第二六六話 みんなの気持ち
未来視点に移ります。
隆が仮眠をとりに行ってから、部屋に残された私たちの空気は重くなっていた。無理もない。隆はどうにか落ちつこうとしていたけれど、普段の隆を知っている私たちからすれば、かなり気が張っていることは明らかだった。
近いうちに起こるのだろう、怖いこと。それを自分以外の誰にもわかってもらえず、教えてはならない状況。休まるはずもない。
「リイちゃん、マユちゃん、あの……」
お風呂、と言いかけて、雪翔さんの伴侶であるうさぎたちが無言で喧嘩をしているのに気がついた。互いの手には雪翔さんの布団。取り合いをしているのはわかるけど、いつもみたいに叫んだり飛び回ったりはしない。一応、周りの空気を気にしているらしかった。
「……お風呂、行ってきます」
着替えを持って部屋を出る。いつもならあいか先生や結衣博士、どうやらお風呂好きらしいリイ、マユも一緒なのに、いまはひとりだった。
「未来」
廊下に出る際、なにか言いたげな顔で凪に呼び止められる。けれど続く言葉はなかった。
「大丈夫。ちゃんと戻ってくるよ」
軽く笑って約束する。嘘はついてない、ちゃんと戻ってくる。だけど、単独で動ける機会を逃したりはしない。
部屋からしばらくはゆっくり歩き、後ろを振り返って誰も来ていないことを確認する。しんとした通路を目に入れてから、私は小走りで宿の出入り口に向かった。畳の廊下からフローリングに変わる。仲居さんにも出会わないまま外に繋がる扉の前に着く。
「ダメだよ、あねさん」
靴を取る手が止まった。私は声の主を振り返る。いつもは宙に浮くようにしている紫音君が、限界まで【九割謙譲】の力を使ったせいで、いまは床に足をつけて私と同じ視線で立っていた。
「ダメって、イチに言われてるんでしょ?」
疲れた顔で、声で、それでも心配が伝わってくる。
「危ないことはしないよ。約束する」
「約束できないよ。なにがあるかわからないし」
雪翔さんがいるときはあんなに無邪気なのに、マユもリイもいない、いざ自分だけでとなったときのこの子の冷静さはなんなんだろう。無視して出ればいい。なのに、足が動かない。お見通しだよ、という瞳が、雪翔さんとよく似てる。
「本当に、大丈夫だよ」
「臨世に会いにいくつもりなんでしょ? 大丈夫じゃないと思う」
紫音君は静かに事実を述べる。確かに、百パーセント大丈夫とは言えないかもしれない。それでも。
「いま行けば、まだ間に合うの。それくらいの猶予があるから隆は寝てる」
直君は、私に会えたら全てを話すと言っていた。あれが私を誘き寄せるための罠ではなく本心からの言葉なら、頑張る価値はある。近いうちに訪れるなにかに向けて、隆以外のみんなが情報を持っているのが一番だ。
「お願い、紫音君。ちゃんと帰ってくる。だから見逃して」
返答も聞かずに靴を履く。凹んだ踵を指で直して、宿の扉に手をかけようとした。瞬間、バチッと、静電気みたいな弱い刺激が走る。手を弾かれる。
――【不知火】。
ちりちりと軽いやけどみたいな痛みがする指に触れ、隆の説明を思い出す。
【不知火】を重ねた【熱線】を極限まで細くすることで、相手には見えないけど、使用者の隆にはその場が見える、聞こえる。一定以上の圧力が加わると蜘蛛の糸みたいに簡単にちぎれるから、そこにあると気づきにくい。微弱ながら攻撃までできる代物――。
私が出ていくと、隆は予想していたのだろうか。
「九時に司令官と電話って聞いて、イチはおっけー出してた」
放心して突っ立った状態の私は、自分の意思とは関係なく靴を脱いだ。身体は浮いて、ついさっきまで履いていたスリッパに足を入れられる。紫音君の念力による作用らしい。
「でもね、何時までにって聞かれると、答えられなかった。その九時以降なにがあるのか僕たちはわからない。あねさんがいま行って、それまでに帰ってこれなかったらどうするの?」
ほとんど同じ目線で、紫音君は無表情で私を諭す。
「ねぇ、あねさん。いまが一番、離れちゃいけないときなんだよ」
「……でも」
「イチやあいかさんに申しわけないと思うなら、ひとりで行動しないで。いなくなったりしないで」
紫音君は、寄り添うように悲しい笑みを浮かべた。
「みんなの気持ちをムダにしちゃダメだよ」
気がつけば、私は女湯の前に立っていた。どうやら【九割謙譲】による力で飛ばされたらしい。どこまでも便利な技だと思う。
「十三歳……本当はいくつなのかな」
落胆して女湯の布をくぐる。彼はもしかしたら、わかりにくいだけで自分より年上なのかもしれなかった。
【第二六六回 豆知識の彼女】
紫音は十六歳
未来さん大正解。紫音は現在、十六歳。年上です。知っているのはいまのメンバーだと兄の雪翔と凪くらい。歳を取らないことを知っているので、精鋭部隊のメンバーもわざわざ聞くことはありません。マダーのデータからも抹消してあるので(第二〇四話 視察)誰かが言わなければわからない状態です。
お読みいただきありがとうございました。
《次回 変化》
反省した未来は、自分の気持ちと向き合います。
どうぞよろしくお願いいたします。