第101話 心の奥底に巣食う闇
「実は先程、私達の街からマキラを見に行った斥候がとんでもないものの存在を報告したのです。」
「とんでもないものだと?」
キスリアはひどく深刻な表情をしていた。それは領主であったデウスの死のことを話す時以上の物だった。
「ええ、マキラから、デウスへ向けて、マキラの民達が、大量に押し寄せ始めているのだそうです。彼らは皆何か黒いモヤの様なものに覆われていて―。」
「黒いモヤだと!!??」
俺はその言葉に咄嗟に叫んでいた。ここまで落ち着いていた俺の心音が跳ね上がる。怒りが恐怖が、身体全体から溢れ出すのが分かるが、俺はそれを止めることもできず、周囲に撒き散らしていた。
「―ッン! ―ン! ―のじゃ!」
そんな俺に縋り付く様に何かが声をかけてくるが、俺はそんなものに構っている余裕はなく振り払う。
その瞬間、俺は何かに突然流され、部屋の壁に叩きつけられる。
その衝撃で周囲の家具が散乱し、周囲の混乱をせきとめるほどの大きな音が辺りに響き渡る。
その時俺の耳に心に、温かい音が響く。
「ジン! 落ち着くのじゃ! 今ここでそれをぶちまけてはならぬのじゃ! 護るべきものをその場の感情で履き違えるな!」
俺はその声にハッとして声のする方へ目を向ける。
そこには、右腕を地面に力なく垂らしながら、左腕を俺へと伸ばして技を撃ったチサが居た。
その近くには、明らかに恐怖で震えが止まらなくなり何かを呟きながらうずくまるキスリアが居た。
俺は自分の姿に目を向ける。俺の身体からは、今まで見たこともないほどの全てを吸い尽くす程の闇が吹き出していた。
俺は、怒りや恐怖で盲目的になっていた頭が次第にクリアになっていくのを感じる。すると俺の身体から吹き出していた闇は収まった。俺はチサへと駆け寄る。
「チサ! チサ! すまない......。俺は我を忘れていた。大丈夫か? 痛い思いをさせてしまった。くそっ! 俺はお前になんて言えばいいんだよ......。」
「ふっ。気にする必要はないのじゃ。ジンからもの凄い勢いで闇が吹き出して来たときはどうしようかと思ったが何とか止められて良かったのじゃ。」
「だが、俺はチサを......。」
「闘技大会であれだけ斬撃を打ち込んできたやつが今更何をいうておる。」
「それは、事前に戦うと知らされていただろう! だが今のは違った。俺の私情でチサを、そして、キスリアを危険に晒してしまった。」
俺は自覚すらしないうちに心の奥底で育っていた、自分の本当に大切なものや護るべきものを失ってしまうかもしれないほどの感情に震え上がる。
気付けば俺は泣いていたらしい。チサが俺を抱きしめていた。
「ジン、泣くでないぞ。妾はジンから聞いた話しか知らぬから、ジンがどんなに辛く苦しい思いをしたのかは分からぬ。でも妾は何があっても側にいるし、ジンが自分の感情を制御できない時は妾が今みたいに止めてやるのじゃ。何度だっての。だから、自分を責めるのはやめるのじゃ!」
「ありがとう。チサ。」
俺はチサを抱きしめ返す。そんなところに複数人の男たちがやってくる。
「おい! キスリア! 大丈夫か? 何かあったのか?」
彼らはこの部屋から聞こえた異様な音の通報を受けてやってきた様で、皆がある程度の武器と鎧を着込んだ兵士達だった。
「これは酷い荒れ様だが、何があったんだ??」
部屋は水浸しで、壊れた家具が散乱し、部屋の両側の壁には、俺とチサがぶつかったことによるクモの巣状のひび割れができていた。
その場に居た人物で、キスリアはすっかり震え上がって地面から立ち上がることも出来ず、かたや俺は泣いており、かたやチサは俺を抱きしめているという異様な光景が広がっていた。
キスリアはすっかり正気を失っており、話すこともできなかったし、こうなった原因である俺は怒りで我を忘れていたこともあってこうなった状況を説明することはできなかった。
「すまぬのじゃ。迷惑をかけた。妾が説明する。」
結局この場でこの状況を説明できるのはチサしかおらず、こうなってしまった経緯を兵の男に説明する。
「なるほどな。チサが説明することに嘘はなさそうだ。キスリアはずっとこうやって怯えていた以上、落ち着いてもまともな状況は聞けないだろうな。」
この男、デウス領警邏隊隊長のジドンというらしい。俺たちの強さから、何か問題があれば、彼が対応する様に生前のデウスから連絡を受けていたそうだ。
「のう? ジドン。妾たちはこのままというわけにはいかぬのではないか? ここまでの問題を起こしてしまえばこのままというわけにはいかぬのであろう?」
チサの言うことは間違いなかった。事実俺は俺自身が制御できない力を振りかざしてしまったのだから。またいつ起こってしまうかも分からない暴走で、今度はデウス領の民たちを傷つける可能性は皆無というわけではなかった。
「そうだ。だが、今は状況が状況なだけにお前らを、閉じ込めて置くわけにもいかねぇ。そもそも、この部屋の壁にここまでの傷をつけられるやつを閉じ込めておける様な場所なんてここにはないからな。」
「なら、追い出すか?」
俺はこの力を恐れていた。少し強がった物言いだが、今の俺が、落ち込んでいるのは一目瞭然だっただろう。
「いや、そういうわけにもいかんのだ。お前たちの力が無ければ、この大陸の領主を蹴散らす様な者に勝てる可能性は皆無になる。」
ジドンは、ひどく深刻な顔をする。彼にとってはとても苦しいことだろう。なんせ、俺をこのまま抱え込むのは、領民を傷つけるリスクを負うということだったし、かといって俺たちを追放すれば、アルに対抗する手段を失うことになるのだから。
「お前たちにこのまま協力してもらうにしても、事情の説明でこうも暴走されるリスクがあるのは厳しいものがあるしな。さてどうするべきか......。」
「ならこういうのはどうじゃ? ひとまず、妾が今の事情を聞こう。そして、その状況を妾からジンに説明する。妾であれば、ジンのことをかなり知っておる。そして、もしジンが暴走しても妾ならば止められる筈じゃ。」
「分かった。そうしよう。考えればもっと方法があるのかもしれないが、今は悠長に会議している時間さえも惜しい。」
「ジン。それで良いかの?」
「チサすまない......。よろしく頼む。」
俺はチサに任せっきりになる自分がひどく情けなくて、全てを言い切る前に顔を背けてしまう。
チサは俺に何かいいたそうだったが、今は一刻を争う状況の様で、ジドンに呼ばれると別の場所へと移動してゆく。それと同時にキスリアは別の兵たちによって抱き上げられ部屋を出てゆき、この部屋に俺はただ一人残されるのだった。