、必要があったら来てよ」
サライは笑った。その笑いには、どこか値踏みするような色が薄く滲んでいた。
繋がり。
その言葉だけが妙に耳に残った。金でも物でもない。人と人の間にあるもの。それを売る人間は、売った相手がなにをするのかまで責任を持たない。
「なあサライ、お前ってどっから来たんだ」
「えー東京辺りだけど」
「いや、そういうことじゃなくてよ」
「じゃあどういうことよ」
「なんつーか、堅気でもねえのに堅気みてえな顔してるだろお前」
サライは少し黙ってから、笑って誤魔化した。その間が、ほんの少しだけ長かった。そうして、白い指をゆっくりと口の前に立てた。
「秘密。喋ったら値段下がるからね、おれの情報」
「ケチくせえな」
「ケチじゃなくて商売っ気」
その笑い方が、いつもより少しだけ長く続いた気がした。三波はそれ以上突っ込まなかったし、俺も聞かなかった。聞いたところで、売る気がなければ答えない男なのだろう。
むきだしの肩をさすって、湯冷めしそう、と呟くとサライは廊下の奥へと消えていった。
***
新聞屋から連絡があったのは夜更けだった。急いで支度を済ませ指定された場所へ向かう。前に見た時より雪の落ちたワゴン車が雑に停められている。
開いたままの扉に近づいた。ワゴンの扉には這いずったまま手をあてたのか滑った手形がいくつも着いていた。開いたままの扉を覗くとシートに倒れ込むように井佐美が横たわっていた。車内灯の弱い光が、その姿を黄ばんだ色に染めていた。
「すまんな……ちょっとやられてもうたわ……」
遮る声を制して片腕をついてゆっくりと身体を起こすと口から血を垂らしながら固まりかけた鼻血を拭った。その動きは、痛みを飼い慣らした人間特有の緩慢さだった。
「逃げやすい位置におったんやけどな。やっぱ片目はあかんな。あーやっぱこれ左折れとるんか」
「なあ、目はどうなってんだ」
「あ?まあ撮れとるんちゃうか」
「そうじゃねえよ、なんでそこに血ついてんだよ」
一瞬鋭い目をした井佐美はすぐに元の人を欺くような顔つきに戻るとガーゼを外した。元は半分もいかなかった白目の大半がべったりとした赤で染まっていた。それを見た瞬間、狭い車内の湿った空気の意味が、ようやく腑に落ちた。
「そんな顔やめえや。まぶたは痛いけど目玉は痛いことない。前よりちょっと見えにくいくらいや。別に気になるもんでもないわ、元からこっちのほうが悪かったしな」
息をつくと再び倒れ込んだ井佐美は片手を上着のポケットに突っ込んでテープが引き摺り出されたカセットを出した。指先の震えを隠すつもりもないようだ。
「やっぱやられたか……こういう時の保険用は生きとるかな……多少音悪うても証拠は証拠じゃ」
腕をだらりと垂らしたまま井佐美が俺を呼んだ。
「すまんちょっと動かれへん、服の中に入っとるから勝手に探してくれ」
そう言われて手を入れたポケットは空だった。呻きながらカランと音をたてて落ちたカセットを井佐美は何度も裏返した。プラスチックのケースには細かなひびが入っていて、テープの一部が透明な窓から覗いていた。
「これ、聞けるかな、さっきまで録音機やったけど今はただの箱や」
「壊れてんじゃねえか」
「はっ私が知るか」
井佐美は笑った。乾いた血の匂いの中で、その笑い声だけが妙に軽やかだった。
「何が入ってる」
「全部は知らん」
「聞いてないのか」
「逃げるんに必死やったんや。私かて録音しながら命の心配くらいするわ……ただな」
井佐美が片目を覆っていた手をずらし、はっきりと天井を見上げた。裸電球の光が、赤く染まった白目にぼんやりと反射した。
「一個だけ、はっきり聞こえた」
「なにが」
「動画屋の話」
三波が一瞬顔をあげた。
「動画?」
「せや。誰かが、運営してる奴を知ってるみたいな話をしてた」
「それって、名前か?」
「違う、聞こえへんかった」
三波が考え込んだ様子で軽く頭を叩く。
「住所は?」
「それも聞こえへん」
「じゃあ何が解ったんだ」
肩を掴めば井佐美は少し笑った。
「姉がおる、姉弟二人で暮らしてるらしい、それだけ」
「使えね」
「新聞屋を何や思てんねん」
井佐美は目を細めた。血の滲んだ目尻が、その表情をより鋭く見せた。
「それだけあったら、私には十分や」
「なんで」
「人間一人探すより、姉弟二人探すほうが楽やからな」
俯いていた三波が口を開いた。その声には、いつもの軽さがなかった。
「病院のほうが先だろ」
「なに言うか思たら……最近のやくざ屋さんはえらい軟弱なんですのお」
「だってお前刺されてるだろ、隠してんのか知らねえけどさ血の匂いすげえんだよ」
「ははっ……三波さん、私の目え見せた時にあんたが言うたんやで、お前死ぬぞ、ってな。大当たりですわ。占い師になったらどうですか?」
その軽口の合間にも、井佐美の呼吸はわずかに浅くなっていた。それでも、目だけは天井の一点をしっかりと見据えたまま動かなかった。
「生まれてこのかた、私が何十年半端者してる思てんねん。人として作りの欠けとる奴が人並みに歩こうなんかあんたらからしても傲慢や思わへんか?私は生まれついての伏せ字で裏で墨塗りのモザイク。そういう中途半端に生きていくんが私が私に下した最後の正しさや……奪われてたまるか」
その言葉には、これまでの軽薄な口調とは違う、削ぎ落とされたような響きがあった。裸電球の光の下で、井佐美の横顔だけがやけに静かに見えた。
「あんたらかてヤの人や。モザイクには慣れとるやろ、クソガキちゃんらは雌雄同体って知っとるか、ま、スキモンの漫画にある立派なもんとは大違いですがのぉ」
乾いた、全てを軽蔑した笑いが落ちる。
「人間には珍しゅうてな、書面にはよう書かんのよ。時々蝶がこうなるみたいでな、種類によったら綺麗なもんなんやで……人間の私はそうはいかんかったけど」
「ぐだぐだうっせえな、僕の前で死ぬのは邪魔な奴だけでいいんだよ」
「やくざがこれ見て死ぬ思いますか?うっさいのんはそっちじゃぼけ」
そう言い切ると、井佐美は再び笑った。その笑い声は、狭い車内の湿った空気にいつまでも溶けずに残っているようだった。
「病院が嫌なら宿ならいいよな」
しばらくの沈黙のあと、三波が上着を脱いで井佐美の肩にかけた。ぶっきらぼうな仕草だったが、その手つきには、いつもの乱暴さとは違う慎重さが混じっていた。
「これ以上喋ってると死にはしなくても気絶したりすんぞ」
「あら、優しいやないの」
「優しくねえよ、面倒が増えるだけだ」
「はいはい、ありがとありがと」
井佐美は目を閉じたまま、それでも口元だけは笑いの形を保っていた。
***
夜の底に沈んだ宿の角を曲がると、雪の反射光だけがぼんやりと辺りを照らしていた。俺達が押さえた部屋の扉の前で小さく座り込んでいる人影があった。風もない、それなのにひらりと揺れるしろいかみ。その白さだけが、闇の中で異様なほど際立っていた。
「どいてくれ、今日の目当てはあんたじゃねえんだよ小ヤギさん……崖には行かなくていいのか?」
「……めえめえ」
睨みつける目に力を込めれば、サライはそんな怖い顔しないでよ、と笑うとポケットから写真を取り出した。若い男女、いや、少年と少女が写っている。指先に挟まれたその紙片は、薄明かりの下でもはっきりと二つの顔を映していた。
「なんのつもりだ」
「探してるんでしょ、このこたち。こんな育ちよさそうなのに厄介な悪さもするんだねえ」
差し出しかけた写真を手首を返して自分の元に戻すと、それを慣れた手つきで綺麗に千切るとまた俺へ差し出した。指の動きに躊躇いはひとつもなかった。まるで何度も繰り返してきた作業のようだった。
「新聞屋さんが怪我したって聞いたからさ、おれがあいつの代わり。崖の途中まで案内してあげようってわけ」
そう言うとサライは勝手に扉に手を掛け冷えた声で、鍵、と呟いた。その一言だけで、それまでの軽薄な口調とは違う何かが滲んだ気がした。
「姉弟の名前は?」
男はしばらく黙っていた。ちぎった写真の切れ端を、指の間でもてあそぶように弄んでいる。
「……片方だけなら」
勿体ぶるように男は足を組み直した。
「友紀って呼ばれてた。字はこう」
サライは自分の名前を書いた時のようにメモにそう記した。
「名字は?」
「知らない」
「おい」
「だから、片方だけって言ったろ」
今にも掴みかからんばかりの三波が舌打ちをして、サライはそれを見届けてくしゃりと笑った。その笑い方には、相手の苛立ちを楽しむような余裕があった。
「まあ名前が解ってりゃ十分だよ」
くつくつと喉の奥で笑いながら、サライはさっき自分で書いた名前に爪を立てた。
「なにが十分なんだよ」
「人間、名前だけで生活なんて出来ないからね」
「どういう意味だ」
「学校行く、病院行く、飯を食う、荷物届く、金払う、新聞取る、誰かと喋る」
男は白い指を一本ずつ立てた。夜気の冷たさの中で、その指先だけが妙に白く発光しているように見えた。そして最後に、どっかに痕跡が残る、と重く呟いた。
「……新聞屋のツレらしい探し方だな」
「褒め言葉として受け取っとくよ」
ニヤリと曲げた目尻に得体の知れないものが見えたような気がして頭を振る。井佐美がああなった今、頼れるのはこいつしかここにはいない。
「で、どうすんだ」
壁に肩を預けた三波は腕組みしたまま苛立ちを隠そうとしない。
「昔、こういう連中の出入りを井佐美が調べてた時に知り合った奴がいてさ」
「そいつが?」
「友紀の名字知ってるかもしれない」
三波が苦々しい顔をしている。
「最初からそれ言えよ」
朝、目を覚ますために二人で外を歩いていた時だ。宿の駐車場の方から、場違いに明るい声が近づいてきた。雪を踏む足音は軽く、まるでこの寒さも夜の空気も意に介していないようだった。
「あ、おった!お二人さんおひさー!」
「おぎゃーー!?なんでいんだよ肉なしソーセージ!」
肉を削いだように痩せているとはいえそれなりに背はある男に飛びかかられて三波は雪の上に倒れたまま目を何度も閉じたり開いたりしている。状況が読み込めないのはお互い様らしい。
「おもろ、三波くん言語回路どないなっとんの」
「……のシャブ中クソガリ野郎」
「うわまだ続いた。ちゅーかシャブはもうだいぶましなったわ!まあそんなんはええねん、はいさてどーもどーも出張乃美会、チュウエンくんだけの回です!」
痩せた男は雪景色に似合わない軽装でくるりと回って見せた。その動きに合わせて捲れたシャツから見えた腹の、雑すぎる手術跡がやけに目に留まって見えた。これでも二度直したという無理矢理引っ張って縫い合わせた皮膚とその下に余って縺れる皮。
「言っとくけどさ、帰れよ?解ってんだろお前何しにきたんだよ」
「アホやな三波くん、俺がそんなん言われたくらいで帰る思うか?高速乗って死にかけたから下降りたらそれはそれで死にかけたんやぞ」
「なおのこと帰れよこっち多分向いてねえんだよ」
「三波くん帰りついてきてくれへん?俺どうせ愛知で死ぬから。今回乗り切れたの奇跡やから」
馬鹿二人のやり取りを眺めながら、俺の頭にはあの映像が流れ出していた。
「めんどくさっ……なんで来たんだよ」
「ん?勧誘やけど?」
「帰れ、帰れ帰れそんで事故って死ねバーカ!」
想像が現実を食い破る感覚に襲われ、三波の冷えた肩に手を置いた。
「やーかーら!三波くん引き抜きにきたんですけどぉ!?」
「なんでだよ!つーか帰りで死ぬって、お前ハナから僕のこと殺す気じゃねーか!」
「違いますーほら、俺が死んだあとさ、俺の死を乃美会にさ、伝えにいかなあかんやん?」
熱を乗せて伝えられた言葉に三波は微妙な表情をしていて、いつもなら少し笑えたそれにすら反応出来ない事実が雪と混ざって身に沁みるようだった。
「そんな義務ねーよ?」
「そこはまあ……三波くんの義理人情に期待してる」
「僕が逃げねえと思ってんのか?わりと逃げるぞ」
雪を踏む音が、二人の間でしばらく途切れなく続いた。言葉の応酬とは裏腹に、その距離感はどこか慣れたもののように見えた。
「ほな俺そろそろ行くわ。今日こそ大阪帰らな」
「二度と来んな」
ふと、異質な皮膚の余りと動画の角に映っていた男の見え隠れしていた耳が重なる。右耳の上、軟骨のあたりが確かに裂けていた。途端に鮮明に浮かぶ、盛り上がった肉のあかいろ。
「またそういうこと言う。まあでも……」
言いかけて、細身というには痩せすぎの男は珍しく言葉を切った。白い息だけが、しばらく宙に浮いていた。
「まあ、なんだよ」
「いや、別に。三波くんが元気そうでよかったなって、それだけ」
「気持ちわりぃこと言うなよ」
「なぁに照れとんねんクソ犬っころが」
「照れてねえっての」
車に乗り込む背中を黙って見ていると、三波は舌打ちしながらも走り去るテールランプが見えなくなるまで見送っていた。赤い光が雪道の向こうに消えるまで、その視線は微動だにしなかった。
「なあ、思い出した」
「なにが?」
「動画の奴、耳が変だった」
呼吸に合わせて目を拡げた三波が、息を吐き出す素振りで小さく、へえ、と言った。
「耳がどうしたって?」
「右の耳、軟骨のあたりが裂けてた」
「……つまり?」
「サライにもう一回会って、ちゃんと聞き出さねえとだ」
三波はしばらく黙って、雪の積もった駐車場の方を見つめていた。テールランプの赤い残像が、まだ目の奥に残っているような顔をしていた。
「めんどくせえことになってきたな」
「最初からめんどくせえだろ」
***
宿の遊戯所にサライはいた。卓球台にもたれるように立ち、古びた雑誌を読んでいる。おい、と声をかけるとようやく気がついたかのような素振りでこちらを見た。
「この男について知ってるか」
印刷してきた複数枚の写真を緑色の天板に叩きつける。
「いいけどさあ……おれの情報、高いよ?」
「勿体ぶるな、いくらだ」
「今回は特別に井佐美の治療代にしてあげる。見せるのは闇医者だけどね。あいつ事情たくさんあるから」
「……いくらだ」
サライが特徴的な形の目をこちらに向けて、指を2本立てた。
「20万かな。ま、今回はそこまで複雑な怪我してねえし」
「それならすぐ用意出来る。それで、見たことあるのか」
サライは置かれた写真にさっと視線を滑らせると、ああ、と漏らした。
「この耳裂けさん、宿では会ったことないけど、おれの職場来たことあるよ。生コンくれって」
「……ほんとか」
「うん、欲しがってた量も微妙な量だったから覚えてる。確か住んでるところは……」
「そんなことまで」
続けようとした言葉を三波が手で遮った。サライが楽しげに目を曲げて笑う。
「だって生コンなんてそんな長い距離持って運べねえから」
「一応聞いておくが、名前は」
「ん?清水って言ってた。偽名だろうね」
台に拳を打ち付けるとピンポン球がコロコロと転がった。ここにきて振り出しなのか。
「だからさ、おれ言ったじゃん」
「は?」
「どっかに痕跡が残る」
静かにそう言うともうこれ以上は言わないとばかりにサライは再び雑誌を捲りはじめた。
***
それからサライの務める工場の近くを何度も回り、男の痕跡を追った。肥満気味、横が特に薄い頭髪、軟骨の部分が裂けた右耳。それらの記号は日数が重なるにつれありふれたものへと変貌していくようだった。
「こんなことしてよお、ほんとに捕まえられると思ってんのかよぉ」
車内の暖房の温度を上げながら三波はずっと愚痴をこぼすばかりだ。無理もない。俺自身半ば無謀だと思いながらこうしているのだから。
公園近くに車を停めていた時、突然窓をノックされた。
「なんだ、あんたか」
「うん。じゃなきゃこんな怪しい車に近づこうとも思わないだろうね」
サライが指だけで開けろ、と指示した。
「随分頑張ってるみたいじゃん、まあこのままだと無理だろうけど」
「……はは」
「とっておきの情報教えてあげよっか。生コン買いに来た奴、ちょっと時差はあったけど二人いた」
突然の告白に俺も三波も後部座席を振り向いた。サライの眉間に皺を寄せた表情をこの日初めて目にした。男が作業着のポケットから紙片を取り出す。
「ほら、もう一人の奴はご丁寧に名刺渡してきたよ、探したら会社もばっちり。本物だね」
「……これ辿れば、ブンヤの仇取れるのか?」
「いやあ?それはあんたら次第でしょ。もっと怖ーいもん出てくる可能性だって……しかしなあ、あーあ、また繋がり売っちゃったあ……今度補填しないと」
そうけらけらと普通の青年のように笑うサライは、言葉を選ばずに表すなら不気味だった。三波は渡された名刺に指の跡がつくまでじっと見つめていた。
***
サライに渡された名刺に書かれていた男ははじめは強がっていたが暴力をチラつかせないれば面白いほど簡単に同じ片棒を担いだ男の居場所を吐いた。殺しとかなくていいの、と三波は言ったが、今はもう一人の草野という奴を追うほうが先だと判断して名刺の男は組のほうに任せることにした。
重い呻きをあげる口を重ねた粘着テープで塞いで、簡易のアイマスクの上から男の着ていた汗の染みたシャツを破って巻き付けた。樽のような形をしたうねる人体を転がして腹を蹴る。しゃがんだ三波が草野の髪を掴んでなにか言っていたが強い風にさらわれて聞こえなかった。地上は酷く乾いていて、切り裂くような冷えた風が横殴りに頬を打った。
「はーいはいはいはい、とっとと前進みましょうねー」
狭い地下の先を行く三波が無理やり立たせた男を引き摺るように歩かせるのを背後から手伝う。コンクリートの階段を降りるごとに、風の音が遠のいて、代わりに湿った空気と錆の匂いが濃くなっていった。裸電球がひとつだけ、天井の低い通路をぼんやりと照らしている。
「僕さ、血の風呂ってのに1回入ってみたいんだよ。まあ実際やるってなると色々感染症とか?ほらまあ色々あるじゃん。だから出来ねえんだよなー……でも血の海は見れるか、その製造元がおっさんのってのには目を瞑るとして……な?てめえの血、全部くれよ」
三波の声は淡々としていて、まるで天気の話でもしているようだった。その温度差が、狭い部屋の中でいっそう男の恐怖を煽っているのが解った。
「肉が腐るんだって、生きたままで。何言ってっか解かんないでしょ、だって僕も意味解かんねえもん。だから試させてくんない?」
ビリッと口元のテープを剥がしながらよく喋る三波は心底楽しそうだった。
「ま、待ってくれ!」
「これから死ぬ奴のことなんざ待たねえって」
「聞いてくれ!なんで死ぬのかも解らねえで死にたくねえよ!羽村の家のことかっ!?あれは」
「あ?それってもしかして姉弟とかいたりするわけ?」
草野は正解だと言わんばかりにこめかみからどこから大量の脂汗をかいている。
「なあ、それビンゴなのかって聞いてんだけど」
「……羽村の家には姉と弟が残ってる。そいつらも、消すつもりだった」
「消すつもりだった……ねえ」
男の言葉を復唱する声は冷たい。感情の読めない黒目が草野をじっと見ている。
「あの友紀ってガキが俺らへの報復で裏の人間と結託して動画ばら撒いてるって知った時はさすがに肝が冷えたけどな」
開き直ってヘラヘラと語る男を蹴り飛ばそうとすると三波が声なくやめろと制した。
「まあいいじゃん」
そして普段のような気だるく明るい声が地下室に響く。
「草野だっけか。お前、もうすぐ死ぬんだし」
そう軽く笑ってコンクリートに叩きつけられた頭の、耳の裂け目を入れ替わるように掴み上げてそこから言葉を流し込むように聞かせた。
「殺鼠剤って言えば……解るよな?例えば、単純に血が出て死ぬ奴って結構少ねえのさ。擦り傷から血が止まらないなんてことないだろ?でもそうなるんだ。血が止まらなくなる。そうだなあ、あと少しでこんな傷からでも。……信じられないか?まあ今に解るさ。肉はドブネズミに食わせてやるから感謝しろ、血抜きも出来てるしご馳走だ」
重い頭部をごとんともう一度床に落として壁に掛けられた道具を見定めていると、三波のふてくされた声がした。
「ドブネズミに謝れバーカ。あいつら結構かわいいのに」
「お前すぐそういうけど飼ったりとかまじでやめろよ?」
「スラムにいた頃一緒に寝てたからもういい」
軽口のやりとりはいつもと変わらないはずなのに、狭い部屋の空気の中では別の意味を帯びて響いた。
顎先と肉をうまく使い俺達の足元に寄ってきた口からの呼気が靴を曇らせる。一歩引きながら促せば嘔吐よりも不愉快な羅列が耳に触れた。ぽかんと口を開いたまま上手に過呼吸へと移行した男が軋む息を鳴らして、お互いに引き合っていた綱がぷつりと切れる。
「待っ、待ってくれ!俺だって組からの命令で……!」
鈍い音がして振り返れば三波が草野の薄い頭髪を掴んで顔をコンクリートの継ぎ目にぐりぐりと押し付けていた。凹凸に歯が引っ掛かるのか、濡れた石同士が擦れるような音が時折聞こえる。
「はは、なんでやったかとかまじでどうでもいいから。こんなとこ来てまでまだ帰れるつもり?頭悪いの?可哀想だなあ……じゃあもっと頭悪くなっちゃおっか、ひらがな書けなくなろーな?薬効いてきたら遺書書かせてやるから今の内に考えてろ」
立ち上がって、準備してくるわ、と言った三波は昂ぶっているわけでもなく、目線を下げたままくだらなさそうに歩いていく。その足取りの軽さと、部屋に残された男の呼吸の荒さとの対比が、やけに際立って見えた。
「俺らだけでやるのか」
「そのほうが楽でしょ」
「……こういう薬に詳しい奴ならまだいるんだろ」
「えーチュウエンもう帰ったじゃん。それにあいつ自分でも試したいとか言いそうだしなあ」
「……あいつが打たれてたのより酷いもんなのか」
「曲がりなりにもシャブだろ、そんなもんじゃねえよ。言葉と数字読めりゃガキでも作れる最高のマザーファッカーが吹き溜まりにまた生まれたんだとさ」
そう言いながら三波は液体の入った瓶を目で示して、これ全部鍋で煮詰めて、と言った。刺激臭が部屋の中に広がり、裸電球の光がその揺らめきをぼんやりと映し出していた。俺はそれ以上その手元を見なかった。見なくても、三波が何を作ろうとしているのかは、なんとなく解った気がした。
「なあ、それ本当にやるつもりか」
「やんねえと、あいつ喋らねえだろ」
「喋らせるだけなら、他にもやり方あんだろ」
三波は手を止めて、こちらを見た。その目には、いつもの軽薄さの奥に、別の何かが沈んでいるように見えた。
「新山って変に優しいとこあるよな。柄にもなくて変だって言われるだろ」
「……うるせえ、それに変って言いたいだけだろお前」
「まあいいけどさ。今日は僕のやり方でいいよな」
それ以上、俺はなにも言わなかった。
作業を終えて外へ出た頃には、雪はさらに強く降り始めていた。車に戻ってからも三波はしばらく無言でメモを睨んでいた。ワイパーの動きだけが、静かな車内で規則的な音を刻んでいた。
「なんだよ、なんか気に食わねえのか」
「いや……姉弟だけ残ってるって言ったじゃん。親はどうしたのかなって」
「……同情か?柄にもねえな」
「そりゃ僕にも情がないわけじゃねえもん」
窓の外を流れる景色が住宅街に変わっていく。地図を見たところ到着予定時刻はあと40分といったところだった。街灯の間隔が、雪の中でぽつりぽつりと視界を阻むように等間隔に流れていく。
「てめえはこっからどうする気だよ」
「まず様子を見る。動くのはそれからだ」
「様子見こそ柄にもねえな」
「柄になくても手順は守る」
その言葉に三波は肩をすくめただけで、それ以上はなにも言わなかった。
住宅街の外れ、他の家より少し古い一軒家の前で車を停めた。カーテンの隙間から漏れる灯りが、その家にまだ人がいることを示していた。オレンジ色の光は、雪明かりの青白さの中で唯一の暖かい色に見えた。
「明かりついてんな」
「ああ」
「……姉ちゃんのほうは、関係ないんだよな」
「今のところはな」
三波はそれ以上聞かなかった。エンジンを切った車内に、雪の降る音だけが残った。しばらくして、三波が煙草に火をつけようとして、思い直したように箱をポケットに戻した。
「車ん中じゃ禁煙だったな」
「今更思い出したのか」
「まあほら、雰囲気ってやつ」
窓の外、家の二階の窓にだけ、青白い光が漏れているのが見えた。他の部屋には明かりがない。その一点だけが、暗い家の中でかすかに息をしているようだった。
***
薄暗い部屋の中、モニターの光だけが友紀という男の輪郭を縁取っていた。いつもと変わらないのであろうその光景が、今夜だけは違う色を帯びているように見えた。友紀はこちらを振り返らないまま、ぽつりぽつりと言葉を落とし始めた。まるで、長い間誰にも話せずにいたものを、ようやく吐き出す場所を見つけたかのようだった。
「親父が金を借りた店の後ろにいたのがやくざだったんだ。そいつが家にまで乗り込んできて母さんを俺たちの目の前でレイプした。その前になにか注射してたけど、口ぶりからして排卵促進剤だったんだろうな」
淡々とした語り口が、かえってその出来事の重さを際立たせた。友紀の指はキーボードの上で止まったまま動かなかった。
「親父はその場で土下座して、それでもなにも変わらなかった。あいつらは笑いながら帰っていった。次の日も、その次の日も、うちの前を車が通るたびに母さんの肩が跳ねるようになった。俺はそれを、なにもできずにただ見てた」
友紀の声には、恨みよりも先に、諦めに似た響きがあった。
「母さんは、それから一月もしないうちに首括って、親父はそのあと自分から金を返しに行って、そのまま帰ってこなかった。誰も何も教えてくれなかった。俺と姉貴だけが、この家に残された」
それから弟は、草野がやってくるようになってからの地獄を語った。自分の排泄物をありがとうございますといって食べさせられていた父親。母親が犯されるのを椅子に縛り付けられながら見ることしかかなわなかった夜。帰ってこなくなった父親と、首を吊った母親の足を伝っていた汚物。
行いとは裏腹に音もなく壊れていった家族。
「お前らみたいなクズどもに、俺の親は殺されたんだっ!やくざなんて、クソだ!この世から消えちまえばいいんだ!」
叫びに近いその声は、狭い部屋の壁に反響してすぐに消えた。その静けさにしばらく何も言わなかった。ただ、目の前の男が抱えてきた歳月の長さだけを、静かに測ってみた。
「それで、裏の動画を撮って売るようになったのか」
「……最初は違った。ただ、あいつらの顔を晒したかっただけだ。でも金になるって知って、生きていかなきゃいけないから、それがいつの間にか目的になった」
「姉貴は知ってるのか」
友紀の肩がわずかに強張った。
「知らねえよ、多分。知られたら、終わりだと思ってた」
「なんだよそれ、解ったつもりか」
「ああ!?」
「こんな家で二人きり……少しは考えろと言っただけさ」
その言葉のあとに、部屋には短い沈黙だけが残った。モニタの光だけが変わらず二人の輪郭を薄く照らしていた。
「あんたに、俺の何が解るんだよ」
「解らねえよ。解ろうとも思ってねえ」
「じゃあなんで、そんな顔で立ってるんだよ」
るその問いに、俺はすぐには答えられなかった。友紀は初めてこちらを振り返り、モニタの光を背にした顔は、影になってよく見えなかった。それでも、その目だけが、まっすぐにこちらを見ているのが解った。
「ただの仕事だ……終わらせに来ただけだ」
「そうかよ」
友紀はそれきり、また画面に向き直った。指がキーボードの上に戻り、いつもと同じ音を立て始めた。その音が、これが最後になることを、二人とも解っていた。安い椅子にもたれている背中に抜いたままの刃を向けた。
***
階段を降りる足音は自分でも驚くほど平坦だった。踏み出すたびに木が軋む音さえいつもより遠くに聞こえた。1階の廊下は変わらず隙間風が抜けていて、ひしゃげた悲鳴ような軋みがまた鳴った。その音は、最初にこの家に足を踏み入れた時に聞いたものと、寸分違わなかった。
リビングの扉の前で一度だけ足を止める。灯りの漏れる隙間から、テレビの音も物音もしないことに気づいた。静けさだけが、扉の向こうから滲み出ていた。
扉を開けると、少女は振り返りもせずソファに座っていた。味噌汁の入った椀が、とうに冷めた様子でテーブルの上に置かれたままだった。あの日、階段の途中で湯気を揺らしていたのと同じ椀。
「ああ、終わったんだ」
背中越しに軽やかにそう言われて、なにも言えなくなりそうな舌をきつく噛んだ。その声には、驚きも悲しみも、探しても見つからないほど薄く伸ばされていた。
「……今更誰に操立てるつもりだ?腹にガキ抱えたこともあるんだろ、どうした」
「へえーなんだ、怖い見た目してんのに面白いこと言えるんだね。いきなり印象変わった」
「聞いたことに答えろ」
「産んでない産んでない。だって友紀、私も排卵剤打たれたって思い込むようになったからいっつも丁寧にゴム付けてくれてたもん。そうするくらいの頭は残ってたみたい。あとはサルだったけど」
小さな身体がしゃがんで手を合わせて、冷めた味噌汁と白米の供えられた衣装ケースの留具に触れた。金属の触れ合う小さな音だけが、静かな部屋に響いた。古びた箪笥を開けた時のような、例えようのないにおいがかすかにその存在を占めていく。
「この中に、お母さんがいるの。ねえお兄さんはさ、なんで友紀を殺したの」
「……それが今回の俺の仕事だからだ」
「やくざは絶対悪って思ってるんだよね、お兄さんは。私はそうじゃないと思う。そんないいもんじゃない、もっと下劣で低俗で卑怯で……理念も持たない、いや持ったこともない他人の死体にたかるハイエナ。自分を絶対悪だって言うんなら、私も殺せばいいのにね、それは出来ないでしょ?だってあなたはそうじゃないから」
感情のない、というより乗せないようにされた声を彼女はゆっくりと吐いた。俺はなにも言えなかった。その言葉のひとつひとつが、反論の余地を残さない正確さでこちらの立っている場所を言い当てていた。
「あいつが生き残っても死んでも、苦しいのは私だけ。友紀が狂った時に私だけが正気に取り残されちゃうんだって思った。その時から私には地獄しか待ってなかった。私を殺せばよかったのに。それが一番効率よく友紀を苦しめられたのに。やっぱりやくざって他人のことなんかなんにも考えられない生き物なんだね」
「……それでも、俺はお前を」
「なんで」
「そんなことまでは……仕事じゃない」
少女は少しだけ首を傾げた。その仕草には、これまでの平坦な口調とは違う、わずかな戸惑いが混じっていた。
「へえ。律儀なんだね」
「律儀なんじゃねえ。ただ、線引きがあるだけだ」
「その線、誰が引いたの」
「……俺だろうな」
言い切ると少女は少しだけ笑って、そのままゆっくりと声をあげはじめた。身体をよじって頭を反らせるほど笑い続ける中で、振り子時計が4時を告げる鐘を低く鳴らしていた。
その音が消えたあとも、少女の笑い声だけは、しばらくこの家の隙間風のように廊下の奥まで響き渡っていた。
やがて笑いが収まると、少女は滲んだ黒目のまま、こちらを見上げた。
「ねえ、お兄さん。この家、どうなるの」
「知らねえ。あんたが決めることだ」
「私が決めていいんだ」
「……他に誰が決めるっていうんだ」
少女はしばらく黙って、冷めた味噌汁の椀を見つめていた。それから、ぽつりと呟いた。
「もう湯気、立たないね」
その一言だけを残して、少女は立ち上がり、静かに俺に背を向けたまま、また元の椅子に腰掛けた。残された椀の中では味噌汁の表面が灯りを映してわずかに揺れていた。
***
丁番が高く跳ねる音がして、ギィと靴底が板に乗り上げる音がした。振り返らずとも解るそれに手を向けた。刃の重みが手のひらに戻ってくる感触だけで、誰が入ってきたのかはその靴音だけで解っていた。やめろ、まて、こっちにくるな。
「どうするんだよ」
そのあとに続く、殺さなくていいのか、が渦のように耳骨でゆれる。ガラスの奥で合わせていた目を伏せて息を殺せば輪郭さえ指に伝わる気がした。窓の外の雪明かりが、二人の影を長く床に伸ばしていた。
突きは嫌いだった。自分の手で命を奪っているような感覚になるから。まだぬるい血を滴らせている刃先を的に向けながらひとり思う。いや、別にどうしたって、血が流れなかったとしても、傷をつけた時点で奪うということは始まっているのだけど。そんな考えが一瞬だけ頭をよぎって、すぐに消えた。さっき吐いた言葉が頭の中でぐるぐると怒りながら行進している。殺しはしない?目の前はどうだ?と怒って出口を求めて行進を続けている。ぐらりと重い頭を上げて、ドスを視界に入れた。
「直してもらってくる。脂が酷いんだ、切れたもんじゃない」
「ふーん……そりゃ困な」
人間は、生きているものはどいつもこいつも脂が多い。刃に絡みつくその重さを、今も指の感触だけで思い出していた。
ふと、三波をその内に入れていない自分に気がつく。そうして俺は俺を当たり前に無視していることに目を反らして安あがりな気づかないふりをしようとした。
どこまで行くんだ、と平坦な声に、京都だ、と返す。
「京都か……僕も行きてえな、前の大阪はドヤ街行って仕事してすぐ戻ったし」
「勝手にしろ。先に言っておくが鍛冶屋にまでついてきたらお前で試し斬りしてやるからな」
「へいへい、心配しなくたって初の京都なんだよ。どうせ荒坂のおっさんのお気に入りだろ?んな胡散臭えとこ誰が行くかっての」
ドアに手を掛けようとして足を止めた後ろ姿がこちらを振り返ると片手を上げて下品に笑った。
「ヤケに重っ苦しそうな面じゃねえの、いつも通りに直してやろうか?」
「俺は叩いて直るもんじゃねえ」
「んなの解らねえって僕が試してやる、こいよ」
そう言って男が拳銃を差している背広を土間に落とす。ステゴロの合図だ。乾いた布の擦れ落ちる音だけが、狭い部屋に短く響いた。
「てめえも暇んなったとこだろ、やろうぜ」
俯いたままつま先に触れる血の流線をみとめて視線を動かせば埃で汚れた革靴が映った。息を吐くついでに笑って俺も血塗れの長ドスを横に放る。指先で煽られるのにまばたきをすれば、金属の音を合図に眠っていた身体が倒れるように動く。
拳が頬をかすめた瞬間、いつかの部屋で見た少女の笑い声が、頭の奥でふいに蘇った。それを振り払うように、俺は目の前の男の胸ぐらを掴み返した。
「随分、余計なこと考えてる暇あるみたいじゃねえか」
「……お前には関係ねえよ」
「あるって、僕らの間に隠し事なしだろ?」
なんてな、と軽口を叩きながらも、三波の拳には確かな力がこもっていた。何度目かの打ち合いのあと、二人とも息を切らして壁にもたれかかった。
「なあ、今の顔さ」
「なんだ」
「ちょっとだけ人間っぽかったぜ」
「そうかよ」
それだけ言って、俺は放り出していた長ドスを拾い上げた。刃に付いた血の重さが、今夜もまだ手のひらに馴染まなかった。
***
京都の外れ、山際の集落まで来ると空気の匂いがはっきりと変わった。土と炭と、微かな鉄の匂いが混じり合って、街中では感じられない重さを含んでいる。風化して文字の消えた表札を見て古い家の引き戸を叩くと、しばらくして奥から人の気配がし、作務衣姿の50絡みの男が一升瓶片手に頭を掻きながら顔をだした。寝起きなのか、目は半分しか開いていなかった。
「すみません、こちらの萩さんを探しているんですが」
「は?あんた、誰?ていうか表札見た?」
「……萩之義氏の生家と聞いた」
「なんや、またじいさんのやつか?とりあえずどこの客か言うてくれ。しかしうちと関わりあるくらいのもんなんかこないだのんでだいぶおらんようにはなったやろが」
「……長橋組組長相談役、荒坂浩平の刀を打った人間はどこだ」
萩は背伸びをしながらお前あのおもろいおっさんの弟子か、と欠伸をした。案内された作業場には、油と炭の匂いが濃く漂っていて、壁際には使い込まれた道具が無造作に並んでいた。炉の残り火がまだ薄く赤く息づいていて、その熱が土間の冷たさをわずかに和らげていた。
「あんた、これ何人切った?」
差し出した長ドスに、萩は光にかざすようにして目を細めた。刃の反りに沿って、炉の光がゆらりと流れた。
「は?……100人かどうかだが」
「はあークソガキが……ちゃんと覚えとけや。ほんならもう100人切ってからこい、俺が叩き直したるわ」
「……今やってくれ、金なら倍出す」
「いるかいそんなもん。はあ……うわっお前どない使うとんねん!写しやさかい多少ブレはあるけどしゃあないな、こら焼き入れ直しや。おら、火起こすぞ、手伝え」
言うが早いか、萩は炉の前にしゃがみ込み、慣れた手つきで火口に火種を移していった。赤々と力強く燃える火に萩は背の低い箱に腰掛けたまま小さい薪をひとつだけ放り込んだ。炎の熱が、狭い作業場の中で顔の片側だけを炙るように熱くした。火花が時折跳ねて、暗い天井の梁を一瞬だけ照らし出した。
「お前、なんちゅう名前や」
「……新山」
「新山なあ……この刀には名前あるんか」
「ない。もらった時からずっとこのままだ」
「名前もない刀で100人切ったんか。律儀なんか適当なんかようわからんやっちゃな」
萩は火箸で炭を動かしながら、ふと手を止めてこちらを見た。
「なんやさっきからずっと辛気臭い面しとるけど、なんかあったんか」
「……別に」
「別にって顔ちゃうやろ、それ」
答えないでいると、萩はそれ以上追及せず、また炭に目を戻した。しばらくの沈黙のあと、独り言のように呟いた。
「刃物いうもんはな、使う奴の性根が出るんや。よう斬れる刃ほど、それがはっきり出る。お前の刀、脂が酷いって言うたけど、脂だけやないで。曇っとるわ、全体的に」
「曇ってる、か」
「せや。迷いながら振っとる証拠」
その言葉に、俺は何も言い返せなかった。炉の炎だけが、二人の間の沈黙をゆらゆらと揺らしていた。
焼き直されたばかりの刃が、炉の残り火を映してまだ鈍く赤く光っていた。その光の中で、ただ黙って炎を見つめていた。窓の外では、京都の夜がゆっくりと明けようとしていて、雪の代わりに冷たい霜が、外の石畳を白く覆い始めていた。
炉の熱に炙られながら、俺は懐から折れた写真の切れ端を取り出した。サライから受け取った、あの少年と少女の写った写真の断片。少女の顔だけが辛うじて残っている。冷めた味噌汁の椀を見つめていた、あの横顔と重なった。
「その写真、燃やすんか」
萩の声に、俺は首を振った。
「どないすんねん持っとくんか」
「……さあな」
答えになっていない答えを返して、俺はその切れ端をもう一度懐にしまった。炉の炎が、まだ赤く、静かに燃え続けていた。
「燃やしたほうがええんとちゃうか。あんた、ずっとそんな顔してるし」
火を見守る焼けた浅黒い横顔が橙色に照らされている。ぱかりと開いた目蓋の奥で、煌々と光を反射するこちらを見ない目。立ち上がる動作に合わせてそれが動いたのを盗み見て、なにも言わず写真を投げ入れた。萩はくつくつと笑って真っ赤に焼けた鉄の調子をみていた。煽った酒がこぼれて地面に染みをひとつ作った。
***
心持ちとは裏腹に足取りはただ軽かった。地面を踏むたびに、まだ京都の土と炭の匂いが靴底に染みついているような気がした。また取りに来い、と萩は言っていたが、いつになるのだろう。それまでに血の出る現場がなければいいけれど、まあそうなればそうなったまでか。
そんなふうに投げやりに考える自分を、どこか遠くから眺めているような感覚ならあった。懐は軽くなっていた。あの写真の切れ端はもうそこにはない。それだけのことなのに、歩くたびに肩の重みが少しずつ抜けていくようだった。
駅に近づくにつれ、人の気配が増えていく。夕方の光が、線路の錆びた匂いと混ざり合ってどこか懐かしいような、居心地の悪いような色を街に落とす。改札を抜け、ホームに足を踏み入れると、景色に合わない冷たい風がまっすぐに吹き抜けていった。
ホームを見渡すと、ベンチに柄悪く座っている見知った男がいた。だらしなく足を投げ出し、片肘をベンチの背にかけて、まるでそこが自分の部屋であるかのようにくつろいでいる。夕日を浴びたその輪郭だけが、行き交う人々の灰色の流れの中で妙にはっきりと浮かび上がって見えた。近づけば軽く手をあげられる。見慣れた、雑な仕草だった。
「よう」
言葉の気安さに安堵して、そしてこれが偶然であるはずがないことに心の内だけで礼を言う。
「……奇遇だな」
「お前待ってたからな」
悪びれもせずそう言い切る顔には、いつものぶっきらぼうでいて気さくな軽い笑みが浮かんでいる。待っていた、というただそれだけのことが、今はやけに重たく胸の奥に落ちた。誰かが、理由もなく自分を待っている。それがどれほど久しく忘れていた感覚だったか、今更のように気づかされる。
「なんだよ気色わりい……」
思わずこぼれた言葉に嘘はなかったが、口の中に残る後味は思ったよりも苦くなかった。
久し振りに見た夕暮れを割いて、電車が滑り込んでくる手前の風が横に立つ男の髪を派手に揺らしていた。線路の向こうに沈んでいく光は、赤というよりもむしろ橙に近く、それが男の頬の輪郭を柔らかく縁取っていた。電車の光がレールの継ぎ目を叩く音が、次第に近づいてくる。俺はその音を聞きながら、懐の軽さと、隣にある存在の重さを、なんとなく同じ天秤に乗せてみようとしていた。




