番外編5:彼女を失う恐怖 ~ヴェルナー視点・第三話~
番外編5「彼女を失う恐怖 ~ヴェルナー視点・第三話~」
リディアが倒れた日のことを、俺は一生忘れないだろう。
あの日の恐怖を。
あの日の絶望を。
そして――
あの日、初めて気づいた、自分の本当の気持ちを。
***
それは、リディアが屋敷に来て一週間が経った頃だった。
彼女は、毎日精力的に庭の手入れをしていた。
薔薇園、温室、そして――記憶の庭園。
特に記憶の庭園には、深い関心を示していた。
「あそこには、大切な思い出が詰まっているのね」
彼女は、そう言っていた。
俺は、心配だった。
記憶の庭園の淀みは、特に濃い。
あそこは、俺が母を失った後――
一人で泣いた場所だ。
誰にも見せたくなかった、悲しみと絶望を吐き出した場所だ。
だから、淀みも深い。
***
その日の朝、リディアは早くから庭に出ていた。
俺は、書斎で書類仕事をしながら、時々窓から彼女を見ていた。
彼女は、記憶の庭園の奥――東屋に向かっていた。
「あそこは……」
俺の胸が、ざわついた。
東屋は、この屋敷で最も淀みが濃い場所だ。
母が亡くなった後、俺が魔力を暴走させた場所。
俺の悲しみと、後悔と、自責の念が――
全て、あの場所に溜まっている。
「まずい……」
俺は、立ち上がった。
窓から見ると、リディアが東屋の中に入っていくのが見えた。
***
俺は、すぐに書斎を飛び出した。
廊下を走り、階段を駆け下りる。
使用人たちが、驚いた顔で俺を見た。
「公爵様!」
「リディアは、どこだ!」
「記憶の庭園に……」
俺は、それ以上聞かずに庭に飛び出した。
記憶の庭園への道を、全力で走った。
淀みが、俺を包み込む。
でも、構わなかった。
リディアを――
彼女を、助けなければ。
***
東屋に着いた時、俺は息を呑んだ。
リディアが、床に両手をついて、苦しそうにしていた。
「リディア!」
俺は、彼女に駆け寄った。
「大丈夫か?」
「ヴェルナー、様……」
リディアは、顔を上げた。
その顔は、青白く、額には汗が浮かんでいた。
「ここの、淀みが……予想以上に……」
彼女の体が、ぐらりと傾いた。
俺は、反射的に彼女を抱きとめた。
「リディア!」
彼女の体は、ひどく冷たかった。
そして――軽かった。
こんなに華奢な体で、あんなに無理をしていたのか。
「馬鹿……」
俺は、彼女を抱きしめた。
「なんで、こんな無理をするんだ」
リディアは、か細い声で答えた。
「だって……放って、おけなくて……」
「お前は!」
俺の声が、震えた。
「お前は、いつもそうだ! 自分のことを顧みずに、他人のために――」
俺の目から、涙が落ちた。
「俺のために、無理をして……」
「ヴェルナー様……」
リディアは、俺の顔に手を伸ばそうとした。
でも、その手が――
力なく、落ちた。
「リディア!」
俺は、彼女を抱き上げた。
そして、全力で屋敷に向かって走った。
***
屋敷に着くと、使用人たちが駆け寄ってきた。
「お嬢様!」
エリーゼが、悲鳴を上げた。
「すぐに、リディアの部屋へ運ぶ。医者を呼べ!」
「はい!」
俺は、リディアを抱いたまま階段を上った。
彼女の部屋に入り、ベッドに寝かせた。
「リディア……」
俺は、彼女の手を握った。
冷たかった。
生気が、失われていくようだった。
「頼む……」
俺は、神に祈った。
七年間、一度も祈らなかった神に。
「頼む。彼女を、助けてくれ」
***
医者が来るまでの間、俺はリディアの傍を離れなかった。
彼女の手を握り、額に手を当て、呼吸を確認し続けた。
エリーゼとマルタが、水や毛布を持ってきてくれた。
でも、俺は――
ただ、リディアを見つめることしかできなかった。
「こんなに……無力なのか、俺は」
七年間、魔力の暴走に苦しんできた。
自分の力を、呪ってきた。
でも、今――
力があっても、彼女を救えない。
ただ、傍にいることしかできない。
***
やがて、医者が到着した。
老いた治療師が、リディアを診察した。
「これは……」
治療師は、困惑した顔をした。
「外傷はありません。病気の兆候もない。ただ――」
「ただ?」
「極度の、疲労です。まるで、生命力そのものが削られたかのような……」
俺は、息を呑んだ。
生命力が、削られた。
それは――
淀みを払う代償か。
「治療法は?」
「休養です。栄養のある食事と、十分な休息を。それ以外には……」
治療師は、首を横に振った。
「私には、何もできません」
***
治療師が帰った後、俺は一人、リディアの傍に座っていた。
夜が、更けていった。
月明かりだけが、部屋を照らしていた。
俺は、リディアの手を握りしめていた。
「リディア……」
俺は、彼女に語りかけた。
「お前は、馬鹿だ」
「なんで、そこまで無理をするんだ」
「俺のためだと言うが――俺は、お前を失いたくない」
俺の声が、震えた。
「お前がいなくなったら、俺は――」
俺は、彼女の手に額をつけた。
「俺は、また闇に戻ってしまう」
七年間の孤独が、フラッシュバックした。
誰とも話さず、誰にも会わず、ただ死を待つだけの日々。
でも、リディアが来てから――
全てが変わった。
朝が、楽しみになった。
彼女と話すことが、嬉しくなった。
庭が、少しずつ蘇っていくのを見るのが、希望になった。
「だから……」
俺は、涙を流した。
「だから、目を覚ましてくれ」
「お前がいない世界なんて――俺には、耐えられない」
***
どれくらい時間が経ったのか、分からなかった。
俺は、ずっとリディアの傍にいた。
時々、使用人たちが様子を見に来た。
でも、俺は彼らに部屋を出るよう言った。
一人で、リディアを見守りたかった。
夜が明けかけた頃――
リディアの指が、わずかに動いた。
「リディア?」
俺は、顔を上げた。
彼女の瞼が、ゆっくりと開いた。
「ヴェルナー、様……?」
「リディア!」
俺は、彼女の手を両手で包んだ。
「気がついたか!」
「はい……すみません、心配を……」
「謝るな」
俺は、強く言った。
「お前は、何も悪くない」
でも、リディアは首を横に振った。
「いいえ。私、調子に乗りすぎました。東屋の淀みが、あんなに深いとは……」
彼女の目に、涙が浮かんだ。
「ごめんなさい」
「泣くな」
俺は、彼女の涙を指で拭った。
「お前が無事なら、それでいい」
***
リディアは、弱々しく微笑んだ。
「でも……東屋の淀み、少しは払えました」
「そんなこと、どうでもいい」
俺は、強い口調で言った。
「お前の命に比べたら、庭なんてどうでもいい」
リディアは、驚いた顔をした。
「ヴェルナー様……」
「俺は――」
俺は、言葉を選んだ。
「俺は、お前を失いたくない」
「七年間、孤独だった。誰も信じられず、誰も愛せなかった」
「でも、お前が来て――全てが変わった」
俺は、リディアの手を握りしめた。
「お前は、光をくれた。希望をくれた。生きる理由をくれた」
「だから――」
俺の声が、震えた。
「だから、自分を犠牲にするな。お前の命は、お前だけのものじゃない」
リディアの目から、涙が溢れた。
「ヴェルナー様……」
「俺のものでもあるんだ」
俺は、彼女の額にキスをした。
「頼む。もう、無理をしないでくれ」
***
リディアは、涙を流しながら頷いた。
「はい……約束します」
「本当だな?」
「はい。ヴェルナー様が心配してくださるなら、なおさらです」
彼女は、弱々しく微笑んだ。
「これからは、二人で相談しながら進めましょう」
「ああ」
俺は、彼女の手を両手で包んだ。
「二人で」
しばらく、二人は黙って見つめ合っていた。
やがて、リディアが小さく笑った。
「ヴェルナー様、一晩中起きていたんですか?」
「……ああ」
「お疲れでしょう。少し、休んでください」
「いや、俺は――」
「私は、もう大丈夫です」
リディアは、俺の手を優しく握った。
「だから、ヴェルナー様も休んでください」
俺は、少し躊躇した。
でも、リディアの顔色が戻ってきているのを見て、安心した。
「……分かった。少しだけ、休む」
「はい」
***
俺は、椅子に深く座った。
リディアの手を握ったまま。
疲労が、どっと押し寄せてきた。
一晩中、緊張していたのだ。
でも、今は――
安心できた。
リディアは、無事だ。
目を覚ました。
もう、大丈夫だ。
俺は、いつの間にか眠りに落ちていた。
***
目を覚ましたとき、窓から朝日が差し込んでいた。
俺は、慌ててリディアを見た。
彼女は、穏やかに眠っていた。
顔色も戻り、呼吸も安定している。
「よかった……」
俺は、安堵のため息をついた。
その時、ノックの音がした。
「入れ」
エリーゼが、朝食を持って入ってきた。
「公爵様、一晩中お嬢様の傍に?」
「ああ」
「お疲れでしょう。少し、お休みになっては」
「いや」
俺は、首を横に振った。
「リディアが目を覚ますまで、ここにいる」
エリーゼは、優しく微笑んだ。
「公爵様は、本当にお嬢様を大切になさっているのですね」
俺は、リディアを見つめた。
「……ああ」
「彼女は、俺の全てだ」
***
その日、リディアは何度か目を覚ました。
その度に、俺は彼女に水を飲ませ、話しかけた。
マルタが作った栄養のあるスープも、少しずつ食べさせた。
夕方になる頃には、リディアはかなり回復していた。
「ヴェルナー様」
彼女が、俺を呼んだ。
「何だ?」
「ずっと、傍にいてくださったんですね」
「当たり前だ」
俺は、彼女の手を握った。
「お前が倒れたのは、俺のせいだ。俺が、あんな淀みを溜め込んでいたから」
「違います」
リディアは、首を横に振った。
「私が、無理をしたんです。ヴェルナー様は、悪くありません」
「でも――」
「ヴェルナー様」
リディアは、俺の手を両手で包んだ。
「私、幸せでした」
「何?」
「ヴェルナー様が、一晩中傍にいてくださった。心配してくださった。それが、とても嬉しかったんです」
彼女は、涙を浮かべて微笑んだ。
「私、誰かにこんなに心配してもらったの、母が亡くなって以来です」
俺の胸が、締め付けられた。
「リディア……」
「だから、ありがとうございます」
彼女は、俺の手を自分の頬に当てた。
「ヴェルナー様に出会えて、本当によかった」
***
俺は、もう我慢できなかった。
俺は、リディアを優しく抱きしめた。
「俺の方こそ、ありがとう」
俺は、彼女の耳元で囁いた。
「お前に出会えて、本当によかった」
「お前がいなければ、俺は――まだ、死を待っていた」
「でも、今は違う」
俺は、リディアを少し離して、その顔を見つめた。
「今は、生きたいと思える。お前と一緒に、未来を見たいと思える」
リディアの目から、涙が溢れた。
「ヴェルナー様……」
「だから、頼む」
俺は、彼女の頬に手を添えた。
「もう二度と、そんな無理をしないでくれ」
「お前を失うことが、一番怖いんだ」
リディアは、涙を流しながら頷いた。
「はい……約束します」
「もう、一人で抱え込みません」
「ヴェルナー様と、一緒に」
「ああ」
俺は、微笑んだ。
「一緒に」
二人は、抱き合ったまま、しばらくそうしていた。
窓の外では、夕日が沈んでいった。
でも、部屋の中は――
温かな光に、満たされていた。
***
その夜、リディアは深く眠った。
俺は、彼女の傍の椅子で、一晩中見守った。
もう、彼女を一人にはしない。
もう、彼女に無理をさせない。
これからは、二人で――
全てを、乗り越えていく。
俺は、リディアの寝顔を見つめながら、誓った。
この娘を、必ず守る。
どんな困難が待っていても。
どんな敵が現れても。
俺は、彼女を守り抜く。
なぜなら――
彼女は、俺の光だから。
俺の、全てだから。
***
翌朝、リディアが目を覚ました時、最初に見たのは――
俺の顔だった。
「おはよう」
「おはようございます……って、ヴェルナー様、また一晩中?」
「ああ」
「もう!」
リディアは、困ったように笑った。
「ヴェルナー様も休まないと、倒れてしまいますよ」
「大丈夫だ」
俺は、彼女の頬を撫でた。
「お前が無事なら、俺はどうとでもなる」
リディアは、頬を赤らめた。
「ヴェルナー様……ずるいです」
「何が?」
「そんな風に言われたら……私、ますますヴェルナー様のことが――」
彼女は、言葉を切った。
俺は、彼女の続きを待った。
「ますます?」
「……好きになってしまいます」
リディアは、顔を真っ赤にして言った。
俺の心臓が、大きく跳ねた。
「リディア……」
「はい」
「俺も、だ」
俺は、彼女の手を握った。
「俺も、お前のことが――」
俺は、深く息を吸った。
そして、はっきりと言った。
「好きだ」
リディアの目が、大きく見開かれた。
そして――
涙が、溢れた。
「ヴェルナー様……!」
彼女は、俺に抱きついた。
俺も、彼女を抱きしめた。
強く、強く。
もう、二度と離さないように。
窓の外では、朝日が昇っていった。
新しい一日の始まり。
そして――
俺たちの、本当の愛の始まりだった。
***
【番外編5 了】
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