番外編4:月樹への罪悪感〜ヴェルナー視点・第二話〜
番外編4「月樹への罪悪感 ~ヴェルナー視点・第二話~」
リディアが屋敷に来て、三日が経った。
俺は、毎日窓から彼女を見ていた。
朝早くから庭に出て、黙々と作業をする姿を。
彼女は、疲れを見せなかった。
むしろ、日に日に生き生きとしているように見えた。
「不思議な娘だ……」
俺は、呟いた。
普通なら、この淀みに耐えられないはずだ。
長時間庭にいれば、頭痛や吐き気に襲われる。
でも、彼女は――
むしろ、淀みを「払って」いる。
***
三日目の朝、アーデルベルトが報告に来た。
「公爵様、リディア様が温室に向かわれました」
俺の手が、止まった。
「温室に……?」
「はい。昨日から、気にされていたようで」
俺は、立ち上がった。
温室。
母が愛した場所。
そして、俺が最も近づきたくない場所。
「まずい……」
俺は、窓辺に駆け寄った。
遠くに、温室が見える。
リディアが、扉を開けて中に入っていくのが見えた。
「何をしているんだ、あの娘は……」
俺の胸が、ざわついた。
温室の淀みは、屋敷の中で最も濃い。
七年間、誰も近づけなかった場所だ。
使用人たちも、あの場所に入れば吐き気に襲われる。
なのに、彼女は――
***
俺は、自室を出た。
温室に向かおうとして――
足が、止まった。
「俺が、行けるのか……?」
七年間、近づくことすらできなかった。
母の思い出が詰まった場所。
そして、俺の力で全てが枯れた場所。
でも――
リディアが、一人であの中にいる。
もし、何かあったら――
俺は、歯を食いしばった。
そして、階段を降りた。
***
温室への道を歩く。
体が、重い。
淀みが、俺を拒絶しているようだった。
いや、違う。
俺が、自分で自分を拒絶しているのだ。
「母上……」
俺は、呟いた。
「許してください」
温室の扉の前で、俺は立ち止まった。
中から、リディアの声が聞こえる。
「ああ……」
驚きと、そして――喜びの声。
俺は、そっと扉の隙間から中を覗いた。
***
リディアは、温室の中央に立っていた。
そして、その視線の先には――
月樹があった。
枯れ果てた、黒ずんだ木。
母が、俺の誕生を祝って植えた木。
でも、母が亡くなってから――
俺の魔力で、枯れてしまった木。
リディアは、木に近づいていった。
俺は、息を呑んだ。
彼女が、木に触れた。
その瞬間――
光が、溢れた。
金色の、柔らかな光。
それは、木の幹を伝って、枝へと広がっていった。
「まさか……」
俺は、信じられない光景を見ていた。
黒ずみが、薄れていく。
わずかだが、確かに――
木が、生気を取り戻している。
***
リディアは、木を抱きしめるように幹に手を当てていた。
そして、何かを囁いている。
俺には、その言葉は聞こえなかった。
でも――
その姿は、まるで母のようだった。
母も、あんな風に植物に語りかけていた。
愛情を込めて、優しく。
俺の目に、涙が浮かんだ。
「母上……」
この木は、もう二度と蘇らないと思っていた。
俺が殺してしまったのだと、ずっと自分を責めていた。
でも――
リディアは、諦めていない。
この木が、まだ生きていると信じている。
***
やがて、リディアが木から手を離した。
彼女は、満足そうに微笑んでいた。
「明日も来るわね」
彼女は、木に語りかけた。
「少しずつ、元気になろうね」
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸が――
熱くなった。
彼女は、本気だ。
この木を、蘇らせようとしている。
七年間、誰も成し遂げられなかったことを。
俺は、扉から離れた。
そして、急いで屋敷に戻った。
リディアに、見られるわけにはいかない。
こんな、涙を流している顔を。
***
自室に戻ると、俺はベッドに座り込んだ。
手が、震えていた。
「もしかしたら……」
俺は、呟いた。
「もしかしたら、月樹は――蘇るのかもしれない」
その可能性を考えただけで、胸が苦しくなった。
期待してはいけない。
また裏切られるだけだ。
でも――
リディアの姿を思い出すと、期待せずにはいられなかった。
***
その日の夕方、アーデルベルトが報告に来た。
「公爵様、リディア様が温室で月樹の手入れをされました」
「……そうか」
「はい。そして、公爵様」
アーデルベルトの声が、わずかに震えた。
「月樹が、変わっています」
「変わっている……?」
「はい。黒ずみが薄れ、幹の一部が――生木の色を取り戻しています」
俺は、立ち上がった。
「本当か?」
「はい。私も、この目で見ました」
アーデルベルトの目には、涙が浮かんでいた。
「奇跡です、公爵様。本当の、奇跡です」
俺は、窓辺に歩いた。
温室を見つめる。
「母上……」
俺は、呟いた。
「あなたの木が、生き返ろうとしています」
風が、窓を揺らした。
まるで、母が答えているかのように。
***
その夜、俺は久しぶりに食堂に出ることにした。
七年間、避け続けてきた場所。
でも――
リディアと、向き合いたかった。
彼女に、礼を言いたかった。
扉を開けると、リディアが驚いた顔で立ち上がった。
「ヴェルナー様!」
「こんばんは」
俺は、ぎこちなく挨拶した。
リディアは、嬉しそうに微笑んだ。
「こんばんは。ご一緒できて、嬉しいです」
その笑顔を見て、俺の緊張が少し和らいだ。
***
食事が始まった。
最初は、沈黙が流れた。
でも、やがて――
「今日は……温室に行ったそうだな」
俺は、話を切り出した。
「はい。とても、素敵な場所ですね」
リディアは、目を輝かせた。
「アリシア様が作られた温室だと聞きました。お母様は、きっと植物がお好きだったのでしょうね」
母の名前を聞いた瞬間、俺の手が震えた。
リディアは、それに気づいて申し訳なさそうにした。
「あ……ごめんなさい。不躾なことを」
「いや」
俺は、首を横に振った。
「……ああ。母は、あの温室を愛していた」
それだけ言うのが、精一杯だった。
でも、リディアは――
優しく微笑んで、話題を変えてくれた。
「月樹も、とても立派な木ですね。まだ、生きていますよ」
俺は、顔を上げた。
「あの木は、枯れたはずだ。七年前、母が亡くなってすぐに……」
「表面は枯れています。でも、根は生きています」
リディアは、確信を持って言った。
「だから、お手入れをすれば、きっとまた……」
「無理だ」
俺の声が、大きくなってしまった。
「あの木は、私の魔力で汚された。私が近づくだけで、全てが枯れる。母の大切にしていたものでさえ、私は守れなかった」
俺は、自分の手を見つめた。
この手が、全てを壊した。
母の愛した木を。
庭を。
全てを。
***
リディアは、静かに俺を見つめていた。
その瞳には、憐れみはなかった。
ただ、まっすぐな――理解があった。
「ヴェルナー様」
彼女は、静かに言った。
「淀みは、誰のせいでもありません。溜まるべくして溜まり、流れるべくして流れる。ただ、それだけです」
「淀み……?」
「はい。ヴェルナー様が『呪い』と呼んでいるもの、私には『淀み』に見えます。そして、淀みは払うことができます」
俺は、彼女の言葉を噛みしめた。
呪いではなく、淀み。
それは――何か、救いのある言葉だった。
呪いは、絶対的で、永遠だ。
でも、淀みは――
流すことができる。
「君は……一体、何者なんだ」
リディアは、少し困ったように首を傾げた。
「ただの、お掃除好きな娘です」
その答えは、あまりにも純粋すぎて――
俺は、思わず笑いそうになった。
でも、我慢した。
七年間、笑っていない。
簡単には、笑えない。
***
食事が終わり、リディアが部屋に戻った後。
俺は、一人温室に向かった。
夜の温室は、月明かりだけが頼りだった。
俺は、扉を開けた。
淀みが、押し寄せてくる。
でも、以前よりは――薄い気がした。
俺は、月樹の前に立った。
「母上が植えた木……」
俺は、幹に手を伸ばした。
でも――
触れる直前で、手を引いた。
怖かった。
触れれば、また枯れてしまうのではないかと。
「俺は……」
俺は、膝をついた。
「俺は、臆病だ」
七年間、この木から逃げてきた。
母の思い出から、逃げてきた。
でも、リディアは違う。
彼女は、恐れずに向き合っている。
「母上……」
俺は、木を見上げた。
「リディアが来てくれました。彼女は、不思議な娘です」
風が、温室を吹き抜けた。
「彼女は、あなたの木を救おうとしています。俺にはできなかったことを」
俺の目から、涙が落ちた。
「だから、どうか――」
俺は、木に額をつけた。
「どうか、蘇ってください。もう一度、花を咲かせてください」
***
その時、不思議なことが起こった。
木が――温かかった。
冷たい、枯れた木のはずなのに。
わずかに、温もりを感じた。
「これは……」
俺は、顔を上げた。
幹の一部が、確かに――生木の色をしていた。
リディアが触れた部分が。
「本当に……蘇ろうとしているのか」
俺は、木を抱きしめた。
七年ぶりに。
「ありがとう……」
誰に言っているのか、自分でも分からなかった。
木に?
母に?
それとも――
リディアに?
***
翌朝、俺は早起きをした。
そして、窓から庭を見下ろした。
リディアは、もう庭に出ていた。
今日は、記憶の庭園の方に向かっているようだった。
「また、無理をして……」
俺は、心配になった。
彼女は、自分の限界を顧みずに働いている。
でも――
それが、彼女の生き方なのだろう。
目の前にある「気になるもの」を、放っておけない。
その性分が、彼女をここまで駆り立てているのだ。
「似ているな……」
俺は、呟いた。
「母上に」
母も、あんな風だった。
庭のためなら、自分の体調を顧みなかった。
植物を愛し、手入れすることに喜びを感じていた。
***
アーデルベルトが、朝食の準備ができたと知らせに来た。
「公爵様、今朝も食堂に?」
「ああ」
俺は、頷いた。
「リディアと、食事をする」
アーデルベルトは、嬉しそうに微笑んだ。
「かしこまりました」
食堂に向かう途中、俺は自分の変化に気づいた。
以前なら、人と食事をすることなど考えられなかった。
でも、今は――
リディアと話すことが、苦痛ではない。
むしろ、楽しみにすらなっている。
「俺は……変わっているのか」
俺は、自分の手を見つめた。
黒い痣が、わずかに薄くなっている。
淀みが、減っている証拠だ。
***
食堂で、リディアと向き合った。
彼女は、朝の作業で少し汗をかいていたが、笑顔を浮かべていた。
「おはようございます、ヴェルナー様」
「おはよう」
俺は、彼女を見つめた。
「今日は、記憶の庭園に行くのか?」
「はい。あそこも、とても気になって」
リディアは、目を輝かせた。
「きっと、素敵な場所だったんでしょうね」
「ああ……」
俺は、遠い目をした。
「あそこは、代々の当主が大切な思い出を刻んだ場所だ」
「素敵ですね」
リディアは、微笑んだ。
「思い出を、大切にする場所」
「でも、今は――」
俺は、言葉を切った。
「荒れ果てている。俺のせいで」
「ヴェルナー様」
リディアは、真剣な目で言った。
「過去を責めても、何も変わりません。大切なのは、これからです」
俺は、彼女を見つめた。
「これから……?」
「はい」
リディアは、力強く頷いた。
「これから、一緒に庭を蘇らせましょう。思い出を、取り戻しましょう」
その言葉に、俺の胸が熱くなった。
「一緒に……」
「はい。一人じゃありません。私がいます」
リディアは、微笑んだ。
「ヴェルナー様、私、頑張ります。だから――」
彼女は、俺の手に自分の手を重ねた。
「一緒に、頑張りましょう」
俺は、彼女の手を見つめた。
小さな、でも温かな手。
この手が、俺を――
この屋敷を、救おうとしてくれている。
「……ああ」
俺は、小さく頷いた。
「一緒に」
***
その日、俺は初めて――
庭に、出た。
リディアが記憶の庭園で作業をしているのを、遠くから見守るために。
庭に足を踏み入れるのは、七年ぶりだった。
淀みが、俺を包み込んだ。
でも、以前ほど苦しくはなかった。
リディアが払ってくれた場所は、確かに空気が違った。
俺は、東屋の近くまで歩いた。
そこで――
リディアが、黙々と草を刈っているのが見えた。
その姿を見ながら、俺は思った。
この娘は、本物だ。
口先だけではなく、本当に――
俺を、この屋敷を、救おうとしてくれている。
「ありがとう、リディア」
俺は、小さく呟いた。
彼女には聞こえない声で。
「君が来てくれて、本当に――」
俺の目から、涙が一筋、流れ落ちた。
「本当に、よかった」
風が、優しく吹いた。
そして、遠くから――
小鳥のさえずりが、聞こえた。
七年ぶりに聞く、生命の音だった。
***
【番外編4 了】
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