それぞれの想い
———ゆっくりと近づいてくる高橋所長の顔。
…これはっ
と思った瞬間、私は思いっきり頭を下げた。
ゴツンッと鈍い音と共に私のおでこと高橋所長の顎が衝突し、彼はうっと声を上げる。
思いの外衝撃が強く、私はおでこを指すると彼も顎に手を当てて痛がった。
やり過ぎてしまった、と焦っていると高橋所長は肩を揺らして笑い出す。
「顎が外れるかと思った、」
そう言って眼鏡を外し、白衣の袖を潤んだ目に当てた。脳にまで衝撃が来た、と言うと私は少し気まずくなり苦笑いする。
ポーンとエレベーターの到着する音が聞こえると、彼はぱっと体制を戻し、行きましょうか、と言って部屋の方向へ体を向ける。3階に来たのはスタッフだったようで、事務室の方へと歩いて行く。
…さっきのを見られてなくて良かった。
何事も無かったかのように歩き出す高橋所長に合わせて私も足を動かす。
バクバクする心臓を携えながら、膝の曲げ方を忘れてしまったかのようなぎこちない歩き方になってしまった。
自分の部屋に着くと、高橋所長に深くお辞儀して私は室内に入った。
「タオル、ありますか?」
「お腹が空いたら遠慮なく言って下さいね」
扉を閉める直前まで彼は気遣ってくれて、私はその言葉にペコペコと頭を下げながら手を横に振り、大丈夫だと言う事をアピールする。
パタン、と扉が閉まると扉に背を預けてふぅーと息を吐き出しその場に座り込んだ。
頭の中ではぐるぐると先ほどの情景が止めどなく浮かんで来て、目が点になる。
…危うく唇が触れるところだった。
お付き合いもしていないのに、それはダメだと思う。
“会いに行っていいか”は“付き合って下さい”では無い、よね?
私の返事は“会いに来ても良いですよ”って意味合いなのだが、何か認識の違いでも生じたのだろうか。
それに、あれは無理だ、整った顔であんなに真っ直ぐ見られたら首を横に振るなんて出来ない。誰だって頷いてしまう。
私はチョロい女なのだろうか…。
カナちゃんが以前言っていた“好きになるとその人の事で頭がいっぱいになる”という言葉を思い出してみる。
高橋所長が私の頭を占領しているかと言われるとそうではないように思う、でも少しづつ心を動かされているのは感じている。
彼に対するこの気持ちは恋なのだろうか、サッパリ分からない。今は男性として好き、と言うより人として好きの方がしっくりくる気がする。
この気持ちは敬意なのか恋なのか経験が乏しい私には何一つ分からない。
扉の前で体育座りして足をジタバタさせながら考えてみるが、もやもやした気持ちが晴れる事はなく、私を悩ませた。
顔も火照ったまま、熱が冷めない。
頭を巡らせても答えは出なさそうなので、取り敢えず私は浴びた花瓶の水を流すため、お風呂場へと向かった。
————————
「甘やかされ過ぎた女の末路だよ」
カウンターに背を向けて寄り掛かりながら苺クリームの入ったクッキーを一口食べるとカナちゃんが言った。
私は彼女の横でチョコチップクッキーに齧り付く。
私達は給湯室のカウンターの前で立ち話をしている。
“甘やかされ過ぎた女”と言うのはいちごちゃんの事だ。
いちごちゃんのお父さんは日本で1位2位の売り上げを誇る有名なお菓子メーカーの会社社長で、両親は娘の事を大事に大事に育てて来た。
しかし癇癪を起こす癖がトラブルの元になり、施設を転々として来たそうだ。
「ここに来て高橋を気に入って、“言う事を聞く良い子”をしていたのに、つい、本性出しちゃったんだね」
食堂でのあの事件があった翌々日に彼女はこの施設を退所しており、一旦家には戻るがまた直ぐに他の施設に入るだろうね、とカナちゃんは言う。
お見送りの際には高橋所長も姿を現したがいちごちゃんは俯き、憔悴しきっていた、と現場に居たスタッフが話しているのを聞いたそうだ。
私は、生活拠点を転々としている彼女は心から安らげる場所はあるのだろうかと考えた。
逆立った棘を下ろせる場所が無く、苛立ち、周りにぶつけてしまう、そう考えるといちごちゃんは悪循環の中に放り込まれているように感じる。
そんな彼女はやっとこの場所で高橋所長を見つけたのに、私がそれを奪ってしまったように思えてしまう。
彼女から高橋所長を取るつもりはないが、いちごちゃんの気持ちを考えると胸が痛み、悪い事をしてしまったという気持ちが込み上げてきた。
彼女が好きな洋服を着てよく過ごしていた中庭の洋風東屋を見ながらぼんやりしていると、カナちゃんは私の鼻をいきなり摘んできた。
私は、んむっと変な声を出してしまう。
「何でお前が落ち込むんだよ、何も悪い事してないんだから、伊集院の自業自得だろ」
そう言いながらクッキーの袋をカウンター下のゴミ箱に捨てる。
私は摘まれて赤くなった鼻を手でさすりながらペコリと頷いた。不器用だけどこれが彼女の優しさで、一応励ましてくれている。
「もう弱るのはあのドブネズミだけで充分だよ」
カナちゃんが言う“ドブネズミ”とは翔さんの事だ。
一昨日から引き篭っていて、食堂にも顔を出していない。
「本当に退所が近いのかも」
そう言うとカナちゃんは翔さんが良く座っていた定位置のソファーを見た。
カナちゃん曰く、翔さんは退所となると父親の所有する空きマンションへ放り込まれるそうだ。
翔さんの父親は家電製品を製造する大手企業の役員で、厳格な性格をしており何かあると容赦なく手を挙げて、家族を暴力で支配するような人間。
翔さんには特に厳しくて、表には出さず家に閉じ込めたり施設に入れたりして自分の監視下に置こうとする。
「今まで聞いたどの親より、あいつの父親が1番のクズだよ」
腕を組みながら眉間に皺を寄せてカナちゃんは言った。
彼はそんな父親のお金で生活する事実が嫌で、家を飛び出しては夜な夜なクラブやバーなどへ入り浸り、色んな人の家や公園を転々とするホームレスのような生活をしてきた。
どんな人間かも知らずに着いていき、酷い目に遭う事もあった、それでもマンションには帰らず外で過ごす事もあるそうだ。
転がり込んだ先の住人に依存されて家を出る事もあって割り切った関係で留めていたいのだが、恋人関係を迫られると逃げてしまう。
誰かの“所有物”にはなりたく無い、とよく言っていたらしくその点では女の子より男の方が楽だと言う。
そして翔さんもいちごちゃん同様、安らげる場所が用意されている訳ではない。
いちごちゃんはまだ守られているが、翔さんはここを出たら彼を守る人間は居ない。
翔さんは父親の束縛から逃げ回る日々を送るしか無いのだろうか、この施設に居続けるのもまた“父親の金”と考えてしまうのかな。
私に何が出来るのか、どんなに考えても翔さんを救えるような答えを見出せそうに無く、自分の無力さに落胆した。
悔しさでギュッと手を握りしめる。
「マンションに住んでればUberが来て、家事代行も来て、何不自由なく過ごせるのにあいつはドブネズミ生活を選んでんのよ」
親が嫌いな気持ちは分かるけどさ、とカナちゃんは呟く。
カナちゃんは人の事は話すが、自分の事はあまり話さない。話しても学生生活の思い出だったり恋愛に関する自身の経験だったりで、家族の事が話に出て来た事はない。
彼女は表立って気を強く持って生きている、きっと人に弱味を見せたくないのだろう。
そういう人は胸の内に沢山の事を抱え込んでいて、きっと苦しくなる時があるはず。
いつか私に、自身の触れられたく無い部分を曝け出してくれるほど彼女が安心して心を開ける存在になりたい、そう思った。




