#012『波に返す大聖堂』
『波に返す大聖堂』
九月末の海は、夏と秋が力比べをしているような奇妙な均衡の中にあった。
頭上から照りつける太陽には、まだ肌を突き刺すような暴力的な熱が残っている。しかし、沖合から吹き抜けてくる強い海風には、確かな冬の予感を含んだ冷たさが混じっていた。
肺の奥まで深く空気を吸い込むと、乾燥した塩の匂いと、波打ち際に打ち上げられてゼリー状に腐ちていく海藻の生臭さが、鼻腔の奥にツンとした刺激をもたらした。
私は砂浜から一段高い防波堤のひび割れたコンクリートの上に腰を下ろし、缶コーヒーの最後の一口を飲み干した。
舌の上に残る、人工的な甘味料のベタつきと酸化した豆の不快なえぐみ。私はそれを唾液ごと吐き捨てたい衝動に駆られたが、ただ無言で胃の腑へと飲み込んだ。
手のひらでコンクリートの防波堤をなぞる。ひび割れた溝に入り込む砂のざらつきが、嫌でも自分の生業を思い出させた。
三十年間、私は都内で設計事務所を回し、いま触れているものに似た堅牢なコンクリートの塊ばかりを作ってきた。
美術館。市庁舎。巨大な商業コンプレックス。
地図に残り、何十年、何百年と「永遠」を騙ってそこに存在し続けるはずの頑丈な箱だ。
しかし、ここ数年、私の内側の何かが完全に枯渇していた。
どんなに分厚い鉄筋コンクリートで壁を築いても、どれほど頑丈な免震構造を組み込んでも、形あるものはいつか必ず劣化して崩壊するのだ。
先月、私が三十代の頃に心血を注いで設計した海辺の図書館が、老朽化と塩害を理由にあっけなく取り壊されることに決まった。
私が永遠を信じて図面を引いた巨大な塊が、重機の爪に引き裂かれ、数週間でただの乾いた瓦礫の山に変わる。その無残な様子とスピードを想像した瞬間、私の内側から「何かを作り出す」熱が、嘘のように根こそぎ消え失せていた。
逃げるように車を走らせ、たどり着いたのがこの千葉の九十九里の果てにある、観光客も寄り付かないような寂れた海岸だった。
防波堤の上から、私はただ漫然と波打ち際を眺めていた。
ザザーッと重低音を響かせて波が打ち寄せ、シュワシュワと白い泡を立てながら引いていく。その単調なリズムは、私の空っぽになった頭を麻痺させるにはちょうどよかった。
ふと、視界の端に動くものがあった。
打ち寄せる波の、その本当にギリギリの境界線。濡れて黒く変色した砂浜の上に、一人の人間がしゃがみ込んでいる。
白いワンピースの女の子。
女子高生くらいだろうか。風に大きく煽られる薄手の白い布地が、強烈な日差しを反射して網膜をチカチカと焼く。彼女の頭には、つばの広い大きな麦藁帽子が被せられており、そのせいであの眩しい太陽の下でも、彼女の顔の上半分は濃い影の中に沈んでいた。
あんな波打ち際で何をしているのか。
私は目を凝らした。
彼女の足元には黒い砂で作られた建造物があった。それは子どもがプラスチックのバケツをひっくり返して作るような、ありふれた砂山ではなかった。尖塔があり、アーチ型の門があり、外壁には細かい装飾まで施されている。まるでヨーロッパのゴシック大聖堂を手のひらサイズに縮小したような、異常なほど精巧な砂の城だった。
少し近づいてその城を見た。構造力学的なバランスも取れている。湿った砂の凝集力を完璧に計算しなければ、あんなに細く高い塔を立てることはできない。
しかし、次の瞬間だった。
ドザァッ! ひときわ大きなうねりが押し寄せ、白い波の先端が、その見事な砂の大聖堂を容赦なく呑み込んだ。
あっ、と私が声を上げるより早く、波が引いていく。あとに残ったのは、尖塔が溶け落ち、見る影もなく崩れ去った、ただの濡れた砂の塊だった。
「ああ……」
私は落胆の息を漏らした。あれほどの力作がわずか数秒で無に帰してしまった。
ところが、だ。
麦藁帽子の彼女は、悲しむ素振りも、悔しがる様子も見せなかった。
彼女は両手で再び濡れた砂をかき集めると、崩れた土台の上に、ペタペタと新たな砂を積み上げ始めたのだ。迷いのない手つきで、再びアーチを組み、塔を削り出していく。
その時、沖からひときわ強い突風が吹き付けた。
バサッ、と音を立てて、彼女の着ている薄手の白いワンピースの裾が、太腿のあたりまで大きくめくれ上がった。秋の冷たい海風が容赦なく吹きつけ、濡れた素肌を晒している。
私は思わず目を逸らしかけた。だが、彼女の反応を見て、私は息を呑み、その場に釘付けになった。
彼女は、めくれ上がったスカートを直そうともしなかったのだ。
突風に煽られ、頭の麦藁帽子が飛ばされそうになると、彼女は泥だらけの手の甲で必死に帽子のつばだけを頭に押さえつけた。無防備な格好が晒されようが、冷たい風が肌を打とうが、彼女は一切気にする素振りを見せない。
見ず知らずの男の目がそこにあるというのに、彼女はただ、飛ぼうとする帽子を押さえることと、目の前の砂の城だけに全神経を注いでいた。
他者の視線を気にするような、ごく当たり前の防衛機制が、彼女の頭からは完全に抜け落ちているようだった。
目の前にある黒い砂と、牙を剥く波。彼女の境界線は、その極小の領土だけで完結している。
己がどう晒されようが頓着しないその極端な没頭は、純粋さを通り越して、見ているこちらが息苦しくなるほどの危うさを孕んでいた。
今にも彼女自身が、あの砂の城と一緒に海にさらわれて消えてしまうのではないかという、異様な危うさ。
私は防波堤から飛び降りた。高級な革靴が乾いた砂に沈み込み、歩くたびにジャリジャリと不快な音を立てる。スーツのズボンの裾が砂まみれになるのも構わず、私は波打ち際へと歩みを進めた。
近づくにつれ、彼女の姿がはっきりと見えてきた。
白いワンピースの裾はすでに波飛沫を浴びて重たく濡れ、透明になって肌に張り付いている。しゃがみ込む彼女の細い背中には、うっすらと汗が滲み、潮の匂いに混じって、甘いシャンプーの匂いと十代特有の体温の匂いが微かに漂ってきた。
「……お嬢さん」
波の音に負けないよう、少し大きな声で私は話しかけた。
彼女はビクッと肩を揺らし、手を止めてこちらを見上げた。麦藁帽子の下から、酷く澄んだ、黒曜石のような瞳が私を射抜いた。
「こんなところで、何をしているんだ」
「……見ればわかると思いますけど。砂のお城を作っています」
彼女は怪訝そうに眉をひそめ、声変わりする前の少年のような、少しハスキーな声で答えた。
「それはわかる。私が聞きたいのは、なぜ『そこ』で作っているのか、ということだ」
私は彼女のすぐ数メートル先で牙を剥いている白い波を指差した。
「きみの作っている城は、素人が作ったものじゃない。砂の水分量と重力を完全に理解している。だが、あと五メートル陸側に下がって、乾いた砂で作れば、少なくとも明日の朝までは形を残せるはずだ。なぜ、わざわざ波にさらわれるのに作り続ける? 徒労じゃないのか」
私の問いに、彼女はゆっくりと立ち上がった。
再び海風が吹き抜け、彼女の白いワンピースをバタバタと激しく叩く。スカートがめくれるが、彼女はやはり片手で麦藁帽子を押さえるだけで、裾を直そうとはしなかった。濡れて砂まみれになった細いふくらはぎに、冷たい波の先端が打ち寄せている。
「明日の朝まで残して、どうするんですか?」
「なんだって?」
「誰にも見られず、ただ風に削られて乾いていくだけの抜け殻なんて、つまらないじゃないですか」
彼女はすぐそこまで迫る白い波の先端へ、挑むような視線を向けた。
「波が来て、全部さらっていく。残るのは、この海と私が見た一瞬だけ。それが、一番綺麗なんです」
永遠なんて信じていない。その潔いまでの態度は、建築家として永遠を追い求め、そして挫折した私の胸の奥を、鋭い刃物のようにえぐった。
彼女はそれだけ言うと、再び砂の上にしゃがみ込み、愛おしそうに湿った砂を撫でて作業を再開した。
指先で砂を削る、スッ、スッという微かな摩擦音が、波の合間に聞こえてくる。大きく開いた襟元から、華奢な鎖骨と白い胸元が覗いているが、彼女の意識は完全に手のひらの中の湿った砂にしか向いていない。
私は、圧倒されていた。
五十四歳の、百戦錬磨の建築家である私が、たかだか十七、八の危うさに満ちた少女の言葉に、これほど打ちのめされるとは。永遠という呪縛に囚われて身動きが取れなくなっていた私に比べ、波と戯れる彼女のなんと自由で残酷で美しいことか。
「……手伝っても、いいかな」
気がつけば、私の口からそんな言葉がこぼれていた。
彼女は手を止めず、顔も上げずに言った。
「邪魔しないなら。ただし、靴と服は台無しになりますよ」
私は無言で革靴を脱ぎ捨て、靴下を脱ぎ、数万円するスーツのジャケットとシルクのネクタイを砂浜に放り投げた。そして、ワイシャツの袖をまくり上げ、ズボンの裾を膝まで引き上げると、彼女の隣にしゃがみ込んだ。
「これでも私は建築家だ。構造計算には自信がある」
「へえ」
彼女は少しだけ口角を上げた。
「じゃあ、そっちの右の塔をお願いします。できるだけ高く、細く。重力に逆らうように」
私は両手を波打ち際の濡れた砂に突き入れた。
その瞬間、強烈な冷たさと、無数の砂粒のザラザラとした荒々しい感触が手のひらに伝わってきた。長年、マウスとキーボード、あるいは滑らかな製図ペンしか握ってこなかった私の手が、地球の皮膚である「泥」に直接触れたのだ。
冷たい海水が足首を洗い、砂が足の指の間から逃げていく。
波が引くたびに、砂浜全体が足元から海へ引きずり込まれるような奇妙な浮遊感に襲われる。
「砂をもっと固く絞って。水分が多すぎると自重で崩れます」
彼女がすぐ横から指示を出す。肩が触れ合いそうな距離。彼女のむき出しの太腿から、ヒヤリとした冷気が伝わってくる。
私は言われるがままに両手で砂を握りしめた。ギュッと砂が固まり、指の隙間から冷たい海水が滴り落ちる。その感触は、子供の頃に泥団子を作った時の、あの純粋な創造の喜びに似ていた。
「きみは、どうしてこんなことを始めたんだ?」
右の塔の土台に濡れた砂を押し付けながら、私は何気なく尋ねた。
彼女はすぐには答えず、アーチの部分を慎重に、小指の腹で削り落としていた。
波が引く音だけが、私たちの間を通り抜けていく。
「……来年、美大の彫刻科を受験するんです」
ぽつりと、砂を見つめたまま彼女が言った。
「でも、周りはみんな上手くて。私、ずっと『残るもの』を作らなきゃって、焦ってばかりいました。石を彫っても、木を削っても、どこか誰かの真似みたいで、全然おもしろくなくて。息が詰まりそうだった」
指先を動かす彼女の横顔を、私は無言で見つめた。
「それである日ここに来て、これを作ってみたんです。波が来て、あっという間に消えました。その時……」
彼女は手を止め、自分の泥だらけの手のひらを不思議そうに見つめた。
「すごく、ホッとしたんです」
「ホッとした?」
「はい。ああ、残らなくていいんだ、永遠じゃなくていいんだって。波にさらわれるその一瞬、私と、この海だけがこれの本当の姿を知っていれば、それでいい。そう思ったら――」
彼女は再び、砂に指を滑らせた。
「指先から魔法みたいに、いろんな形が溢れてくるようになったんです」
彼女の言葉を聞きながら、私は自分の作っている塔を見つめた。
私の指先は、図面を引いていた時よりもはるかに生き生きと動いていた。CAD(自動設計ソフト)の画面上では絶対に計算しきれない、砂粒一つ一つの不規則な摩擦係数。重力と闘いながら、崩壊のギリギリのラインで立ち上がる、奇跡のようなバランス。
「できました」
彼女の声に私は手を止めた。
私たちの目の前には、今までで最も大きく、最も複雑な砂の城がそびえ立っていた。中央に巨大なドームがあり、私が作った右の塔と彼女が作った左の塔が、繊細な砂のアーチで結ばれている。城壁には無数の窓が穿たれ、その向こう側に、傾きかけた夕陽の血のような赤い光が透けて見えた。
それは永遠を拒絶し、たった今この瞬間だけの美しさを誇示する、傲慢なまでに完璧な建築だった。
「……美しいな」
私は泥だらけの自分の両手を見つめながら呟いた。
「来ますよ」
彼女が海に向かって顎をしゃくった。
沖合から、ひときわ大きく暗い影を持ったうねりが近づいてくる。
ゴゴゴゴ……という地鳴りのような音が、足元の砂浜を震わせた。
私は息を呑み、彼女は麦藁帽子のつばを強く握りしめた。風が彼女のスカートを激しく巻き上げたが、彼女の視線はただ一点、砂の城の頂点にのみ注がれていた。
ザパーーーン!!!
強烈な波飛沫が上がり、冷たい海水の壁が、私たちの作り上げた砂の城に真っ向から激突した。
口の中にしょっぱい海水の味が飛び込んでくる。目を開けていられないほどの飛沫。
波が引いていく時の、シュルルルル……という無数の泡の音が、まるで城が息を引き取る時のため息のように聞こえた。
私が目を開けると、そこには完全に平坦になった、鏡のように濡れた砂浜があるだけだった。
私たちの完璧な大聖堂は、欠片すら残さず、完全に海へと還っていた。
「あーあ、持っていかれちゃった」
彼女は、まるでゲームに負けた子供のようにケラケラと明るく笑った。その笑顔は悲壮感など微塵もない、狂気的なまでの創造の喜びに満ち溢れたものだった。
私は濡れた砂の上に尻餅をついたまま、空を見上げた。
九月の高く澄んだ空は、西の端からすでに深い藍色に染まり始めていた。
永遠に残るものなど、何もない。
だからこそ、人は抗うのではなく、その一瞬の輝きのために全力を注ぐことができるのだ。
自分のすべてが波に晒されようとも、気に留めることなく。
「……きみの勝ちだ」
「勝ち?」
「いや、なんでもない」
私は泥だらけになった自分のワイシャツを見て笑い出した。こんなに腹の底から声を出して笑ったのは、何年ぶりだろうか。
彼女は不思議そうに私を見てから、立ち上がってスカートの砂をパンパンと払った。
「もうすぐ満潮です。これ以上は危ないから、今日は終わりにします」
彼女は私に向かって、泥だらけの小さな手を差し出した。私はその手を取り、立ち上がった。彼女の手は、海水の冷たさの奥に、確かな若い生命の熱を帯びていた。
「おじさん、またね。いい塔だったよ」
彼女はそれだけ言うと、麦藁帽子を押さえながら、裸足のまま防波堤の方へ向かって軽やかに駆けていった。風に舞う白いワンピースの裾が翻り、無防備な白い脚が夕闇の中に溶けて見えなくなるまで、私はその危うくも力強い背中を見送っていた。
波の音が再び単調なリズムを刻み始める。
しかし、その音はもう、私の心を麻痺させるような空虚な響きではなかった。
私は砂まみれになった自分の革靴を拾い上げた。
事務所に帰ろう。
そして、絶対に永遠には残らない、その土地の風と光と共に呼吸し、いつかは朽ちて自然に還っていくような、そんな「生きている建築」の図面を、もう一度最初から引き直そう。
海風が私を後押しするように強く吹いた。
私の指先には、まだ微かに、波打ち際の砂の冷たくてザラザラとした感触が、確かな重みとして残っていた。




