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第30話 それでも明日へ向かって

 夜風は、コートを持たないペラペラのスーツ姿のおっさんにとっては、骨の髄まで冷え込むほどの冷たさを持っていた。


 新東京市の中心部にそびえ立つ、クロノス商事のオフィスビル。

 その屋上のフェンスに寄りかかりながら、俺(神堂誠)は、自動販売機で買ったばかりの缶コーヒーを額に押し当てていた。


「……痛てててて。マジで全身バキバキだ……」


 思わず、おっさん臭い呻き声が漏れる。

 ブラックマンデー結界を打ち破り、巨大悪魔『ブラック・プレジデント』で粉砕したあの死闘から、すでに一週間が経過していた。


 世界(新東京市のビジネス街)は救われた。

 市民たちは、何事もなかったかのように職場へと復帰し、今日も今日とて満員電車に揺られ、上司に怒鳴られ、終わらないノルマに追われている。

 彼らは自分たちがどれほどの危機に瀕していたかを知らないし、ましてや、純白のフリルドレスを着た三十歳の営業部主任が、彼らの「労働の権利」を守り抜いたことなど、知る由もない。


「ふぅ……」


 俺は、プルタブを開け、缶コーヒーを喉の奥へと流し込んだ。

 ブラックではない。胃が完全に荒れ果てているため、最近はもっぱらミルクと砂糖がたっぷり入った微糖タイプしか受け付けなくなってしまった。

 甘い液体が、疲労困憊の身体にわずかな熱をもたらす。


 眼下には、煌びやかな新東京市の夜景が広がっている。

 無数のオフィスビルの窓から漏れる光は、この街の経済活動が正常に機能している証だ。

 だが、俺の目には、その美しい光の一つ一つが、「今この瞬間も残業している同志たちの命の削りカス」にしか見えなかった。


「……給料三倍になったところで、使う時間がないんじゃ意味がないんだよな」


 俺は、空になった缶をゴミ箱に放り投げ、深い溜息をついた。


 軍の特務機関、御堂マキ博士から提示された『給料三倍』と『特別有給休暇の付与』という甘い言葉。

 確かに、銀行口座の残高は信じられない速度で増え始めている。だが、俺を取り巻く環境は、あの死闘を経ても何一つ改善されていなかった。


 むしろ、悪化していると言っても過言ではない。


 ブルルルルッ。

 ブルルルルッ。


 俺のスーツの右ポケットと左ポケットで、同時に二つのスマホが振動を始めた。

 右は、軍から支給された対ノワール用の偽装端末。

 左は、俺個人の私用(兼社用)の、画面にヒビの入った安いスマホ。


 俺は、胃のあたりを片手で押さえながら、恐る恐る両方の画面を同時に開いた。


 まずは、右の軍用端末。

 画面には、青いキラキラした星のスタンプと共に、メッセージアプリの通知が表示されていた。送信者は『ピュア・サファイア(結衣)』。


『シロお姉様! 今日も一日お疲れ様でした!(≧∀≦)

 今日もこの後、平和を守るために一緒にパトロール行きましょうね! 終わったら、またファミレスで、メガ盛りパフェ食べたいです! 駅前で待ってます!٩( 'ω' )و』


「…………」


 俺は、その純真無垢すぎる文面を見て、そっと目を閉じた。


 若い。若すぎる。

 高校生という無尽蔵の体力と、世界を救うことへの一点の曇りもない情熱。

 あんなにボロボロになって戦ったばかりだというのに、もうパトロール(という名の夜の散歩)とメガ盛りパフェを要求してくるそのスタミナは、社畜のおっさんにとっては恐怖以外の何物でもない。

 おじさんの胃袋は、もう連日の深夜パフェに耐えられないんだよ、結衣ちゃん……。


 そして。

 俺は、覚悟を決めて、左の手にある私用スマホの画面に目を落とした。


 送信者は、『氷室玲奈部長』。


 表示されたメッセージを読んだ瞬間、俺の全身の毛穴から、夜風を上回る零度の冷や汗が噴き出した。


『神堂くん。お疲れ様。

 今夜のA社コンペの資料の再々チェックだけど、部長室で手伝ってもらうわ。終わるまで帰さないから、そのつもりで。もし嘘をついたり、誤魔化して逃げたりしたら……明日のあなたの査定は、最低ランクのD確定よ。分かってるわね?』


「…………ッ!!!」


 俺は、スマホを取り落としそうになるのを必死に堪えた。


 怖い。


 ホラー映画の貞子よりも、どんな強大な敵よりも、何百倍も恐ろしい。

 普段の『氷山の悪魔』としての冷徹なビジネスライクの文面から、隠しきれないドス黒い「殺意」と「嫉妬」が漏れ出している。

 恐らく、シロ(俺)と結衣が抱き合っているところを目撃した彼女は、そのやり場のない嫉妬を、終わらない業務という形で俺に八つ当たりしてきているのだ。


 完全に、逃げ道を塞がれていた。


 右を見れば、無尽蔵の体力でパトロールを強要してくる純粋な後輩魔法少女。

 左を見れば、推しの浮気現場(?)を目撃した腹いせに部下を地獄の残業に叩き込む、痴女オタクの鬼上司。


 そして、その両方の『ヒロイン』の正体であり、矢面に立たされているのは……徹夜明けで全身バキバキの、三十歳のおっさんである。


「……ふざけんなよ」


 俺は、屋上のコンクリートの床に、膝から崩れ落ちた。


「俺は……俺はただ、定時で帰って、泥のように眠りたいだけなのに……っ!」


 俺は、二つのスマホの画面を交互に見比べながら、夜空に向かって、魂の底からの叫びを上げた。


「……誰か、俺の胃腸と有給休暇を救ってくれェェェェェッ!!」


 三十歳の社畜の悲痛な叫びは、新東京市のネオンの光に吸い込まれ、誰に届くこともなく虚しく消えていった。


 誰も助けてはくれない。

 結衣とのパトロール(という名の接待)をこなしつつ、玲奈部長の残業(という名の八つ当たり)を、己の正体を絶対に隠し通しながら耐え抜かなければならない。

 もし「俺がシロです」とバレれば、文字通り社会的に抹殺される。

 俺の理不尽なダブルライフは、終わるどころか、いよいよ本格的な地獄のフェーズへと突入してしまったのだ。


「……ハァ。泣き言を言っても始まらない、か」


 俺は、よろよろと立ち上がり、スーツのズボンの膝をパンパンと払った。その時。


 ――ピィィィィィィィィンッ……!!


 突然、右ポケットの軍用端末が、これまでに聞いたことのない、甲高く、そして耳障りな特殊アラートを鳴らし始めたのだ。


「……なんだ?」


 俺は、ドアノブから手を離し、端末の画面を見た。


 表示されているのは、ノワール出現の赤い警告ではない。

 画面全体が、不気味な『紫色』と『黄金色』が混ざり合った、毒々しいマーブル模様に明滅している。

 そして、それに呼応するように。


「あれは……」


 俺は、夜空を見上げた。


 新東京市の煌びやかな夜景の、さらに上空。

 星一つないはずの分厚い雲を切り裂いて、一筋の『流れ星』が走ったのだ。


 しかし、その光は、美しい天体現象などではなかった。


 極彩色と漆黒が入り混じった、見ているだけで眼球が焼けるような、圧倒的で禍々しい魔力の軌跡。

 それが、弧を描いて、新東京市の中心部……まさに先日、ベルモットが結界を展開したあたりに向けて、ゆっくりと落ちていくのが見えた。


『シロ! 応答して!』


 通信機から、マキ博士の切羽詰まった声が飛び込んできた。

 背景では、軍のオペレーターたちの怒号が飛び交い、警報のサイレンが鳴り響いている。


「聞こえてます。なんだ、今の空の光は。またベルモットの残党ですか?」


『違うわ! 観測データにない、完全に異常な魔力波形よ! ノワールの黒い泥の反応でも、魔法少女の純粋なマナの反応でもない……その二つが完全に融合したような、未知のエネルギー体!』


「未知のエネルギー体?」

 俺は、眉をひそめた。


『わからない、新型ノワールか、あるいは……』

 マキ博士が、ゴクリと唾を飲み込む音が聞こえた。


『海外の支部で極秘に開発されていた、軍のコントロールを離れた「イレギュラーな魔法少女」の可能性もあるわ。……とにかく、あの光が落下したポイントへ、至急向かいなさい! レベルSの非常事態よ!』


「……レベルS、ですか」


 俺は、屋上の手すりから身を乗り出し、紫と黄金の光が落ちた方角をジッと見つめた。


 幸運なのか不運なのか、敵なのか味方なのか……あるいは、マキ博士の言うように、軍の裏の思惑が絡んだ、新たな魔法少女の介入か。


 どちらにせよ、俺の平穏な生活を脅かす、クソみたいな追加業務タスクであることに変わりはない。


「……了解しました。現着次第、状況を報告します」


 俺は、淡々と業務連絡のように答え、通信を切った。


 左のスマホの画面では、玲奈部長からの『早く部長室に来なさい(怒)』という追撃のメッセージが点滅している。

 俺は、その画面をスッとスワイプして電源を落とした。


 部長室での拷問は、ひとまず回避できた。

 その代償が、世界を滅ぼすかもしれない新たな脅威との戦い(残業)だというのだから、俺の人生の損益分岐点は、もうどこからどう間違えてしまったのか分からない。


「全く……」


 俺は、スーツのジャケットを脱ぎ捨て、ワイシャツの袖をまくり上げた。


「残業代の出ない仕事(トラブル対応)ばかり、増やしやがって……」


 大きく、一つだけ溜息をつき、死んだ魚の目に、極寒の社畜の闘志を宿す。


 右手の二本の指を立て、顔の横で猫の手のように丸めてから、ピースサインを作る。

 羞恥心など、とっくに宇宙の彼方に捨て去っている。


「変身システム(M.A.G.I.C.)、スタンバイ」


 俺は、夜空に向けて、一切の感情を排した声で、あの忌まわしい呪文を唱えた。


「煌めけ、私の純情。世界に届け、愛の奇跡。無表情ピース……きゅるんっ☆」


 ――シャランッ!!


 極彩色の光の奔流が、三十歳の疲れたサラリーマンの身体を包み込む。


 光の中から現れたのは。

 純白のフリルドレスを纏い、重量二トンの『ドリーム・ステッキ』を肩に担いだ、身長一四五センチの無表情な天使。


 正体を隠し通すため。

 理不尽な上司と、ブラックな敵組織から、自分自身の「定時退社の権利」を守り抜くため。

 過労死ギリギリの社畜魔法少女の戦いは、まだまだ続く。


 

 

 第一巻 完


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