安らげる場所
パッキンの剥がれる音の後に外の冷たい空気がすっと肌に当たり、草と土と湿った木の匂いが冷気と共に鼻に届いた。
世界はまだ眠っているかのように静かで、夜でも朝でも無い仄暗い世界。
私はテラスに出てサンダルに履き替え、中庭を歩いて奥の方へ進む。
そこにはなだらかな斜面になっている箇所があって、景色を遮る木が視界に入って来ないのでいつもその場所で1人の時間を過ごしている。
だが、今日は先客が居た、足を止めて目を細め確認する。
そこには青いフィルターを掛けたような薄暗い中、淡白く浮かび上がる翔さんの姿があった。
ベージュのルームウェアを着て芝の上に座り、目の前に広がる山脈を眺めている。
私は近づいて彼の隣に座った。
今日はイヤホンを付けておらず、体育座りしている彼の足元を見ると裸足だった。
「なんか、朝日が見たくなってここに来ちゃった」
伸びた前髪の隙間から見える虚な目を前に向けたまま彼はそう言った。
鳥も虫もまだ鳴いていない静寂の中、私達は並んで座りただ目の前の景色を見た。
「カナちゃんにさ、殺して欲しいって頼んだら嫌だって言われた」
ゆっくりと話す翔さんに顔を向けて、彼の話に耳を傾ける。
「お前なんか本気出したら小指で殺せるって言うから、じゃあお願いって言ったら、お前のせいで豚箱行きはごめんだって言われてさ、薄情な女だよね」
——「アカちゃんは俺の事殺してくれる?」
翔さんは顔を少し私の方に向けたが、焦点が合わず、何処を見ているのか分からなかった。
私は彼の顔を見てゆっくりと頷く。
すると彼は顔を緩めて小声でありがとう、と言うと私の肩に頭を乗せて寄り掛かった。
男の人が寄り掛かっているのにさほど重いと感じず、彼の存在の儚さを感じる。
やがて日が昇り、山が頂上から下に向かってゆっくりと明るくなっていく。
静かだった翔さんがはいきなりあー、と声を出した。
「高橋に殺される、アカちゃんは高橋のお気に入りだからこんな所見られたら殺されちゃう」
この場所は奥まっているから外に出ない限り私達の姿を見られる事は無い、3階の窓からなら見えるけどこんな時間にわざわざ覗く人なんてきっと居ない。
翔さんの発言が本気なのか冗談なのか分からないが、高橋所長は関係ない、翔さんは私にとって大切な友達だ。
そんなの見せ付けてあげよう、と言わんばかりに私は翔さんの肩に手を回して抱き寄せた。
「俺、楽しかったよ、この1ヶ月、杏奈と実優奈に出会えて」
明るくなっていく山脈に目を細めながら翔さんが言った。
私達の名前、ちゃんと覚えてたんだ、とちょっと嬉しく思いながらも別れのような彼の言葉が胸を締め付ける。
私は肩に回していた手でフワフワの頭を撫でると、彼はそっと目を閉じた。
男女が逆転したカップルみたいにくっ付いて、私達は朝の訪れに浸っていた。
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カツーン…
床に何かが落ちる音で私は目を覚ました。
時計を見ると朝の3時58分、いつもより早い時間に目が覚めた私はベッドから上半身を起こす。
リモコンで薄明かりの常夜灯を切ると、部屋は一気に暗くなる。
まだぼんやりする脳を起こすかのようにベッドから抜け出してカーディガンを羽織り、ほとんど無意識に私の足は部屋を出た。
いつもならもう少しベッドでゴロゴロしてから動き出すのだが、何だか今日は1階に行かなきゃ、と何かに操られているかのように体が動いていた。
足元を照らす保安灯を頼りに階段を降りて、自動ドアの近くを通ると外から数台のバイクがブォーンと走り去る音が聞こえ、私は反射的に玄関に顔を向ける。
すると視界の端でキラリと小さく弾けたような光を捉えた。
それは床の上にある小さな何かで、玄関にある受付窓口の横の扉の前に落ちている。
私は自動ドアに顔をくっ付けて見ようとしたが、小さくてよく見えない。
自動ドアを通ろうにも24時間機械管理の元、施錠がされており従業員じゃ無いと開けられない。
私は少し考えて、3階にある自室に戻った。
部屋に入ってノートを手にし、その中の1ページを破ってポケットに入れ、再び1階に向かう。
自動ドアの前に立つとキョロキョロと辺りを見渡して人がいない事を確認する。
早朝の施設内に出歩いている人は無く、電気が点いていない廊下はグラデーションを描いたように奥に行くほど暗くなっており、低く唸る機械のモーター音以外、何も聞こえなかった。
ポケットに入れたノートの切れ端を取り出し、自動ドアを開錠する機械をパカッと開けて、紙を見ながら小さなボタンに書かれた数字を間違えないように押していく。
以前、従業員のネームプレートを乾かす際にノートに挟んで置いたのだが、その際に印字がノートに反転して写っているのだ。
ピッピッと鳴らしながら30桁ほどの数字を打ち込むとピーっと長い開錠音が鳴り、少しヒヤヒヤしてしまう。
いけない事をしている認識はあるので私は何度もキョロキョロと周りを見渡した。
開錠された自動ドアを潜り床に落ちている物体に近づき、屈んで指で摘んでみるとそれは小さな鉄の玉だった。
一部が丸い穴になっていてその穴の中は螺旋状の凹凸があり、ネジ穴のようになっている。
私はその小さな玉を見て翔さんの鼻に付いていたピアスのキャッチの事が頭を過った。
サイズ感が似てる、でも何故ここに?
そう疑問に思いながら、目の前の扉を見上げた。
薄暗い中で白く浮かび上がる木製の扉、中は電気がついているようで下の隙間から白い光が漏れている。
翔さんが以前、この扉は地下講堂に続いていて怪しい集会が行われている、と妄想を口にしていて彼はこの場所に怯えていた。
そんな非現実的な怪しい集会が行われてるとか建物に秘密の地下室があるとは思えない、そう思いながらも私は少しドキドキしながら慎重に扉に近づき、耳を当ててみる。
中からは何も聞こえない。
鉄の玉をポケットに入れて私は再び周に人がいない事を確認し、ドアノブのすぐ横に取り付けられた開錠用の機械をパカッと開けた。
この場所が本当にヤバい所なら、いち従業員の社員番号では開錠出来ないかもしれない。
私はノートに反転して転写された北村真由美さんの社員番号を1つづつ打ち込んでいく。
ピーっと鳴ってガチャと開錠された音が玄関ホールに響く。
本当に開いてしまった…。
翔さんの言う事を半信半疑でも、疑念でもない、そもそも信じていないのだが、それでも私は扉を開けるのを躊躇い、緊張した。
ドアノブに手を乗せてゆっくりとノブを下げる、手前に引くと室内から放出された灯りを浴びて眩しさに目を細めた。
目を慣らし、しっかり開いて見ると室内は薬剤室のようだった。
4畳ほどの室内は真ん中の通路を確保するように壁3面に棚が設置されていて、棚には箱に入った薬や点滴薬、缶詰などがたくさん置かれている。
缶詰は食事の摂取が困難な患者用の栄養価の高い物で、点滴は風邪などで高熱が出た時に良く用いる電解質輸液タイプの定番の輸液バックだ。
その他の薬も、解熱、鎮痛薬のアセトアミノフェンや、栄養補助薬品が置かれている。
あとは抗うつ剤や睡眠薬、抗不安薬など。
これらの薬の特徴は高橋所長が貸してくれた本に書かれていた物で私は覚えておいて損は無いと思い、ある程度覚えていた。
依存性の強い薬も置いてあるため薬剤室がこの場所にあるのはこの施設の利用者の特徴を踏まえての事だろう、と私は推測した。
少し拍子抜けしてしまうが、まぁ、こんなもんだよね、と思いながら私は部屋を後にする。
部屋を出る前に電気を消しておこうと、スイッチを押してから外に出た。
扉が閉まる直前、私の目は何かの違和感を捉える。
閉まり切る直前の扉を手で掴み、手前に引く。
部屋の奥の、棚の横から光が漏れている。
それを見た私は、再び、室内に足を踏み入れた。




