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ヘッドウォッシュ

足音の近づく気配があって、数歩のあとにノックの音が聞こえた。棚を掴んで立ち上がって杖を取って扉の鍵を開けた。ドアノブが回されて入ってきたのは見知った先輩たちやその先生方でもなく、本当に知らない人だった。

「えーっと、お前は……カズヤだっけ」

「いや、カズトです……」

いきなり名前を間違えられたことに拍子抜けしてしまって萎縮していた身体が少しだけ軽くなった。

「そっか、カズトか。足切って動けねえから部屋住みに降格したのお前か」

無遠慮すぎる物言いにむっとしたくなるのを堪えて苦笑いをすると男は幼く笑った。

「おれここに来るまでずっと引きこもりでさ、身体とかまじ舐めてんのってくらいなまってっから事務所にいるしかねえんだ。おかげでアニキにすら見放されそうだよ」

ため息混じりにそう言われても返す言葉のなかったオレは曖昧に頷くしか出来なかった。

「つうわけで同じ部屋住み同士仲良くしようぜ。お前は期限付きだけどな。おれがカズトのこと気に入ったら骨折ってでも居着いてもらうからな」

派手なナイロンジャケットの襟を直しながらそいつはニッと歯を見せた。

「さっそくで悪いけど外行くぞ。顔見せに行かねえとなんだ」

そう言うと玄関へ向かった彼は立て掛けてあった傘を取った。振り向いた廊下にはリビングの窓からの日がさしている。

「雨降ってねえよ?」

「いいだろうが別に、それにこれ日傘なんだ」

「オレ足着けないとだからちょっと待ってて」

そう言うと男は頷いてさっさと扉を閉めた。なんなんだろうと思ったけれど毎日事務所の掃除をしてたまに出くわすやもりと話す一週間が変わるならそれもいいのかもしれない。先輩二人は長い調査に出ていて最後に話したのはいつだっただろう。簡易の包帯を外してライナーを被せソケットを着けてめくりあげた裾を戻す。最初は看護師さんが笑いを堪えるあまりとんでもない顔になっていたのに今では3分もしないうちに付けられるようになったのだから慣れは怖いと思う。靴を履いて出れば飴の包み紙を剥していた人がゆるりとこちらを向いて大きな目を細めた。

「へえ、案外解かんねえもんなんだな」

「そりゃ丸ごと隠れてるからね」

「そっか。気が向いたら見せてくれよ」

「それどんな気の向き方?」


開かれるまでは無地のシンプルなものだと思っていたけれど、内側には様々な柄の上から原色のカラフルなセロハンを何枚も貼り付けたようなプリントがされていた。透けて見えるそれらはどれとも海外のものと思われる道路標識や新聞紙の単語の切り抜き、古い車のナンバープレートの一部や外れたパソコンのdeleteキー、ヒビの入ったカーブミラーやなにかが書かれているものの上から殴り書かれたような短いギリシャ語といったものが乱雑とまではいかない散らかり具合で配置され、中央に向かって濃いピンクのセロハンで纏められていた。形も相まって、それはなんだかCD本体にプリントされているような印象を受けた。錆びた鉄板に型押しされた複数の数字の意味を聞くと、イギリスのフリーダイヤルの羅列、とだけ返ってきた。


細長い商店街の狭い十字路の赤信号に捕まって立ち止まっていたオレの背中を叩いた男が右側のこじんまりとしたのれんに向けて顎をしゃくった。まばらに進みだした人を抜けて扉を開ける背を追った。

「ばあちゃん、来たぜ。なんだよまたちょっと痩せたんじゃねえのか?先輩たちは忙しそうだから中々来れないみたいだけど、ここの飯食った人はほとんどあんたのこと心配してるぜ。変な薬でも入ってんのかってくらいだ」

「入ってるとしたら変な薬やのうてただのダシよ。私から見たらあんたらは組長も含めて子供みたいなもんじゃ。あんたはいつものか?あと後ろのえらいノッポの兄ちゃんは新入り?」

「鋭いねばあちゃん。新入りじゃねえけど帰ってきたばっかでさ、こいつは期間限定のおれの舎弟だよ。カズトって言うんだ」

「そんなとこ立ってないで入ってきなさいな。兄ちゃんより先に虫が入ってくるわ。それにあんた背高いから隠れてもうて顔半分も見えてないんよ」

はい、と小さく声をこぼして入った店内は年季の入ったカウンターと白いビニール製のクロスが掛けられた四人用のテーブル席が二つあるだけで机はどれも後から床に無理やり固定されている。有線はともかくラジカセやテレビも置いておらずベニヤ板を塗って釘が打たれただけの手作りの棚にはスポーツ新聞と地方紙、婦人向け雑誌が数冊と大きなクリアファイルに元は小さい切り抜きかなにかを大きく印刷したのだろう紙が覗いていた。ひとつ昔の時代のこの町がどうだったかなんて、オレには想像もつかないけれどオレたちのような人間に懐かれているのはそういう事なのかもしれない。ダイヤル式のガスストーブの上でへこんだやかんが低い音を立てている。思い出したふりで隣を見ると旧式の冷蔵庫の上に乗せられた扇風機が首を痛めそうな格好で夏を待っていた。

「なあお前なに食うの?ああ、おれいつもので」

椅子を引きながら老婆に手を上げた男が机に置いたものにオレははっとした。それはさっきの分厚いファイルだった。

「おれさ、ここ来たら絶対これ見るんだ。おれらが出入りするようになってからこの店噂立って人が来なくなったんだって」

「それってこれと関係あるの?」

「こいつ、ばあちゃんが作ってくれてるんだ。一番裏から6ページ目のところ、ここに来た人の組と日にちが書いてある。でもそれ以上は書かないし来てこれを手にした奴には断らずに見せるのが約束……刺されたアニキはさ、ここでばあちゃんに看取られた。そんなことをもう30年かな、してるんだって言ってた」

言い終わる頃に差し出されたファイルには3枚の写真があった。二つは頬の辺りに血が付着した細面の男のアップと引きの写真だった。腹に大きく食らったようでその辺りからの出血が酷かった。もう1枚は生前の頃のもののようで死体では比較にはならないだろうけれど少し若く目尻側がかなり薄いつり眉と下まぶた全体に、特に黒目の下が一際濃くなっている隈と少し位置の高い頬骨があってやや崩れて額に落ちている撫でつけられた黒い髪と涼しげに細められた目で顔全体が鋭利に冷たく主張しているように見えた。

「藤風辰三っていうんだ、この人」

「待ってよ、お前さっきアニキに見放されるって……」

「そう、相手は掴めそうなのに仇も取れねえで死んだアニキにも見放されちまいそうだよ」

「……あのさ、ここのおすすめってある?」

重い空気に耐えられなくなって少し場違いな声を出したオレに目を丸くしてから小さく吹き出した男が手を上げて合図を送った。

「ばあちゃん!鶏なんばんそばひとつお願い!」

「はいはい、あんたの分はもうすぐ出来るけどどうするの」

「いつもみたいにちょっと冷ましてよ、猫舌だからさ」

にこやかにやり取りをしていた青年の顔がこちらを向く間に険しいものに変わる。レモンの香りがするグラスの水を飲むと男は、組長がまだ若頭補佐だった頃の話なんだけど、と切り出した。

「デカい抗争があったんだって。この商店街も丸ごと戦場になったって聞いた。組長が後ろから撃たれて若い奴らが相手を押さえ込んでる間に扉に寄り掛かった組長をばあちゃんがとっさに引き入れたらしい。まあ、匿ったんだと。そこからいわゆる脛に傷持つ奴らが出入りするようになったって」

男が話を切り上げた頃に丁度よく老婆が盆を運んでくるところだった。

「若いもんがなに言うとんの。おかげでうちはやくざからお金もらえて前より儲かっとるくらいよ。こうやって元気か、て見回りにきて近場で火事や地震あったら飛んできてくれるのもあんたらみたいな人ばっかり。警察に電話して話とる間にあんたらが来てくれる。法で守ってもらわれん私みたいなもんは法をすり抜けられる人らに助けてもらうしかないんよ」

そう話しながら老婆がオレの前になんばんそば、男には丼物を置いた。

「なあばあちゃん、この机前からこんな固定してたっけか」

「しとったよ。喧嘩っ早い人ばっかり来るからね、備品代は馬鹿にならんから」

そっか、と笑った男が手を合わせてからどんぶりを勢いよく食べだした。湯気の上がるそばは関西風の底が透けて見える薄い色合いの汁をしていて、だしのいい香りがした。


レジで代金を支払った男が懐から出した茶封筒をカウンターに置いて奥に滑らせた。骨と血管の形に凹んだ老人特有の色をした手がそれを下にしまった。慣れた手つきだった。

「じゃあなばあちゃん、また見にくるからよ」

軽快に笑って背を向けながら手をひらひらとさせた男を老婆は暗い感情を取り繕ったような微笑で見送っていた。


もうすぐに商店街を抜けるところで角の錆びた四角い、白いポストのようなものがあって近づくとそれはコンドームの自販機だった。自分が立っている横を見ると少し割れたプラスチックの看板からフィラメントの切れた電球が覗いている。ガラス張りの店先に置かれた基礎化粧品はほとんどが昔のcmで見たもので、薄暗い店内は見える範囲に人はおらず寒々しい雰囲気がしていた。

「あんまり見んなよ、そこ違法滞在の外人に店丸ごと乗っ取られてさ、今じゃもうその仲間とプッシャーしか出入りしてねえから」

振り返った男は眉間に皺を寄せたまま、帰るぞ、と言った。



今日の夕食の当番は両足の指をいくつか切られて療養中の園さんという体格のいい、やや小太りの40代だった。韓国から渡ってきた両親が郷里の祖父母に顔を見せたいと最短距離で辿り着けることだけが売りの違法運行の船に乗って、両親を含めた乗客のほとんどは嵐に揉まれて冷たい海に沈んでいったという話を周りからはよく聞いた。たまたま通りかかった漁船に助けられた園さんは最後に両親から渡されたビザを見せたが、漁師たちは笑って、こりゃあ偽物やけ入れやせんちゃ、と園さんの肩を叩いたらしい。どうしてここに来たのか園さんは話さなかったが、なんでも撃たれた傷が塞がらない内に見回りを再開した若い頃の組長の声かけでだったそうだ。今でも組長に声をかけられてここに来た人は少なくないらしく、新山さんもその一人だと聞いた。

「まじかよー、園さんなんでも辛くするし基本熱いからさ、口の中痛くてうまいとかじゃねえんだよな」

「わかる。冷めるとまだうまいけど辛いのがね」

厨房から声がして、顔を出した園さんは、鍋敷きあるか、と言いながら鍋を運んできた。湯気を吸うだけで喉から肺が少し痛いそれを見て、彼は気まずそう赤い鍋を睨みながら口を固く結んでいた。


しこたま水を飲んでも引かない熱さに収縮する胃を押さえながらオレはくたばった男を半ば引き摺って自分の部屋へと帰った。ふと芽生えた悪戯心で寝室のサイドテーブルからあるものを掴みだした。呻いた身体が急に起き上がって、部屋をきょろきょろと見渡したあと机の上に置かれた紙の上の粉末をしかめ面で見ていた男が口を開いた。

「お前さあ、これシャブか?」

「さあな、飲んでみれば解るんじゃない?」

少しの間動かずに睨み付けていたけれど、やがておずおずと手を伸ばして掴んだ紙を口に当てるとオレの叫びも聞かずに一気に滑らせた。粉の軽い音がする。男は背を丸めて咽た。

「あのさあ……!これ絶対ラムネだろうがてめえふざけんなよ!」

「すげえ、騙されたのこれで2人目だよ!」

ちゃんと用意してたのによ、と注射器を見せれば頭を叩かれた。

「舐めんなよてめえ!そんなもんただの点滴じゃねえか!」

「栄養偏ってそうなお前にはちょうどいいだろ?」

ひとしきり笑ってからオレはずっと引っかかっていたことを聞いた。

「お前はさ、どうやってここに入ったの?引きこもりだったんだろ?」

「えぇ、詳しく話すのやだなあ」

ホステスでも言わないような台詞を軽いトーンで投げると彼は飴を取り出した。

「ごめんごめん、話してくれたら何でも買ってやろうと思ってたんだけど」

そう返せばこちらを向いた真顔が悪い顔に変わってすっとオレの手を握りこんだ。外された手のひらには飴が転がっていた。

「いつからだっけな。確か中1の秋に死のうとして、それからだ。寝て起きて部屋で飯食って外に出るのは便所と風呂だけ。最後のほうは夕刊取りには必ず行くようになったけど、そこまでも長かったなあ。自分の部屋の扉まで怖かったくらいだからさ、中3くらいまでは玄関とか見るだけでえずいてたからね」

「そっか……」

「18の時に引きこもりばっかり集めて生活させる施設?みたいなとこに連れて行かれて、そこから親とは会ってない。ま、あの人らにしてもいい厄介払いだったんじゃないか?」

包装を開いて、少し大きく見えるひと粒を口に入れたると下の歯に当たって音をたてた。

「兄弟はいなかったの?」

「ああ、1個下の弟が1人。静かな奴で本と映画が好きだった。おれが漫画読むかって渡しに行ったら絶対そのままついてきておれの部屋で床に座って読むんだ。それをベッドに座って眺めてたの覚えてる」

腕を後ろに伸ばして手をつくと天井が見えた。振り切ったはずの記憶を受け入れたらオレはどうなるのだろう。

「へえ、オレも姉ちゃんがゲームしてるのよく覗き込んでてさ、死んだら毎回しばかれてた」

「……それでも、弟だけはたまに部屋に入ってきてたんだ。別になんにもしねえんだけどただずっと座って、気が向いたら少しだけ話して。空気が軽くなるってああいうことなのかな。ひとりで部屋にいると、重量が重くなったみたいな気がするんだ」

「オレも姉ちゃん死んでからここに来るまでそうだったかも」

「最後に話したのはおれが18の誕生日だった。ドライフラワーくれたんだ。これなら手入れもいらねえし、ずっとここにあってくれるからって。多分だけど親の話聞いてたのかな。泣きそうな顔してた。あんな顔ガキの頃にしか見たっきりだったけど、おれが見れなかったところじゃもっとしてたのかな」

男はなんでもないことを話すようにしていた。目尻が少し赤らんで見えたけど、そこに意味を持たせていいのは彼だけのようだから何も言わなかった。

「……施設はどうだったの」

「ん?そりゃ酷かったよ。トップどころか団体が丸ごとやくざでさ、なんだよここは中世か?ってくらいの重労働」

「え?いやうちはそんなビジネスは嫌っててやらないはずで」

「うん知ってる。だってそこ潰しておれのこと拾ってくれたのここだからな」

そこまできてようやく顔を合わせた男がニッと笑った。

「……今更なんだけど、名前聞いていい?」

「笹槻美雷。変な名前だろ」

教えられた文字をもう一度心の奥で繰り返して誰に見せるでもなくオレも笑った。

「いい名前だと思うよ。オレなんか苗字ねえんだもん」



掃除を終えて戻ると、事務所のソファに深くかけた笹槻が表紙の大半が破れたボロボロの雑誌を捲っていた。僅かに残った部分には太ももを露わにした女性と思わしき人物が写っている。隣に座って覗き込もうとすると雑誌に目を落としたまま笹槻が呟いた。

「お前も読むか?これアニキの形見なんだよ」

笹槻がページを摘んでひらひらと揺らした。破れ目の入ったところが風で踊る。いらないと言えば笹槻は大げさにため息をついて雑誌を閉じると机に放った。

「しかし呆気なかったなあ。かっこよく死ねるなんて幻想なんだな。おまけに最後に貰ったもんがこんな汚えビニ本だなんてよ、かっこつかねえにもほどがあるだろ」

そう言って上を向くと片手でがしがしと頭を掻いた。金と黒の混じった髪が少し崩れる。

「変わった染め方だけどどうやったのそれ」

「これ?アニキにやられたんだ」

言葉とは裏腹に嬉しそうな顔で笹槻は言った。

「ビニール袋持っていきなり入ってきてさ、ブリーチ剤の箱何個も床に転がして、美雷は髪染めたほうがもっとかっこよくなるぜって、見たことないくらい笑ってた。そっから3時間ぶっ通しだよ。その日はもう疲れて寝て、朝に鏡見てびっくりした」

「気に入られてたんだね」

「どうかな、聞いとけばよかった」

笹槻の前に置かれた水を指して飲んでいいか聞けば、勝手にどうぞ、と返ってきたので一息に飲み干した。

「お前ずっと長袖だけど暑くねえの?寒いからって暖房効きすぎだろ。オレ上着なんか着てらんねえや」

「あーおれこっちに墨入ってっからさ」

そういって今日も派手な上着を脱いで手首辺りまで落ちているこちらはシンプルかゆるい開襟シャツの袖を肩まで捲ると黒と灰で統一された絵があった。蛇を中心に蓮やロックスター、能面、さりげなくだがレタリングもあった。それらは肩から丁度七分袖くらいの長さで数珠止めがされていた。いわゆる和彫りは少なく、なんだかやくざというよりかはそこらの兄ちゃんといったイメージだった。

「葬儀終わってからアニキの入れてたやつそのまま入れたんだ。服とかもいつも気を遣っててすげえおしゃれな人だった」

「笹槻もじゅうぶんおしゃれだと思うけど」

それを受けて彼は、アニキ譲りだよ、と明るい顔をした。



通されたリビングの壁には布が張られ見慣れない形の刃物が剥き出しの状態でいくつも引っ掛けられ、長さのある傘や杖は立て掛けられていた。玄関に傘立てはあったのに分けられているのは、つまりそういう事なんだろう。

「これ笹槻の武器?でもお前部屋住みならこんなに使わなくない?」

「おれだってたまには戦いに出たりすんだよぶん殴るぞ。ま、半分は趣味もあるんだけど」

「はは、さっきまでコンビニに買い出し行ってたのにな」

「それはお前もだろうが」

笑った笹槻が上着から煙草を取り出した。見慣れないパッケージだった。

「これアニキが吸ってたやつでさ、デカい店まで買いに行かねえとだからちょっとやだったな。たまにだけどずっと前に廃盤になってるやつの名前言われてさ、おれそんなの解かんねえから店で恥かいてたよ。そんで怒って帰ったら体力作りと勉強になったなって笑ってんの」

ふうん、と返事ともつかないものを返してオレは布を指をさした。

「ねえあの壁に掛かってるやつってなんていうの?」

「ああ、ククリか?」

聞き慣れない名前を復唱すると笹槻は立ち上がってぶら下げられたものをひとつ外した。

「理屈より見たほうが早えだろ。せっかく実物あるんだし」

渡されたものは幅広でぶ厚くずしりとした重みがあった。くの字に曲がった刀身は通常の刀とは違い内側に刃を持つものだった。

「引きこもってた時に漫画で見た逆刃刀みたいでいいなって思ったんだ。普通の刀と違って幅広でナイフみたいなところもだけど」

語られた理由に少し笑いそうになりながらククリをひっくり返すと片面にはなかった民族を思わせる紋様が刀身一面に刻まれていた。片面だけでは気がつかなかったけれど、よく見るとこのククリは相当使い込まれているらしく繊細な彫刻は溝こそ消えてはいないが指先でなぞると凹凸が目立つほどすり減っていた。

「あっバカお前触ってんじゃねえよ、指紋つくだろうが」

突然声をあげた笹槻にククリを取り落としそうになりながら慌てて机へ置いた、

「ごめんって、きれいだったからさ。なあ他のもこんな装飾されてんの?」

「ん?彫ってあるのはそれだけ。あとのはおれが家にいた頃自分で買ったやつと先輩に組に入った祝いに連れてって貰った武器屋のやつ」

「じゃあこれは?」

蛍光灯の光の受けて反射をさまざまに捉えて鈍く光るそれは儀式に使われそうなものに見えた。

「それはな、アニキがネパールの中心部に行った時におれに買ってきてくれたんだ」

「……?どういうこと?」

目を細めて遠くを見るようにしながら飴の包みを剥して口へ入れた。

「仕事だったんだよ。確かヤクだったかな。見たことない薬もあった、ヘロインもあったけど色が変わっててさ、アニキに聞いたらこれはアフガニスタンの生まれだから間違っても手出すなよって言われたなあ。ヤクの整理が終わって帰ろうとしたら、寂しく留守番しててくれた美雷ちゃんに特別な土産があるからついてこいって。ふふ、舐めやがって」

「その時に貰ったのがこれ?」

「ああ、安っぽいベロアが貼ってある、指輪が入ってる箱があるだろ?あれを横に長くした感じの。それをアニキがゆっくり開けてさ、どうですか美雷さん、あなたの好きなものを選んだつもりなのですがお気に召しませんでしたか?って。ほんと笑ったよ。そのあとアニキはチャラス吸ってて、おれにもくれませんか?って聞いたらお前はまだガキだからこれでも読んでろって渡されたのがあのビニ本」

ふっと息をついた笹槻が細く呟いた。

「それから一週間後かな、アニキが棺に入ったの。時々思うんだ。ボタンの掛け違いひとつで運命が変わるならあの時無理言ってチャラス一緒に吸ってればよかったのかなって」



リハビリに見回りでも行ってこいと放り出されたオレと笹槻はあてもなく歩いていた。

車が5時間に一度走ればいいほうの一方通行の道の脇に停められた古い車があって、窓を開けた運転席からは垂らされた腕の先で煙草が燃えている。その横を通り過ぎようとした時、身体ごと窓から乗り出された頭がこちらを向いた。

「あらぁ?きみは確か三波さんの弟子の子やんな?足は良うなったんか?」

身を乗り出したままオレの手を掴むと大きく振ってから離してそいつは車から降りた。ベージュとカーキの間のような色のタイロッケンコートはベルトが留められておらず前が開いていて、薄いグレーのバンドカラーシャツの上に深いVネックにサングラスを引っ掛けた黒いショート丈のニットを着ていた。焦げ茶色の細身のテーパードパンツは裾が折られ細いソックスに覆われた足首がごろんとした革靴へと続いている。風ではためくコートをよそに片目に貼られたガーゼを押さえてその人は、どうも、と軽い会釈をして怪しく笑った。肩まで伸びた元は前下がりだったのだろうそれの、耳あたりからゆるいパーマがかけられた髪がゆれる。

「え……?いや、どちらさまでしょうか?」

「こら失礼、私は皿梨新聞で記者やっております井佐美いうもんで三波さんらの友達よ」

「井佐美さん……いやでもオレそんなの聞いたことないし……」

井佐美という人は小指で片耳を軽く掻きながら心底面倒そうに、あー、とこぼした。

「ああ見えて三波さんシャイやからなあ、私みたいなしょうもない輩紹介するん恥ずかしいんやろ」

「なあカズト、こいつ怪しすぎるだろ。帰ろうぜ」

「ちょ、待って待ってほんまに知り合いやわ!証拠もある!見せたるから!」

大げさに慌てて笹槻の手を掴むと、空いた手がガーゼを外そうとしていた。

車の中で見たものに、笹槻は黙り込んでいた。オレはというと途中で吐き気がして外に落ちそうになっていた。

「すまんすまん、気分転換でもしよか。ほらこれ、犬が犬と遊んでる写真」

差し出された写真を見て吹き出した笹槻のほうを見ると三波さんと新山さんが掴み合っている最中のものだった。タイミングなのか狙ったのか二人とも見たことのない顔をしていた。

「でもよお、こんなのどうやって撮ってんだ?」

「うん?まあ私は三波さんのファンですから……さて、これ以上は教えられへんなあ」

あ、と呟いた井佐美さんはなにかを思い出したのか外へ飛び出した。あとを追うと振り返った人は片手に重そうなカメラを持っていた。

「君らはポラロイドカメラって知っとるか?まあ実演したほうが早いわな、ほら撮るさかいこっち向け」

言われるままに向けられたレンズの方向を見ると何度か覗き込んだ井佐美さんがサングラスを取りながらこちらに近付いてきた。

「いやーどうせやし私も混ざったろ思てな。こいつ三波さんらに見せたれ」

灰に透ける丸いレンズの奥で弧を描く目元がオレたちを捉えている。長い腕を伸ばしてシャッターを切ると、少ししてから印刷された写真が出てきた。それをオレに渡すと、やっぱポラは人撮るのには向かんな、とだけ言うと車のある方向へ戻っていった。

どちらともなく、どうする、と呟いた。

顔をあげるととっくに走って行ったはずのさっき見た車が半ば狂気を帯びた速さでバックしてきていた。

「おい井佐美なにしてんだ!」

捕まりますよ!と空けられた窓にすがりつくと何故か驚いた顔をした井佐美さんがいた。

「いやあそういえば会社追い出されてるの思い出してな。帰られへんからお二人さんちょっと文具屋いかへん?そんな店ほとんどなくなったからな、久しぶりに見たいんや。ま、行ったことないとこやねんけどな」

急かされるままに乗せられた車に予想通り荒い運転で激しく揺られてようやく動かなくなった景色を狭い窓から覗くと古民家が大きなスーパーを挟んで並んでいた。奥の灯りが消えている店主の趣味が色濃い本屋とブロック塀とトタンに覆われた隙間で絵筆からペンキ用の刷毛などの修理を承る店先で白髪の多い男性がキセルをふかしている。

車からおりて井佐美さんについて行くと4歩も歩かない内に文具屋の看板が見えた。2階建てのこの町の割合からすると大きな店だった。

「ふうん、雑貨も一緒に売っとるんか。はっ、こんなしょーもないもんばっか置いとるから売れへんのじゃボケが。せやのに偉そうに万年筆やら絵筆やらケースに並べよって、どうせろくなもんちゃうわ」

棚に並べられたものをなぞるように視線を動かして、初めてくる店だというのに井佐美さんは皮肉めいた口ぶりを崩さなかった。さっさと2階へのぼった背を追うといつの間にか取り出された万年筆のペン先を比べるようにケースに仕舞われた万年筆へと重ねていた。

「へえ……二眼レフか。なんでここにあんねんな。売れへんやろこんなん」

午後のやわらかな日差しを受ける井佐美さんは首を傾げながらカメラをじっと眺めだした。

「なあおっちゃん、こいつブツは確かに高級品やけどほんまに写るんか?しかし60年くらいのもんにしたらえらいきれいやな」

駆け寄ってきた店主はニコニコとしながら商品の説明をはじめた。

「はい、そちらのお品はこの近くに住む写真を嗜まれる方がぜひこちらに展示をさせてほしいと申し込んで頂きまして、私どもとしても大変有難い話なのですがそれだけではということで数台を商品として置いているわけです」

「いやいや答えになってへんがな。きれいなんはまあ、その写真家が手入れしたんやろけど……中身はどないなっとるんやて聞いてんねん」

「失礼いたしました。こちらは製作者様が手が加えられておりまして、通常のフィルムカメラではどうしても現像の手間がかかるため内部を改造してその場で現像出来る仕様となっております」

ぞんざいな態度には目もくれず丁寧な説明をする店主は口ぶりの品が、なんとなく呉服屋から発展した静かなデパートの店員を思わせた。

「ふうん、物好きもおるんやなあ。これ写りはどんな感じなん?にじみがあったり全体的に深みっちゅうか……ちょっとねむたい感じの暖色が強い感じになるとか」

「はい、撮影したものを見せて頂いたのですが比較的見たものをそのまま写したような仕上がりになっておりました」

「あーほなチェキなんやな。なるほどなるほど。有難うな、よし、こいつ私にくれや」

5分ほど話をしていた井佐美さんは迷いなくレジに進むと財布を数回開いてから、ちょっと金おろしてくる、と言った。値段も見ずに買おうとしたことにオレと笹槻は顔を見合わせてぽかんとしていたら、カウンターから、お客様と声をあげて身を乗り出した女の人を制して軽く謝ると奴はとんでもないことを放った。

「ほなこうしよう、そこの金髪と背高いの私のツレやねん。戻ってこんかったらそいつら通報してくれ」

文房具の棚をふたつ挟んでふたたび顔を見合わせることになったオレと笹槻をおろおろと見ていた女の人がいつの間にか外していた受話器を持ったままぎこちなく笑ってお辞儀をした。

口笛を吹きながら戻ってきた井佐美さんは不用心にも銀行の名前が入った文具屋での買い物にはかなり釣り合わない厚みのある封筒を手に掴んだままだった。それをぽんと放るように置くと10や20ではきかないかなりの枚数の万札が顔を出した。

「はいこれ。多分丁度入っとるさかい」

「失礼致します、お会計64万円丁度になります」

「しけた文具屋でこんな値段のもん中々売れへんやろ嬢ちゃん、今度会っても私のこと覚えといてくれたら店の取材したってもええで。中々おもろいもん貰たしな」

上機嫌に店を出た井佐美の肩を走って捕まえた笹槻が息を整えてから放った言葉にオレは数回まばたきをした。

「なあ井佐美、おれのこと撮ってくれよ」

「ん?別にええけどなんでまた」

「おれ写真に写るの苦手なんだよ。おかげでよくしてもらった人と写ったものとかないんだ」

「なるほどねえ、まあ事件のために撮っとるだけで私ほんまは人撮るの苦手なんやけどそれでもええか?」

頷いた笹槻に口端だけで笑うと、抱えたカメラを彼に向けた。ダブルバレルを思わせるレンズが冬の日差しを奥に閉じようとしていた。



あ、と声を出した笹槻の目線を追うと小さいログハウス調のバーガーショップがあった。その店は海沿いの地方の名前を冠していて、そういう店ならもういくつも通り過ぎたのだから笹槻はどうやら名前に反応しているようだった。といってもオレはその土地に行ったこともないし、名前だって歴史の教科書で見たくらいしかなかったのだけれど。

「あそこで食べるの?」

「ああ、昔旅行に行った場所と同じ名前だったから……つい」

髪を撫でる仕草をしながら笹槻は照れたような顔をした。

「へえ、どんなだった?」

「昔だから断片的だけど、最初にレンガ造りの大きな教会に行ったんだ。丁度ミサの最中で入れなくて建物の周りをちょっと歩いたんだけど、例えば大きい神社とかってそれなりに装飾があったりするけど、そこは西洋建築の割にシンプルで……帰ってから調べたんだけどなんだったかな、建築の名前なんだけど」

「……バロックとかゴシックとか、あとはルネサンス建築とかのやつだよね?」

思いつく限りの名前をあげると少ししてから目を大きく開いた笹槻がこちらを見た。

「ああ思い出した!ロマネスクだ!中もすごくきれいだった。陽が射してる方向にステンドグラスの色の影が落ちるんだけど全体的に色合いは淡くなってて、変な言い方だけど夢の中みたいな感じだったな」

「そうなんだ、他には?」

「ごめん、立ち話もなんだしここ入るな」

扉を開けた後に続くとワックス掛けされた木の薄い香りがした。2階から降りてきた店主と思わしき女性が笑って会釈をする。カウンターの奥から出てきた健康的に日焼けした男性がシャツの袖を捲り直しながら、いらっしゃいませ、と溌剌さを伴った愛想よい声を出した。

「こちらのおすすめありますか」

メニュー表を一通り眺めて笹槻が言うと、男性はにこやかな表情で、もちろん、と言った。指差されたメニューはミサモンスターというもので、笹槻が思い出したように入り口を振り返った。そこを見てみると玄関に敷かれたマットには、まだ青い林檎を男女の手が支えているものが描かれていた。

「あれは……ルーベンスの絵の一部ですよね」

「あら、解りましたか?ああいったものは他にもあるんですよ。例えばさっきのおすすめもそうです」

「やっぱりなにか意味合いが?」

「ふふ、そうじゃなかったら人なんてなにもしないものでしょう?そこで提案なのですが」

そう言葉を引取って後ろを向くと彼は少しの間棚を漁った。あった、と小さく呟いて振り返った人の手にはメニュー表と同じ素材のものが握られていて、わざと色褪せた風合いの印刷で古いタロットカード……竹久夢二を西洋風に直したような作風で描かれた男女の手指やハンバーガーの絵の上にミサモンスターベルゼブブと書かれていた。

「いやあこちらはですね私と勝負して頂く商品となっております。ベルゼブブの名の通り量は通常のミサモンスターの2倍。それを私より先に食べきれば全てのお代を無料にさせて頂くというサービスです」

「いやでも、オレたちそんなに食べるほうじゃないんで……」

「久々のご新規さまだ。お二人と私で対決するというのはどうですか?当然ですが量は据え置きです。でもお二人とも背はあっても細身ですからねえ」

煽る空気を含んだ語尾に笹槻が肩を揺らしたのが見えて、オレは目を瞑った。

「おれそれやります。カズト、胃液出しとけよ」

こうしてまんまと罠に嵌められた二人連れを見渡すよう眺めていた男はオレを見ると笑みを深くしてウインクをした。

「すみませんね、あの人テンションあがるとああいう風になるところがあって」

「お店の内観やああいったものは奥様も賛成されているんですか?」

笹槻の問いかけに一瞬ぽかんとした顔をした女性は口元に手を当てて吹き出した。

「やっぱり夫婦に見えるんですねえ私達。まあそれもしょうがないか。一応は家族だしね。バレるほうがおかしいもの」

「……それはどういう」

「事情ですよ。たくさんのね」

香ばしい匂いが立ち上りはじめた中で口元に指を立てた女の人はいたずらっぽく笑ってみせた。

出来上がったものをトレイにのせて2階へ上がると日向に黒いラブラドールが寝そべっていた。

「あの子うちの看板犬なの。まあだいたい2階にいるからあんまり看板感はないけど、注文して食べていった人達だけのお楽しみですかね。大人しい子だからあの子から近寄ってきたら触ったりしても大丈夫ですよ」

「あの子、名前は」

「グラバーっていうの。これについてはなにも聞かないでね」

明るい調子で切り上げた女の人は笑ったあとに片目を瞑ってみせた。ボブをオールバックに流した生え際で結ばれたスカーフと丸くてつるりとした額が昼の細かい粒子のような光を浴びながら同じものを受け止めているグラバーの背を優しく撫でていた。


「カズトなにしてんだよ食え、えずくまで詰めろ」

「いや待って無理だって、それにお前もまだ残ってんじゃねえかよ」

「うるせえなあ、おらこれで流し込め」

瓶からコップへ乱雑に注いだそれを寄越した。チェリーコークという名前のわりに化学的な味が舌に焼き付くようでそれはバンズや具材と相まって奇跡のミスマッチを起こそうとしていた。涙目になりながら喉を広げるように飲み込んだそれに味わいもなにもないんじゃないかと思った。

「さて、5分のハンデも無駄になりそうですねえ。私は残すところもうひとつまみといったところでしょうか」

さすがに余裕の笑みも少し崩れてはいるがそれでもにこりとした人との間に流れた空気を裂いたのはガランと鳴ったドアチャイムと聞き馴染みのある声だった。

「おう邪魔すんで、ああ?なんや揃って上おるんか?」

「すみません井佐美さん、今勝負していまして。すぐタマキが向かうと思いますので」

「ほー、それは失礼。しかしあんたに勝てる奴なんか私以外におるんか?」

入ってきた人物についてはさておくとして、奴はどうやらこの店の馴染みのようだった。

「ずいぶんお久しぶりじゃないんですか井佐美さん、うちの記事書いて頂けたら持ってきてくださいね。赤入れしますから」

「アホかまだ取材重ねんと書かれへんわ、だいたいタマキちゃんとカサネさんの二人だけでネタが多すぎやねん。色んな意味で書けるか。ほな私モンスターとバウンスで。取りにいくさかい焼けたら呼んでな」

手に持ったままの食べさしのバーガーよりも近づく靴音のほうが気がかりで、それなのにオレは後ろを振り返れずにいた。硬い音が鳴って、引き摺るようにもう一段。手摺りを滑る肌がかすかな音を立ててそれを拾ってしまうほど近くにいることが何故か恐ろしかった。眠っていたはずのグラバーがすっと立ち上がって尻尾をせわしなく動かしたまま通りすぎると階段の辺りで立ち止まる気配がした。なにかを背負っている家族の一員としては想像していたよりずっと軽やかな足取りだった。

「あーもうお前来るな来るな、お前結構デカいんやぞ解っとるんか」

じゃれつくグラバーを眺めているらしいやや緩んだ顔の笹槻が目線を上げて固まっていくのをオレはただ見ていた。

「井佐美……!」

「はあ?えーっと……お二人さんお元気?」

初めて聞く困ったような声がして、こちらへ歩いてくる静かな音がした。グラバーの機嫌のいい呼吸音も近づいてくる。

「なにしてのこんなとこで。作戦会議ですか?」

「なんの作戦だよ」

笹槻の尖った声に振り返ると違和感が走ってオレは目を閉じた。そして開く頃にはそれを理解していた。いつも覆われている片方の目が晒されているのだった。窓からの陽射しを受ける両目は左右で透ける深さや明度が違っていてきれいだと思ったけれど、なにより目を引いたのは目尻から角膜までのほとんどが赤く滲んでいる左目だった。

「せっかく会えたんや、あんたらに仕事あげたるわ」

そう言って井佐美さんは返事も待たずにくたびれた革のボストンバッグからメモ帳を取り出した。素早くページを捲るとそれは迷いなく笹槻に差し出された。思っていたより読みやすい字で小さなライブハウスやクラブが並ぶ外れに位置している貸金ビルの名前や自主映画上映や演劇の無料開催などのイベントをうたう捨て看板のあった住所と会場……マンションの一室と思われる数字とその中で行われていた様々な犯罪行為が箇条書きにされていた。弾かれたように立ち上がった笹槻が井佐美さんの胸ぐらを掴んで無言のままに威圧したがいつものように受け流した人がポケットからややよれて汚れた写真を机に音が上がるほど叩きつけた。

「こいつやろ?あんたの仇。いやーこいつのことはうちらも追ってましてなあ、ようやく尻尾掴んだとこですわ。えらい奇遇なこともあるもんですな」

「話せよ、こいつどこにいんだ」

「そんな慌てんなや……夜になったら教えたる。この店は見張りに丁度ええ場所やねん」

そう言ってニヒルに笑ったところでタマキと呼ばれた人から声が掛かって井佐美さんはグラバーと一緒に階下へ降りていった。笹槻は写真とメモを見比べては真剣な顔をしている。やや炭酸が抜けたチェリーコークを一口飲んでオレは切り出した。

「これ、本気にするつもりか」

「……悪いかよ」

「だっていくらなんでもタイミングがよすぎるでしょ……それにあの人の素性だって解ったもんじゃないし」

「なあカズト、おれはアニキを殺した奴が前にいたら絶対に殺すって決めてるんだよ。それが例え人違いだったとしてもだ。覚悟ならもう決まってる。だからあとは……見つけ出すだけなんだ」



歩く間にも深みへ進んでいく長い夜がきて、連れて行かれた先はカフェバーだった。こじんまりとした店内は世界観が作り込まれ、チェコの図書館を参考にした壁はいくつか本物の洋書がはめ込まれている。高い位置に吊るされたバイオリンは細かい彫刻が施されていた。いつの間にかカウンターから出ていたマスターが皮の剥かれかけた桃を片手にオレたちを見て目を細めた。

「なるほど、こちらのお二人が今回の井佐美さんの紹介ですね」

「うん、っていうか今日は村田くん休み?久しぶりにあいつのバイオリン聞きたいんやけど」

「村田なら15分後に到着の予定ですよ」

「んー了解。ほなこいつら連れてったって。お前らゆっくりしてこいよ」

煙草に火を点けて吸い込むと井佐美さんは腕を伸ばして灰皿を手繰り寄せていた。机の上に戻された桃は重たげな甘い香りを所在なさげに放っていた。

マスターが立ち止まったのはなんでもない壁の前だった。背表紙の形に掘られた壁の一部をノックすると手前に飛び出てきた石膏の奥に銀のパネルが見えた。ダイヤルを6回回す音の後にまず最初にピンッという引き抜くような音がしてから重い金属がゆっくり動く音がして、マスターが押す手に力を入れると隠し扉が開かれていった。その奥は一対の豆電球のほのかな明かりでは到底足りないように思えたが、マスターは慣れた動きで備え付けの懐中電灯のスイッチを入れた。下へ伸びる黒塗りの細い階段を一段一段降りているとマスターが、ああ、と思い出したように声をあげた。

「この地下はね、元々は小さなライブハウスがあったんです。ライブの後は色んなバンドのメンバーがCDを手売りして、打ち上げは上のバーで。楽しかったなあ。こう見えて私もバンドでベースを弾いていたんですよ……ある時でした。その日も若いバンドがたくさん出て、5人編成だと少し窮屈なような狭いステージで思い思いのパフォーマンスをしていました。私は客として観に行っていました。転換を終えてメンバーが揃った頃です、もう一人誰かが同じようなテンポで歩いてきて、ギターボーカルの人を刺しました。声もなく崩れ落ちたその人はとても助かりそうもないほど血が出ていて、事実その人は助かりませんでした。警察の捜査の結果、ここからはいくつかの建造物としての不正が見つかり解体ということになりました。肝心の犯人は……今でも捕まっていません。あれから20年以上の月日が経ちましたが、もちろん会えば気がつくはずです。顔もほとんど隠していなかったんですから」

ああ、それから上のバーは私がその後買い上げたんですよ、とマスターはやや明るくなってきた空間でにこやかに笑った。

針金のようなシェードで吊された裸電球のライトを頼りに細長い店内を奥に進めば、ジジジ、と音を立てるネオンの看板が目に飛び込んできた。あえて低い位置に設置された[casinoclub G.O.A.T.]の文字は警告のようでもあった。その奥に鍵穴のような形に設計された室内で最も広い空間が広がる。そこには仕切もないのにかかる音楽も明かりも空気の重さも変わった。看板を一足越えると茶髪にふわふわとしたパーマのディーラーと目が合った。会釈をされて、そっと足元の段差をひとつ降りれば赤と黄色とターコイズブルーのライトが足下を照らした。

「……あなたが笹槻美雷さまで宜しいですね?あちらにお客様がお待ちしております」

歩み寄ったディーラーがお辞儀をしてそう言ってからオレの方を向くと人差し指を口元に当てていたずらっぽく笑った。差し出された手にうろたえていると強引に手を掴まれて袖口に忍ばせていた折り畳み式のナイフを渡された。

「サキ、あまり悪戯はやめなさい。それからもうすぐ時間だよ。井佐美さんを待たせているから一旦裏から出て入りなさい。いいね」

「井佐美さんかあ、じゃあしょうがねえな。俺もうちょい見てたいんだけどな」

同い年くらいにしか見えないまだ若いディーラー兼バーテンダーがラップエプロンを素早く外して折り畳んでマスターに手渡しながら、今月のこっちの手当いくら出るんすか、とぼやいた。

「あ、やべえ松脂あったかな」

「なかったら井佐美さんがくれるよ、あの人なんでも持ち歩いてるんだから。ほら早く行ってきなさい」

「はーい、つうか井佐美さんの目借りりゃよかったのに。ま、そういう時はあの人が勝手に動くか、なにがあったか後で聞かせてね」

まくし立てると男は伸びをしながらさっさとどこかへ消えていった。笹槻が軽く辺りを見回して口を開いた。

「あの通路から入ればいいんですか」

「そうですね、中はちょうど蟻の巣のようになっておりまして、部屋は左右3つずつ、お客様の安全を考慮して出入り口は閉じられない構造になっておりますがご了承ください。向かいの部屋から見えることがない配置になっているのですがどうしてもお手洗いなどの際は見えてしまいますがそこもどうか……それから準備をするため少々お時間を頂きますがこちらのホールでダーツやビリヤードも出来ますよ。そうそう、古いものになりますがアメリカのスロットマシンもございます。こちらは本当に遊びとして置いてあるためお代は頂きません……しかし今日は予約が入っているのでまたお越し頂いた時にでも」

通路の前のベルを二回鳴らしてから入ったマスターからの説明を受けながら歩いた通路は手前がトランプ、奥の少し大きく作られた二部屋がルーレットでどの部屋にも個性的なディーラーが先程のベルのおかげか姿勢よく立っていた。

「こちらです。ゲーム中はどうかお静かに」

部屋の前に立ったまま動かなかった笹槻がわなわなと震え出して見る間に殺気を纏うと大きく踏み込んだ。

「……吉野てめえ!」

「よう小僧、待たせてくれるじゃねえか」

歯の隙間から息を漏らしながら背中に回したホルダーからククリを抜いた。派手な柄の上着から出てくるにはかなり不釣り合いな使い込まれた銀色がライトに照らされ細かく刻まれた紋様が浮かんだ。

「ぶっ殺してやる!」

息巻く笹槻をひと睨みすると吉野という男がソファにもたれていた背を前に屈めて低く笑った。

「せっかくカジノにいるんだ、ひとつゲームしてからにしようや。黒服の兄ちゃんも仕事にならねえのは困るだろ?」

話を振られても男は顔色ひとつ変えていないかった。顔面を真ん中から仕切るように眉のない眉間、鼻の付け根、下唇を縦に貫通しているもの、喉仏の下と鎖骨の間と目蓋を抉るように空けられた右目だけがピアスの重さでか二重になっているのが印象的なディーラーが交互に顔を動かして少し考えてから間を置いて、おっしゃる通りでございます、落ち着いた声で言った。

「おい、ふざけてんのかよ。ピアス野郎、てめえから先に殺ってやろうか」

ゆらりと身体を傾けた笹槻は今にも飛び掛りそうだった。薄い唇に指を当ててほんの少し目を細めると、ならばこうしましょう、と呟いてカーペットの敷かれた上で靴底を引き摺るように歩き回ると、ルーレット台の置かれたテーブルを蹴り倒して不敵に笑った。バランスが違うせいか閉じ切っていない右目は光を受けているのに揺れるピアスがそれを飲み込んでいるように反射していた。

「さあ、これでゲームスタートと参りましょうか」

「ははっなかなかおもしれえ兄ちゃんだな」

ソファの後ろから取り出した脇差しの鞘を投げ捨てると吉野がこちらへ刃を向けた。普段先輩が使っている長ドスより短く見えるそれは50センチには届かないような長さだった。

「鞘くらい持っとけよ。おれは刀はこいつしか握ったことねえからな」

「てめえごと納めてやるから心配すんな坊主」

笹槻が前を睨んだままゆっくりと絡めるようにククリの刃先を刀身に引っ掛けた。

「変わったナイフだな、使い方は解ってんのか」

「教えてくれよ吉野、そこらの雑魚よりはいい練習台だ」

バネが戻るように引かれた刃が擦れて耳鳴りを呼ぶような音が鳴る。長い残響の中で脇差しを振り上げた吉野の横へ回り込んだ笹槻が左手に持ち替えたククリを逆手に握るとバッと口元を覆うように腕を回して頭の横へ添えてすぐに切りかかった刃を受けると特徴的な峰に滑らせた。それでも押す力は強く髪を押したククリの刃は持ち主のそれを切った。傷んだ毛がきらきらと散った。もう曲がらないだろう方向へ脂汗を滲ませた男がさらに手首を捻ると滑った刃先が床を叩いた。飛び込んだ笹槻が一撃を入れる瞬間に後ろへ跳んだ男の胸には深手とは言えないがかなりの傷が走っている。

「……お前の髪は変な色だな。このままもっと変にしてやろうか?しかし小僧、やたら俺にご執心のようだがその理由を教えてくれよ、解らねえのさ」

「ふざけやがって……てめえおれのアニキを殺したんだろうが!それも卑怯なやり方で」

「卑怯なんて言い方はよせよ。しかし殺しはよくやるからなあ……しかも背後からとなると顔が解らねえときた」

「クソ野郎がっ……!」

男が刀を後ろに放るとニヤニヤとした笑みを崩さずに吐いた。

「ああ思い出した……藤風辰三くんだ。クセはあったけど男前で人を見下したような面のスカした野郎だ」

目つきを変えて飛び出していった笹槻の背に隠れるように身体を小さくしているとククリが壁を抉る音がした。その響きがピークを過ぎ去る瞬間をめがけて顔を上げる。右手には狙い通りに硬い感触があった。

「やっていいぜカズト。どうせ殺すのはおれだ」

「ああ」

笹槻の一撃を食らった胸を彫るように鞘を滑らせる。

「あんたが先に納まっちまったなあ」

「オレ戻るよ。お前のでしょ、このおっさんは」

入り口に近づいてもう一度踏み出そうとした足首に電撃が走るような痛みがして、次第に焼いた刃物で裂かれるようなそれに変わっていった。流れる唾液をこぼしながら座り込みながらなんとか首を回して、オレに降り掛かるだろう刃がこちらを向いたのを見つめる。どうしてこんな時に限ってこうなんだろうとふと思った。壁にもたれていたディーラーがすっと動いたかと思うと声を出す暇もないほど速く吉野の手から脇差しを奪うと、唖然としている男の足元に乱雑に放った。

「申し訳ございません。私どもは勝ちに近いお客様を立てるのが商売でして」

後ろ手に渡された小瓶には楕円型の錠剤が入っていて、なんとか顔をあげるとぶれた視界には耳の後ろで丸く纏められた髪が写った。

「ただの鎮痛剤ですよ。ここでは従業員が全員持つ決まりなのです。私は頭痛持ちなので助かっています。口に入れてください、しかし飲んではいけません。舌の裏で溶かしてください。即効性があるものなので1分あれば効くはずです」

再び刀を拾った手を強く握ると怒気を滲ませた男が熱された水面のようにゆらりと揺らいだような気がした。

「俺が痛み止めをくれてやるよ」

笑う声が落ちて、次の瞬間跳ねるような突きが放たれて声を上げるより前に傷ひとつないディーラーが緊迫の中へ息を吐いた。

「あら、私もそろそろ痛み止めを頂きたいのですが」

「舐めんな……!」

落とした頭を小さく揺らして顔を上げた吉野が重く叫んだ。崩れた髪を荒く直すしてから、来てみろよ、と呟いた。咄嗟に動こうとした美雷をディーラーは軽く制した。

「丸腰の私に……有難いな、随分高く見られているようだ」

「ああ、俺もたまにはこいつなしでやらねえと訛っちまう」

力の抜けた腕が曲線を描いて宙に浮いたものが鈍く光を反射させながら落ちていく。

先に地面を蹴ったのは吉野だった。それを受けて動いた背中がかくんと止まる。突っ込んでくるはずの男は体格に合わない軽やかさで後ろへ飛んでいた。

「兄ちゃんは挑発には乗ってこねえだろ、揺さぶられるのは嫌いか?」

「お試しになられてはどうでしょうか」

スーツの内側からスキットルを取り出した吉野はステンレスの容れ物を軽く傾けた。喉仏が上下に動いて、次の瞬間踏み出すとともに手にした容器をディーラーのこめかみに打ち込んだ。先程の動きとそのあとに続けられた台詞そのものが罠だったのだと気づく頃にはディーラーは息を荒くして半分崩れた体制でテーブルにしがみついていた。

「おいおい試す暇もなかったじゃねえか」

引き倒したディーラーをみとめるとせせら笑って首筋に足を乗せた。

「邪魔な飾りで忘れてたが、お前は藤風の野郎にそっくりだ。それも化けて出やがったくらいにな。もう一度殺してやらねえと」

首元を踏みつけられながらなお笑う黒服が乱れのない声で呟いた。

「それは人違いでしょう。私は生きておりますもの」

「てめえも殺すまでだ」

首元から軋む音がして激しく咳き込んだ男が呼吸が落ち着くのを待ってから口元に手を近づけた。突き出された長い舌の真ん中辺りを横切るように通されたものを引き抜いて丁寧な口振りを忘れたかのように舌打ちを落として呻くとそれを踝の下に深く刺し込んだ。背を引き攣らせた吉野がテーブルに頭を打ち付けて倒れ込む。

「どうされたのです、自分が手にかけた人の幻でも見えましたか?」

「……クソガキが!」

「さあお客様、一度乗ったゲームを降りるのはここではご法度でございます。お立ち上がりください……私が手を貸しましょうか?」

刺さったままのものを屈んで引き抜くと吉野は軽く呻いた。ポケットチーフで汚れを拭うとマッチを擦ってその火で炙りはじめた。

「痛みは落ち着きました?それとも私がマッサージしましょうか、こう見えて鍼が得意なんですよ。しかし義足の方ははじめてなのでどうしましょう」

「待って、オレ義足なんて一言も」

「人の歩き方というのは歩調という言葉もある通りだいたいのリズムがあります。店長のものを除いて二人、その片方……つまりあなたは歩き方にズレがあると感じていました。足の悪い人だとはおもっていたのですが、この部屋に通された時にスーツに浮く足の形で確信しました」

笹槻が脇差しを拾い上げると沈めるように腹に刺した。

「まだくたばってくれるなよ?お楽しみが待ってんだ。アニキはお前にまず背中から貫かれて、次はここだったな」

ブレもなく刃先を隣に置くとまた5センチほど埋める。

「藤風の飼い犬ごときがっ、とっとと殺せばどうだ……強がってるみてえだがお前、殺しははじめてだろ?」

「ああ、だから嬉しいぜ。てめえを殺しておれはようやくひとり立ち出来るんだ。やっと顔を見せられる……とっくに見捨てられてるとしてもあの人の事にひとつのケリがついてくれる」

刀を振って血を払うと笹槻がディーラーを振り返った。

「なあ、この勝負はあんたから見てどうなんだ?」

「通例からしますと」

「てめえから見てどうなのか聞いてんだよ」

首を軽く傾げてこめかみを押さえると、男は俯いてため息をついた。

「ヤギも地獄に転げ落ちるくらいの勝ちですよ。まあある意味g.o.a.t.ってところですね。これがゲームじゃなくてよかった、心底ほっとしています」

さて、と呟いたディーラーが吉野へ近づくと上体をテーブルにもたれさせるように動かすと、耳元に顔を寄せた。やや高い位置に重心の置かれた声が流れるように落ちた。

「どんな口径で撃ち抜こうと空は空、そんな退屈にみんなもう飽きてしまった。宇宙を求めるように、彼らは地下をも求めた。さあお客様……負けた方には相応のものをお支払い頂くのがカジノのルール、底を突き抜けてどこまでもぶっ飛べるもの、見せて頂けますか?今なんかよりずっと先まで飛べるものを」

ディーラーが言葉を進める内に吉野の呼吸は不安定になっていき、ぐっと顔が近づけられた後に小さな悲鳴をあげていた。だけど、その時彼がどんな顔をしていたのかなんてオレにはなにひとつ解らなかった。また足首を酷く掴まれるような痛みが立ち上がってきて、壁にもたれていた身体が支えをなくしたように崩れていく。

くの字に曲がった刃物を器用に引き抜きながら笹槻は深く息をついた。禍々しいとしかいいようのない空気を纏って塊が歩く。

「悪いな、こいつは一度抜いたからには血をやらねえと帰せないんだ」

短い呼吸を繰り返している大柄な身体が脂汗を浮かべて無様に後退るのは見ていて滑稽だった。手が壁に触れて絶望を口元から垂らした男が小さく懇願を繰り返した。

「覆ると思うか?あの日から決めてた事だ。おれはてめえの声なんざ聞く気はひとつもねえんだよ、クソッタレ」

首元へ引っ掛けるようにされたククリがゆっくり動いて笹槻が手首を返すと斜めに入った刃が頚椎で止まった。食い込んだままのククリをそのままに身を乗り出すと頭に手と膝を置いて体重をかけた。小さな音が数回してからめり込むようなやや丸い音がして、目を閉じると細い木が折れていく時の光景が浮かんだ。間を置いてから笹槻の声がした。

「お前ほんと役に立てよカズト!……なんかあんたにまで手伝わせちまったな」

返す言葉もないオレを尻目に男へ近づいた笹槻が申し訳なさそうな声をだした。首を傾げながら薄く笑って男は口を開いた。

「ひとつ教えてほしいことがあるのですが」

「なんだ」

「私はそんなに藤風という方に似ているのでしょうか?」

「ああ、おれから見たってそっくりだぜ」

ただなあ、とこぼした笹槻はマッチの燃えかすを手に取った。

「こうすりゃもっとアニキみたいだ」

そう言って一纏めにされた髪に指を突っ込んでから顔を押さえると下まぶたに炭で隈を描いてニヤニヤと笑った。男はずっと無抵抗だったけれど崩れた髪の隙間で口角がほんの少しだけあがっていた。

汚れたテーブルを手摺りのようにするすると撫でながら吉野だった肉に軽く触れるとディーラーはいきなり血だまりに手を突っ込んで掬うとテーブルに見慣れない漢字をふたつ書いた。

「私の名前です。今日はプレートを忘れてしまって、まだ名乗っておりませんから。チェイ・サンと読みます。まあ名前は15でこちらに来てから変えたものですがね」

「え?なんかしたのか?」

笹槻の問いに緩いパンツのポケットから瓶を取り出してぱきりと封を切るとそれを一気に飲み干した。投げ捨てられてこちらに転がってきたものには古めかしい書体でコデイン液と書かれたラベルが貼られていた。

「失礼、少し頭痛の予兆がありまして。そうなると6時間おきにこれを飲まないといけないんです。それから説明が足りませんでしたね。私の国では改名がとても簡単に出来るのです。ここに来て1年もしない頃、古本屋で手にした幻覚記という本で夕暮れを燦然と表していました。きれいだと思ったのです。そしてすぐに私も同じようになりたいと思いました。今じゃなくて未来を生きたかったから。ね、単純でしょ?」

みゅっと締められた唇と伏せたまつげで細く引かれた曲線が穏やかに映えるそこにいたのは一人で海を越えてきた少年だった。

「君のも聞いていい?気に入ったんだ」

笹槻が口ごもりながら名前を告げるとにこにことしたディーラーが頭を下げた。

「ええ、オレのは?」

「今度面白いものを見せてよ、そしたら考える。ねえ美雷さん、ボクとまた会ってくれる?あなたは藤風さんを思い出せるし、ボクは気に入った人に会える。いいことでしょ?」

「有難う、でもいらない。おれはアニキに会うためじゃなくてなんのしがらみもないままあんたに会いたいからさ」

しかし穏やかな空気もつかの間だった。ホールから叫び声が聞こえて走っていくと、スロットマシンのそばにうつ伏せで倒れている男と片手にアイスピックを持ったまま動かないマスターがいた。

「すみません、騒がしい真似を。冷静でいようと思っていたのですが」

身体を起こした男を見てオレは声をあげていた。

「園さん、なんで」

「ケリをつけにきただけさ」

「答えろ、なんであいつを殺した」

聞いたことのない低い音がして、それを発したのがマスターだと気がつくまで2秒かかった。

「奴が売人だったからだ。ヘマしたら消えるか逃げ切るかが売人の世界の常なんだよ。俺はその中継役だった。シノギっていえば聞こえはいいがまあ雇われ店長ってとこだ」

「俺はずっとお前を探していた……警察はお前のことをろくに捜査もしなかったそれどころか俺たちの居場所を些細なことで奪っていった」

「間違いを正すのはどの世界だって同じさ。その価値観がいくら道から外れていようとな」

振り返った園さんが、お前らは、と呟いた。

「いつも行かせてる店があるだろ。商店街の西のほうの料理屋だ。そのまま進むと薬局があるのは知ってるか?前に壊れた白い自販機がある」

オレが頷くと園さんは少し身体から力を抜いたように見えた。

「そうか。あの店は4年前まで俺が仕切っていたんだ。ああ勘違いしないでほしいが、その頃はまだ店主の夫婦はいたぜ。客として胃薬を買ってたくらいさ」

ずっと睨みつけていたマスターがゆっくりと足を引いてアイスピックを足元に捨てると腕を組んだ。

「しかし2年前からかな、俺たちに近い訳ありの連中が出入りするようになった。8人くらいいたがほとんどが東南アジアの主要国から来た人間だった。俺は奴らを追い出さないといけなくなった。仕事が奪われることは生活を失うことだからな。そのために俺は奴らから話を聞き出して、時間を作ってはひとりひとりに何度も説得しようとした。話を重ねれば、そこに明かりがなくても抜け道はあると信じていたから。やがて末端の奴が話しだした。農業の手伝いとして来たそいつは雇用先の人間に名前で呼ばれたことは一度もなかったと言っていた。国の名前でひと括りに呼ばれていた仲間のひとりが夜逃げする時に、お前も来い、と言ったらしいがそいつは拒んだ。足を怪我しているから邪魔になっちまう、と。横で湿った咳を繰り返していた男がタオルケットを痩せた胸にのせたまま、戻ってくる時は土産は風邪薬で頼むぜ、と笑って3日後に息を引き取ったと聞いた。草刈りを終えて痛む腰を押さえて立ち上がると手の甲から爪の間まで粘土質な土がこびりついた右手に鎌を持ったままそいつは村を西へ向かって前に落ちて監視するように動く自分の影を何度も蹴って一目散に走っていったらしい。それからトンネルで寝泊まりする生活をしていた時に奴らと出会ったんだと。まだ学生みたいな顔をしてたよ、お前らより5つは若いくらいだ」

「なんで仕切りを辞めたんですか」

「店を守れなかったからだよ。俺の目の前で夫婦が殺されたんだ。待っていたんだろうな、染みの浮いた頬の上で涙が干乾びていた。婆さんが腹を裂かれながら、あんたなんで来よったんじゃ、と最期に言った。どこを差してそれを言ったのか聞きたかったよ。どんな気持ちで俺を迎えいれてくれていたんだろうとな。若い奴らには解らないだろうがあの辺りは俺たちのメンツに関わることだ。ほんのひとかけらでもカタギでない奴は立ち入りすら許せはしない。その点で俺は甘かったんだ、同じ異邦人だからってな」

「確かに私は嫌ですね。同情されたってそいつはお金になっちゃくれないでしょう?仕事は生活、そして生活を回すためのコインがお金なんですから」

冷めた口ぶりでディーラーが放ってカウンターに置かれた炭酸水の瓶を取ると栓抜きで外した蓋を入れてスロットのレバーを引いた。笹槻が静かにそれを睨んだ。柄はあとひとつで揃うところで外れた。

「何度も取り戻そうとはしたさ。どうにもならないくらいくらいに膨れ上がった組織の中にも話のつく奴がいるはずだって。あのガキは偉くなっていたみたいでな、ナンバー3の地位にいた。今思えばそれにさえも意味があったのかな、あいつの国のことなんて俺は聞いたことしか知らないが」

園さんは痛むのか屈むと靴の上からつま先を押さえた。

「話を続けて1週間が経った頃、2時間の話し合いの末にあいつはようやく首を縦にふった。彼はこう言った。3日後に俺に会いに来てくれ、上の連中もいるからそこでまた話をしよう、と。そして俺は渡された住所の書かれた紙切れを頼りにその場所へ行った。ビルだろうと思っていたが歩いていく内にそれが思い違いだと気づくしかなかった。来る途中にあった小さな建築会社のものや狭い片側一車線の国道を走って来たのだろうキャンプ帰りの客のゴミが谷になった所にある廃屋を埋めるように捨てられていた。伸び放題の草を踏んだ跡の先にあったのは小さな2階建ての古い公民館だった。玄関のガラス扉は半分以上が割れていた。下の広間はがらんとしていたから階段をのぼって2階にあがった。個室がいくつか並んでいた。予感を振り切るように3番目の扉を開けた。長机の上に正座のまま腰を折って頭を押さえられたあいつがいた。後ろに伸ばされた両手には旧式の手枷が嵌められていた。夫婦の最期が浮かんだ。その奥で頬杖をついた男が煙を吐いて言った。これ以上話すことはあるか、と。そしてあいつがシャツの下に隠していた鎌を抜いた。乾いた土の塊が床に落ちて音を立てた。髪を掴んで身体を起こされたそいつが、俺にはもう話すことはない、帰ってくれ、と呟いた。トップの人間が鎌を俺に寄越すと、俺らの国ではこの数字がなにより恐ろしいものとされている、3回だ必ずまた会おう、と言った」

「園さん……あんたの足って」

「流石に察しがついたか。そうだよ、奴らに仕組まれた。最後の日だ、通された倉庫には鎌がひとつだけ置かれていた。俺とあいつは分け合うように足枷を付けられて向かい合う形になった。どちらかが死ぬまでの殺し合いがはじまった。俺に鎌を握らせながら、首を狙えと奴は合図したが俺には出来なかった」




黙っていた笹槻が身体を軽く捩って動いてから泣き出しそうな声で言った。

「おれはアニキを亡くした時に吉野のやつを殺すと決めていました。おれたちはやくざだから殺しに抵抗はほとんどありません。けれどさっきあいつを殺した時の感触がまだ残っています。これから先繰り返して、この震えをもっと背負っていくのかと思うと怖いです。でも、おれは生きます。そう決めたから、せめてやり抜きたいんです」

「なんだよ……でかくなったな笹槻、何回作っただろうな、俺のチゲ鍋うまかったか?」

「うまいけど、めちゃくちゃ辛いんすよ、あれ」

「おかしいな、三波とか新山は平気な顔して食ってたんだがな」

タツじゃなくて悪いな、まあタツのことだからすぐ撫でてただろうが。

作った顔で微笑んだ笹槻の頭をぐしゃ、と撫でながら園さんは微笑もうとしていた。顔の筋肉が動いたのか流れる汗の軌道が変わって園さんの目がオレを捉えた。

「なあお前ら、ひとつ頼みがあるんだ。こいつを燃やした灰を海に捨ててほしいんだ。無理を聞いてくれるなら、対馬のほうだといい。最期まで迷惑かけるな」

スーツの内側から中の紙が何度も濡れて膨らんだ痕がある深緑の手帳を取り出した。流れている血を笹槻の指が拭うとパスポートの表紙が鮮明になった。

「達者でな」

そう笑った園さんに目を伏せると銃声に重なるように遠いシャッターの音が聞こえた。

「……は?」

「こいつはケリをつけにきたと言ったでしょう。それなら私にも応える道理があるはずだ。どの道彼は殺されに行く、そしたらあなたたちは動いて、また戦いだ。ここに来るのはリスクを承知の人間しかいません。そして勘違いをしていたと気づく時には潰えてしまっている。それを背負える人間しかここでは生きられないがその分それ相応の見返りはありますがね。ここではクズを生み出して他人を喰い物にする事へ目を閉じずにいられる心が必要だ。気がついた頃には私は狂気と暴力の鎖にまかれていたよ。でも自分で選んだことだから構わなかった。あいつから電話を受けた時に私は抜け道を見つけました。これ以上ない皮肉でしょう、ここまで引き摺り込んだ男が私の鎖を断ってくれたんだ。その恩に報いるために私はこれから咎を背負います」

銃を持った手が動いたのを見てディーラー二人が慌てて駆けつけた。

「それならここも締めちゃうんですか」

「やだよ店長!あんたいなくなったら頼めないもん俺たくさんあるんだよ」

「君たちは……勝手に話を進めないで、逃げられるところまで私は逃げるつもりだよ。あいつを野放しにした方法を私は忘れはしないから。けれどここは締めるつもりだ、足跡しかないからね。本当はチェイとサキに任せたかったけれど、少しの間だけ上に立ってくれるかい?」

間をおいてからチェイが無言で頷いて、村田が2回鼻を啜った。

井佐美さんは入り口近くにもたれてシェードをつまんで揺らしていた。半分赤い目が店名を示すネオンを受けて色味を深めながら睨みつけるように奥を見ていた。



掃除をしている気配のない笹槻に嫌味でも行ってやろうとソファに座ると、ハガキ大の紙が置いてあった。摘んでみると髪質はしっかりしており裏返してみるとそこには二人連れの背中があった。

「おう、便所終わったぜ。って勝手に見てんなよカズト!」

「うわあ笹槻が掃除とか珍しい……だから今日雪なのか」

おどけるオレの肩に容赦のないグーを入れてソファに身体を沈めた笹槻が嬉しそうなのを隠しきれていない声で喋りだした。

「なあこれ誰か解る?アニキとおれを後ろから撮った写真。面白いこと見れたお礼だって井佐美に貰ったんだ」

じゃあな、残りの掃除頼んだぜ。

写真をポケットに直すと笹槻は机に広げていた雑誌を掴んで廊下へ消えていった。

「次はお前全部やれよな」

ひとりため息をついてから明日は収集日だしいい加減交換しようとゴミ箱を覗くと破れまくっているわりにきれいなビニ本が捨てられていた。

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