第二五七話 哀怒楽喜
「未来さんに会わせろと言われました」
びく、と自分の身体がこわばったのを感じた。
「ちょっと、あいか。それ教えちゃダメだって凪君に言われたでしょ」
「ええ、言われました。でもね結衣さん。それが一番、全員にとっていいとわたしは思うんですよ」
あいか先生は私に身体を向けて正座する。目だけで結衣博士を見て続ける。
「結衣さんも聞いたでしょう。臨世は、未来さんに会えないなら『当日』についてなにも語るつもりはない。どれだけ【知る】で問い詰めようが、痛めつけられようが、話す気はないと」
「でも……」
「わたしは、土屋くんがこんなふうになるほど強いまじないを受けた理由が気になります。敵にとって、『タイムリミット』である『当日』に起こる『なにか』とは、とても大切なことなのでしょう。考えすぎならいいんです。けれどわたしは、前回のように未来さんの命を狙うだけでは済まない、もっとほかに理由があるのではないかと疑っています」
直君がなにか知っていて黙っているなら、私には少し我慢してもらって会いに行かせるのがいい、情報を集めるのがなにより優先だというあいか先生の考え。
一度精神を病んで、今回も心に負担をかけた私にはこれ以上お願いしちゃいけない、というのが結衣博士の考え。聞いていると、あいか先生のつらそうな状態を見たのも理由の一つのようだった。
「……私が、会いにいけば」
それで話が進むならと引き受けようとしたとき、隆が私の手を握ってきた。
私は隆の顔を見上げる。隆はあいか先生たちから視線を外していない。でも強く掴んできたその手が、「行くな」と告げている。会ってくれませんかと先生が頼んでも、絶対行くなよと告げている。
「そうしないための方法を、模索しています」
あいか先生は、私に無理強いはしなかった。
「けれど『タイムリミット』がいつなのか、わたしたちにはわかりません。ですから、行動に移すなら早いほうがいい。……心づもりを、お願いしたいのです」
あいか先生の話が終わっても、隆は私の手を離さなかった。
しばらく無言になる。私が「わかりました」と答えたら、隆はきっと「だめだ」と首を振るだろう。
「ほかには、なにか言ってましたか。あいつ」
隆はあえて、話題を逸らした。
「我慢の限界に達して、【知る】が効かない理由を単語だけ白状しました。ただ、その意味までは……」
あいか先生が私を見る。いや、微妙に視線がずれている。見つめているのは、私ではなく、マユのようだった。
『……アイドラッキ、ですわね』
初めて聞く言葉だった。
「ええ。どういった意味の言葉なのか、マユさんは話せますか」
『無理です、と答えたら。あいかはわたくしにも【知る】を使うのでしょうか』
「いいえ」
すぐに否定された。
「わたしがあなたたちを苦手としていることは、あなた自身も気づいているのでしょう。でも、味方でいてくれるなら、無理に【知る】を使ってあなたを失いたくはありません」
『……素直ですこと』
マユはため息をついた。『アイドラッキは……』と言ってしばらく時間を置く。ひび割れる様子はない。
『単語が人間側に知られたために、わたくしたちも喋れるようになったようですわ。【知る】が効かない理由も含めて、その四段階について説明しましょう』
だらりとしていたマユが姿勢を正して座る。あいか先生がメモを取る準備をする。結衣博士は自分の死人研究用の青いパネルを出してタイピングの用意をした。
『アイドラッキは……哀しみ、怒り、楽しみ、喜び、という死人の進化を辿る呼び方ですわ。哀しみの「哀」、怒りの「怒」、楽しみの「楽」、喜びの「喜」を合わせ、哀怒楽喜と表記します』
あいか先生が書いて確認する。マユは小さく頷いた。
『人間の喜怒哀楽から取った言葉で、意味はそのままのとおりですわ。哀しみから生まれ、怒りでいっぱいになり、いつからか死人として楽しく生き始め、死人として生まれたことを喜び、子孫を残すために性欲を得る。「喜びの死人」とは、産月を除いた死人の頂点を言います』
結衣博士のタイピングの音が止まった。
「それ、凪君が鞭の死人に性的な目で見られたって話と同じ?」
『ええ。彼女……華弥は、もう少しで「喜び」になるところだったんです。ナギとの戦闘中に変わり始め、変わり切る前に話したためにまじないの影響を受けました』
どういうことかとあいか先生が踏み込む。マユは自分の腕を手でさする。
『みなさんヘンメイからの助言で知っているとおり、「喜びの死人」はまじないの影響を受けません。彼らがまじないを無効にできるのは、そこまで育つほど充実した日々を送る死人が、自分たちの生活を壊すきっかけになるような話はしないだろうという「あのお方」の信頼によるものなのです』
スリルを楽しむために自ら話そうとする者もいますが、と例外を述べながら、マユはまた腕をさすった。まさかと思って私が話すのを止めようとすると、大丈夫と微笑んでくる。
「つまり、華弥はまだギリギリ『楽しみ』の段階だったためにまじないの影響を受けたわけですか」
『ええ……そうです。進化の過程でわたくしたち死人は強くなっていきます。そして、半分を超えたあたり……「楽しみ」になってしばらくすると、理不尽な事柄を意思の力で拒否できるようになるのですわ』
同じように、死人の心臓を人間に移植することもできるようになる。自由に生きる権利を獲得するのが『楽しみ』なのだとマユは語る。さらに言えば、前線は『楽しみ』以上の巣窟であり、本当に危険な区域であるのだと。
『哀怒楽喜の上限を迎えた死人。すなわち「喜びの死人」よりも上にいるのが産月。そしてさらに上にいるのが……産月が逆らえない、わたくしたち死人の始まりである「あのお方」なのですわ』
パキ……、となにかが割れる音がした。私は隆の手から勢いで抜け出して、マユの頬を両側から挟んだ。びっくりして話すのをやめたマユに、首を振る。
「それ以上言わないで。雪翔さんが悲しむよ」
先ほどから触っている腕は、白い着物に隠れていて見えない。いまの割れるような音も、小さかったから空耳かもしれない。だけど、隆のまじないを見ていた私には、マユも言ってはならないことを口にしているのだとわかった。
マユは私をじっと見た。白い肌の中で、瞳だけが青い。何度か瞬きをして、それから、薄い赤色の涙を浮かべた。
『……ありがとう、ミク。わたくしも、ご主人様のいないところで壊れるのは嫌ですわ』
口元に微笑を浮かべ、マユは部屋の出入り口へと進んでいく。入ってくるタイミングを間違えたと、おどおどしているリイを引っ張ってきて、私の隣に座らせる。
『いとまをくださいな。そこまで言えば、【知る】が使えなかった理由もわかるでしょう』
頭の良い皆さんなら、と言って、マユは左腕を支えながら出ていった。着物に隠れた左腕がいまどんな状態なのか、私には想像するしかない。
「マユさん。ご協力、ありがとうございます」
去っていくマユにお礼を言って、あいか先生はメモを完成させた。
――『楽しみの死人』の一定以上になると、理不尽を跳ね除けるスキルがつく。
――無理やり口を割らせる【知る】のような能力は、スキルが発動した死人には効かない。
「感情の誕生、意思決定、生殖機能……」
結衣博士は、興奮を隠さずに言った。
「まるで人間だよねぇ」
その日、特になにかが起きた様子はなかった。隆が言ったように、今日は『大丈夫』な日だったんだと思う。
星ちゃんの宣言どおり三人は夜には戻ってきた。キューブの技を使いやすくするためとはいえ、ボロボロになった星ちゃんや返り血でドロドロになった雪翔さんにびっくりしたり、いつかのお土産を思わせる量の物資を凪が抱えて帰ってきたりと、驚きの連続ではあったけど。それでも、夜の時間を平和にみんなで過ごせたことがなにより嬉しかった。
気になるのは、開封された睡眠薬の袋が捨てられていて、みんなよりも少し早く就寝したあいか先生のこと。平常どおりなフリしてなにかしているらしい隆の、真剣な横顔。
隆の近くを通ると静電気のような軽い刺激が肌を刺して、なにに当たったのかとキョロキョロする私を見ては「まだだめか……」とぶつぶつ呟いている隆。
なにしてるの、と聞くと、隆はちらりと凪さんを見る。気づかれていないか確認するような仕草のあと、私に小声で言った。
「明日、【不知火】使おうと思って」
【第二五七回 豆知識の彼女】
華弥は凪との子孫を残そうとしていた
凪と華弥(鞭の死人)の戦いがもう少し長引いていれば、『楽しみの死人』から『喜びの死人』に変わっておりました。まじないを受けない段階に変わるので、華弥が凪に惚れまくっていれば、もしかしたら凪の質問には全部答えたかもしれません。でもその場合は『子どもを作りましょう』と延々と迫られる可能性も。とりあえず凪さんまだ高校生だからそんな話は持ちかけちゃいけません。
お読みいただきありがとうございました。
《次回 改良版【不知火】》
第一章の最後、第三章の船の上で活躍した『透視・盗聴』ができる炎【不知火】。こちらを新しく作り直しまして、隆はなにかしようと企んでいます。
どうぞよろしくお願いいたします。