第2話 リリアナ、ただいま帰還──なぜか国境に外交官が勢揃いしていた件
馬車の扉が開いた瞬間、ふわりと土の匂いが鼻をくすぐりました。
ああ、エルフォードの畑の匂い。
これだけで三割方しあわせになれますわ。
「お、お嬢様ぁあ……!」
出迎えた執事ベルナーが、胸に手を当てて震えています。
泣き出す直前の子犬みたいな目をするのはやめてほしい。
情に弱いのです、わたくし。
「ただいま戻りました。お土産は学園の焼き菓子ですわ。みんなで食べてくださいませ」
「お、亡命……では、ない……?」
「え?」
隣でマリアが、こめかみを押さえました。
あ、また胃が痛むサインですね。
「ベルナー。お嬢様は“ご実家に帰省”されたのです。亡命ではありません」
「き、帰省……! なんと穏当な響き!」
私は荷物を侍女に手渡しながら、庭の隅のハーブを見やりました。
あら、レモンタイムの葉がいい香り。
シチューに入れると父が喜ぶのよね。
「お嬢様、王都が騒がしいと聞いておりますが……」
「ええ、殿下が婚約を解かれたとかなんとか。
でも今は夕食が大切ですわ。母のシチューに合うパンを焼きましょう」
「……お嬢様が平常運転でいらっしゃる……! ありがたや……!」
ベルナーが天を仰いでいます。
――――――
同じ頃、王都では。
「リリアナ・エルフォードが国外へ向かったと!?」
謁見の間に王太子殿下の声が響きました。
石壁がちょっと震えました。勢いがすごい。勢いだけは。
「殿下、情報は錯綜しております」
官僚が額の汗を拭います。
「“実家へ帰った”という説と、“隣国が保護した”という説と……」
「保護!? なぜだ! 彼女は罪など……いや、打算的で……いや、しかし!」
そこへ伝令が駆け込みます。
「し、隣国ガルダより書簡! “リリアナ嬢に感謝”との由!」
「感謝……? ええい、読め!」
官僚が封を切り、早口で読み上げます。
「『貴国のリリアナ嬢より、我が国の農民支援に関し“香草の束”を頂戴した。
その配慮に“深甚なる感謝”を捧げる』」
「……こうそうのたば?」
「香草の束、つまりハーブのブーケですわね」通訳が補足します。
だが別の官僚が慌てて口を挟みました。
「ち、違うかもしれん! “香草”は“亡命”の比喩で――!」
「比喩って何だ!?」
「“深甚なる感謝”は“保護完了”の外交暗語かもしれません!」
「な、なんだとぉ!」
こうして「花束のお礼」が「亡命受け入れ報告」に変換されていく。
――王都の言葉は時として、土よりも育ちが悪い。
――――――
私はキッチンで粉をこねていました。
こねこね。押して、折って、また押す。
リズムが楽しくて、つい鼻歌が出ます。
「お嬢様、音程が可憐です」マリアが微笑みます。
「パンは丸型で?」
「ええ、シチューには丸ですわ。あと、レモンタイムを生地に少し。
あ、そういえば隣国の農民支援にハーブの束を送ったら、お礼の手紙が来ましたの」
「……はい?」
「ほら、うちの畑、香草がよく育つでしょう?
昔、父が“余ってるなら人にあげろ”って」
マリアは一瞬、遠い目をしました。
パンを成形していると、外が急に騒がしくなりました。
ベルナーの声が裏庭まで飛んできます。
「お、お嬢様ぁあ! えらいことですぞ!」
「パン、発酵中ですのに」
「国境に、各国の使節団が! “リリアナ嬢のご意志を確認したい”とっ!」
「え?」
私は手を止めました。小麦粉が指に白い輪を作ります。
「リリアナ様は王都を見限り、ガルダに……との噂が一日で王国中に……
しかもガルダから“香草”の件で“感謝”が! つまり“保護”が!」
「違いますわ。ハーブですわ」
「ハーブ……?」
マリアがすばやく窓辺に寄ります。
遠目にも派手な旗。隣国ガルダの紋章。ついでに我が王国の紋章。
あ、中央で土下座合戦まで始まっています。うちの芝が痛むからやめてほしい。
「リリアナ・エルフォード様! 貴女の平和へのご意志、我が王は深く尊びます!」
ガルダの使者が朗々と声を張ります。
「我が国も、エルフォード家の貢献に敬意を表する!」
王国の使節が負けじと叫びます。
私はそっと窓を開けました。
「えっと……お茶、冷めますわよ?」
双方の動きが止まりました。
旗が風に鳴り、鳥の声がひときわ大きく聞こえます。
「……まず、パンを焼き上げます。話はそのあとに」
「パ、パン……!」
群衆のどよめきが波のように広がる。
“外交の場でパンを優先する伯爵令嬢”という新たな伝説が、
今、土から芽を出しました。




