表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/7

蛆の真似事

巡回はいつものようになにもなく終わろうとしていた。住宅街と呼ぶには家々の隙間が広いそこをのろのろと進む覆面の脇、それを怪しむことなど知らないような年寄りの夫婦と思わしき二人連れが杖をつきながら狭い側溝の上を通り去ろうとしている。これを越えればばあとは署に戻るだけの曲がり角に差し掛かる中、先輩が取り落とした最新式のタバコとあだ名のついた無線機を渡す。口上を述べた先輩の顔色が横目でも解るほど見る間に青くなり粘着質な唾液の音とともに途切れそうな声を出した。

「下畳の事件て、あの狛都の一家の……?その生き残り?聞いてへんぞ、あの家にそんな年の女……それがいまごろんなって保護て……どないなってんな」

先輩の発した単語を繋ぎ合わせようとしてもピンとこなかった。ということは少なくとも俺が刑事になってからのことではない。しかし口ぶりからすると相当デカい事件であることは確かだ。しかし俺にはそのどれを組み合わせても崩れていくばかりだった。


***


はじめて葬式を経験し、焼き場まで行ったのは本家のじいさまが亡くなった時でした。その時私は13で、まったくおかしな話ですが葬式に長くいれば肋骨の一本を貰えるものだと思っていて、長い読経で痺れて感覚の消えた足を隠れてさすっていたのを覚えています。振り返った坊さんがお辞儀をしてようやく立ち上がる時には足には畳の跡がくっきりついていました。焼き場まで行き、軽く移動した場所での会食ののち、再び戻った場所で通された部屋は生々しい熱気に包まれていて真っ白に焼かれたじいさまの骨は太かったのか頑丈だったのか意外と骨格標本で見るような形のまま残っていました。

なんだか喉が乾いて無意識に唇を舐めると、会食のオレンジの屑が端についていたようで場違いな爽やかな酸味が口に広がったのを覚えています。


私は正気の生活というものに執着していました。

朝は7時15分に起きて、左の袖から着るのが決まりでした。登校路の角の石畳には決まって七本の雑草が生えていて、それを数えることが、私の一日のはじまりでした。ひとつでも数が違うと、その日は足元が覚束ないような気分になりました。そういった細かな取り決めだけが、私をここに縫い留めているものでした。

自身のおかした失敗を正す意味合いや両親の不和の捌け口として私はよく叩かれていました。5歳の頃です。父親から平手を食らった時に当たりどころが悪かったせいか鼓膜を損傷しました。2週間ほどで治ったのですが、その間私は少し落ち着いて過ごせたのです。

それから私はわざと失敗をするようになりました。両親が言い争う原因をそこここに仕掛けては自分に向くようにしました。しかし何度破れても平手打ち程度で出来る穴は所詮は穴でしかなく、いっそのこと酸でも差して奥まですべて焼いてしまいたい気分でした。

けれど私は悲劇の王様ではなく、どうしようもないほど傾いてしまった役者の家に生まれた次男でしかありません。


終業式を控えた7月半ば。打ち水のこもるような熱気が薄く残る帰路を歩いて玄関をくぐると、揃えられていない靴が一足目についてリビングを覗けばズングリといびつに丸い背中を丸めた男がのそのそとスプーンを動かしていました。見たこともないのに飼われている熊が脳裏をよぎりました。それが私が初めて見たタケガワさんの印象でした。いつものように座っている父親と母親は妙にその男から目を反らせずにいるような、なんともいえない空気を放っていました。熊男がゆっくりとこちらを振り返ると、髭だらけの丸い口元を動かしました。

「きみがツカサくんか。立っとってもなんや、入りなさい」

硫黄の臭いようななんともいえない不快な耳障りの声がして、失礼します、とリビングの扉を閉めて男の横に腰をおろした時にようやく違和感に気づきました。

我が家では、たとえどんなお客であろうと上座に通すのが普通なのです。両親は互いにやや視線を下げて、なにかに押し黙っているように見えました。

「しかしさすがはコマミヤのお城ですな。私の住んどるところなんぞ、恥ずかしゅうて見せられませんわ」

「あの、お名前伺っても宜しいですか」

「あぁ……タケガワです。聞いたことありませんか?」

テーブルの上では日差しが細く動いていました。夕方には早すぎるその光がタケガワと言った男の指の甲を斜めに照らしていて、皮膚の、量の多い産毛が白く浮き上がっていました。私は視線の逃がし場所を探すように、カーテンの裾がわずかに揺れているのを見ていました。外では何の風も吹いていないのに。

「すみません……あの、お席変わりましょか?ちょうど日ぃ傾いてきよるんで、そこ眩しなるんです。どないしたんよ、おとはんもおかはんもじぃっとして」

湯呑みを2回傾けると見せびらかすようにうがいをしてごくんと喉を鳴らしました。家のことを知っていてなおそうするのは、習慣だからでしょうか、それとも。

「かまへんよ司くん。私みたいなんは元から席もいらんくらいやさかいな」

低い音が鳴って、それが自分の喉からしたのだと気がつくまで少し時間がかかりました。表すなら、異様でした。座っているのに足がしっかりとついていないような感覚があって、軽い目眩を起こしていることさえ解らずにいました。玄関からは引き戸の開く音がしてああ兄貴が帰ってきたのだとぼんやりと思っていました。きっと不思議に思っているのでしょう、ただいまと間延びした声が上がりましたが誰もおかえりとは言いませんでした。

「これでお家のもんは全員揃うたか」

タケガワさんはやや機嫌を損ねたかのように唸りました。

「妹が、まだおります。買い物行く言うてたから、多分夕方……遅ても7時には帰れ言うとりますが」

「なんやまだおんのけ、そらそうか、どんな家畜かてガキはようさんおったほうが都合あるやろしなあ。せやな……保険証持ってきい」

背もたれをぎいぎい鳴らしながら、タケガワさんが顔の肉を動かしてどう見ても下品な笑みを作りました。

「おい、聞こえへんかったんか?保険証や保険証。わしらみたいなんやったらともかくとして、コマミヤのお家ともあろう方が持っとらんなんて……そら道理が通らんっちゅうもんやないんか?」

10秒ほどの沈黙の後、破裂音とともに両手を叩きつけて椅子をなぎ倒すように立ち上がった男が両親をジイッと睨みつけていました。下を向いて細かく震えている母親が気配を殺すようにリビングから出ていきました。3時間に設定されているエアコンのタイマーが切れた部屋には膝裏に貯まる熱気が這いよってくる湿気と混ざろうとしているところでした。


机の上に保険証が並べられて、タケガワさんはそれを粘るような舐めるような目つきで眺めながら突拍子もないことを言いました。

「よっしゃ、ほなこれら処分しよか」

発せられた明るい響きへ歯向かうような父親が立ち上がりました。怒りに震えているのが見なくても解りました。横目で見ると、見たこともない目つきをしていました。

「いい加減にしろ!黙って聞いとったらあんた……なんのつもりや!なにが目的なんや!」

激昂している父親をせせら笑うようにタケガワさんはにっこりと細い目をさらに糸のようにしてこう言いました。

「そら、コマミヤのお宅をわしのもんにするからですわ。心配しなさんな。どこひとつ余したりせえへん、ぜぇーんぶわしらのもんにしますさかい」

ガラス戸の向こうでは伸び切った竹がざあざあと葉を揺らしていました。

タケガワさんは立ち上がるとまるで自分の書斎にでもいるかのようにリビングのソファに巨躯を深く沈み込ませました。

「ええ家やなあ、ほんまに。この壁の向こうにもなんぼでも秘密が詰まっとる気ぃしてくる」

さほど楽しくもなさそうにそう言うと男ははポケットから爪楊枝を取り出すと、シーシーと音を立てて歯の間を掃除し始めました。その音は、静まり返った部屋の中でまるで家屋を蝕むシロアリの咀嚼音のように響いていました。

夕闇が迫りカーテンの隙間から差し込む光が床に転がった保険証を暗い暗い赤色に照らし出していました。


「えぇと、ところで奥さん、お子さんは他にもおりますんか」

「……いえ3人、だけです」

「なるほどなるほど、どうりで似たお部屋が3つあったわけやな」

正座は慣れていましたがカーペットもないフローリングの上では関節が擦れてすぐ痛くなりました。でも、崩すとなにかされると言われたわけではないのに……うまく例えられないのですがそんな、空気がありました。

「ほな使えそうなもん見てきますさかい」

そう言い残してリビングを後にしたタケガワさんは、最後に入った兄の部屋のほうから出てきました。

「こらええ。こらええわ。ざっと見た感じ上のお兄さんのやな」

はんだごてを手にしたタケガワさんは、それを私の前に差し出して、兄のものか確認しました。おずおずと頷けば、乱雑に頭を撫でられました。

タケガワさんははんだごてのコードを指に絡めながら獲物を品定めするような目で父を見ました。

「お父はん、これ使い道知っとるか? 熱を通すと、鉄は赤うなる。けどな、人は……白うなるんや」

コンセントにほこりを纏ったプラグが差し込まれ小さく鳴った火花の音が、死刑宣告の鐘のように聞こえました。

先端が次第に熱を帯び、空気を歪ませ始めました。

それからタケガワさんはのろのろとした動きで古びたペンチをポケットから取り出すと、無造作に置きました。

父の顔から流れた汗が畳に落ち、織られたい草の上に水滴を作りました。この家がゆっくりと屠殺場に作り変えられていく予感に、私の心臓は目眩の前のようにゆっくりと鳴っていました。


その日私は沈黙がこんなにうるさいのかとはじめて思いました。これならいっそラジオの混線でも聞かされているほうがマシとも思いました。父親は足の爪の間にはんだごての先端を刺され、根本まで刺さったらペンチでそれを剥がされていました。肉と薄皮と厚いタンパク質の焦げる匂いは奇妙で、それでいて甘く感じました。

母も終わり、次は私の番でした。膝の角はもう、真っ赤になっていました。


「ただいま」

玄関からは場違いにいつもと変わらない妹の声がして、おぉ、とタケガワさんが低く呻きました。

「入れや」

リビングの戸が開いて、さっきあの明るい声を出していたのが嘘のように泣き出しそうな妹の後ろには痩身の化粧けのない女がまるで家からそのまま出てきたような大振りなTシャツにところどころシミが出来た灰色のスウェットという格好で立っていました。

「言われとった子、連れてきましたけど……タケガワさん、これで揃ったんですか」

「おん、世話かけるな」

タケガワさんがここにきて初めて人間らしく喉を鳴らして、素っ気ない声を放った女は異様な光景を見渡してもなお無表情でした。

ただ一人、ずっと笑っていたタケガワさんが壊れたからくり人形のように乾いたねばつく動きで私たちのほうへ振り返りました。

「なんや、あんたら。なんで笑わへんのや。もう笑うとこ、ここしかあらへんのに」

日が長くなった庭では風もないのに物干し竿だけがかすかに鳴っていました。金属同士が擦れる、湿った音でした。

妹は玄関に立ったまま靴を脱ぐことも出来ずにいて、ミチルと呼ばれた女の、ほら、という声でようやく上がってきました。コンビニの袋が腕から滑り落ち、中で缶詰が転がる硬い音がしました。

「ほら見てみぃ、言うとらんのにちゃんとおつかいまでして。えらいなぁ」

タケガワさんは猫撫で声でそう言うと、妹の頭を撫でました。妹はびくりと肩を震わせましたが、それでも逃げませんでした。逃げたところでどうにもならないと、もう理解していたのかもしれません。空調の切れた部屋では、汗がじっとりと首の裏に集まっていました。畳んだ洗濯物からは乾ききらなかった布のにおいがして、その生活のにおいだけが妙に正常でした。

「なあ司くん」

急に呼ばれて顔を上げると、タケガワさんは笑ったままこちらを見ていました。

「人間はな、壊れる時は案外静かなもんやで」

その時、誰かの喉が鳴る音がやけに大きく聞こえました。


「ほら、こないええ家の主さんがそんなんでどないすんねんな。しかしまあ、こんなありあわせですんまへんな」

父親は畳が傷むほど爪を立てて痛みを逃していました。けれどそれも虚しくガリリと骨が擦れる耳障りな音がしてタケガワさんは板を合わせているネジを再び締め込みました。足を打ち付ける度にどおんどおんと腹に響く音が鳴っていました。

母親はにっこりと見たことのないような固まった顔で笑ったまま、保険証に刃を入れていました。タケガワさんはミチルさんにそれをホームカメラで撮るよう命令すると深く唇から息を漏らしました。

それらを見ながら私たち兄妹は笑いました。笑わないでいると暴力が待っているのは目の前の光景を見ていれば解りました。足指を挟み潰されている父親も、戸籍謄本に火を付けている母親も、タケガワさんも、リビングにいるみんなが笑っていました。

それでもぽつりぽつりと音が途切れ、笑い声が止んだ一瞬のリビングは、吐き気がするほどの沈黙が支配していました。それを待っていたようにタケガワさんは満足げに鼻を鳴らし、濡れた手で自分の太ももを叩くと両手を上に上げると、ゆっくりと下げました。それは私に降りてくる幕を連想させました。窓の外では夕立の予感を含んだ湿った風が竹林を乱暴に揺らし、サワサワという音が絶え間なく部屋に流れ込んでいました。

その音を聞きながら、痙攣し続ける頬の筋肉を静めるのに必死になっていました。視線の先では、父が剥がされた指先を庇うようにしながら床に散らばった自分の爪を、まるで宝物でも拾うかのような手つきで集めていましたが、それもミチルさんに手を踏まれて短い悲鳴をあげておしまいにさせられました。


ほとんど一睡も出来ないまま、朝がきました。褐色の錠剤が乗せられたおそらく手入れなどしたことのないだろう大きな手をタケガワさんはぬっと差し出しました。有無を言わさない手つきでした。

「司くん、これ飲んでいき。心配せんでよろしいただのカフェイン錠や。昨日は寝れんかったやろ?」

「……親父にもやってください。寝れへんかったんはあの人も一緒でしょう」

「やるやる。ほら飲み、ちゃんと学校行くんやで?」

門をくぐると僅かな庭に敷かれた玉砂利が朝日を受けて淡く色付いていました。それを手にすると少ししてから指先がかすかにあたたまり、すぐに足元に打ち捨てました。昨夜の光景が蘇り、唇の隙間からは呪詛のような命乞いのような音が零れました。

立ちのぼる陽炎を追っている内に目が冴えて、手足の怠さがましになっていくのを感じていました。カフェイン剤だというのは嘘ではなかったようですが、私以外には違うものを飲ませていたのも事実でした。まあ、薬なんて普通見分けがつくものでもないから仕方ないのですが。

視界は鮮明なのに通り過ぎる他人の顔がすべてのっぺらぼうの肉塊に見えました。教室に座っていても、教科書の文字はただの黒い虫の這い跡にしか見えず、私はただ、昨夜見た父の潰された足指と剥がれた爪を思い出していました。あの、ぐずぐずになったような赤。

放課後、夕立の匂いに誘われるように帰宅すると、玄関にはまだあの、揃えられていない大きな靴がありました。

扉を開けた瞬間、生暖かい肉の焼ける匂いと、タケガワさんのあの不快な笑い声が、私の全身を包み込みました。


正座を続けている面々に目もくれず、タケガワさんは私の前に迷い無くかがむと意外なほどに優しく下顎を掴みました。

「司くんはお母ちゃんに似てかあいらしい顔しとんのやなぁ。最近はナリは女のくせしてちんぽ生えてるようなんも多いけど、司くんはその逆やったりしての」

言い終えるとタケガワさんはおちょぼ口を大きく開けて下品に笑いはじめました。腐ったような口臭とねばつく唾が未だに掴まれている私の顔に飛んできました。そうしてひとしきり笑い終えると、タケガワさんは急に飽きたような顔になると私の頬を軽く叩きました。

「せやけど目ぇはちゃうな。そっちは親父そっくりや」

窓の外では夕立が来る前の風が鳴っていました。遠くで洗濯物を取り込む音がして、誰かの日常だけが壁の向こうを流れていくようでした。

「司、お茶淹れなさい」

父に言われて立ち上がると、膝がうまく伸びませんでした。台所へ行くと流しにはまだ朝の食器が残っていてスポンジから生臭い水が垂れていました。

蛇口をひねると夏のせいかぬるい水が出ました。



ミチルさんが私たちを部屋に招き入れました。タケノコのような形をしたドリルが上を向いて置かれ、背もたれをこちら側にした昇降式の椅子がその上に設置されているのは、ひきつる音ひとつ出ない光景でした。それから間を置いて、衰弱した兄貴がタケガワさんに掴まれ連れて来られました。

「おら、貴様らのガキがのここ2週間くらいずうーっと糞漏らしよるんや。我慢も出来んのやったら蓋せんなしゃあないやろが」

兄貴は弱い力で抵抗しているように見えましたがタケガワさんはなんでもないように椅子のほうへと引き摺って行きました。母親は土下座をして何度もそれだけはやめてくださいと叫んでいましたが、ミチルさんに頭を踏まれるばかりでした。

背もたれを足で挟むようにして座らせられた兄貴が飲みきれなかった涎とともに呻きを垂らして、それをタケガワさんは怒りもせずニヤニヤと見ていました。

「のう義則、自分の始末くらい自分で出来るわな?お前今年でいくつや」

兄貴は顔を紙のようにくしゃくしゃにして声も出せないほど泣いていました。

「しゃあないな、おい司、お前の兄貴はいくつになるんや」

「……今年19です」

「ほぉん……成人出来んのは可哀想やなあ。でもなあ義則、お前のためやろ、違うか?」

固定器具を全て止めきらないままタケガワさんが間延びした声で数を数えました。ドリルは静かながら回転を早めていき、椅子の底面を削る音がし始めました。

そこからは、あっという間でした。目を背けたかったけどミチルさんが目敏くこちらにもビデオを回していたので誰も耳も目も塞げませんでした。獣の咆哮を続ける兄貴の口を割って血の塊が吐き出されてから、すぐに勢いが落ちていきました。色々な液でぬらぬらと光るドリルの先端がちょうど臍があっただろう位置から覗いていました。

場違いな音がしてその方向を見ると、まるで金持ちのような仕草でタケガワさんがゆっくりと手を叩いていました。そのまま兄貴に近付くと、ポケットに手を突っ込むと個包装の飴の封をちびりと切っていました。太い指が溶けて袋に引っ付いた飴を探ると、飛び出した飴玉は兄貴の溢れた腸に乗って少し落ち込みました。それを指を突っ込んで取り出すと、タケガワさんは口に入れた飴を噛み砕きながら、快楽の座やなぁ、と無感情にぼやいていました。

「ひ……ひと殺し」

ひきつった声にタケガワさんはぬるりと目を曲げると、まあそんなとこやなあと笑いました。


兄貴の死体はミチルさんがどこかから持ってきた寸胴鍋で処理しました。身体もそうでしたが処刑に使用されたドリルの刃についた肉片の後処理のほうが大変だったように思います。

「よしくんちっちゃあなったねえ。こないに抱けるやなんて、なんや小さい頃思い出すわぁ」

解体の途中、切断された頭部を抱きかかえて母親はにこにことしていました。何時間経ったでしょうか、解体を終えたあと、妹は湯の張られていない風呂場の隅で膝を抱えていました。乾ききっていない水滴が灰色のTシャツの色を暗くしていました。換気扇は壊されていて弱々しく唸るばかりで、白く膜の張りはじめた足の親指をソウは撫でました。水のにおいと鉄臭さが白い曇りになって天井へ貼り付いていました。

いつの間にか入ってきたミチルさんが立っている私のことなど気にもとめずコックを捻り、手で温度を確かめながら徐々に湯気をあげはじめた蛇のような水流が妹に向けられました。水音が広がるだけで家というものはこんなにも存在が掻き消されるものなのかと思いました。

「ほら、立ち」

妹は返事をしませんでした。濡れ鼠になった髪の先からぽたりぽたりと水が落ちて、そのたびに底に薄く積もった埃が黒く滲みました。

「聞こえとんのやろ」

少し低い声に肩だけがびくりと跳ねました。それでも動けずにいる妹を見て、私は奇妙なことを考えていました。人間は限界まで怖くなると逃げるより先に、置物みたいになるのだな、と。

居間ではタケガワさんが鼻歌を歌っていました。演歌なのか民謡なのかよくわからない節回しで、ところどころ歌詞を忘れるたびに喉を鳴らして笑っていました。

父親も母親もさっきから一度もこちらを見ませんでした。ただ決められていたことのように、自分の顔を反射する棚のガラスをじっと見ていました。

卓上にはひっくり返された醤油差しから黒い液が広がっていて、畳の縁をじわじわ濡らしていました。私はそれを見ながら、海みたいやな、とぼんやり思っていました。昔、兄貴に連れていってもらった夜の岸壁もこんな色をしていたと思ったのです。

「司くん」

呼ばれて顔を上げると、タケガワさんが笑っていました。

「なんやぁ眠そやなぁ」

脂でてらつく指先が私の瞼を押し上げました。煙草と胃液みたいな臭いがしました。

「人間な、寝不足続くとな、夢と現実の境目わからんようになるんや。便利やろ」

その言葉に、戻ってきていたミチルさんだけが小さく鼻で笑いました。窓の外では風もないのに竹が鳴っていました。乾いた葉が擦れる音が、遠くで雨でも降っているみたいに続いていました。

妹が戻されてきた頃には、父親はもう呼吸音も耳を澄まさないと聞き取れなくなっていました。母親だけが、壊れた玩具みたいに時折へらへら笑って、それから急に泣きそうな顔になりました。誰も時計を見ていなかったのに、時間だけが部屋の隅で腐っていくようでした。


兄の身体は最終的に液状にされて……ペットボトルに詰められていきました。それは緑色のラベルの貼られた兄がよく飲んでいた炭酸水と同じものでした。タケガワさんはそれさえ知っていたのでしょうか、まさか。

煮詰まりすぎた灰汁のような色を詰められた容器は、それぞれの翌朝の持ち物に加えられた私はその中身を公園の滅多に人が使わない一室だけの、壁は一面に名前も知らない虫がとまっている公衆トイレに流しました。くる日もくる日も、そうしました。どぽっどぽっと灰色の重い粘性の、兄というものだった液体が黄ばんだ和式の便器に落ちていくのを、顔を近づけて眺め時折跳ね返るアンモニア臭い水のぬるさで正気を保とうとしていたのを、覚えています。個室にこもる熱気とにおいの不快さも同様にです。

その日も容器の内側が薄く灰色に透けるようになった空になったペットボトルを鞄にしまいました。兄を液状にしてペットボトルにただただ詰めたあの日々、鞄の重みはそのまま家族の質量でした。教科書とノートの隙間に収まった、かつて義則兄さんだったものの揺れる鈍い音。歩くたびに、プラスチックの壁を叩く重い、無機質な音。

教室で黒板の文字を追っている間も、私はその重みばかりを意識していました。昼休み、女子生徒が、なんか、生臭くない?、と冗談ともつかぬことを放った瞬間……それが誰かが適当に絞った雑巾のにおいということを理解していても私の心臓は、あの剥がされた家族の爪のように剥き出しの恐怖に晒されました。

放課後の公衆トイレは、私にとっての埋葬地でした。

壁に張り付いた名前も知らない羽虫たちが、私の吐息に合わせて一斉に羽を震わせる。その微かな羽音が、兄の悲鳴さえなかったかすれた呼吸音という断末魔をかき消してくれるような気がして、私はわざと深く息を吸い込みました。

どぽっ、どぽっ。

手元が狂って和式便器の黄ばんだ陶器を、灰色の粘液が汚してました。それは兄の解放であると同時に、私自身の人間性が一滴ずつ排水溝へと消えていく儀式でもありました。跳ね返った水が頬に触れた時、私はそれを兄の涙だと思い込むことにしました。

何日目かの朝、便器の縁に指をついたまましばらく動けなくなりました。タイルの目地が汚れていて、剥がれかけた壁の端には黒ずんだカビが生えていました。そういうものを眺めていると、外の世界がまるで精巧に作られた嘘のように感じられました。本当のことはこの個室の中にだけあって、自分はその片付け係に過ぎないのだという、妙に澄んだ心地がありました。

トイレを出るとすぐ前に人がいて小さく声をあげると、その人はきょとんとしてからすぐに相好を崩して、漏れるとこやったわ、と私の肩をぽんと叩きました。私は軽く会釈をしてから鞄を掛け直すと、くしゃ、と紙の擦れる音がしたのでふと手をやると、そこには付箋が貼られていました。さっき、叩かれたほうの肩でした。付箋には、マタココデマツ、と右側に癖のある字で書かれていました。明日で兄をここに流すようになって何日目になるのか私は考えていました。


その夜の空は、まるで血を薄めたような不気味な茜色をしていました。帰宅すると、リビングではタケガワさんが上機嫌で鉄板を囲んでいました。肉が焼けるパチパチという音が、場違いでした。

「おう司くん、おかえり。今日はええ肉が入ったんや、よう食いなはれ」

パチパチと油が跳ねてタケガワさんが笑うたびに不穏さが撒かれるようでした。その上に焼きそばのかけらや肉の切れ端が残った頃、母親は奇声をあげてリビングを飛び出して行きましたがそれもたたきのところあたりで捕まえられていました。

連れ戻された母親が部屋に上がる前から父親は何度もタケガワさんに頭を下げてどうか堪忍したってください、と繰り返していました。それでも嘆願はタケガワさんを苛立たせただけで、手近にあった花瓶の水を花ごと鉄板にぶちまけると水蒸気をあげるそこに父親の顔の片面を押し付けました。タケガワさんはずっと、熱いなあ熱いなあ、と言っていました。母親はタケガワさんに言われるまま足の指を自分で潰していました。ひーひーと引き攣った喉を鳴らして、動きの悪い人形のように首を横に振っていました。

ミチルさんは煙草に火をつけるためにマッチをすると、母親はそれちょうだいと狂った声で喚きました。止血のつもりなのでしょうか、燃えかすを何度も押し当てていました。

私はその光景を、壁際に立ったまま見つめていました。母親の爪が割れる小さな音が、部屋の湿った空気に吸い込まれて血が畳に染み黒く広がり、甘い、鉄の匂いが蒸した部屋に香りたちました。昔、焼き場で感じた骨の熱気と似ていました。すべてが焼けて、残るのはただの形。それでもまだ、母親は笑おうとして、無理やり引き上げられた口角が痙攣しながら震えていました。めんどくさそうに煙草に火をつけるとミチルさんが私の横に並びました。

「タケガワさんの目的はぼくにはよう解らんわ。あないザルなやり方しといて逃げられたらわざわざ連れ戻す。捕まるんはあんたらやろうが」

じとりと睨めつけても女は動じずに片手を組んだまま安い煙草をふかしていました。

「……そらまあ、この人らはうちらにとって有益な生き物ですから。特に司くん、あんたは一番タケガワさんにも目ぇかけてもらえとるんよ。周り見とったら解るやろ……約束された完全完璧より、見えへんもんに絡まれてろくに息も出来ん人たち見とるほうが、なあ、笑えると思いません?」

「はは……二人も揃ってほんまにけったくそ悪いお方やの。これだけは感謝しとく、あんたらがぼくの親やのうてよかったわ」

「うちら夫婦やないって見たら解るやろ。よかったわ、まだ冗談言えるくらい元気みたいで」

ミチルさんは吐き出した煙を指で追いかけるようにして、カーテンに透ける窓の外の闇を見つめました。

「しっかしまあ……感謝、か。司くん、ほんまに親に似たんか似とらんのかは知らんけども、ええ性格だけはしとるわ」

彼女の言葉には毒というよりも、すべてを諦めきった人間の吐露する乾いた砂のような響きがありました。

私はその時、妙なことを考えていました。


ああ、この人たちはもう元には戻らないんだな、と。


父親も、母親も、兄貴も、妹も。たぶん自分も。家というものが壊れる瞬間はもっと派手な音がするものだと思っていました。瓦が落ちるとか、柱が裂けるとか、そういうものを想像していました。でも実際は違いました。誰かがずっと湿った雑巾で家族の輪郭を撫で続けて、少しずつ滲ませていくみたいでした。

「司」

不意に母親が私を呼びました。

振り返ると、下を脱がされて唇の端が切れて血が乾いていました。それでも格好とは裏腹に妙に穏やかな顔をしていました。昔、熱を出した時に額へ濡れたタオルを乗せてくれた時みたいな目でした。

「……なんです」

「そうやな、二人ともお腹すいてへん?」

意味が解りませんでしたが。母親は笑っていました。壊れた笑いではなく、どこか諦めた人間の静かな顔でした。

「冷蔵庫にな、プリンあるんよ」

その瞬間、タケガワさんが腹を抱えて笑い出しました。ばしばしと膝を叩いて、息を詰まらせながら、涙まで浮かべて低俗に笑っていました。

「はっ、はは……なんやそれ、奥さんあんた今その話するんか。ほんま大したタマやのう」

ミチルさんは笑いませんでした。ただ煙草を咥えたまま、母親をじっと見ていました。標本でも観察するみたいに。

おそるおそる立ち上がって冷蔵庫を開けました。飛び込んできた庫内の白い光がひどく眩しく感じられました。タケガワさんたちが飲む麦茶のポットと、開けかけの梅干しと、ラップの浮いた味噌汁。それから端のほうに、三連の安いプリンがありました。一つだけ無くなっていました。これは前からあるもので、だから、たぶん兄貴が食べたのでしょう。

それを指先で掴むと、冷たさで現実感が戻ってきました。

戻ると、タケガワさんが、ほれみい、と笑いながら力の抜けた母親の両肩を掴んでいました。

「こういうんが一番怖いんや。壊れきっとるくせに、まだ家族ごっこしたがる」

母親はされるがままで、ただ伸ばした肢体をだらんとさせていました。半袖から出た肌には青黄色紫と様々な内出血の痕がありそれはピントをずらして見れば花が咲いているようでした。

プリンの蓋を開けると黄色い表面がぷるりと揺れて、カラメルの匂いが微かにしました。スプーンが無かったので、私はそのまま口をつけました。

指先に掬って、妹の口元にも持っていきました。それを小さく飲み込むと声もなくただゆるく口角をあげました。弱く摘まれた服の裾が、はなれないでと言っているように思いました。

ずっと脂と味の濃い料理か6枚切りの食パン1枚の身にはプリンは甘かったです。ひどく甘くて、それでいて舌の奥ではずっと鉄の味がしていました。

それからしばらくして、ミチルさんが急に立ち上がりました。

「あーあ、臭」

「なんや急に」

「血ぃと脂で頭痛なってきた。ひっどい臭いや。窓、少し開けますよ」

サッシの擦れるききっ、という金属の擦れた音がして窓が3ミリほど開くと、それでも夜の湿った風が流れ込みました。庭の竹が擦れ合う音がして、どこかで蛙が鳴いていました。夏でした。どこまでも夏でした。

その時でした。父親が突然、喉の奥で変な音を鳴らしました。最初は咳かと思いました。でも違いました。笑い声でした。壊れた蛇口みたいに途切れ途切れの笑いが漏れていました。

「……あかん、もうあかん」

父親は顔を覆って肩を震わせていました。

「俺、もうわからん。何したらええかわからん」

「ほな考えたらよろしいがな」

タケガワさんは楽しそうに言いました。

「役者やろ?舞台立ったら台本なくても芝居くらい出来るんちゃうんか」

父親はゆっくり顔を上げました。目が、妙に澄んでいました。それが逆に怖かったのを覚えています。


視線の端でずっと背を曲げて蠢いていたタケガワさんが満足げに鼻歌を鳴らして、キッチンからこちらを振り返りました。

「……あったあった。これや。これでお前の誠意見せてもらおか」

タケガワさんが取り出したのは、かつて母が焼きたてのパンを切り分ける時に使っていた、あの馴染みのある包丁でした。

刃のギザギザが部屋の明かりを反射して傷ついた鱗のように怪しく光っていました。父は、それを直視しているのか、あるいはしないようにか目を大きく見開いて噛み殺した唸りをあげながらただひたすらに自分の存在を消そうとしているように見えました。

引き戸から取り出したそれを母親の剥き出しの股座の前に放ると、タケガワさんはそれで自慰をするよう命じました。

「お前ももうまずまずの歳やさかいな、それでその腐れまんこの掃除でもせえ。カビこそげるんにはええ具合やろが……なあトワコちゃん、むかーしに教えたったやろが、な?」

タケガワさんに名前を口にされた母親の顔が凍ったのは、遠目にも明らかでした。ごつりと額を床につける音が熱気を残した部屋に漂いました。

「やります、やりますからお願いしますから司の前では」

「なんや、今更そがあなこと気にしとるんか。義則のこと思い出せ……あないに立派におもろう死んでくれたのに、母親の自分は嫌や言うつもりけ?それともなんか他に……なんかあるんかなぁ」

暴力がにたにたと私を見ていましたが、それ以上の意味はこの異常な空間では考えつく暇もありませんでした。母親は拾おうとした包丁を取り落として、からんからんと金属の軽薄な音を響かせていました。

風呂場から聞こえていた悲鳴が止んで少ししてミチルさんが息を切らした妹を引き摺ってきました。むきだしの脚の表面にはいくつも薄膜が膨らんでおり、火か熱湯を使われたのだと解りました。

「お、なんやうまそうなもんあるやないけ」

大股で近づいたタケガワさんはいきなり足首を掴みあげると水ぶくれに不快な音を立ててむしゃぶりつくと、塩辛いな、悪いもんが溜まっとる、と言うと下品なほどに喉を動かしました。

そして妹の足首をぞんざいに放すと、満足げに口元を拭いました。

やぶられなかったいくつもの水ぶくれの表面が蛍光灯を鈍く照り返していて、薄皮の向こうで透明な汁が揺れているのが見えました。ミチルさんはそれを少し軋んだ無表情で眺めながら、煙草の灰だけを灰皿の外へぽんぽん落としていました。積もった灰は風もないのに崩れて、畳に細い筋を作っていました。妹は声も出せずにただ身体を折り曲げ、汚された場所を隠すように丸まりました。

「さて、口直しや」

タケガワさんが視線を父に向けると、父は糸を引かれた人形のように元々立たされていた背筋を限界までピンと反らしました。その目は完全に焦点が合っておらず、なにか、自分の内側にある父親という役割を粉々に砕くような勢いで、倒れている母に掴みかかりました。

拳が肉を打つ音が、リビングに一定のリズムで響きはじめました。

私はその音を聞きながら、幼い頃望んでいた劇薬が、今まさに家族というシステムをただどろどろの液状に溶かしていく様を、ただ見つめていました。


次の日、ぱちぱちとなにかが焼ける音に目を覚ますと、タケガワさんがキッチンに立っていました。ふとまだ夢を見ているのかと思いましたが卵とトーストの焼ける香ばしいにおいに思わず唾が口の奥に溜まりました。

「おう、他のんも起こしたれ」

振り返ったタケガワさんの片手には卵液のついたフライ返しが握られていました。全てが上滑りしているようでした。

いつこの茶番が幕切れになるのかと怯えている私を嘲笑うような機嫌のいい鼻歌を背に受けてまず父親を起こしにかかりました。久々に座った食卓の椅子は柔らかで、この数週間の内にフローリングの硬さに慣らされたことを思い知りました。母はコーヒーを一口啜って、涙を流していました。

「家族やなあ」

タケガワさんはにこにことしながら噛み締めるように何度も頷いて、家族、と繰り返していました。

その日は一日、家族団欒が許されました。敷地内なら自由に外に出られましたし、公園までなら車を出すことも許可がおりました。

ミニバンを回していると、家から出てきたタケガワさんが私たちに手を振りました。あの人も走るのか、と一人思いながらミラーを下げるとタケガワさんはあのドブみたいな発音でこう言いました。

「いってらっしゃい」

平日の昼、公園は小さい子どもを連れた親子がぽつりぽつりといました。未だに不安げな妹を、奥にあるちんまりした遊具に誘い並んでブランコに乗りました。そうすることで、ベンチに座っている両親も安心させられるかもと思ったからです。妹はむっすりとブランコに座ったまま、私子供ちゃうのに、と呟きました。

「ごめん、トイレ行ってくる」

一瞬泣きそうな顔をしたのを見逃さず、陽に透けて茶色く光る髪を撫でました。

「……じゃあ一緒にくるか?」

「アホ」

少し笑って、すぐ戻るから、と言って妹に手を振りました。彼女も手を振り返しながら、早よ帰ってきてな、と呟きました。

「あっ」

「よう兄ちゃん、だいぶ待ったで」

今日はちょっと多いねん、ちゃんと覚えてや。

そう言いながら男は私の胸辺りに付箋を3枚貼ると前と同じように肩を叩いて去っていきました。付箋には、オトコヲコロセ、ヤレバタスケル、の文字と一緒に男のものらしい車のナンバーが書かれていました。

戻ると妹はブランコを漕いでいて、やるやん、と茶化せば、こっちのほうが涼しいから、と笑われました。

一人で公園の周りを散歩していると4歳くらいの子供がシャボン玉を吹いていて、その群れが風に煽られ私の顔に当たりました。吸い込んだいくつかの球体が割れて、苦い味がしました。母親らしい人が一つ結びにした頭をさげながらすみませんと言っているのを、こんなものでも吸い込み続ければいつか死んでしまえるのだろうかと思いながら聞いていました。

夕暮れの角度がきつくなった頃、私たちはもうやることもなくベンチに座っていました。帰ろか、と父親が誰にでなく呟きました。

家につく直前、今日は疲れたな、司も想もお前も疲れたやろ、と父が言いました。みんななにも言いませんでした。夕闇に沈んでいく空にまた明日が来ることは自明でした。いつからそこでそうしていたのでしょうか右頬が少し弛んでいるタケガワさんの笑顔がどんどん鮮明に見えはじめました。


タケガワさんが溢れそうな灰皿で吸い殻を器用に指で潰しました。じゅ、と湿った音がしました。

その時でした。立っていた母親が弾かれたように駆け出し、躓いたのか途中からは四つ這いのまま台所のほうへ走りました。爪のなくなった指先の、硬くなった皮膚が床を引っ掻く音がやけに大きく聞こえました。

「あっ」

妹が小さく声を漏らしました。

母親は流し台の前で何度もえづいていました。でも胃の中はもう空っぽなのか、水みたいな音しかしていませんでした。肩甲骨だけが浮いて見える背中は、人間というより濡れた鳥みたいでした。

タケガワさんは立ち上がることもせず、面倒くさそうに顎をしゃくりました。

「ミチル、戻せ」

無言のまま近づいたミチルさんが母親の髪を掴み、そのまま床へ引き倒しました。鈍い音がして、母親の後頭部が受け身もないままフローリングに当たりました。

「や、やめ……」

掠れた声でした。

「なにを今更やないけ奥さん。ここまで来といてまだ身体大事なんか」

タケガワさんは笑っていましたが、どこか退屈そうでもありました。まるでテレビでも見ながら適当に相槌を打っているみたいでした。母親は床に伏せたまま、ふとこちらを見ました。


その時の目を、私は今でも時々思い出します。


助けを求めているわけでもなく、謝っているわけでもなく、ただ妙に澄んでいました。風呂場で水を抜いたあとの浴槽みたいに、底だけが見えているような目でした。

「司……」

小さな声でした。

呼ばれた気がして身体が僅かに動きました。でも次の瞬間、タケガワさんの太い手が私の肩を掴んでいました。

「聞いたらあかんで」

耳元で囁かれた声は妙に優しくて、余計に気持ち悪かったです。

「ガキいうんはな、それ作った親が壊れるとこ見届けるんが仕事や」

そのまま肩を押されて畳に座り込むと、視界がぐらぐら揺れました。熱気のせいか、空間を占める空気のせいか、もう自分でもよく解りませんでした。

父親は床に這いつくばったまま、急に笑い始めました。

「あは、は……はは……トワコ、お前ほんま、よう頑張っとるなあ」

壊れたラジオみたいな笑い声でした。

母親はもう返事をしませんでした。代わりに蛇口から一定の感覚でシンクに潰れる水の音がやけに遠く感じました。流し台には洗われていない皿の山が残り、昼に切ったのでしょう、しなびた葱の青い部分が排水口に張り付いていました。

そのあたりから記憶が曖昧です。

視界の端でミチルさんが煙草をフローリングで揉み消したのを見た気がします。妹が何か叫んでいた気もします。けれど全部、水の中で聞いているみたいにぼやけていました。畳に頬をつけると、じっとりと汗を吸った感触がして、乾きかけた血の鉄臭さが鼻に入りました。


いつの間にか気絶していたらしく目を覚ますと、父親は母親に馬乗りになって何度も殴りつけているところでした。罪悪感を消すためか大きな声をあげていました。

「のうコマミヤの旦那さん、二足のわらじやゆうたかてあんた役者のくせに芸ないんやの。そないなちんぽみたいなやわこい手ぇで殴っとったかて奥さんもそらしゃあないわ。もっと思いつかんのんか」

やわらかく語尾を切り上げると、煽っていた一升瓶の中身を散らしながら転がしました。

一升瓶は、畳の縁に当たってからゆっくりとこちらへ回ってきました。口のところから透明な液が細く零れていて、鼻の奥がつんとするような安いアルコールの臭いが漂っていました。父親は震える手でそれに腕を伸ばしました。掴もうとして、何度も失敗していました。母親は仰向けのまま肩を小刻みに震わせていて、泣いているのか笑っているのかも解りませんでした。畳に張り付いた髪の毛だけが、汗で黒くぬめって見えました。

「しっかし夫婦いうんは難儀なもんやなあ。片っぽが腐ったら、もう片っぽも腐るまで寄り添いよる。わしにはよう解らん」

タケガワさんはそう言いながら、父親の後頭部をつま先で軽く小突きました。父親は反射みたいに肩を跳ねさせましたが、もう声を出す気力も残っていないようでした。

リビングの時計は11時を回っていました。エアコンはとうに切れていて、熱気だけが部屋の隅に澱んでいました。換気されていないここでは鉄板焼きの油と焦げた花の臭い、甘い味付けの卵焼きと焼けたパンの香り、それから人間の汗や血の臭いが混ざって、壁紙まで湿っているように感じました。ガラス戸には私たちがぼんやり映っていましたが、誰の顔もどこか別人のようでした。


重い沈黙を警報音のような甲高い電子音が鳴って、ガタリと立ち上がったタケガワさんがリビングを後にしました。

「許してくれ、許してくれやトワコ。俺もうトワコが可哀想で……やからもうこれ以上お前の身体が可哀想にならんように俺にも考えとることあるんや」

タケガワさんがいなくなってすぐに瓶を手放すと、母親の力の抜けた手を優しく擦りながら言っていました。ミチルさんは真っ暗なビー玉のような目でそれを眺めていましたが、もう父親はそれすら気にしていないようでした。

結局のところ、父の考えとはただの逃避でしかありませんでした。翌朝になると母は冷たいフローリングの上で事切れていました。その顔には、タケガワさんに命じられた笑顔が、死後硬直によって無残に張り付いたままでした。父はそれを見て、笑いながら泣き、泣きながら母の遺体に何度も謝罪を繰り返していました。

「トワコ、これでええんやろ。これで、お前も楽になれたんやろ」

父の指先は絶え間なく小刻みに震え、もはやスプーン一杯のスープすら掬うことができないほど精神の均衡を失っていました。

家の空気は、腐敗した果実のような、甘ったるくて吐き気のする臭いに満たされていきました。妹がなにも言わず解体の準備を進めていました。


母親が死んでから、父親も狂うことが多くなりました。

正気ではない人間の言うことに耳を貸すほど馬鹿ではないつもりでしたが、それが親だと思っていた人からだったらなんて考えたこともなかったのです。

「なんでお前なんや、司。なんでお前や。なんでなんや、なんで義則やったんや、なんでや、なあお前は、お前……が死んだかて俺は、俺もよかったのに」

何度も何度も父親は同じことを言いました。朝、顔を見ては力の抜けた手でなお私に掴みかかりました。それはあることを思い起こさせました。

じいさまの49日が空けた形見分けの時でした。母親が私を呼んで、風呂が沸いたから先に入りなさいと言ったので、私は脱衣所で服を脱いでいました。諍いの声は聞き馴染みのある音で、耳を傾けるまででもありませんでした。

「どないするつもりです」

「俺はかまへんと思うとる」

おどおどとした、情けのない声でした。あのおとはんが、あんな声を出すんだと私はなんとなくびっくりしました。

「あんたやないんです。じいさまがなんて言う思うとるんです……あの子に渡すもんなんぞ、血の一滴やかて私は許せません……婿養子の身ぃで、余計なこと言わんでください」

蓋をあけるとほんのりと湯気の当たる感覚がして、ふと見ると浴槽は栓が抜けていてすっかり流れさっていました。空のそこに肌を触れさせると奇妙なほどに冷えていくようでした。

居間からは、父の声が聞こえていました。それこそ舞台で台詞を読み上げている時のような抑揚の付け方がおかしい声が聞こえてきました。母はそれに答えませんでした。ただ食器が触れ合うカチカチという硬質な音だけを響かせて夕飯の仕度をしていました。

冷えたタイルに耳を押し当てると、家の軋む音がまるで巨大な怪物が自分を咀嚼している音のように聞こえたのをなんとなく覚えています。それから数分後、私は何事もなかったかのように風呂を出て、両親の前に座りました。


湿り気を帯びた静寂を切り裂いたのは、居間の隅に置かれた子機の、場違いなほどやわらかなベルの音でした。

その音は、私たちが必死に維持していた屠殺場の均衡を無残に踏みにじる、絶対的な外部からの介入でした。それまで父親のみぞおちを執拗に踏みつけている私をにたにたとねばっこく見ていたタケガワさんの指が、凍りついたように止まりました。彼の分厚い背中が、まるで冷水を浴びせられたかのように小さく、しかし確実に震えるのを、私はまつげに汗を絡ませながらも見逃しませんでした。

この家で王様のように振る舞うタケガワさんの顔から一瞬にして捕食者の余裕が消え失せ、代わりに、なにかに追われる小悪党の、あの卑屈で薄汚い表情が這い出してくるのを目の当たりにしました。

タケガワさんは、受話器に手を伸ばす際、誰にともなく、アイツからや……と、確認するように、あるいは自分に言い聞かせるように呟きました。

電話の音にいちいちぴくりと肩を震わせながら、受話器を持って部屋から出ていきました。そうして少し高い、媚いるような声で短く、はい、はいと繰り返していました。

廊下へと続く引き戸の向こうから漏れ聞こえてくるその声は、私たちが知っているあの不快な熊男の咆哮ではなく、より巨大な捕食者の機嫌を伺う、さらに巨大な虫に怯えながらも腐肉を食らう蛆虫の咀嚼音のような、浅ましく震える響きでした。


我に返って下を見ると父親がぼくを睨んでいたので踏む足に力を込めて唾を吐きかけました。

「司、お前が」

「解っとるよ、もう解っとる。でもなおとはん、あんたの言う通りにはならんよ。こうなったらもうわやくちゃじゃ……ぜーんぶ壊れてまえ。ぼくを作ったあの親父をぼくが食らったる。もし責任があるとしたらそんなもんやろ?ケダモノ食ろうたら、せやなぁバケモンになるんも面白いかもしれへんなあ」

戻ってきた人はいつもと変わらない憮然とした表情を貼り付けてぼくにそれを向けるとはあと深い息をつきました。

「はよう死んでくれや、司。わしがここい来た理由はこれだけや。お前はなんも考えんでええ、最初っから借金のかたにするつもりでお前はこしらえたんじゃ……それをちいと腹膨らしたくらいで情が出たいうてあんのクソタレ、わしがどがな気持ちで今日まで待ったか。金貸しのガキに口ん中に百足放り込まれて頭踏まれながらな、あと15年待ってください、て。あれは酷いもんやったなあ……それに比べて、お前はどうやった?こんなきれいなお屋敷で育って……貞淑ぶったアバズレでも母ちゃんがおらんなってもうたのは寂しいか?」

「さあ、どないや思いますか?しかしぼくに親はおらんもんやと思って生きてきましたからなあ……動物の勘ってもんなんかね、気づくもんなんですよ。ぼくは兄も妹もおりましたさかい……まぁあんたにはどうでもええ話やったかな」

それを受け止めてか、タケガワさんは今日一番の心の底から愉しげな笑みを浮かべました。

「司はおもろいなあ。お前、ほんまにおもろいわ。その目ぇ。わしとおんなじや。おんなじように地獄の底まで見届けな気ぃの済まん人間の目や」

タケガワさんは私の頭を撫でるというより乱暴に揺らすと、そのままリビングを出ていきました。

残された父は、まるで骨を抜かれた魚のように床に這いつくばったままピクリとも動きませんでした。

次の日、父親はクローゼットの中で母親が昇進祝いとしてプレゼントした大事な時に着けていたネクタイで首を吊っていました。私がつけた痣の浮いた顔を苦悶の表情にゆがめて、大きく開かれた口から紫色をしたサツマイモを思わせる変色した舌が突き出されていました。ネクタイの鮮やかな紺色が、父の顔のどす黒い死色を際立たせていました。

それを眺めながら、なぜか私は、これでようやくこの人は役を降りられたのだなと、妙に冷めた心地で考えていました。

部屋の隅には、タケガワさんが飲み散らかした酒の瓶が転がり、においがこもるからと動かすことを許された換気扇の回る虚しい音だけが離れたリビングで低く響いていました。一歩、そこへ戻ると昨夜の狂乱の残骸が夏の終わりの死骸のように転がっていました。昨日の夜から明け方まで夏布団で身体を巻かれ私たちにサンドバッグにされていたミチルさんの潰れた寝息がしていました。

カーテン越しの窓の外では、昨日と変わらない夏の陽光が降り注ぎ、百日紅の花が赤々と咲き誇っていました。私は父のポケットから零れ落ちた小銭の、鈍い金属の匂いを鼻の奥に感じながら、その場に立ち尽くしていました。もはやこのお屋敷には正気という名の空気などひとつも残っていませんでした。


タケガワさんが父親の車の鍵はどこかと私に聞いてきたので、鍵置きごと差し出しました。もう車に乗る人なんてここにはいないからです。しばらくそこを物色していたタケガワさんが、ほな墓参りいこか、と笑いました。思わず暗い廊下を振り返ったのですが、ソウの世話はミチルがやってくれる、と言われ頷くしかありませんでした。

車に乗せられ、山道を延々と揺られました。窓の外では、青すぎる空の下で田んぼがぬるく光っていました。途中、潰れたガソリンスタンドや、蔦に飲まれた民家が見えました。まるで世界そのものが放棄されているみたいでした。

山奥の共同墓地に着くと、タケガワさんは汗を拭いながら笑いました。

「司くん、人間な。死んだら土戻る思うやろ」

「……そうとちゃうんですか」

「ちゃうちゃう。人間はな、他人の頭ん中残るんや」

墓石の隙間から伸びた雑草を踏み潰しながら、タケガワさんはずんずん奥へ進んでいきました。

やがて、一番奥の崩れかけた墓の前でタケガワさんが立ち止まりました。墓石には何も刻まれていませんでした。

「ここや」

そう言って、タケガワさんはしゃがみ込みました。指先で慈しむように墓石の稜線なぞると、そのまま額を軽く押し当てました。

私はその後ろ姿を見て、初めて恐怖とは別の感情を覚えました。

憐れみでした。けれどその感情は、次の瞬間には消えました。

「司」

振り返ったタケガワさんは、笑っていました。

「お前もそのうちここい入るんやな。楽しみやなあ」

遠くで蜩が鳴いていました。

耳が痛くなるほどの声量なのに、世界は妙に静かでした。



その日の夕食の当番は妹でした。ぼくは妹に吐き出して貯めておいた睡眠薬を渡してタケガワさんのシチューに混ぜるように言い、それからなんでもいいから解りやすい粗相をしろと伝えました。狼狽えている妹の頭を撫でて、大丈夫やなにがあってもぼくが助けたるから、と言うと妹の目は少し落ち着きました。

「ほんまにすぐ助けてくれる?」

「当たり前やろ、もうたったひとりの……兄妹やろが」

妹の指が震えながらスプーンを握るのを、横目で眺めていました。換気扇は動かされず、鍋から立ち上る湯気が空間にべったりと張り付いていくのが解りました。玉ねぎと肉の甘い匂いの奥に、薬のわずかな苦みが混じっていることに私は目を伏せて、足の指をフローリングに引っ掛けるように強く曲げました。タケガワさんは上機嫌で新聞を広げて時折笑い声を上げていました。その音が昔の読経のように重く揺れて耳の奥まったところで響きました。

妹がスプーンを落とすとタケガワさんの目が揺らぎました。

「あーあ、コマミヤのお宅の綺麗な畳が汚れてもうたあ」

なにも言われないのに妹は犬のようにそれを舐め取ろうとしていました。

「はははっ、見てみい司!このお城におったはずの人間が揃いも揃うて哀れなもんやなあ……おいメス犬、お前男とヤッたことあるんか」

「……ない、です」

「なんやね、もう司あたりにおめこされとると思っとったら……えらい大事にされとんやのお」

妹はなにも言わずもうあらかた綺麗になった畳を抵抗のように舐めていました。怒りか、涙を堪えているのか、背筋から腰にかけてが震えていました。手を伸ばしたいのを堪えて私はじっと黙っていました。口の中はもうカラカラでした。

「洗いもんは司がせえ。わしはソウに色々……そらあ色々教えたらなあかんさかいの。おらいつまでそんなとこ舐めとんねん、立てや」

立ち上がる時、妹と一瞬目が合いました。合わせた、と言ったほうがいいかもしれません。空になった鍋を流しに置いて、食器を入れて蛇口を捻りました。耳を澄ますと泣き声が上がっていて、神経が尖っていくのを感じながら私は頭を揺らして手近にあった包丁に、滑らないようにボロ布を巻き付けました。鍋から溢れた水が微かな音を立てているのを尻目に、寝室へと通じる道へ向かいました。廊下に落ちていた爪剥ぎに使われた先の細いペンチも念の為に拾っておきました。

息を吸い込んで扉を勢いよく蹴破りました。狙いどおり睡眠薬の回っているタケガワさんはいつもよりかなり鈍く、気取られるよりはやく手にしていた刺身包丁を妹に覆い被さったままの身体……その下の肛門の近くに捩じ込むように刺しました。意味の解らない声をあげて仰向けに転がり落ちたタケガワさんの股間を踏み付けると、刃が奥に行ったのかまた叫びました。固まっていた身体が溶けてようやく震え出した妹に隠し持っていたバスタオルを与えて外に出てろと言いました。喉を踏みつけて口を開かせ、閉じたペンチで刺すように抉るとタケガワさんは何度ももがきました。ペンチを引き抜くと血を吐き出しながらなにやら言うのが聞こえました。

「なんやね、ぼくよう聞こえんかったわ。ガキの頃から耳が悪うてのお……もういっぺん言うてくれや……あ?なんねソウちゃん、出ていき言うたやろ」

背を掴んだ妹がはんだごてをそっと手渡しました。解っているのかいないのか、真意は知りませんがこれはすべてのはじまりの道具で、効果があったのかはともかく止血にもよく使われていたものでした。ゆっくりと首の骨を鳴らして全裸の男に歩み寄りました。うつ伏せの背中に跨り後ろから抱きかかえるように男の顎へ手を這わすと、それはまだ僅かに悶えました。

「ははっこらえらい眺めやのお。安心せえ、なあ?貴様がやろうとしてたお城の王様はぁ……ぼくが代わりに務めたるさかいのおこのクソ親父ぃいいぃぃい!」

このはんだごては機械につかわれるもので、だからでしょうか、その細い先端が肉を焼きながら鼓膜や様々なものを穿いていくのがありありと解りました。

そうしながら今更なことに気付いて、私は狂う素振りで笑いました。私は悲劇の王様ではなく、その王様を殺し玉座に就き息子に復讐されるのを待つ愚かな罪人だったのです。だとするのなら、一体、誰が、ぼくを。

発している笑い声は破れすぎて癒着を繰り返し肥大化した鼓膜にもずっと響いていました。


濡らしたタオルで血を拭き取って、もう一度寝室へ向かって気が狂っても叫べないように猿轡を嵌めてから両足の小指を切りました。こうすることで人間はちゃんと走れなくなるというのもこの人が来てから知ったことです。

バスタオルを被って小さく座っている妹がちら、とこちらを見て僕はタオルの下にある小さな頭を水を拭うように撫でました。

「ほななソウちゃん、もう逃げたらええよ。それからぼくのこと好きやったんかな?すまんなあ……こんなことにならんかったら解らんかったわ」

「兄やんはどないすんの」

怯えた声が膨らんだ鼓膜をなぞる感触に、私は笑いました。

「さあな、それにもうお前の兄やんとはちゃうよ。ぼくは」

会いに行こう思うとるんや。どうもこの城から出てきよる奴を待っとる人間がおるからな。

語りかけると妹は見る間に涙を浮かべました。

「兄やん……」

「特別にぼくが蜘蛛の巣払ったる。やからソウちゃんは後から出て行き。気いつけるんやで、ぼくはもう後ろは見んからな。大丈夫、次があったらぼくが娶うたる……次があるんやったらな」

名残惜しい手を離して、私は玄関をくぐり夜を歩きました。そうしてあの付箋を貼られた公園へ向かいました。切れかけた蛍光灯の下、立っている人が見えました。

「タケガワのおっさんのガキか、お前」

「……うん、竹川、宗司言います」

口端からこぼれた名前の列が奇妙に響いて、私の腹に深く落ちていきました。これを食べ切った先になにがあるのか、知りたいのか知りたくないのか、どちらともとれる感情のマーブルに指を浸して、唇をなぞりました。

「なあ、ぼくもう行くとこあらへんねん。……あんさんは、ずうっと待っとってくれはったんやろ?なあ、ぼくはあんたから見てどうですか?」

「今のとこは上出来やな……ついてこい、服買いに行こか」

停められた車の助手席に乗って、走り出して数分してからぼくは話しました。

「ぼく、正式に舞台に上がったことはあらへんけど15まで女形しとったんです。これはぼくのあの家から持ってきた最後のもんです。服は自分で買いますから、ドレス買うてくれますか?女の真似は上手なんです」

男はなにも言わずに車はデパートの方向を通り過ぎて、狭い通りに入りました。まあしょうがないか、と思っていると細長いビルの前で車は止まりました。

「ここは地下も入れたら4階建てでな、ガキでも知っとるようなブランドの服がようけ置いとる。とくに3階のヴィンテージはええな。ほとんど新古品やから目立つような傷もない。お前はちいと古風な顔しとるさかい、最近の造りのよりちょっと昔のやつのほうが映えるやろ……のう宗司、何着でも買ったるさかいちゃんと血ぃも滴るええ狐になるんやで?はてさて、俺らは兄弟になれるかのお」

頭を撫でる大きな手に応えるようにぼくは久しぶりにちゃんと笑った気がしました。

「うん、ぼくお酒嫌いやから盃なんぞ欲しゅうないよ。有難うな兄ぃ」

「あかんあかん、いつもの調子やのうてよかった。嫌われるとこや。でも呑める真似くらいはせんとな」


***


「あれが狛都の一家殺害事件のんでうち来たいう女か」

「ええ、今は鑑識に回してますが家から保護した時に着てた服もあります……言うても、下着もつけとらん裸に薄いスウェット着ただけでしたけど」

「きな臭い思とったけど、そんなもん持ってこられたか……身分証は?」

年若の刑事が顔を曇らせるのと同時にノックの音がして、話を聞いていた女の捜査官が顔を出した。髪を何度も抑えつけ、見るからに狼狽している。

「あの子、言うてるんです。狛都の殺しは全部外の人間がやったもんやて。自分たちはその……殺した人間の処分をずっとして、でもあの子の兄がそいつを殺して、やから出られたんやって」

「……どういうことね」

意味がないと解っていながらもこぼさずにはいられなかった。検査員は俯いた目を彷徨わせてから覚悟を決めたように話しだした。

「それから身分証明書は中学の頃の学生証しかありませんでした。問い合わせたら時期と名前は一致してました。それでもまだ……怪しいですけど。それから彼女の持ち物の中に古い携帯があって、そこで女の人……母親が保険証を鋏で切っていってる動画を見せてくれました。それと」

「まだあるのか」

「主犯を殺した兄は主犯と狛都の母親との間の子で、狛都とは正確な血縁にはないそうです。今は名前を変えて暴力団にいると言っていました。何度聞いてもそれ以上は教えてくれませんでした」

悔しそうに唸る女の細い肩を叩いた。

「……そいつ捕まえてどないかなるんか。お前の見立てはよう当たる……なあ、どうなんや」

「こんなん言うたらあれやけど、解りません。ただ、下畳の……狛都の家の事件はもっと、もっと根が深いように思えてならんのです」

「解ってても、俺らはそれを開かなあかんねん。ここまできたらそこにおるんが蛇でもバケモンでも変わらん、もう呑むか呑まれるかや」

戻ってきた巡査の目がおろおろと泳いでいる。脇にいる刑事が何度も手帳を開いては閉じていた。こいつはきっと、事件のことすら知らないのだろう。

「全員戻ったな、もっかい聞くが下畳の一家殺害事件のことは知っとるな」

すみません、と声があがってさっきの刑事が手を上げた。

「俺はその、下畳のことも狛都のことも聞いたことないんです。どんな事件だったんですか」

「そこらでは名のしれとる一家がな、丸ごと消されたんや」

は?と落とした声に気付いたのか狼狽えていたが、すぐに目を見開いた。新鮮な白目には濡れた血管が走っている。

「そんなん、俺知らないです、聞いたことも、ない」

「報道出来んくらいのことやったんや、お前も学校出たんやったら知ってるやろ……今回のはあれらと同じくらいか、それより」

「なんで女は、今頃になって……」

「さぁな」

指先はライターを探り当てていたが、先月部下に煙草のにおいきついですよと言われたのを思い返して、ひとり署の入口へ足を向かわせた。


***


待ち合わせの店は古びた外観をしていて店名よりも大きく珈琲専門店と書かれていた。戸を押すとドアベルが重々しく鳴り、天井で回るシーリングファンが目眩を連想させるようで自然と目線が下に落ちた。

「あらあらあら……ぼくなんぞ呼び付けてどんなお客さんや思たら、こらお久しゅう。あん時死んだもんやと思てたわ、ミチルさん」

簡単な化粧をして眼鏡をかけている意外は昔とほとんど変わらずに見えた女が、なにも飲み食いなどしていないのに指の先だけでナプキンを取ると口元に軽く宛てた。その奥の景色では店主が一人、ノズルの細い琺瑯のポットでコーヒーを淹れている。

「そうですか、まあそらしゃあないですね、普通はそう、考えますわね」

「今更なにするつもりや。ぼくのこと強請りたいんやったら証拠揃えてもってこいやクソババア」

含みをみせる発声に凄んでみせると女は意外なように目を開いて口角を上げた後、小さく笑った。

「えらい口悪うなりましたんやな、まあ男の子やもんなあ、そのくらいのほうがええか……妹はんは元気なんですか」

その声音はかつてタケガワさんの横で淡々とビデオを回していた、あの感情の欠落がそのまま張り付いているようだった。


声そのものが、喉の奥にこびりついた古い血を呼び覚ます。10年間が巻き戻っていく。竹川宗司として生きていることそのものが遠のくような、あの耳の潰れた一人の子供に戻っていく感覚に付随する目眩に塞がれそうになる目を開いた。

「……おい、何が知りたいんじゃ貴様」

「嫌やわ、ただ妹のこと聞いたくらいで」

女は顔の前でまるで立ち話のように手を揺らしている。睨みつけてもそれは変わらず、本当に自分はこの女に見えているのだろうかと思うほどだった。

「どこまで知ってるんな……喋れや、親父のやり方はよう見とった。おい、話せるようにしたろか。手ぇ出せ」

「想ちゃんがね、言うとったんです」

あの頃は化粧っ気などまるでなかったのに今では口紅の塗られた唇が、妹の名前を気安く吐き出す。

「手ぇ出せ言うとるやろ」

「もうちょっと私の言うことも聞いてくれたかてええやないの。知らんやろうけど、司くん、信じられます?あの子、私のこと頼ってきよったんですえ?」

「……は?」

オーダー遅れました、という声に遅れて黒いエプロンが前に止まった。

「悪い、まだ」

「ほなコーヒー2つお願い出来る?冷たいのん。濃さって選べるかしら」

「おいおばはんよお」

「なんや、せやったら濃いの淹れて頂戴。眠ならんようにしたいから、一番濃いのよ」

一瞬時間が止まったような気がしたけれど誰かがティーカップへ戻す音でまた空気が回り始める。女が目を伏せて、ようやくしおらしい態度をとった。

「あれから10年、私らはね、あの人のこと飼っとったの」

「は?いや、親父は」

「うん。司くんがやったことであの人もう人間やのうなってもうた。人間やない……なんか別のおもしろい生きもんになったから、そんなん外に出されへんやろ?それに知っとったあ?司くん。あんたの可愛い可愛い妹さん、あの子が一番タケガワさんのやり方も考えも、受け継いでもうとるんよ。ふふ、あんたが一番守りたかったあの子がよ。信じられるやろか……おじさんの顔が壊れるん見たい、言うてな最初は水でやってたけど水飛沫が汚あて邪魔やっていうて、どこから拾てきたんかエアコンプレッサー運んできて飽きるまであの人の顔壊しとった。そら可哀想なもんよ、今は。肌に切れ目入れてそこに高圧ポンプ差したり、目に菌繁殖させて見えるまま黴まみれにしたり」

女はまるで思い出話を言って聞かすように淀みなく喋った。時には目を伏せ閉じたりもしたが、そこに憐れみといった感情は少なくとも見えなかった。た。ただそこには……陶酔があるように見てとれた。

そうしてようやく運ばれたコーヒーに口をつけた。氷が鳴る軽い音がする。

煙草を探そうと胸元を探って、切らしていたことに気づいて手を止めた。

「……ソウが?」

「せやから、言うてるやないですか」

「親父の仲間やったとはいえあんだけやられとったくせにぼくに嘘つこうとは」

笑い飛ばそうとしたものを女が遮るように被せた。

「嘘やと思いたいんは解ります。でもあの子、司くん、あんたが思っとるよりずうっと賢いんやで」

見据えた女はそれこそ嘘のように笑っていなかった。それがさっきまでの笑い顔と重なって気味が悪かった。かつて守れたはずの、あの震える小さな肩の感触が変容していく。

あの夜、妹にかけた言葉は安堵ではなく呪いの種を植え付けただけだったのだろうか。珈琲の黒い水面とタケガワさんの喉から溢れたあの粘つく液体が重なった。

ぼくは、妹を守ったのではなく彼女の中に眠った「タケガワ」という獣をゆり起こしてしまっただけなのか。

「人間てな、壊され続けたら二つに分かれるんです。壊れたまま終わるか、壊し方を覚えるか。タケガワさんのしたことも、妹さんからしたら教育やったんやろねえ」

媚びるような語尾にまとわりつかれるようで椅子に座り直す。木で組まれた座面にはこの店のこだわりなのか座布団のような気の利いたものはなく硬い感触が伝わる。

店内には古いジャズや歌謡曲が小さく流れていて、どこかでスプーンが落ちる音がして、誰かが、あぁすみません、と笑った。


そんなもの全部が遠かった。


もつれる舌を動かす。付け根あたりで溜まったあぶくがはじける感覚が遠くでしている。雲が動いたのか、光の量が変わった。

「そんなんになっとるソウが今更警察んとことは……あんたの差し金か。ミチルさん」

「当たり前やない。警察にあの子の存在を少しだけちらつかせて、あんたを誘い出すための撒き餌よ。司くん、あんた、極道の世界でどれだけ名前を上げたとこで、あの家からは一歩も出られてへんのよ」



***



取調室の椅子は思ったより柔らかで、それがなぜか苛立たしかった。

膝の上に置いたてのひらを、ゆっくりと見下ろす。爪の際にまだ黒ずんだものが残っていた。鑑識の人が綿棒でこすりとっていったけれど、皮膚の溝に食い込んだそれは取りきれない。いつからのものかも、もう解らない。あそこでは毎日動物も含めてなにかしらが死んだから。

「名前、もう一度言えますか」

向かいに座った女の捜査官が、静かな声で言った。

「ソウ」

「フルネームで」

「……こまみや、そう」

ペンを走らせる音がする。ぼうっと天井を見上げた。蛍光灯がひとつ、端のほうでわずかに明滅している。あんな光でも、あそこよりずっと明るい。あのリビングの窓はずっと目張りがしてあったから。


蛍光灯が一本、端のほうでまた明滅した。

点いては消え、消えては点く。その間隔が一定ではなくて、まるで呼吸のようだった。不規則な呼吸。苦しい時の呼吸。あそこでよく聞いた種類の呼吸。


兄の声を思い出す。最後に聞いたのはずっと前、あの日の優しい声が最後だった。それを頭の奥で反響させながら抱えていた膝の分厚くなったかさぶたを舐めた。

兄やん。

口の中だけで転がした名前は、舌の裏でゆっくり溶けた。

兄は最後、笑っていた。あれは本当に笑っていたのだろうか。思い返そうとするとまず先に焼けた肉の臭いが蘇る。鼓膜を穿たれる音。タケガワさんの喉の奥で潰れていった呻き。兄の腕に飛んだ血。それら全部の向こう側で、兄はきっと笑っていたんだ。嬉しそうに。壊れたみたいに。ああ、と喉が鳴る。あの時、私は兄の横顔を見て綺麗だと思った。


兄が出ていって、だらんと倒れている塊のそばに転がされていたはんだごてでタケガワさんの耳たぶを押し刺し、その焦げるにおいに喉を鳴らした夜から……いや、本当はもっと前、ぜんぶがはじまった日から、私は欲しかった日々を過ごしてきた。布団もない固いリビングの床での雑魚寝の時にずっと手を繋いで眠ってくれていた兄は、もういない。蜘蛛の巣を払っていってくれても、私には出ていく場所なんてない。それなら、いつか呼び戻そう。そして最後に冗談で言ったように娶ってもらおう。

「兄やんは優しいなぁ。こないすぐ楽にしてあげようとして。でも、私はちゃうよ、タケガワさん。あんたが教えてくれたんやんか、一番おもろいのは、死にたいのに死なれへん時や、って」


長く閉じていたまぶたを開くと、閉まりかけた扉の隙間から見えた蛍光灯の白が水底みたいに揺れていた。女の捜査官がなにか言いかけていたけれど、聞こえないふりをした。聞けば、多分、優しい言葉だったから。

署の入り口に比べて奥の廊下は肌に凍みるほどに静かだ。磨かれた床には天井の光がぼんやりと滲み、歩くたびに貸与されたサンダルがぺたり、ぺたりと湿った音を立てる。警察署というより病院みたいだと思った。だってこんなに消毒液の匂いがする。

この建物がどれだけ古いのか知らないけれど、積み重なった年数の匂いというものは、どこの場所にも染みついて離れないのだと思った。あの家もそうだった。タケガワさんが来る前は、畳と漆喰と、母が毎日仏壇に供えていた線香のにおいがしていた。今はもう何のにおいがするのか、私には解らない。解らないのが、少しだけ寂しかった。

もう一度鼻を小さく動かして、その匂いの奥に、焼けた脂の臭いを探してしまう自分に気づいて、期待していることを少しだけ笑った。

待合用の長椅子には誰もいなかった。夜半を過ぎた署内は急に生き物の気配が薄くなる。けれど静かになるほど、逆に耳の奥では色々な音がよみがえっていた。

初速の鈍いドリルの回転音。はんだごてが過剰に熱されて空気を焼く音。骨を砕く時の、濡れた枝みたいな音。誰かが笑っていた声。

記憶というものはどうして音から戻ってくるんだろう。ずっと不思議だった。普通はにおいから記憶は呼び戻されるものらしい。でも私は違う。においからではなく、景色からでもなく、まず音が来てそれに引きずられるようにして残りのすべてが蘇る。

一番最初に聞こえてくるのはいつもあのドリルで、それから兄の笑い声が続いて、最後にお母さんが歌っていたはずもない鼻歌のようなものが耳介をなぞる。この記憶は嘘だ。だってお母さんは鼻歌なんて歌ったことがなかったのに。


指先が視界に入る。節々が赤く荒れている。爪は切られていた。噛んだからだ。あそこでは、みんななにかを噛んでいた。舌だったり、唇だったり、そういえばお母さんはお父さんの肩から指まで全部噛まされてたな。

ああ、昔、兄が手の甲に線を引いてくれたことがあった。

タケガワさんがあの家に来てからしばらく経った頃のことだ。力の抜けたようにぶつ切れの鼾をかいて寝ていた父親の横で、兄は静かに眠ったふりをしていた。隣に寝かされた私の手を暗がりの中で探り当てると、指先でゆっくりとなにかを書き続けた。最初は文字だと思った。けれど何度も何度も同じ軌跡を辿るそれは、文字ではなく、ただの線だった。意味のない、繰り返しの線。それでもその感触が好きだった。書かれているのが言葉ではないことも好きだった。言葉でないからこそ、終わらないから。

あの線の感触を、今の爪では思い出すこともできない。


「寒くない?」

不意に声を掛けられて顔を上げると、若い婦警が毛布を持って立っていた。

それが却って不思議だった。あの家では同じことを二度言う人間はいなかった。一度目に応えなければ、次は別の言語がきた。拳だったり、爪先だったり、熱を持ったものだったり。でもこの人は同じ言葉をそのまま繰り返した。値引きも加算もなく。

「……別に」

「でも震えとるから……」

そう言われて初めて、肩が小さく痙攣していることに気づいた。婦警はそっと毛布を掛けてきた。柔軟剤の匂いがした。花みたいな、甘ったるい匂い。

その瞬間、胃がきしんで込み上げてきたものを飲み込むように喉を鳴らした。

兄の部屋にも、少し似た匂いがしたことがある。

まだ壊れる前。若い兄が舞台の化粧を落として、鏡の前で髪を梳かしていた夜。安物の化粧水の少しつんとする匂いと、汗と、乾いた畳のにおいが混ざっていた。

「……なあ」

婦警が椅子の横にしゃがみ込んだ。

「お腹空いてへん?」

婦警の小さな問いかけは、遠い異国の言葉のように聞こえた。

「空いてない」

「そっか」

会話はそこで終わった。普通なら気まずくなる沈黙なのに、その人は急かさなかった。ただ隣で黙っている。私からみればそれは不思議だった。

あそこでは沈黙は罰だったから。沈黙の後には必ず音が来た。怒鳴り声。悲鳴。肉の裂ける音。そしてまた笑い声。だから、静かなまま時間が過ぎていくことに身体がついていかなかった。

そうだ、あの家の台所の電球も似たような死にかけ方をしていた。切れる前に、長いこと瀕死で点滅していた。タケガワさんはそれを面白がって、電球の交換をずっと許さなかった。だから私たちは点いたり消えたりする光の下でずっと食事をした。明るくなるたびに見えるものがあって、暗くなるたびに消えるものがあって、その繰り返しの中でほんとうの食欲というものがなんなのかを私はうまく思い出せなくなっていった。

私の空腹は、食べ物では満たされない。あの体液で腐れた畳の匂い、上の兄のあたたかい肉片、父の叫び、そしてタケガワさんの肉が焼ける香ばしい臭い。それらで満たされていた私の臓器は、この清潔な警察署の空気によって、じわじわと壊死を始めていた。


しばらくして、遠くの窓が白み始めた。

薄い群青色がガラス越しに滲んでいる。新聞配達のバイクが走る音が、どこか遠くで聞こえた。それらが朝だと言うことを主張しているのだと、どこかでまだ信じがたかった。

あの家では朝が嫌いだった。朝になるということは、また一日が始まるということだったから。でも今は、この白み方が怖かった。朝になるということは、この夜明けの止まったような時間が終わるということで、そうしたら取調室に戻って、また何かを訊かれて、知らない人間の目に晒されるということだ。

本当は喉が渇いていた。でも水が欲しいとは言えなかった。欲しいものを言葉にすることが、まだ怖い。欲しいと言えば、それを使って何かをされることを身体が知っているから。


急に、自分が外にいることを理解した。

ここはあのリビングではない。景色の見える窓がある。空気が動いている。

それなのに胸の奥はどんどん冷えていった。逃げ出したかった。婦警が掛けてくれた毛布の、柔軟剤の匂いが胸を突く。それは陽の光を浴びた花園で、あまりに潔癖で、あまりに無機質な温もりだった。

あそこの、あの家のにおいが恋しい。

澱んだ湿気と、タケガワさんの化膿した傷口から溢れる甘い膿の臭い。熱源が肌を焼くときの、鼻を突く芳醇な脂の香り。

それらが混ざり合い、重なり合って、ひとつの生を形作っていたあの場所。清潔すぎるこの場所で呼吸をすることは、内臓を一枚ずつ冷たい水で洗われているような、耐え難い欠落だった。

また指先が目に留まった。

警察が用意した爪切りで、深爪するほど短く切り揃えられた爪。

そのピンク色の、滑らかな爪の表面を眺めていると、急に叫び出したくなるような衝動に駆られた。

この下には、何もない。あの一瞬だからあたたかかった公園も、ブランコも、残滓さえここにはない。

かつて爪を剥がされた父の、あの剥き出しの赤い肉と、そこから漏れ出る透明な液。それこそが人間の本当の色だとあの家で教わったはずだったのに。

「どうしたん? 気分悪い?」

婦警が覗き込んでくる。その瞳には、濁りのない同情が湛えられているようで、ただ応えず、膝を抱えた。婦警の綺麗な手が肩に置かれる。その温もりはタケガワさんのねばつく脂とは違う。

けれど、私にすればどちらも暴力だった。

片方は肉体を壊し、もう片方は、自分が守り抜いてきた、地獄という名の聖域を土足で踏み荒らしていく。

外を走るバイクの排気ガスの匂いが、微かに窓の隙間から入り込んだ。それを兄の吐息のように感じながら、毛布に顔を埋めて、深く、深く息を吸った。

そこにあるのは花の匂いではなく、自分が吐き出した、死臭に似た孤独の味だけだった。

毛布越しに自分の腕を強く噛んだ。気づかれてはいない。こんなこと、慣れているから。痛みが走る。この痛みだけが、私がまだ、あの家の延長線上に存在している唯一の証拠だった。

「……狛都さん」

名前を呼ばれて顔を上げる。さっきとは別の刑事だった。年嵩の男で、ネクタイを少し緩めている。コンビニのコーヒーを片手に持っていた。

「ちょっとええか」

さっきまでのものより固く粗雑な声に私は答えなかったけれど、男は構わず向かいに腰を下ろした。缶コーヒーの蓋を開ける音がする。

「兄貴のことや」

その瞬間、肺が縮んだ。けれど顔は動かなかったと思う。

「……なんですか」

「お前さん、まだ庇っとるやろ」

男はコーヒーを飲んだ。苦そうな顔をする。

「別に責めとるわけやない。せやけどな、あの現場見たら誰でも思う。あれは一人で出来る殺し方やない」

私は黙ったふりをしてみせた。男がじれったそうに眉間のしわを深めてがりがりと後頭部を掻く。

「それにおかしいんや。なんでお前だけ十年も隠れとったんや。なんで今さら出てきたんや。誰が逃がした。誰が匿っとった」

窓の外で、またバイクの音がした。

「……知らないです」

「嘘やな」

即答だった。男は膝に肘を置いてこちらを見る。

「お前さん、目ぇが慣れすぎとる。死体にも、血にも、人間の壊れ方にも」

その声は静かだった。

「普通はな、保護された子はもっと怯える。もっと、自分が可哀想やと思う。でもお前は違う。お前、ずっと誰かの帰り待っとる顔しとる」

胸の奥がゆっくり熱を持った。

帰り。その言葉だけが、身体の中で浮いた。

「兄貴、迎えに来る思っとるんか」

私はそこでやっと笑った。自分でも驚くほど自然に。

「……来ますよ」

刑事の眉がわずかに動く。そしてじっと私を見据えた。なにごとも取りこぼすまいと強い目をして。

「だって兄やん、約束破らへんもん」

「お前を捨てたかもしれへんぞ」

「ちゃう」

否定は思ったより強い声になった。

「兄やんは置いていったんやない。迎えに来るために、一回離れただけ」

刑事はしばらく何も言わなかった。やがて缶を握り潰すみたいに小さく鳴らして、立ち上がる。入れ替わりに立っていた婦警が近づいてきた。その奥、遠ざかっていく背中に向かって口を開く。動け、うごけ。

「でもな、時々やけど……ほんまのことはぜんぶ嘘なんやって思うねん。だって私、自由になんてなりたくない。兄やんがおらんとこなんか、そんなんただの穴やもん」

言いながら、深爪の指先で自分の腕の内側を、そっと抉っていた。

目線を合わせるようにしゃがんだ婦警が、もう大丈夫、と言う。

私はそれをあの頃のように笑った。

腕の痛みだけがまるで帰り道を示す道標のように、私がまだあの家の一部であることを教えてくれていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ