am10:00 シーユーアゲイン
「お前さ、組にいた頃なんで坊主にしてたんだ?」
「それは俺がお前になんでその髪にしてんのか聞くようなもんじゃないか?」
「ってことは理由は特にー?」
「ないよ」
つっまんね、と吐き捨てて前の男が今日はじめて酒を煽った。薄い蜂蜜のような色の液体が軽やかに曲線を描く。きれいだなんて薄い感想が浮かんですぐに舌の裏に隠した。別にどうだっていいことだ。明日の天気も、目の前のことも、俺は今が精一杯だから。そう言えばこいつは笑うのだろうと思った。俺の先を歩きながら振り返って昔日と変わらぬ顔も笑えば落ちる小さな皺と影が多くなった。それがなんだ。チープな感傷に浸る暇よりも書類をこなす時間がほしいくらいなのに。俺はどうしてここを選んだのかその意識すら曖昧なものだったかもしれないのに、俺はなにに心を寄せてどう歩けばいいのだろう。下を向けば前髪が落ちて、もうすぐ髪を切りに行かないとなと思った。
別に、どうということじゃない。理由なんて大したものじゃない。ただ自分の忠誠を示すものとして手っ取り早かった。それだけだ。
俺は少し車を出せば大きなショッピングモールがあって、金を持ってそこを回れば映画でもなんでも手に入るようなどこにでもある地方都市の一部の、よそに比べるとまだ壁が厚い部類の団地に生まれた。働き詰めで家にいなかった両親を眠いまま見送って再び眠ったことを覚えている。
それから一軒家に引っ越した。思えば一家の崩壊はこの頃に始まっていたのかもしれない。与えられた自室はすぐに狭くなった。余白を広くとるために薄くなった壁は音をよく反射させた。そういう年頃だったのだろう、母さんがヒステリーに陥ってはよく泣き喚いていた。家庭を省みない父さんを振り返って母さんは叫んだ。その瞬間に俺は理解した。ああ俺はきっと余白だったのか、と。
「この子連れて出て行きます、死んどっても気にせんでください」
最初の違和感は小学校の時だった。
掃除の時間に馬鹿なクラスメイトがうさぎの子供をほうきでいじめているのを見つけて、担当の教員に相談したのだ。戻る頃にはクラスメイトは野球の真似事を始めていたが、走ってくる大人を見た途端に従順な児童を演じ出していた。それを見て眼鏡をかけた冴えない女はいくつかの質問と簡単な検査を始めた。サルでも答えられるようなものばかりだった。
結局俺の相談事は見間違いだと処理された。本当でしたよ、とこぼした一言は教師の激情を煽っただけだった。とはいえ決定的な証拠もないので俺はなにも言い返さず一番近くにあった石を土に埋め込むように強く踏んだ。
腸を引き摺り出された子供が死んでいたのは3日後の朝のことだった。親は我が子たちの血を身体中につけたまま床に散らばったペレットを一心不乱に貪っていた。
俺はどうすればよかったんだろう。
中学にあがって夏の湿気を吸った制服が秋風にも馴染んできた頃だった。
放課後になって音楽室に忘れ物をした事に気付いた俺は校舎の階段を早足で上っていた。踊り場の壁には縮小されたゲルニカのレプリカが飾っていて、木で出来た手摺は彫刻刀で削られてささくれていたから壁に手を付きながら上りきって、重い引き戸を引いたのだった。
机を出して探していると物音を聞きつけたのか準備室から音楽教師が出てきた。
「なんだ新山くんか。忘れ物を取りに来たのね」
「はい。すみません、見つけたらすぐ帰りますから」
「いいのよ、ゆっくり探してちょうだい」
5つ目の机を動かした時、また違和感が俺を襲った。なぜこの女は俺がここに忘れ物をしたことを最初から知っているような言い方をしたのだろう。不可解な点はまだあった。音楽室は施錠されているのが常で、それは中にいるのが一人でも大勢でも代わりはしなかった。鍵の持ち主は女と離れた職員室にあるスペアをまとめたものだけだ。どういうことだ?疑念の渦を振り払うように机を動かすと、手に当たる感覚があった。明らかに本などではない手触りを引き寄せると、俺の手には細長く下に液の溜まった薄い膜のようなものがあって、よく見ると上のほうに結び目がひとつあった。当時の俺はまだ見たことのなかったそれは、疑いようもなく使用済みの避妊具だった。
「あらどうしたの新山くん……そんなもの持って」
「違う、先生これ、なに」
女は近づくと俺の頬を知らないやり方で撫でた。寒気がしたのは恐怖を本能で感じていたからだろうか。幼いながらも俺は、ああこいつに食われるんだなあと遠く離れた場所でひとり思っていた。やわらかな脂肪が折り重なった腹が揺れるたびに生白い肌からは粉っぽい匂いがした。誘発されたように頭がくらりとして目を閉じると家を空けている両親に代わって俺を見ていた伯母が昼間の光の中でしゃがんでいた。今になって俺はなにをされていたのか解ってしまって、行いへ意味が結ばれる度に繊維に白目をなぞられるようで酷く不快だった。爪を噛んでいる間に全部終わっていた。
「あら?」
喜色の浮いた声に薄目を開けると、教師はゴムの中身をうっとりとした顔で覗き込むと、そういうことならこれいらなかったわね、とその中身を床に垂らした。その場を去る時に見たそれはほとんど透明で水っぽく、引き出しから見つけたものとは違っていたことに俺は、もしかすると他の人とは違うことをされたのかもしれない、と痺れる頭のまま考えていた。
中学では勉強が出来たからか、区域ではかなりいいとされている高校に入った。勉強は使い捨てだと思っていたが他人より取り入れられる分があるのならそこを惜しんで損を食うくらいなら将来的になにかがよくなるだろうという方に賭けただけの、ひどく曖昧な打算もあった。進学先は男子校というのもあって、今まで以上にクラスや学内での上下関係は厳しかった。
できが悪い、という言葉は教育する立場においては成績の低さや特定分野での頭の悪さなどを指すのだろうが、クラスという檻の中では要領の悪さや周りと比べてなんらかが劣った、外れた人間のことを示すものだった。
魚でさえ責め立てることがあるのだからある程度の知能を持ち社会生活をする動物の間ではその行いにも役割があるらしく、その説を当てはめるなら人間が群れた場合も必然だと思っていた。名前が曖昧なクラスメイトが空いた椅子に座って笑いながら話している。机の上はチョークの粉とそれを踏んだ足跡がついていた。それを視界に入れながら今朝作った弁当を食べていた。好き嫌いはないほうだけど少し野菜を入れすぎてしまったなとしおれたレタスを食べながら思った。
目の前に垂らされた道徳とその先でぼやけて睨みつける独善はどことも知れない場所へ俺を追い込むだけだった。
「お、新山くんだ」
「よかったなあお前の連れ来てくれたぞ」
下衆た笑い声が反響して三半規管を揺らす。視界が雨に打たれたように溶けていくのは激情の前触れだろうか、床に落ちたホースからはだらだらと水が流れ続けていて、自分の呼気が耳元で鳴っている。
「高野くんと仲いいらしいじゃん。こいつビョーキ持ってんのによく遊べるなぁ、もしかしてそういう関係?」
軽薄なトーンが音を区切ったところでそれを囃したてる頭の緩い声が上がる。緩く履いた制服の裾をタイルに擦れさせながら数人が近寄ってくる。その中で高野の机を一番踏んでいた男の胸ぐらを掴んだ。
「もしそうだったらなんだってんだよ」
一瞬面食らったように目を見開いた男が大げさに破顔して横を向いた。
「あはっ、聞いたかよ高野ぉ。お前の彼氏だか知らねえけどよお、いい奴捕まえたじゃねえの」
「聞いたことに答えろよ……高野って奴は病気らしいな。それならてめえの口に舌突っ込んで思いっきり噛んでやろうか?そうすりゃお仲間ってやつだ」
睨みつけたまませせら笑って舌を突き出すと男は嫌悪感を隠しもせずに身を捩った。
そのまま引き寄せたそいつの怯えた目を見ると力が抜けるようで俺はそいつを殴れなかった。悪態をつきながらゴミ箱に投げれば大きな音がして、振り上げた拳を正当化するように震える声を割れさせながら男が数人飛びかかってきた。そのまま誰かがもうやめようぜ、と呟くまで10分ほど暴力を受け入れた。不思議なことに痛くはなかった。ただ身体は重くてひどくだるかった。湿り気を帯びた制服に気持ち悪ささえ覚えない、どうしてかはすぐに解った。
俺は何一つ正しさを持ち合わたことのない偽善者だったからだ。
誰か俺に道理をください。
帰りついた薄暗い部屋には自分以外の物音はしなくて、まるで異物になったような気がした。空白な中身を吐き出せば俺は俺でなくなってくれるのかと思ったけれど、喉の粘液でぬめる指を引き抜いても胃液すら出てこなかった。外の空気を吸おうと玄関まで向かって、そこで父さんが買ってきてから使われていない木刀に目がいった。衝動に突き動かされるままに無我夢中で家の鏡を割った。頭の中で鐘が鳴っているのを感じていた。つまりお前はそういう奴にすぎないのだと。そうだ、俺はただのなにも持たない少年で、正しさを見ても笑う偽善者だ。ヒビの入ったそこに写る顔が切り分けられたように歪んでいた。
人通りの多い道路で肩をぶつけて歩いた。他人に比べて大きな身体が、癖で悪いことをしたかのように小さくなる。無理に胸を開いて迫ってくる雨に濡れた靴を睨みつけていた。
「……坊主、風邪引きてえのか?ちょっとどいてくれよ」
コンコンと動かしていた杖を浮かせて穏やかな声を出した男は前を開けたダブルスーツの襟を直しながらにこりと笑った。風を受けた裏地から、繁華街のデパートになら必ず入っているブランドを象徴するチェックが見えた。仕事が落ち着いた日曜日にいきなり車に乗せられて遠くまで出かけた時に、母さんがその店で見繕って買ったネクタイを大きな仕事がある時はいつも願掛けのように着けていた父さんを思い出す。そして地元にはない流れが決まっているように動く人混みと広い道路に、こういう大人の世界に行けるのだと幼かった俺はそう信じていた。会計に並んだ母さんを見てから俺を振り向いて、内緒な、と笑った父さんは口八丁で母さんを店から出すと自分でハンカチを2枚買っていた。プレゼント包装は出来ますか?と訪ねていたけれど、そのあとがどうなったのかは解らなかった。それから何年かして大事な用事がある時、例えば女と会う時に父さんは前まで使わなかったハンカチを持つようになった。
それは崩壊を思わせるヒビに見えて、だからだろうか、俺はあの柄が嫌いだ。
「じゃああんたについて行かせてくれるか?俺もう帰る場所ねえんだ」
顔や髪から滴る水滴に阻まれて焦点が狂わされる。それでもその奥の男が口端を和らげたような気がした。
「組長……お言葉ですがあんなガキは入れられません。特例ならまだしも、よそのとこから俺らなんて言われる思うんです、ただでさえ長橋はもう終いや言われてるんですよ!」
「言いたい奴らには言わせとけ。あのガキ随分活きがいい目してると思わねえか。若い賢いでかい犬みたいな……あいつに比べたらうちのもんなんかほとんどが腐る手前の魚よ」
食って掛かる男を軽くいなした手が肩を押すように置かれて、目をやれば機嫌のよさそうな中年がニヤリとこちらを見た。
「おい、ついてこい。ちょっとした適正テストしよう。そういえば名前まだ聞いてなかったな。教えてくれるか」
「……新山正。蔡京の2年です」
「おっやっぱりかしこか。お前ちゃんと高校は出ろよ。大学も行きたかったら行け。こんな場所は砂の城と一緒よ、いつ崩れるか解ったもんじゃねえ」
連れられていった地下はほとんど温度が変わらないせいか少し肌寒かった。細長く掘られた穴は簡単な塗装がされていて間隔が微妙にずれた裸電球がぶら下がっていた。天災のせいだろうか、枠の歪んだ扉を軋ませて開けた。
そこには裸の男が転がされていて、驚く俺を制するように組長は呟いた。
「こいつを殺してみろ。出来るな、新山」
訳の解らない興奮と高揚感で心臓が音が聞こえるんじゃないかと思うほどはねる。唐突に背筋が痺れて吐き気を感じる間もなくその場にびちゃりと胃液を落としていると組長が背を撫でてくれた。
「まあ合格だな。これからはうちも頭がいる。いくら武闘派で売ってても相手がいなかったら意味がない。そこで必要なのが学だ。教養はあとでいい。ちゃんとした地盤があってこそだ。泥の上じゃ走れねえからな。アホの俺がそこに気づけたのが、なんでか解るか」
「なんで、ですか」
乱れた呼吸は収まらず、声が掠れる。床に広がった胃液が血と混ざろうとしている。
「ここまで生きてこれた勘がそう言ってんのさ。お前を拾ったのも勘のおかげ」
「それなら俺は運がいいんですね」
「おいおい坊っちゃん、それはなに笑ってやがるんだ?」
連れて行ってもらった洗い場で手についた血を流した。のろい俺を笑ってから組長は血の落とし方を教えてくれた。
俺の指導役だという背の高い男は角ばった鼻にガーゼをあてた姿でおびただしい酒の臭いとともに表れた。最初はなんの冗談だと思って避けていたら思っていたよりずっと素早かった男に捕まって徹底的にこめかみを音がするほど揉まれ俺は自分の運を呪った。
「話ってなんですかコウサカさん」
「アラサカだ。お前これで4回目だぞ。絶対わざとだろ」
「……そんなのどうでもいいんじゃないですか」
「ったく……これだからガキはやだねえ。こんな奴押し付けやがって頭も俺になんの恨みがあるんだか」
荒坂さんが肩を竦めた姿で困ってもいないのにそんな風に笑った。
「使いたいのはなんだ?チャカはいいぞ、撃ってよし殴ってよしだ。ただ当たるまでがちょっとコツがいるな。ああそれから刀はやめとけ」
「え?なんでですか」
「……俺と被るからだ」
問いを投げると荒坂さんは顔を逸したまま小さい声でそう言った。
「そんな理由で切り捨てないでくださいよ!俺の武器なんでしょ!」
「うるせえ!弟子までそんなもん振り回してたらアホみてえだろうが!」
「そんなの言わせないくらい殺してやりますよ」
じっと睨みつければそんな強がりを見抜いていたのか男は笑った。
「言ったなガキが……そんな訳でこいつはもう没収だ」
「ちょっと!」
「まあ待て待て、お前にはこいつをやる」
そう言った男が背後からもったいぶって渡してきたものは質量は確かにあるものの、最後の日俺があの家の鏡を割ったものだった。
「てめえにはそれでじゅうぶんだ、っ!」
渡されたそれを眺め回したあとに前に立つ人めがけて振り下ろした。
「こんなもん折れるだろうが!舐めんなジジイ」
「あーあ本当にこれだからガキは嫌なんだよ……おいこら勉強は出来ても刀の抜き方は解かんねえのか」
「はあ?」
「いいか、こうやって抜いてやれ。一番無駄がない」
俺に殴られたことなんてなかったように荒坂さんが摘んだ指を動かすと本当に中からは刀身が現れて、それは濡れたように光っていた。
「こいつはよく切れる。俺の刀の写しを使ってるからな。京都の鍛冶屋に知り合いがいてな前に作ってもらった、そうだな……ちょうどお前と同い年くらいだ」
「えっ、そんな」
「ま、だからお前にやる。俺ももうすぐに走れなくなっちまう。こんなこと言ってられる仕事じゃねえのも解ってるんだが、それでも年が年だしな。ま、せっかく頭がいい使い渡してくれたんだ。お前が走れよ、出来るよな?こいつは手入れはしているがまだ誰も切ってねえ。お前の好きなように育ててやれ」
俺の言葉を知っていたのか荒坂さんは俺の高さまで目線を合せて笑った。光量によって彩度を変化させる薄い飴のような目の色が、人と目を合わせてこなかった俺には新鮮だった。
だからだろうか、無茶な要求にもいつしか頷いてしまっていた。
「有難うな新山。しかしあんまりいい子にしちまってたら難癖つけられるなあ……そうだ俺の前だけでそうすりゃいいんだ。よその奴に見られんなよ、後ろから切られるぜ」
「荒坂さんってもしかしてすけべだったりする?」
逃げるように身構えた俺を上から下まで細めた目で見やってから豪快に笑って背中を強く叩いてその手を腰まで滑らせた。
「ようやく気がつきやがったかこのボンクラ。お近づきの印に新山くんにも俺の嬢ちゃん紹介しようか?」
「……いらねえし」
未だ腰に置かれた手をはたいて俺は先に外へ出た。勢いに任せてそうしてから貰ったドスを忘れていることに気づいたけど、取りに戻るのはもうやめにして、部屋へ戻った。
そうしたことを今でも後悔している。
目を開けるとそこには一面を覆うような血が嵐に溶けていこうとするところだった。前に立った人が呻きながら腕を抑えている。金属が地面を叩く音がして、そこでようやく自分がなにかを持っていたのだと気づいた。
「なんで、荒坂さ、ん……」
脳が考えることを拒んでいる。波打つような情報が頭蓋骨を叩く。震えて力の入らない手で耳を塞ぐと、声が聞こえた。つまり俺はこういう奴なのか、と。よろめいて後ずさろうとした足がもつれて水たまりに倒れ込んだ。冷たい感覚で張り付いていた熱が少し下がった気がした。
「お前が斬れ……新山。刀なら貸してやる。肩から落としてくれ、頼むぞ」
「それでも残せばまだ……」
「ばぁか、使えねえ腕半端にぶら下げてたら、こいつが台無しになっちまうだろ?」
そう言った荒坂さんが上着の袖をピンと伸ばした。
「俺はどうなろうがスーツの似合う男でいてえんだ。だからさっさと切れ」
落ちていた刀を掴んで叫んだ。雨か涎かも解らない水滴が伝ってまた雨に混ざった。獣の呼吸を歯ぎしりで打ち消しながら俺は膝を落としながら体重をかけて刃を引いた。顔を上げるよりも前からその結末を俺は知っていた。
「やれ、新山。次で落ちる」
「ごめんなさい、もう出来ません」
膜に倒れ込むようにして頭をついた。動かない腕を這わせてなんとか形を作ってひたすらに収まりどころもない許しを乞う。
「お前な……なにがしたいんだ。死ぬ覚悟なんだろうが、俺の腕一本取れない奴になにが出来ると思ってんだ……俺を殺す気になれよ、大丈夫お前は俺くらい簡単に救える奴さ」
「荒坂さん」
「やってくれるよな、新山」
「ずるいですよ、あんた、本当に」
失礼します、と落として膝を鎖骨のくぼみに宛てて体重をかけた。他よりも薄い脂肪をはさんで擦れる骨が痛い。
「今止血しますから」
着ているシャツを一番長いところで割いて脇に潜らせていると荒坂さんが舌打ちをした。
「なにやってんだよ新山、止血すんなら棒使え」
「ないじゃないですか」
「刀の鞘使ってくれ、俺にはもう用のねえもんだ。最後の助けしてもらおうじゃねえか」
解りました。
そう言ったはずなのに沈めた身体が重くて立ち上がれなかった。寒冷前線の連れてきた低気圧が目眩を呼ぶ。否応なく冷えていく感覚が目の奥から引き摺り出すような熱を鮮明にしていく。
「日高のとこによ、えらく腕の立つ剣術使いがいるんだと。なんでも西南の霊が新賊問わず取り憑いてるって噂だぜ。あーあ、一戦やってみたかったなあ」
落ちた腕を拾おうとして滑ったスーツの袖口から手首まで入った和彫りの中の金魚が片目だけで俺を覗いていた。
「いらっしゃいませーお客様一人ご来店」
初めは耳馴染みが悪かったこの口ぶりも今や聞き慣れたものだ。ちょうど混み出す時間なのか、他より頭ふたつ背の高い男はオーダーの伝票に視線を落としている。
「雑な接客だな、こっち見て言えよ。そこらのしょうもねえ客どもに嫌われるぜ」
嫌がらせを投げれば振り返った表情がぱあと華やいで、そのまま駆け寄ってこようとするのを適当に制して席へとついた。
「新山さん!」
オーダー表を片手に完全に私情に塗れた男がにこやかに言う。
「久しぶりだなカズト、足はどうだ」
一瞬表情を硬くしたことに目を伏せて、より下がった目尻がへろんと笑う。
「もうとっくに傷は治ってますよ、ほんといつ来てもそれ言うんですから」
「リハビリはちゃんと行けよ。予後に響く」
俺の言葉に応えるように片足の生地を撫でてから、カズトは自分だけの秘密を打ち明けるように片頬だけで笑う。
「はいはい……そういえばオレね、モデルになるかもです」
「え?」
長い身体をやわらかく折って伝票にボールペンを乗せた男が再び微笑みの形を浮かべた。そう言われてみると確かに上背も十分にあって手足が邪魔そうなほど長いこいつには説得力がある気がした。
「そう、なのか……ああそれと美雷はどうしてるんだ?仲いいだろお前ら」
「あいつはねえ、変わった古着屋で働いてますよ。リメイクもやってて笹槻の考えたやつが結構売れるみたい。あいつ派手な印象あるけど合わせ方の引き算うまいからかな。思いついたってやらねえだろってのも作って売れなかったら自分で着てたりするんです。でも解りにくい場所だからなあ、休みあったらオレと行きません?似合いそうなもの色々あったんです」
なにかを思い出す時の癖を癖とも思っていないのだろう、目線を右上にやってそれにならって顎先も少し上を向く。
「俺がスーツ着てるとこしか見てないくせにずいぶん自信があるな」
「そうですねえ、でも今のあなたに合うってことですよ。それに新山さん髪型だけですげえ変わるもん、その時の自分に合わせて服選べるって楽しいですよ。せっかくだしイメチェンしちゃいません?今までの服全部取っ替えましょ」
「ははっ俺をどうするつもりだよお前は。まあでもそれもいいかな……いいのかもしれないな」
何故か酷く喉が乾いていることに気づいて、そっとグラスの水を舐めた。氷が水流で動いて、カラン、と音を立てる。
「ま、ゆっくり、片付けましょ。ああそれから話戻すんですけど、この前の休みに笹槻と買い物行ったらきれいな服着たおじさんから名刺渡されて。ここのを着てほしいって言われたブランド見たら海外の人ばっかでさ、オレ大丈夫かなってなった。これ三波さんにはまだ内緒ですよ」
「じゃあもう少し肉つけて鍛えないとだな。細すぎるだろ。にしても大丈夫なのかこの会社……あ、いや悪い。ちょっと癖でな」
首を傾げていた男がようやく閃いたのか、照れながら頬をかいた。
「いいですよ、オレって馬鹿だから心配してくれたんですよね?新山さんらしいと思います。すみません、オーダー取りますね」
「ああ、じゃあ長芋ひとつ」
「お酒はどうされますか?」
「悪い、このあと人と会うんだ。今度来たらその分も飲むよ」
伝票に書き込むために腰を曲げた男の横顔が、昔より当然歳を重ねた薄笑みを浮かべていることにゆるく目を閉じる。
「解りました。それじゃあ注文通してきます」
遠ざかっていく硬い足音がいつまでも頭に重く残っていた。
背の高い人に肩を貸して絶えだえな言葉を記憶しながら道を進んだ。雨は止む気配をみせず降っていたが、夜とあわさって早々にシャッターを閉めた道に俺たちを見る人はおらずちょうどよかった。
自動車修理をうたうインクがやや垂れて劣化している手書きの看板を掲げた端にある2階へ上がる細い階段をのぼった。
「今度はなにやったんじゃ荒坂」
がらがらした声を鳴らしながら老人がカーテンを手早く閉めていく。引き出しがふたつ並んだだけの簡素な机の上にはいくつものファイルが重なりそこねて崩れそのそばで短くなった鉛筆がぽつんと落ちている。天板が小傷だらけの年代物のデスクライトの紐が引かれるとカチカチと不規則に点滅した後、浮かび上がるような明かりがついた。
「奥までこれるか?それなら失血死ですむから俺にとっちゃ楽なんだがね」
蝶番を軋ませた暗がりの奥に目を凝らすと、どうやって持ち込んだのか歯医者にある椅子が一式あり、老人は見た目によらずしっかりした手付きで破れて綿がはみ出したその背もたれを手で払い除けていた。絶命する間際の蝉のような焦げ臭い音がして、閉じていた目をゆっくり開くと高さのない部屋をギリギリに使って手術室にあるようないくつもの電球の集合体が無表情に光を落としていた。
「声がでけえんだよじじい、また耄碌に磨きがかかったのか?」
「待っとけや……眼鏡取ってくる。はあ、近頃余計に見えんようになってな、ほんまにかなんわ」
止血帯を抱くように掴んだままずっと片足で引き摺るように巨体が前へ進む。
「なんだよそりゃ、ミスの言い訳ならさせねえからな」
「そう出来たら楽なんだがね、生憎この手が覚えてやがるんだよ」
「戦争で何人も手当てした名医さまが帰ってきたら薄汚えとこでやくざ相手の藪医者だもんなあ、解ったもんじゃねえや。ま、こんな傷も慣れっこだろ?さっさとやってくれよ」
「知らねえくせにべらべら抜かすな、最後に回された先でどれだけ無力だと思い知ったか……」
手早く用意をしながら老人は重く語る。それを荒坂さんが茶化す。その応酬が4度ほどして荒坂さんが雪崩れるように座面に崩れた。
「それを俺にぶつけなさいって言ってんだよ、本当に老人は話が長え。おら早くやってくれや」
「解ったから動くな……ふん、断面がきれいで止血がうまいな。お前これ誰にやられた」
「仕上げならそこのガキだよ、俺の弟子だ」
眼鏡を着古されたシャツで拭きながら老人は俺に顔を近づけた。ぎょろりとした目は加齢なのか少し黄ばんでいた。
「こういうことをきちんと覚えておきなさい。ない道を行くのならそれ相応の備えってもんがいるんだ」
いつの間にか用意された注射器を首の付け根、肩、それから脇下に3本流れるように打ち込まれると荒坂さんの呼吸がいくらかましになった。
「拾ってきて貰った腕もあるし、今なら付けることも出来るが……坊、貴様どうするつもりだ」
老人が鋭い目で冷たく問いかけると荒坂さんは軽く唸った。
「バーカ、俺の腕はもう切られちまったんだよ。それをまた付けるなんざ……新山に恥かかせるのと一緒だ。構いやしねえよ、棄てるでもなんでもしてくれ」
腕をじろじろと見やってから老人は断面を覗き込んだまま、食ってもいいのか、とさっきと変わらないトーンで言った。
「冗談まで趣味の悪ぃじじいだよなあほんと。知ってるぜあんたこのあとサラミ食うんだろ?ネジが外れてやがる」
「そんなもん元からついとらんわ。教えてやる、人間ってやつぁな本当に最期の時は御机下ぶりよりもしぶといもんだ」
くだらなさそうに答える老人に荒坂さんはうるせえと笑って、治療は1時間もしない内に終わりをむかえようとしていた。
身体を投げ出していたソファの背もたれからひょこりと俺を覗き込むように顔を出した人へとっさに声を殺して転げ落ちるとその人は大げさだな、と笑った。
「新山、どうだ最近は」
「……大変ですね。どっちも」
「そうか、でもなそれを言い訳に出来るくらいうちは甘くねえんだ、悪いな」
「どういうことですか?」
言いかけた言葉を飲み込むように組長はしゃがみこむと煙草を消した。狭い扉まであといくつ歩くのか俺はもう覚えていなかった。重い音がして、怒鳴り声を遮っていたそれの厚さを知った。
「あ……?新山か、お前」
ひきつったように声が出なかった。記憶と脳が混線して間違える前に後ずさろうとしたのを組長は見逃さなかった。呼吸の仕方が狂って一拍したあとに肺が熱くなった。
「知ってんのか?」
「高校の、時の同級生でした……高野ってやつで」
「なるほどね。こいつは売春斡旋の末端でな、上のドラ猫押さえたらこのネズミが飛び出てきやがった。しかしよく跡地でやろうと思えるなあ?そんなもん俺だって判断はつくぜ?上の奴ら……俺と年は5つも変わらんように見えたが、このネズミちゃんはよっぽどいい子だったんだろうなあ……ま、そいつを恨めよ坊主。ついていく相手なら見極めろ」
高野が頭をもたげて唇から糸を引きながら口から割れた歯落とすと、なんだよ、と呟いた。
「跡地ってなんのだよおっさん。ゆさぶろうったって今更逃げる気はねえぞ」
「腹の据わったガキだな。もう少し間違わなきゃうちで拾ったってのに」
「答えろ」
呆れたようにため息をつくと組長が俺を押しのけた。
「おいクソガキ、赤線って言葉知ってるか。教科書に載ってねえことを覚えるのはいつの時代も俺たちみたいなはぐれ者の得意技だろう?」
組長はゆっくりと話しながら、自然な動きで高野の指先を強く踏んだ。それはまるで日常の動作のようだった。
「そこで見てろ新山。最近仕事が甘いそうじゃないか、学べ遊べが学生だろ?せっかくこんなとこ来たんだ大人になっちまっても遊ぼうぜ、そっちのほうが楽しいもんな」
にこにことこちらを振り返って話しながらも蹴る足は止めずに、迷いなく掴んだパイプ椅子を持ち上げるとようやく俺から視線を外した。ガシャガシャとうるさい音の隙間で喚く声が次第にくぐもっていき、漏れるような呻きだけが残った。組長が身体をどけると、折りたたまれたパイプ椅子の脚を唇が裂けるほど咥えこんだ高野がいた。
「さて、準備はこれくらいにするか。新山はちょっと荒坂と松乃に俺がアレ持ってこいって言ってるって伝えに行ってくれ」
解りました、と言って扉に手をかけた俺に組長は、ゆっくりでいいぞ、と穏やかな音を飛ばした。掻き消してしまいたくて俺はわざと音をたてるように重い金属を押した。
「ああ?なんでてめえが来てんだよ松乃、その面見るまで誰かと思ったぜ」
「なに、お利口なお前の弟子に頼まれて来ただけさ。そのうち俺のとこの子にも会わせてやりたいよ」
「あの野良犬か?新山に虫つけられたら困るだろうが」
「そんなものを付けたまま歩かせるような人間に見えるかい?これでも手入れはしているほうさ」
ジリジリと焦げ付くような空気を押しとどめるように俺は、組長が待ってるんです、と呟いた。
扉の音に振り向いた組長が足元で鼻血をこぼして鈍い息をしている高野をよそににこりと人好きのする笑みを浮かべた。
「おう、二人ともすまんな。俺らももう歳だ、そいつだって重いだろ?」
「そんな!いい筋トレになります!」
「そう言われたら前より重くなりましたね、ということはまた改造でもされたんでしょう。どうです、俺に教えて頂けませんか?あなたのお気に入りということはそりゃあ使えるもんなんでしょう?」
「ははっ、松乃に嘘はつけんな。見習えよ荒坂……いやお前はそのままのほうが味が出るか。弟子のほうは少し松乃に似てるようだが、あまりいじめてやるなよ」
どん、と床に置いたラジオを撫でてから、するわけないじゃないですか、と荒坂さんは笑った。
「今回はどこにするんですか。月屋さんのパイプならほとんど知ってますが俺たちに見せていないものならまだまだあるんでしょうよ」
「ふふっ……なんだ松乃、俺を疑ってるのか?」
「同業は資金繰りで潰れているところだらけです。うちだってそう悠長に構えてはいれんでしょう……まあ、外の奴らのやり方を否定するわけじゃありません、しかしそれが出来るのは彼らの土地と国の方針があってこそです。この国とは根っこから違うんです。潰れるどころか潰されかねません……あなたのことだからそんなことはなから解っているのかもしれませんが」
「まあまあ、お喋りはあとでも出来る。早く用意してやってくれよ、このガキを安心させるのが優先だ……そうだろ?松乃はタンザニア、荒坂はメキシコに繋げ。速くしろよ。混線していたら人数に合わせて変えろ。半年毎に更新しているが新しいリストは覚えてるな?俺は少し荷物を取りに行ってくる、頼むぞ」
メキシコでここ最近活きのいいとこってどこでしたっけ、と荒坂さんがダイヤルを調整しているのを振り返って、組長は、1週間以内ならロスが一番だ、と言ってから、まあ向こうの1週間はこっちの三ヶ月くらいだからな、アテにすんじゃねえぞ、とケラケラと笑った。
上行くぞ、と髪をぐしゃりと混ぜられて組長を見上げた俺に荒坂さんが笑い声をあげた。
「気をつけろよ新山ぁ、頭の趣味知っても気絶すんじゃねえぞ」
俺たちのような肩書のない人間からある程度の地位の人たちまでが何人かたむろしている大部屋を抜けて、そこここに樹液の凝固した梁が剥き出しになっている肌寒い廊下を進んだ。
「いつもこの……寒いところを渡ってるんですか?」
「お前から見るとやっぱり変か?先代が好き勝手に改造しちまってな……あの人は元々宮大工の生まれでな、木に詳しかった。徴兵されて異国の建物のことも自分で勉強して、新しもの好きなくせに妙に古いものも大事にしてて、しかしそれを混ぜるのがうまかったんだ。俺ももう年寄りだからかな、お前らにも見せたかったなと思っちまうよ」
あがれ、と声をかけられて失礼しますと、頭を下げてから敷居を跨いだ。い草の淡い香りに乾いた埃、古い紙、金属、ほつれかけた和綴じの本、さまざまなものが混じっていた。
「おい、これ持っていってくれ」
渡されたのは3本のビデオテープだった。どれもラベルが貼られておらず一目見ただけでは新品に見えたが光の当たる加減で細かな傷が浮かんだ。ひっくり返すと小さくマジックで書かれた跡があったけれど、それは地の色と同化してほとんど読めなかった。
「ビデオデッキなんてあそこにありました?」
「若えもんが心配すんなっての。さて、これが面倒なんだ……新山、ちょっと出てろ。大部屋にでも行っててくれ」
「……解りました」
何かあるのだろうとは思っていた、けれどそう広くない目の前に広がっていたのは映画で見た様々な拷問が組み合わさったようなもので、高野のまぶたを固定している悪意を隠しもしない金属の足がその中で特に異様に映った。
松乃さんは口枷の締め具合を何度も確認しては高野に向かって、声出せ、としきりに呟いていた。どこにあったのか、俺でも高価だと解るビデオデッキと大きなレンズが奇怪な映像を地下室の壁にそのまま映し出している。高野の耳に押し当てるようにつけられたヘッドホンを見ていると荒坂さんが、メキシコとタンダニアの現地直送パーティー音声だよ、お前も聞くか?とジョークともつかないことを飛ばした。
15分もしないところで高野が身体を激しく捩り始めた。パイプ椅子がガラガラと嫌な音を立てる。それでも開眼器具は映画のものよりもよく出来ているようで、ずれて眼球を傷つけることはなかった。
「そうだ、新山、お前スティックゼリーって食ったことあるか?駄菓子屋によくあるやつだ」
光景からあまりにかけ離れた質問の内容の意図を計れなくて俺は首を横に振った。
「そうか、まあ駄菓子屋も減っちまったからなあ。じゃあ教えるとするか、よく見ておくんだよ。次に教えるのはお前になるかもしれないからな。おい荒坂、てめえの弟子に教えてやるから手貸せ」
「なんであなたが……俺と松乃だけで十分でしょう!」
「バカ、俺だって若いやつにはいいとこ見せねえと。後ろから食われたらたまらねえからな……だろ〜?荒っちゃん」
荒坂さんににこにこと笑みを向けていた顔がこっちを向くと、なあ新山、お前もそう思うだろ、と細められた目がゆっくりと真意の見えないものに変わっていくのを俺はただ見ていた。
部屋の端に立て掛けられていた角材を三人が手にする。たったそれだけなのにぞっと悪寒がしてそんな俺に気づいたのか荒坂さんが、大丈夫だ、これを見ていられたらお前も一人前だよ、と優しく言った。
近付いてきた組長が柔らかな雰囲気のまま語りはじめた。その後ろに立っている松乃さんはやはり穏やかな顔していた。
「こんなふうに、なるべく強度が釣り合ったものを使うといい。硬くてもいいんだが加減を知らないとすぐに駄目にしちまう。先代のお気に入りで俺たちの頃はよくやったからなあ、もう腕の振り方から指先の力の入れ方ひとつまで染み付いてるのさ」
高野はもう長いこと口から胃液と共にあ、あ、と吐いてはずっとひゅーひゅーと喘鳴のような音を出している。
後ろ手に掴まれた俺のてのひらが柔らかいものに当たってそこへ組長の手が重なる。
「触れ。そうやってよく覚えるんだ、お前だってやることになるかもしれねえ。手を汚すことに慣れようとするなよ。迷いってのはいつだってこっちを伺ってるのさ」
「これ、どうなって」
「こうやって骨をまんべんなく砕いてやるとな健やら筋肉もぶつ切りになるんだ。肉は叩いて柔らかくするもんだろう?そういうことさ」
スクリーンには画質の悪い、おそらく拷問の映像が流れている。開口器具を取り付けられた男の口に小さなハンマーが差込まれる。固定された高野のまぶたが繰り返し痙攣している。張り詰めた空気をわざと乱すように松乃さんがとんとんと木を鳴らした。
「月屋さん、これはうちのにも教えてよろしいですか。放っておいてもいずれ新山とはつるむでしょう」
「三波か。あいつ今いくつだ」
「もうすぐ19です」
「じゃあもう少し……そうだな20まで待ってやれ。話くらいはしてやってもいいぞ」
松乃さんはそれ以上はなにも言わずただ笑みを深くした。
あれほどのものがあったのに、取り払われると途端に地下室は狭く感じた。隣で煙草に火をつけた松乃さんが帽子を被り直しながらこぼした。
「新山は卒業はいつだ?」
「えっと、再来年の春です」
「お前の師匠さんから聞いてるんだよ。奴が言うにはお前さんは発想はいいがその使い方が少し一辺倒らしい。卒論に困らないように俺の選んだものをやろう」
荒坂には言うなよ?と前置きをしてから松乃さんが渡してくれた紙袋を覗くと、そこには本とビデオがきれいに詰められていた。
「お前の場合は先に映画を見たほうがいいかもしれないな。横流しのものが多くてすまんがまだ見れるほうだ。戯曲は初演と再演、それから5年後の改訂版がある」
「……なんで俺に?」
「お前をかわいがってるのは荒坂だけじゃないってことよ。そいつは卒業したら返してくれ。俺はもう見飽きたからな」
「あらあ、こりゃまた思い切ったんだな」
出てきた人が驚いたあとの顔に呆れを乗せてため息をついていた。
「これで示せるんなら安いもんですよ」
「その代わり人相の悪さまで増しちまってんじゃねえか、しょうがねえな俺がもっと男前にしてやる。あがれ」
言い切る前に回された腕が首を絞めるように動いて、暴れる前に動きを塞がれ部屋へと引き摺りこまれた。タタキを越えてすぐの和室までずるずると入れられようやく諦めた俺は他人に靴を脱がされるのは気分が悪いということを知った。
「ほら明るいとこ出ろよ。そんなとこでやったら切れるぞ」
「なにするんですか」
「あ?その野球部みてえな頭剃ってやるんだよ」
「剃るって……いや駄目ですよ俺ただでさえ大学で浮いてるのにこれ以上は」
「てめえよお新山、組と大学どっちが大事だ……?頭に拾ってもらえた身でごたごた抜かすんじゃねえよ」
「ちょっと痛いですって!あんたほんとに自分の馬鹿力いい加減自覚してください!」
「クソ……1週間待ってやる。その代わり死ぬ気で伸ばせ。いいな」
「あんたねえ……髪がそんなので伸びるんなら苦労しないでしょ」
結局三限目を犠牲にして俺は頭部がこんなにも滑らかになるのかというほど頭を剃り上げられた。
「新山、それてめえで出来るようになれよ。いつまでもんなむさ苦しいことごめんだからな」
煙草に火を点ける気配を背に、あんたがやったんだろうが、と言いたいのをひとり飲み込んで前へ進んだ。
三波という男のことは聞いていた。なんでも部屋住みからあがったはいいがロクに仕事も出来なかった奴らがクーデターの一人目の的にしたのが松乃さんだった。反乱の場所を突き止め駆けつけた細っこいガキみたいな奴は、そこにいた組の連中を何人も立て続けに殺したという。死体を運び出しながら、あの松乃さんが育てただけあってその殺しは大味ではあったが鮮やかで、それでいて細やかな手腕があるように思った。
10はくだらない死体を地下室で処理したのは荒坂さんだった。手伝いますよ、と声を掛けても俺がやると聞いてもらえなかった。料理鋏がシャキシャキと小気味いい音を立てて腸を切っていく。背の高い寸胴鍋からはきつい香辛料と排泄物と少しの腐臭と鼻を刺す刺激物のにおいが立ち上がりからからと回る換気扇を無視して地面に落ちていた。荒坂さんが慣れた動きで足元に置かれたパイプウォッシュを持ち上げるととくとくと場違いな音を立てて注いだ。
落としていた頭を軽くゆらして、こちらを振り返った荒坂さんが、お前まだいたのか、と呟いた。
「どうせ動かねえつもりだろ、しょうがねえな頭残してる奴らから歯抜け。全部だ」
そう言うと長い脚が頭を引き寄せて、一度潰すように踏み躙ってから俺の近くへと蹴った。ひとつめの頭は喉を酷く破壊されていてぎょっとした。はじめはペンチを使ったが夏というのもあり硬直はすでに解け始めていた。面倒になった俺はペンチを捨て、埋めた片手に掴めるだけ掴んで引き抜く。乾ききった口からは妙な臭いがしていて、肉の多い頬や舌に触れるたび泥の中へ手を突っ込んでいるようななんともいえない感触が手に染み付くようだった。この歯どうすればいいんですか、と聞くと、酸掛けてから砕いて花壇にでも埋める、と返ってきてその光景のいびつさに俺は少し笑った。
卒論をスタートダッシュで躓いた俺は半年後に控えた卒業のため大学と組を移動する合間にもエンターテイメントとユーモアを腐して肥やされた頭からテーマを探していた。図書館に篭り校内を練り歩きたまに工芸棟の裏に設置された鉄くずの散らばる喫煙所の落書きを眺めて煙草を吸った。誰がやったのか、朝の内はなかった壁面に吸い殻を使って大きくDon't lose my hopeと書かれていた。
結局成果もないままバスに乗った。小刻みにくる振動に視界はぼやけて回らない脳から小さな音がしている。灰皿が置かれただけの前に立つ。煙が流れていく。視線ばかりが風に逆らっている。まばらなホームに緩慢に滑ってきた電車へ乗る途中でぶつかった肩に苛立つ力もなかった。鳴らそうとして曖昧に濁した舌先がざらついた歯の裏に触れた。
歩を進めるほどに街明かりは遠ざかり次第に不規則な点滅のリズムすら覚えてしまった街灯が視界に入った。昼と夜を行き来して、その隙間を埋めるように眠った。
部屋に戻ってそのまま床に倒れる。横に見る景色もそろそろ新鮮ではない。視界の右端、紙袋の中に入ったビデオテープは持ち主である松乃さんの死を知っているのだろうか。結局まだ見ていない、それどころか取り出してすらいなかった。だるいまま袋を掴んで引き寄せると結構な重さがあった。ビデオテープをスリーブから出すと隙間から紙が落ちて、メモ書きにしては綺麗な字でこう書かれていた。それを見て松乃さんは俺を見抜いていたのだろうかと思うほどにぞっとした。
「他人から使用されることでしか存在理由を持たない、棒のような男……」
渡されたものは良くも悪くも卒論の刺激となったが、これを渡したその人の真意は、今となってはもうなにも解らない。
その飼い犬に噛まれたのは2日後だった。狂った運命が噛み合って回りだそうとしている危うい音を脳に聞いていた。
「殺してやるよ。構わねえだろ?新山」
立てよ、と差し出された手を拒んで目を見開いてみたが特に景色は変わらなかった。
「しかしうちから大卒もんとはな。いつ振りだ?確か、アタルくんは院まで行ったわりに途中で辞めちまったからタツの野郎以来か……あいつは今年で29だったか。そうか、結構空いちまったな」
横目に見られた若頭が引き笑いをこぼした。
「はは、これからどんどん出して行きゃいんですよ」
「バカ、その頭を持った奴がいねえだろうが。どうだ新山、俺の席に座ってみるのも悪くねえと思わないか?アタルだってお前なら納得するだろう。それからアタルは早くリスト上げろ。近々潰しをかけようと思ってんだ」
組長の冗談ともつかない問い掛けに真っ先に反応したのは荒坂さんだった。
「いやいやいや、そこは普通、奴の面倒を見てる俺でしょう?序列とかもほら、あるでしょうし」
「古いなあ荒坂。弟子に食われんなよ、ああもう片腕は食われちまってたか」
「本当に嫌な言い方をするんだから、これは俺がやらせてやったんですよお?それだってのに新山、鼻水垂らして出来ませんーて泣いてやがったんです」
くだらない応酬を割るように襖が音を立てて開けられ、盆を持ったままの男が器用に、というべきか片足で再び戸を閉めていた。若頭がお前なあとため息をついていた。
「組長、このお茶ね、松乃さんに貰ったやつなんです。僕よく知らないけど祝い事の時にこれを淹れろって。今日なんかいい日なんですか?」
「おう、いい日だぜ」
「なんなんです?」
「この長橋に何人か目の学士さまが生まれたのさ」
そう言って組長がゆっくりと俺を指差した。それを辿るように振り返った男が目を大きく見開いていく。
「……てめえ」
歩み寄ってきた盆に手を伸ばし、そこに乗った湯呑みを見せつけるように傾けた。喉に張り付くような濃い味がする。きっとこいつは分量も解らず淹れたんだろう。本当は頭から掛けてやりたかったが生憎ここは組長のお気に入りの和室だった。
「ようクソガキ……まあ久しぶりってとこか?」
「うるせえなハゲ野郎」
「人の名前くらい覚えてると思ってたんだがな」
荒坂さんの作られた間延びした声が睨み合いを破った。
「おい松乃の犬、俺にも茶持ってこいよ」
舌打ちをして荒坂さんのほうへ盆ごと湯呑みを置くとそいつはまた食ってかかってきた。
「じゃあてめえは僕の名前言えるんだろうな」
「当然だ」
「へえ、じゃあ僕もお前の名前言ってやるよ」
吐き出された二つの呼び名はまるで半端すぎて、ただ違うことだけは確実だった。その証左に荒坂さんは吹き出すのに失敗して噎せていたし、組長はというと膝をバシバシと音が出るほど叩いて笑っていた。若頭だけがこんなところで喧嘩をするなと一人怒っていた。
それから顔を合わせては喧嘩をするような間柄だったが時間とともにそれも減った24の初夏、腫れた顔をした男と乾いた土の上に倒れ込んでいた。先に身体を起こしてみるもまだ動けそうにない。
「置いてくぞ」
「聞くくらいなら背負ってけよ、部屋近いんだし」
自分勝手な我儘を軽く寄越して、俺はそれを捨てる。
「勝手に帰れ。なあ、会ってからずいぶんやり合ったし少し休みにしねえか?俺はいいがこんなことで消耗してていい時期はもう過ぎたんだ。5年休もう。それだけ経ってお互い生きてたらやり直そう。ま、延期戦ってやつだな」
火をつけた煙草を吸えば喉の奥で溜まっていた鼻血と合流した煙が奇妙な味を連れてくる。横を見ればぽかんとしているマヌケな面があった。
「なんだよそりゃ」
「今死ぬか5年後死ぬかってだけの話だ」
「はっ、なんだよ怖いのか?」
こんな安い挑発に乗るほどもう愚かではなかった。最初の頃は本当に酷かったけれど。
「知らねえ」
頭を軽く振った。ニコチンが肺を蹂躙している感覚がする。視界が重たくブレる。
「僕は怖いかな。痛いの嫌だし」
「あれだけ暴れまわってる奴が言っても説得力がないぞ」
「そんなこと言われてもな」
軽く掛け声をあげて身体を起こすと男はポケットから潰れた箱から煙草を取り出した。途中で酷く曲がっている。
「で、どうするんだよ」
「まだ生きてたいから5年後がいいや。さっきのも油断させて殺すやつかもしれねえし」
ゆっくりと火をつけた割にはたいしてうまくもなさそうに一口目を吐き出すとそいつは伸びをしようとして痛ってえと声を出した。
「他の奴は知らねえがこの生き方選んでおいてそんな真似出来るか。お前は俺が殺すから心配するな」
「僕だっててめえ送ってからじゃねえと死ねないねえ。まあ僕は地獄に色々待たせてんだ。そこでも見てもらおうぜ」
そうだな。
先に立ち上がっていた身体を見る。20を超えたくせにまだ背が伸びているこいつはもうすぐ俺と同じくらいの背丈になる。振り切るように俺も立ち上がる、そして三波のほうを見ないで陽射しに逆らうように歩いた。
なにより道理を求めたのだから、与えられたそれに向き合って応えるのもまたひとつの道なのかもしれなかった。
それならば、俺は光に殺されたい。
三波と二人若頭から呼び出され遠方に仕事があると話をされた。組長を含めた上の人たちは貧困ビジネスに力をいれている組をみせしめとして潰すために日夜話をしているのは知っていたので、そこに関わるのだと思っていたのに。戸口に寄りかかっていた藤風さんが土産楽しみにしてるぜ、俺もいいやつ持ってくるからよ、と言って普段吸っている銘柄の煙草をワンカートンずつと、これは前の仕事の土産な、と言って異国の煙草を手渡してくれた。この人は冷めた顔からは想像もつかないほど面倒味がよかったし、何より茶目っ気があった。
「タツ、そうやってすぐ甘やかすな」
「ああ?俺なりの敬意を甘やかしとはねえ。偉くなった奴は違うなあアタルくんよぉ」
「……もういい。二人じゃなくてもいい。行ってくれるか?」
もう何日もろくに寝ていないのだろう、目の力が弱りかけた若頭が熱っぽく訴えて、その手に軽く殴られた藤風さんがこちらを見て、やっぱ俺もそっち行こうかな、と冗談ともつかないことをぼやいた。
「なあせっかくだし行こうぜ、大阪だってよ。たまには旅行くらいいいんじゃねえの」
問いを放っておいたくせに返事より速く宿は押さえられていた。曖昧に濁して、かぶりをふる素振りでため息をついた。
全く似合わない早朝、ドヤ街に続くには大きな駅に降りた。共用のベンチ2席分をたっぷり使って横になった枯れ枝のような人間らしきものが繰り返し咳をしている。塗装の枯れた壁をなぞっていると不意に風が吹いた。生臭いようなにおいが濃くして、見れば風上にあったのは駅の便所らしくて苦笑いをした。
「なんしとんやお前ら。仕事やったら今ぁないで。ちょうどここいらも冬なんじゃ、あと2ヶ月はなぁの。しかし色の白い兄ちゃんらやの、土掘ったことあるんかいな」
若い顔を見つけたと言わんばかりに腰の曲がった老人が食いつくように歩いて声をかけてきた。唾がかかりそうなほど顔の距離が近く、歯と歯の隙間が見えるくらいだ。
「宿に顔を出しにきただけです」
「ほぉん、もう空いとるんけ?まあええわ。ああ、パケには気ぃつけえよ、人のもんまで自分で背負わされるさかいの」
それを卸すのが今回の仕事だと言ったらこの男はなんと言うのだろうか。
ごちゃごちゃとした人間も含めて猥雑そのものな街並みが広がっている。ぶよぶよと不健康に太った身体から肉を垂らして、それを乗せた自転車が健気に軋みながら走り去って行く。歩道にはロング缶が等間隔で置かれていて、ゴミかと思っていたら歩いてきたオヤジが自然な手つきでそれを拾うと迷いもなく傾けた。落ちているペットボトルのほうがまだ安全だろう。あの事件がもしここだったら飲みさしにすら人が群がって死人はたいへんなことになっていたに違いない。
この街には階層がある。それを見抜く方法は簡単だ、それは広げている新聞を見ればいい。競馬新聞はまだましな部類の人間。そこから一気に下って競輪は声を掛けられたら話す程度に抑えて、競艇はもっとヤバいからなるべく避けろ、とこれは全てこの近辺で少年期を過ごした天河の談だ。だから拾った新聞かワンカップでもジャンパーのポケットに入れてやればもうこの場所では二人はお友達ということらしい。どういうことだ。当時と比べて随分落ち着いたとはいえ初めて来た俺にも解るほどここは出処の知れない熱量と労働者で出来た人混み特有の人の肌の臭いが立ち込めている。
明朝、人の声で目が覚めた。身体を起こす気にはならなかったがその声に三波のものが混ざっていると気づいてしまい俺はしぶしぶ宿の扉を開けた。右に四歩進んだ先に、色んなことを後悔したくなる光景が広がっていた。
「早う流れぇアホォ!貴様のせいで待たせとんじゃこのボケ!」
「いいからどけってんだよくそじじい!僕が流してやろうか?あ!?」
じじいは小便器に大をしてそれが流れないこととそのせいで人を待たせていることに怒り散らしていたし、三波は三波で相当切羽詰まっているのか時折息を止めていた。換気窓に目を逸らすと、トイレはしかるべき方をご利用下さい、とご丁寧に書かれている。
……天河の忠告にひとつ付け加えるならば、ここで一番やばい奴はおそらく文字を読んでいない奴らだ。
張り出された求人を眺め、いくつかの客引きに捕まりそうになりながら指定された飯場へ向かう。そこを仕切っているN建設の社員が近くにいたので、車に乗り込んだ。車体の色が黒だったら同業者に違いないが遠目に見てもわかるほどへこみと汚れが目立つ白だった。
「和歌山か大阪どっちがいい。言っておくが和歌山のほうが払いはいいぞ。大阪ならここからすぐ近いし死ぬことは減るが、同時に取り分も減るな。どうする」
隣を見るとわけが解らないと言いたげな顔をしていたので、三波がなにか言う前に、大阪でお願いします、と告げた。断崖絶壁なんて都合のいいものに近寄るほどバカではないし、海沿いの飯場なんて死そのものと相違なかった。それなら少なくともアスファルトに囲まれていそうな場所のほうがまだ安全だ。
その日はひたすら土嚢を運んだ。働き蟻の気分だった。すぐへばるだろうと思っていた三波は意外にもまともに動いていた。が、よく見ると目を盗んでは細やかに手を抜いていた。
終業!と拡声器が響いて日当を貰う労働者の列が出来る。
「あれ?兄ちゃんら金は?」
「ああ、昨日パチンコで勝ちましてね」
適当に嘘を並べるとじいさんが、ついとるのお、わしにもわけてほしいわ、と俺の腰辺りを土を払うようにして叩いた。
金を受け取らなかった三波に、いいのか、と振ると、金とかないほうが普通だったからな、とつまらなさそうに答えた。
「それは頭が上がらないな」
「つうわけで煙草くれよ、なくなっちゃった」
「おいどの口で言ってんだてめえ」
追い払おうとしてもいいだろとかケチだとか楽しそうに小言を言いながらうろちょろとして宿の前まで来た頃には今日から帰るまでお前の部屋に泊まるぞと脅されたので封を切っていない箱を押し付けると男はやりぃと笑うのだった。
次の日、軽トラの荷台に積まれて降りた場所は廃墟になったホテルのようだった。3台ほどの重機が並ぶ中、一番下の仕事をする俺は防護用のゴーグルが配られていないことを伝えると、現場監督らしき人物は、はあ?と吐き捨てた。
「お前らみたいなもんの目ん玉にどないな価値ある思とんねん!東南アジアの兄ちゃんパクってきたほうが高ぅついてまうからお前ら雇うとるんちゃうんか?あ?目玉がのう、二つ揃うてやっと10万、そっから病気やら歳とか差っ引いて残ったもんが儲けになるんじゃ!解ったら口やのうてその手え動かせ!」
なにを言っているのかはよく解らなかったがこの男なりに筋の通った話をしているのだろう。最底辺の人間はそれなりに見てきたつもりだったがドヤ街について4日、飯場まで来て3日目、ここまで来るともう借金で回らない首ごと飛び降りて済ませられる奴らはまだ健全な部類に見えるくらい頭の回路が壊れているか意図的にそう装っている人間しかいないらしい。街の熱量に気圧されそうになっていたのがもはや懐かしいくらいだ。
N建設の社員が頭を下げ、アニキ、と言った。明らかに同業者といった身なりの男二人がこちらへ近付いてきて、三波は早々に目つきを変えて軽く歯を見せて牽制しようとしている。姿勢を変えて俺も軽く睨んだ。
「なんや長橋組の若いもんが紛れとるらしいな、感謝しいや、迎えにきたったで」
二人連れのうちの痩身のほうの男が軽い口調で手を上げる。そこまで言われて俺は好きに書けと言われた書類へ馬鹿正直にフルネームを一字違わず書き記したことを遠いことのように思い出していた。狼狽えている三波に聞こえないような音量ですまん、と呟いた。
「……俺ですが、なにか用ですか」
「もう一匹野良犬もおるって聞いたんやけど?」
「え?……ああ僕だけどよ」
男が振り返って目配せをすると開けっ放しの車のドアに掛けられた過剰なほどに指輪のついた指が丸を作る。重ね付けされたネックレスが音を上げて、薄く胸骨の浮いた身体に似合う骨張った手が背中を強く叩いた。
「……ぃよっしゃあ!長橋の兄ぃの子分ども!俺らが案内しちゃるからはよう乗れ!月屋のおじきは元気なんか?夜中に電話してきよったんや、面倒みたってくれ言うてなあほんまにあのおっさんよう言わんわ!」
「いや、待ってくれ俺たちは……」
「もー文句やったら寄ったるさかい電話で言いや、とりあえず来いって。飯食いに行くで」
腹の内知らんな話ならんさかいな!と男は後ろに丸く纏めた髪を弄りながら色の薄いサングラスの奥の目をくしゃりと曲げて健やかな笑みを見せた。
「おぉ、そういや名前言うとらんかったな。俺チュウエンいうんや。よろしゅうな」
座席のポケットに突っ込まれた煎餅の袋を断りもなく漁ったまま三波が声をあげた。
「チュウエン?それって空海の弟子じゃん」
「おお三波くん?で合ってるよな?よう知っとるやんけえ〜ま、こんな場所で本名なんぞ明かせるかっちゅうねん。なあ新山くんよお、そない思わへんか〜?」
含みしかないような楽しげな声が空調にのって流れてくる。それをどうにか遮るように組んだ手に俯いた頭部を当てたまま、そうですね、と呟いた。
アスファルトから離れたタイヤの振動にも慣れた頃ようやく停車した場所はなんとか中華街の街並みは保っているものの廃墟じみた面立ちを隠そうともしていない。掬って拾えそうなほど酸化した油の匂いが落ちていて、三波は不思議そうにその奥を見つめている。
「うちの決まりやねん、新顔はぜぇんぶここ連れてくる」
「といってもこの有様だからな、飯食うだけだ。安心しろ、取って食ったりしねえから」
「……信じさせてもらうよ」
静かな睨み合いを裂いたのは底抜けに明るい声だった。
「もー俺が運転してる間に喋らへんからこうなんねん!飯にしよか、つうかトキちゃんよお!ええ加減ここで食うのやめよーや俺まじで入りたないねんけど!くさい!食いもんにあるまじきにおいがもうしてる!」
「向こう10年はここで食うって決めたのは誰なんだ?」
トキと呼ばれた男の言葉にチュウエンは大袈裟に身体を折り曲げて少しの間うねうねとしていたがようやく吹っ切れたように両手をあげた。
「はいはいはい俺でぇーす。でもな、あん時とはちゃうやん?」
「解ったからさっさと入るぞノブヤ」
「おいトキちゃんそらないで、今日はチュウエンです〜」
「知らん」
爆速の返答に露骨に拗ねた男は頬を膨らませたままの姿でざっと引き戸の前に立った。
「へいへい……おっちゃ〜ん、元気?客連れてきたったんや今日こそは頼むで」
店主なのだろう老人に声を掛け4人がけのテーブルを陣取るとチュウエンは置かれっぱなしのナプキンを広げて拭きはじめた。
「油こびりついとってな服汚れてまうんや。こんなんしたかてあんま変わらんけど、まあ精神衛生上?みたいな?」
メニュー表に手を伸ばそうとすると指輪の手がそれを制した。そうされてちゃんと見ると何年開かれていないんだというほど日焼けと油で見ても解るほどベタついている。脚を組み替えたチュウエンが口を開いた。
「炒飯にしとけ。こういうはじめてくる店ではな無難が一番や。それがどんなに馴染みのある飯の種類でもな。長いこと生きとって解ったつもりやったけど、ここで思い知った。普通な、20そこそこ言うたかて大の大人がよ、八宝菜食って泣くと思うか?うまいからとか感情で生まれてくるもんとちゃうねん、ほんっまにまずいと涙って出てくんねん」
組んだ足先を揺らしながらチュウエンは真顔と抑揚のついた声でどうでもいいことを語った。スラックスの丈は短く詰められていて、座られると踝の上まで入った水墨画を思わせる刺青とミサンガが細い血管と交差して線をひいている。珍妙な柄の開襟シャツの下に白いインナーを着ていて、ネックレスの内のひとつがその中に入ってしまっているのを指で直していた。ひょろい見た目とやくざのくせにどこか健康的な雰囲気は元来のものなのかもしれない。
「トキちゃん、金渡して帰らへん?俺ほんま嫌や」
「お前なあじいさんももう作り始めてんだぞ、どうすんだよ」
「裏に出せば住み着いとる奴らが食うって」
中華屋はチュウエンの言う通り涙が滲むほどまずかった。炒飯であのまずさなのだから他のメニューは一体どうなっているんだろう、と想像したところでさっき食べた味がまた蘇ってきたのでやめた。
また車に乗り、どこへ向かうのかと思えば貸し自転車屋だった。
「これから飲みにいくさかいな!車やったら犯罪になってまうやろ!」
渡された自転車の鍵をガチャガチャと外しながらチュウエンは屈託のない笑顔をこちらに向けて、トキはというとその横でげんなりとした感じで同じく自転車のロックを外していた。
チュウエンがトキに絡みはじめて30分が経つ。いい加減殴りたくならないのだろうか。俺ならとっくに手が出ているだろう。長いため息の音がテーブルの上で渦を巻く。トキが頷くのを待ちわびていたチュウエンが傾いたままのジョッキを空けて音がするほど置いて大げさに喜ぶ。渦が綻びようとしている。
「やったー!!さすがやなあトキちゃん、お礼にちゅーしたるわ」
「バカが感染するからやめろ」
「いけるて俺のは固有種やから!」
「そうか壁にでもしてろ」
そっか!せやな!行ってきます!と素早く敬礼をしてなにを解ったのか何一つ理解が追い付かないまま目で追ったチュウエンは店の柱に抱き着いてゆるゆるとした笑みをこぼしていた。
「トキ……さんはチュウエンのこと殴りたくならないのか」
こちらを向いたトキが顔を隠すように手を翳した。
「やめてくれそんな柄じゃないし、それにその間はそういうことだろう?あいつは……ノブヤはな、ああでも俺の恩人なんだ。殴らないのは殴って解るアホじゃなかったから殴らないようにしたってだけだ。それからほら、あいつは見ているだけで元気をくれるだろう?あんまり近寄ると逆に疲れちまうから、このくらいが丁度いいのさ」
「恩人……?あいつが、あんたの?」
「逆だと言いたいのか?気持ちはまあ解るぜ、俺もそう思いたいくらいだ」
それって、と言いさした俺の顔に指を立ててトキはやや冷たく笑った。
「悪いな、ここまで話しておいてなんだがもう言わない約束だ。俺と奴のたった一つのルールだから」
そうか、とこぼすとふっと笑ったトキはチュウエンを引き摺ってきてから、ごちそうさま、うまかった、と言った。会計はいつの間にか済ませられていた。
酔った目には未だ熱気を帯びた街並みのうるさいネオンが染みて背筋が少しだけ伸びた。たくさんのものが互いに牽制し合いながら行き来していて、来るな、と思っていた自転車が風切り音をあげてチュウエンの鼻先を過ぎた。
「どこ見とんじゃボケコラァ!俺の靴轢いたぞお前!」
怒声に応えるのはそれとも馬鹿にしているのかチリンチリンとベルが2回鳴る。もうそんなに遠くへ行ったのかと言いたくなる音量だった。
「騒ぐなよどうせつま先だけだろ、よかったな見栄張ってデカい靴履いてたのも役に立ったぞ」
「トキちゃんええクリーニング屋教えて!先っぽのほう絶対うんこついた!靴なんか俺小学校で上履き洗ったことしかない!」
「迷惑だろうがいい加減捨てろ。何年履くつもりだ」
トキがチュウエンの靴先を踏み込むと確かにへこんだ。25センチあるかないか、といったところだ。
「これもう廃盤やねんで!靴底溶けるまで履くつもりやったわ!」
「ほんっとうにみみっちい奴だな」
「ああ?それがなんやっちゅうねん!クソが〜……もうええ靴屋行くぞ」
「たまには殴ったほうが調子が戻るってもんか?お前のための時間じゃねえんだよ」
軽く胸ぐらを掴まれた体勢のままチュウエンは拗ねているのを隠しもせず続けた。
「残念でした俺は家電じゃないですう!つうか聞くけどよぉ、トキちゃんは連れがうんこつけたまんまうちの門くぐっても許せるんですかぁ〜?近くに靴屋あるしええやんか、ほらあの、ドクターがマティーニみたいな名前のとこ」
「えっ、こんなとこにあんの?僕ずっとそこの履いてんだよね」
「お、三波くんドクター履いてんの?ここやったら限定のカスタムで他の店より強い鉄板仕込めるからおすすめやで!」
えーまじで、と三波を乗せたのを見兼ねたトキがチュウエンに手を伸ばした。
「いい加減にしろ」
そう言うと細かな装飾のされたリング型のピアスにトキが指を引っ掛けた。
「痛い痛いピアスのほう引っ張んなやアホ!」
「俺がやったやつだろ、返せ」
「貰ったもんは俺のもんや!」
「うるせえなほらちゃんと立て、しゃがむな耳が千切れるぞ」
痛みでしゃがみこみそうになるチュウエンを軽く笑いながらトキは指先に力を込めたり抜いたりしているように見えた。
「お前が手ぇ離せ!暴力いや!」
「チュウエン、今日だけだろ?頼むよ」
ピアスから指を離して、悪かった、と言えばチュウエンは見る間に機嫌を直した。
「んー?なんなん。なんかくれるん?っちゅーかこいつらどこ泊めるんやっけ」
「事務所に連れてこいって言われただろ」
「あれ?せやっけ、そか、まあそっか」
連れて行かれた場所はかなりの大通りに面した場所だった。立派な門をくぐると日本庭園が広がっていて見える限りでも石灯籠が3つは置かれて夜というのもあり火が灯されていた。いきなり玄関があいて、白髪が大半の男が一瞬固まったがすぐに笑うと会釈をした。
「すみまへんなあ、夕刊取りにいこ思たらトキとノブくんらだけやのうて、お客さんまで」
そのまま軽く案内され、豪華な応接間に通されさっきの男が茶を持ってきてくれた。
「すみません、頭は今電話中でなあ。すぐ来てもらえるよう言うときましたさかい……まあお茶でも」
この好々爺は本当にやくざなのだろうか。それとも組長に気に入られたただの世話係なのだろうか。そんなことを思うほど、この男と暴力は結び付かなかった。
ギィ、戸のと軋む音がしてそこから現れたのは寺の坊主を思わせる丸められた頭と垂れ目が印象的な……裏返していうならそこしか目につかない男だった。
「……失礼ですが、あなたが、こちらの?」
「なんや月屋のやつ、なんも話とらんのか。つれんのお。うちは乃美会いうてな、ちょうど月屋が長橋の先代に拾われたくらいの頃……せやな、15くらいの時からの仲なんや」
「へえー乃美会……かあ」
隣で胡座をかいていた三波がこそりと漏らした。
「おいおい聞こえとるで。しかし兄ちゃんかてそない思うやろ?そら名前が名前やからな、若いもんとか、場所が場所やさかい悪い噂もあってなあ。あんまり入ってこおへん」
「んー、まあ確かに飲み会じゃ締まらねえか」
「アホ、そうとちゃう。ノミはしつこうてかいいやろうが」
乃美という男はそう言って目を細めると頬の辺りをぽりぽりと掻いた。
「うちの電話貸したるから月屋にかけたれ。あいつな、結構気にしいなんや。こないなことするくせに、なぁわけわからんやろ」
ダイヤルを回してジリリと数回の音のあとにもしもし、藤風さんの声がした。
「新山か、どうだ大阪の観光は」
「すみません、まだ俺飲み込めてなくて……組長に代わっていただけますか」
「はあ、頭硬いよなあ新山は。せっかくうるせえ上もいねえんだから遊べばいいんだよ。そうだ、土産はあったか?俺はなあ……ふふ帰ってくる楽しみも必要か。組長は今忙しくてな、手が離せねえんだとよ」
後ろからタツミ、と強い声がして雑音の後ため息の持ち主が話しだした。
「すまんな新山、タツミの言ったことは気にするな。月屋さんは少し……怪我をしただけだ」
「怪我って」
「違う、やられたとかじゃない。少し階段を踏み外してしまっただけだよ。だいたいあの人もあの人だ。仕事があるだなんてお前らだけじゃなくて俺にまで嘘をついたんだぞ」
騙された結果遊べたんならいいんじゃねえの?と藤風さんの声がじりついたノイズを帯びたまま変に上のほうで響いた。
「悪いがもう一度かけ直してくれないか?月屋さんの部屋にも電話はあるから」
「でも休んでるんですから」
「……まあそっか月屋さんのことだしね」
次の日の昼間、俺達は……主に三波とチュウエンは見回りと称して昼飯を探し奔放していた。
「おいそこ!二ケツ!俺の前で堂々と走んなや殺すぞ!」
「ああ〜?ポリが殺してどないすんじゃボケェ!」
「うるせーうるせーだいたい見逃してる時点で職務怠慢じゃねーかよ!金出てんなら働けポリ公!」
最悪に最悪を重ねたような二人組が警官を煽っているのを傍目に関係ないような顔でトキは歩いていた。俯くと今日はかなりの快晴なのに影の濃度が変わっているのが見えた。
「あいつな、今はああやって人乗せてるけど3回くらいは廃車してるんだ。チャリも何台壊したか……」
煙草を取り出すさなか、思い耽るように中を漁ってゆっくりと火をつけた。
そんな大切なものが俺にも出来るだろうか。まさか。
俺の身のうちの思いなど誰一人触らせてやるものか。これは俺が背負ったものだ。擦り切れた足で歩くことへもうずっと疲れていることも、時折迷っていることを忘れてしまうことも。
暑かっただろ、汗流すくらいしか出来ないが、とトキから乃美会が管理している浴場を勧められた。いくらドヤの真ん中に居を構える組のものだといえ、この街独特の垢のようなものはそこここにこびりついている。軽く頭をゆらして浴場への扉を開いた。元より湯に浸かる気はなかったが、横目で見た大浴場はどういうわけか脂が浮き上がり目を凝らせば垢が靄のように底で揺らいでいて、疲れきった脳は何故か食べ終わりが近いラーメンのスープのことを考えようとしていた。
最初から気にしていなかったがシャワーの温度調節機能も当然のように壊れており冷水かギリギリ耐えられないくらいの熱湯の二択しか出来なかった。
暑いのもあり冷水で持ち込んだタオルと石鹸で身体を洗っていると、どこもガラガラなのに隣にあの年寄りが座った。
「兄ちゃん、どないやうちの会は。御大もええ人やろ」
そう言うとシャワーのノブを押し込むようにぐりぐりと回した。
「こないしたらな、まだましな温度の湯が出よる」
兄ちゃんもやってみ、と促されるままガチャガチャと湯と水を往復すると確かに湯気をあげて少し熱い湯が肌を打った。
「すまない、助かった。こんな夏に風邪引くところだった」
苦笑を向けると、年寄りは泡立たせたボロ布で濃いシミが目立つ腕をこすりながら、そらよかった、やくざが風邪なんか格好つかへん、と笑った。
「これも縁や、背中流させてくれるか?こんなとこまできよる若いもんそうそうおらんさかい」
真意が解らなくて顔を睨みつけると、男は降参したように両手をあげた。その手は小指と薬指、もう片方はそれに加えて親指が第一関節で消えていた。
「はは、どっちも訳ありってか」
「そういうこと。ほら、背中向けえ。この手で洗われるの、癖になるいう奴もおるんやで。特にあのこ……ノブくんがこれえらい気に入ってな、わしが風呂入ろ思たらすぐ後ついてきてなぁ……あんなんやけどかわいらしいもんやで。よう解らんやろ?」
「おいおい俺はここにいるつもりはねぇんだぞ?」
お手柔らかに頼むよじいさん。
そう笑って背中を見せれば、粗い肌触りの布を押し当てた。
「人間どないなるか解らんから、なんでもしてまうな。覚えとけよ兄ちゃん、そいでもな、けじめさえつけたら足さえ洗うたらどないにでも生きれる、神さんはおらんでも、神さんみたいな人はたまにおる。そない出来とんねや」
俺の背に当てられた力のない掌と噛んで含むようなやわらかい方言がなぜかおそろしくなるようでこびりつく前に流せるよう俺は洗い桶に泡が溶けはじめてぬるつく手を突っ込んだ。
しかしえらいもん入れたんやな、のう兄ちゃん、仏にはなってもホトケさんにはなりなや、この背中だけでじゅうぶんやろが。
そう言ってまた深く笑うと、皺に埋もれた目をしばたかせながら俺に向かって手を合わせた。
「ほなな、もうわしの顔なんか見にきたらあかんで。老い先短いもんはな、それに従うたほうがええねん……まあたまにそんな道理すらきかへんきかん坊、きかん爺がおるんやけどな」
きっと笑っているのだろう、背中を流す指先が震えていた。
スラムと中華街を混ぜっ返したような路地の中腹、夜を食べそうなほど大きなあくびをひとつしてから、帰るかー、と踵を返したチュウエンへ怒号と共に影から突っ込んで来た男が押し付けた身体を固めたまま手元を確かめるように大きく目を開いた。
「あれ?ここ刺せば、確か」
「ぁあはっ、ほんまに俺はついとるなあ〜」
「なんでっなんで死んでへんなお前……」
背を向けているせいで表情は男しか知らない。そのほうがいいのかもしれないと思うほど、寒気のするような底なしに明るい声が這うように耳骨をなぞる。
「最期に教えたるわボンクラちゃん、なあ遊ぼうやあ」
トキが俺の肩に手を置いたまま、あいつのやり方は見ないほうがいいぞ、と独り言のように言った。何度見てもチュウエンは腹にナイフが刺さったまま、その証拠に背中まで血の滲みが浮き出そうなのにいつもと同じ大股の歩き方をしている。
「どないしたあ、びっくり人間でも見よったんか」
吐き捨てるように掠れた声で笑った男の影がゆらめいて、右手が獲物を食らう蛇の速さで首を掴んだ。指先に力が込められているのが解る。
「ほら声出してみいや。それか舌、今の内に出しとけ、こっからが苦しいぞ」
男の顔が徐々に色を失っていく、あの落とし方なら単に首を締められるより辛いはずだ。
「やばい顔してんでお前、まあまだ耳は生きとるよな。しかしはじめましての俺にそんな面見せんなや、照れるやろが」
片腕で持ち上げて、数秒そうしてからいきなり手を離した。地面に落とされた男が過呼吸になりそうに酷い呼吸をしている。しゃがみこんだチュウエンが髪を掴んで顔を過剰なほど近くで合わせる。
「俺はなあ、生き延びる代わりに臓器売ったったんや。1日生きるのんに血が1L肌やったらケツの片側の半面、血管はミリ、食道は1センチから。もうちょい大きゅうなってたら好きモンの奴らからそらあボロ儲けに取れてたんやけどなあ……なあ、肋骨一本がなんぼすると思う?ガキすぎて覚えてへんけどなそら結構な数ないないしたんよ、損したなあお前も……人殺したかったら上刺せばええねん。ま、もういらんことやったなあ。ああ、内臓は取り出したら多い時はひと月分買えた、その最後に売っぱらったのんが貴様の刺したほうの腎臓よ、解ったけ?ほな死ねや」
後頭部が動いて、なにをしているのかと思えば尖らせた舌先がぬろ、と顎先からこめかみへ動かされている。そうして座ったままチュウエンがナイフに手をかけた瞬間肩に力が加わった。背後からあいつ、と呻く声がして、粘着質な肉と血の音が散った。
「あーいっったいわクソ……へへ、お客さんおるからいうてカッコつけるもんとちゃうな!」
中腰の姿勢になって傷口をするすると撫でながらこちらに焦点を合わせたチュウエンの目が悪戯をやり遂げた子供のように弧を描く。
トキが、縫いに行くか?と感情を抑えた声で言った。
「んー、今回はいけそう。それに自分でも縫えるしな。前にも言うたやん、自分の顔縫った奴にええ糸教えてもろたって。最近見ぃひんけどどこ行ったんやろ」
「今頃パクられてんじゃねえのか」
話を聞いていた三波がこちらを伺うように見ていたので俺も目を合わせてから俯いた。ここは、そういう場所だ。
「そぉかなあ、俺の名前出されたらどうしよ」
「お前、その日は誰だったんだ」
「ん?あーシンゼイかジツエやな」
三波が詳しいなと呟いた。
「おお?別に暗記しとるだけやで」
「そうなの?っていうかなんで空海なんだ?」
「……一番知っとる坊さんやったから」
吹き出した三波が藤風さんから貰った煙草を咥えると、これ線香の味する、と言った。
「すげえな、そこまで中身ねえと関心するぜ。空海かあ……ガキの頃寺にいたからさ、そういうの染み付いてんだよなぁ嫌いじゃなかったし」
「へー三波くん寺の子なん?」
「まあ捨てられてたんだけどな」
三波が言って数拍置いてチュウエンは自ら道化の役に回った。
「おおう、重たあい。なんか俺が悪いみたいやんけやだ〜」
脚をくねくねとさせながら三波の首や腕を何度も突く手は三分は止まらなかった。
「いいよ別に気にしてねえし」
「ほんまに?信じていい?自分がせやったからさ、俺ほんまそういうの苦手やねん勝手に気遣われたりとか」
「ほんと信じていいって、スラムも上の人間も天地にあればみな平等とか言ってさ、離れに骨転がして纏めて供養するようなじじいだったんだぜ?それに捨てるみたいにして出てきたの僕だし」
自慢でもしたようにやたら晴れやかに笑う男にチュウエンはへぇと素直に感嘆した。
「それはそれで興味湧くんやけど、パンクな坊さんやってんなあ三波くんが出来上がるのもなんか解るわ」
地面に落ちたまま荒く呼吸をするチュウエンに足首を掴まれた三波がこちらを向くと、そういや今日どこに泊まんだっけ、と言った。
「こいつらのとこに泊まんだよ。今夜が最後だな」
告げれば男はしばらく考えていたように上を見ていた。
「あー……俺無理かもやから三波くん漕いでな〜俺も多分漕げるけど死ぬかもしれへん」
這いつくばったチュウエンに肩を貸して立ち上がろうたした三波が興奮したように声を上げる。
「チュウエン軽すぎじゃねえ!?僕腰やりそうになったんだけど!」
「やだ〜三波くん俺の体重聞くん〜?なんぼやろな、45?くらいか?」
「45!?ちゃんと食ってんのかよ!」
「やって中身あらへんもんしゃーない!」
転がったまま押さえていた手をそっと離して、あ、いける、と呟いた。
「ちょっ、あっ無理やっぱあかん誰か腕貸してあかんまた開くいったたたた」
「えーそんな深かったの?」
二人乗りの姿勢のまま三波が後ろ手に傷口を雑に撫でた。サドルがギィと鳴いた。
「おぎゃー!?三波くんなにしてんの?おい、おい痛いって殺すぞ!」
「はあー?やるかガリガリ!」
「クッソ犬……あー待って今は無理今はあかん、三波くん漕いで……」
トキが声を低くしたのは組の門の前に差し掛かる途中だった。
「起きろノブヤ、帰るぞ」
「ちょっと待って……あーやっぱムカついてきたな。あーあ……」
溜息とともに三波の肩を掴んだ薄い掌が動いてそのまま地面に転がり落ちた。まともに胃を抉った膝を払いながらチュウエンが立ち上がる。
「三波くん、なんでさっき触ったん。俺、痛いやんか。見たら解るやろ?解らん?犬ってそんなアホやったっけ」
やっていたのが俺になら確実に食って掛かる三波は、目を白黒させたまま地面に耳を当てた姿勢で胃液を吐き戻しながら呻いていた。光る粘液が夜を深めようとする。
「ごめんな、俺中身あらへんねん、空っぽやねん、やからお前が死んだかてどうにもならんよな、多分お前にも意味ないんやな……ごめんな」
途中から本筋からズレた独り言をチュウエンはぶつぶつと弱い声と吐息を吐き出している。
「ノブヤもう帰るぞ」
「トキちゃん、でもこいつ」
「頭のいる前でもこんなことするつもりだったのか?」
叱られていることが解らない子供のようにトキを見上げる男はぎょっとするくらいあどけなかった。
「なんで?能見さんやったら喜ぶのに」
「バカだなお前は。帰ろうチュウエン、能見さんは今いないだろ?ちゃんと見たのか?」
「ん」
言われたことに従う素直さと相づちの幼さがいっそう不気味さを引き立てる。
「目蓋の裏は?」
「見る」
「どうだ?」
意図の解らない質問を繰り返しトキが発する。チュウエンはそれに何度も頷いた?
「おらん……おれどおなるん?」
「しょうもないこと気にするなよ。すぐ死ぬさ」
「おれが?……まだいやや」
チュウエンは子供がぐずるように首を振った、それは男の見た目と相俟って本当に奇妙だ。
「能見さんが見ててくれるんだろ?」
「死にたくない、おれまだもうちょっと」
「能見さんいるんだろう、そっちには」
「おらん、おらんよまだおらんから待って」
トキの袖に縋りついたチュウエンが数秒の後に地面にゆらりと落ちた。
「……はよ帰ってこい」
呟きを落としたままトキは顔を上げなかった。
「言いたかったら全部言え、どうせ聞いてない」
「どういうことなんだ」
「こいつはな、能見が拾ってきた奴なんだ。それで俺らはただの幼馴染」
「スラムの生まれじゃないのか……それに乃美ってあんたらのだろ」
下を向いたまま笑ったトキが肩を揺らしてから顔をあげるとこちらをじっと見据えた。
「それはどっちも失礼だなあ、ゴミ野郎の先代なんかとあの人を一緒にするな。俺が久しぶりに会った時が一番酷かったよ。能見のおもちゃだ。スラムでも捌けねえクソみてえなシャブ漬けにされてそれどころか内臓まで売られてこいつどうなっちまうんだって……興味が湧いた」
「……どっちも頭沸いてやがんのか」
「俺はまだ普通なつもりなんだがな」
「それで、どうするつもりだ」
俺の投げた言葉を受けて、男は姿勢を崩さずきれいに歩いて門の角をぱしりと叩いた。
「帰るだけだよ、ここをくぐれば全部済む。あんたの相方はもう大丈夫だろ」
言われて見やれば転がったままの指先が動いて形を作った。クソがと言いたいらしい。
「いつから起きてた」
「トキが、チュウエンに話しかけてた辺りで、もう動けた」
起きてこいよ、と顔をしかめた俺に察した三波が慌てて声を上げる。
「だって僕起きていける空気じゃなかっただろ!それに面白い話聞けそうだったじゃねーかよ!」
「お前は本当に……カス野郎」
「なんでてめーが笑ってんだよ!」
俺達を交互に見てからはじめて声を出して笑ったトキが何故か憑き物が落ちたような顔をしていた。
「あんた、その犬大事にしてやれよ。俺なら見逃すとこだった。はあ、しょーもね」
貸されていた布団を軽く畳んで、夜の内にまとめていた荷物を持った。空はまだ薄ら明かりが線を引いたようにあるだけで、おそらく4時を回ったくらいなのだろう。部屋に時計はなかった。腕時計がどうしてか嫌いで、だから周りと違って俺はつけていない。
扉を開けて、壁に持たれて寝ているのかと思い一歩進めようとすると大げさなほど飛び起きた三波に目を細めてみれば、そいつは片目をぐりぐりと擦った。
「わりぃ、また会えるかとか解かんねえからな、ここで飲み会したんだよ。んでチュウエンって僕と似てるから話盛り上がっちゃってさ……」
「別に、仕事出来るんならいい」
「うん、つぅか今日で終わりか」
駄々を捏ねる予感を汲み取って、居残りしたら俺が組長に頼んで破門にしてやる、と先手を打てば三波は小さくあくびをした。
高架下に並べられた薬の中でも最悪に最低のついたものをやるんじゃないかと目をつけていたじじいが腕を震わせて受け取ると、ひと目も憚らずすぐに封を切った。今にも飛び出しかねない三波をどうにか制する。
「あーー!だからあんな売人とのやり取りやめときゃよかったのにどうすんだよクソッ」
「どうもねえよ、切り上げだ」
「なんなんだよここまで来てパーじゃねえかよお!」
脚を蹴り上げた時に体制を崩した三波は地面に転がってなお喚いていた。よっぽど悔しいらしい。数日とはいえ汗水たらして働いたその儲けがどこの誰ともしれないドヤ住まいの得体のしれないじじいによって消し飛んだのだと考えたらそうしたくなる気がしないでもなかった。ただ俺は荒坂さんと組んでいた時にそんなことに慣れすぎてしまったから、今更喚く気にもならなかった。それもだいたい上司である人がやってられるかと荒らしに行ったのだから本当によく解らない。
「クッソがよ〜……もういいや今日の残り遊んじまおうぜ、お前も付き合えよな」
「……女なら断るぞ。飯場で酷いのを見たからな、とても気分じゃない」
「はっ、こんなとこで女買うならさっさと帰ってたちんぼでもしてやるよ」
「先にお巡りさんが来ねえことを祈るよ」
まだ座ったままの男のほうへ視線をやれば、ふと小さな頭部の持ち主なことに気がついた。フリーハンドで描いた丸のように、少しいびつで、きれいな真円では決してないけれど。
「僕の手練舐めんなよ?その辺のポリ公なんざ買収くらいチョロいもんよ」
「それであの三ツ冨か天河の世話になるつもりか?とんだ災難だな」
「あー、そっか。アマさんはともかくミツくんに賄賂は効かねえだろうしなあ」
その後の記憶はもうあまりない。ただ、これまで忘れていた分をずっと笑っていたような気がしている。
床に転がした頭をごろごろと動かして、男はちょうどいい位置を探っている。水で溶いたようなオレンジの燈が床に落ちている。
「しょうがねえな、新山は生きるのまだ慣れてねえもんな」
「どういうことだよ」
かろうじて引っ掛かっていた裸足がソファから落ちた。床に落とされた指先がゆるゆると開かれる。
「さあ、でも僕に言われるってのがそういうことじゃねえか」
「……そうか、じゃあ俺には解らないな」
ようやく包帯の取れた頭が軽い。受け入れられないままでいる傷を認めてしまうようで習慣で伸ばしかけた手を息で区切って止めた。
「やっぱ目立つなあその傷、跡も残りそうだし」
「ようやく俺にも箔がつくな」
「いらねえだろそんなもん」
吐いて捨てるように言葉を投げて幼く笑った男の顔は6月の晴れ間に似合わない軽やかさを持っていて躊躇いのないそれに感情がひどく軋むのを感じた。首を傾けて目を伏せてようやく泣きたかったのだと気がついた頃には波は穏やかに遠ざかっていて、溜まりすぎた膿がまた深くなるのを胸に聞いていた。
藤風さんの葬式は3ヶ月毎に書き直しがされていた遺書の一番新しいものに従って盛大に行われた。さながら祭りのような葬儀で、木魚に代わってどこから持ってきたのか太鼓が置かれ何度も叩かれた。焼香を済ませた若頭が手を動かして俺達を呼んだ。
「あいつ目の下黒いだろ、あれ俺がやったんだ。大学の入学式の後ちょっとうろついて、帰るかって時に階段落ちかけてかばわれてなタツの野郎、思いっきり顔から落ちてさ。あいつがだぞ?笑っちまったよ……そういえばあいつ、よくお前らにはなにかと理由つけてやってたけど俺はなにも貰えなかったな。今気付いた……はあ、生きてりゃ殴ってやったのに」
言葉が出てこず視線を落とすと指に挟んだ煙草の灰がフィルターのすぐそこまで伸びていた。
潰れ損なった街から出る時、ブルーシートを隔てて川で溺れたホームレスが噎せながら昨日往来で警官に殴りかかっていたチンピラ崩れに背を蹴られていた。どうして死ななかったんだ、といった内容のことをずっと喚かれている。それを三波が見たのかどうかなんて、俺には知りようもないけれど。
「なあ僕らはさ、どっちなんだろうな。この力を使うのかそれとも」
「選べばいいだろ、そう出来るよお前は」
ふと立ち止まった男に振り返れば、強い一対の目があった。睨み付けられたら火をあげることも叶わず、焦げてしまいそうな魂をそのまま映し出したような燐の火。
「新山のそういうとこさ僕ほんと気に入らねえよ、自分が選べないみたいに言いやがって、偉そうなんだよ、お前だって僕と一緒だろうがよ」
押し込められた声に滴るような感情が纏わっていて、きっと食ってかかりたいのだろうなと解る苛々と揺らされた脚が落とした舌打ちを飛ばすように宙を蹴った。
「てめえ置いて帰るくらい簡単なんだよ、なんでそうしねえかだろ、お前だって……そうじゃねえのかよ」
声に振り返ることはしなかった。そうしたところでなにも変わらないし、変えられない予感だけが強くあった。
おしいただいたものすべてを傷つけるような生き方を歩いてきたくせに、図々しくも今さら救われたいだなんて、それでも願ってしまう。いつか救いがあるのなら、あの日から背負うと決めたものごと連れていってほしい、と。それなのにあの日の目がまだこびりついて、なあ邪魔をするなよ、もういいだろう……いいだろ。
病棟の重い扉を開けると顔をあげた看護師が笑顔を作った。
「今回は早いですね新山さん。土日になにか用事あるんですか?」
「いえ、上司から有給を消化しろと言われましてね。同居してる奴と近くまで来たのでついでに寄っただけです」
書き終えた書類を渡してボールペンを直した。しんとした空白にプラスチックの軽い音が響く。
「来たぞ。なあ、せっかく窓際なんだからカーテンくらい開けたらどうだ。看護師に頼めばしてくれるだろう。声が出ないのか?」
20秒の間を置いて、枯れ葉のような音が鳴ってそれは聞き入る時間もなく柔らかいものたちに吸い込まれた。
「なんだ話せるんじゃないか。じゃあ前来た時の続きを話すよ。俺は今駅の近くにある中くらいの会社で働いてる。毎日それなりに忙しくしているよ。みんないい人でな、俺みたいな奴からすればありがたい限りさ。それに帰りを待ってくれている犬もいるんだ、たまに抜け出したりはするけどなかなかいいやつでね。餌代は馬鹿にならないけど、こっちもそれだけ作りがいもある。ただ……年齢のわりに少しやんちゃなんだ。外泊が出来るようになればあんたさえよければ見に来ればいい。俺の家も、暮らしも、だらけた生活も、全部見ていい。でも口出しはするな。俺はあの城を自分で作ったんだ。見ることだけがあんたに許されたことだ。母さんの務めがそうであるように、これが俺からの最後の願いだよ」
濃く黒ずんで分厚くなった爪の先を指で擦る。深く皺の刻まれた掌を記憶するように眺めてから握った。ビニールの膜が張ったような、日に晒されたゴムのような、人よりも死人に近い手触りだった。立ち上がると硫黄と皮脂ときつい消毒液の匂いがした。
病棟を出るとエレベーター近くの壁にもたれて文庫本を捲る三波がいた。それは30分前に面会に行くと言った時と同じ姿勢をしていて、変わらないもの、もしくは変われないものたちの美しさを突き付けられたように思った。
「新山さあ、遅くないか。あ?なんだよ泣いてんのか珍しいな。見せてきてやれよ、喜ぶんじゃねえの」
「うるせえな出来るかよみっともねえ」
「じゃあさっさと帰ろうぜ。飯作ってくれ。参考書買ったからさ、はやく見てえんだ」
背中を叩いて肩に回された腕を深く受け入れてしまえば二度と走れなくなるのを俺もこいつも長過ぎた年月の中で気づいてしまっていたから、やわらかく触れて歩くたびに離れるものの温かさをいつまでも俺は直視出来ないままでそれがとても苦しくて心を抉る。ずっとそうだった。
「おい歩けるか?背負ってやろうか?」
「出来るわけねえだろ」
「大丈夫だって、結構前だけど義足つけたカズト背負って走ったことあるんだぜ」
隣を盗み見ると前を見たままで懐かしむように口角を上げるのが見えた。いくつかの整髪料が混ざった、爽やかで場違いな匂いがする。
「ま、たまにはゆっくり歩こうや。気分じゃねえかも知らねえけどよ僕がそういう気分だからな」
俺たちに巡るような明日はなくていい。なくていいんだ。来た道を戻りきってしまうまで、俺は最後まで後ろを振り返らなかった。




