第二五二話 凪の役割
紫音の【九割謙譲】というのは本当に便利だなあと思う。ユキさんにテレパシーで呼ばれて急に現れて、国生先生が昨日見たものをテレビのように映し出して見せてくれる。
そんなすごいことができる十三歳は現在、リイとマユと一緒に追いかけっこを楽しんでいる。ユキさんの自室は一人部屋としては広いほうだけど、三人でドタバタされると正直うるさい。けれどそれを喜んで受け入れられるほど、俺は感謝でいっぱいだった。
「熱心だな」
画面に見入る俺に、ユキさんは声をかけてくる。
「まるで、臨世が妙なことをしないか見張ってるみたいだ」
ドクン、と心臓の音が大きくなった気がする。落ち着け、いまここで『そうです』と答えたら、もうひび割れじゃ収まらない。まじないの餌食になって完全に灰になる。
俺の様子を窺うようなユキさんから一旦顔を背け、俺は深呼吸をする。
「……ユキさんは、臨世がどうにかして、この厳重な警備から抜け出せると思いますか」
湊さんの【拘泥】、凪さんの【糸】や【朧げ】による防壁、手枷や足枷。絶対に外には逃さないという思いが形となっている。
「無理だろうな。あんまり信用しすぎるのもよくないが、臨世に凪の技を破れるほどの力はないと俺は思う」
臨世と戦ったことのあるユキさんでも、俺と同じ意見らしかった。
――予定に変更はない。あなたが見た夢のとおりです。
凪さんからもらった、師走の伝言。
三日後、臨世はここから出て未来を襲う。
「『喜びの死人』だって、すぐに認めたことが一番の朗報だった。厄介なのは【知る】が効かないところ」
【情報を知る】と技名を言っても口を割らない臨世を、映像の視点である先生以外の三人がそれぞれの表情で見ている。凪さんは眉間にシワを寄せて、結衣博士はむしろキタキタと楽しそうに。一筋縄ではいかないと察した湊さんは、目を閉じて精神統一するような時間をとったあと、冷ややかな目で臨世を見下ろした。
『ひれ伏せ』
命令した瞬間、ニタニタと笑っていた臨世の頭が床についた。臨世の上にだけ重力が加わったかのような、自然のものではない圧力によって少しも動けなくなる。
これが、【拘泥】。拘ることに特化した湊さんの十八番。
「……ユキさん」
「ん?」
「臨世を起こしに行く前日の会議。司令官は、凪さんの役目について俺たちには隠しているように見えました」
行動の自由を奪われても、臨世はまだ笑っている。一言も発しようとしない。それでも、一本の光るものが手の爪を剥いだ瞬間、あいつは悲鳴をあげた。
「凪さんの役割は……拷問、ですか?」
見たものを信じたくなかった。いいや、凪さんがその役割を承諾したことを信じたくなかった。凪さんは無表情で臨世の爪を剥いだ。そして、国生先生と同じ言葉で臨世に問いかける。知っていることを全て話せ、と。
「【知る】を使えなかったときの最終手段としてね」
ユキさんは否定しない。ショックで映像を見れなくなった俺のために、紫音に一時停止してと頼んでくれる。音が消えて、残酷な場面を見ないように顔を上げると、ユキさんは戸棚から茶葉を出しているところだった。
「了承しても、知られたくはなかったんだろう。二人には言わないよう司令官に頼んでいたみたいだ」
「こんなの……凪さんらしくないです」
「凪らしいよ。誰もが嫌だと思うことを率先してやってるんだから」
ポットに水を入れて、スイッチがかちりと鳴る。単純な音が不安を掻き立てる。
「凪はね、大切な子のためならどこまでも非情になれるんだよ」
見れそうなら見てごらん、と言われ、画面の中の凪さんをざわついた気持ちのまま注視する。
階段の形に展開して、凪さんの左腕に張り付いている山吹色のキューブが、三分の一ほど黒く染まっていた。――つい数日前まで、端っこだけだったのに。
「キューブが気に入ったのは、『光』の文字に相応しい希望を与える先導者だ。拷問なんて続けていれば、いずれキューブに見放される。だからダイスは凪に新たな文字を見せたんだろう」
斎の家で見た光景が思い出される。ダイスがひとりでに飛んでいって、凪さんが気づいてそっと触れると、六個の文字から選ぶ方式のダイスは五つの『光』と『闇』を一つ提示してみせた。
――君は優秀だね。
あのとき、凪さんは当然のように言った。凪さんは、自分がキューブの信頼を失いつつあることにとっくに気づいていて、それでも拷問を請け負ったのか。
「世の中のすべては、引き換えの上で成り立っている」
湯呑みを二つ持って、ユキさんが戻ってくる。
「物を買うのにお金、野菜を育てるための知識や時間。こうしてお茶を淹れるにも、茶葉の命をいただいている」
片方のお茶を俺に手渡して、ユキさんは悲しげな表情をした。
「わかるか。犠牲なしに得られるものはなにもない。凪は自分の理想を手放す代わりに、大切な子たちの未来を掴もうとしてる」
ユキさんは自分の湯呑みを口に運ぶ。
そんなことをしたら、凪さんはどうなるんだろう。守るべき矜持を支払って、新たな可能性を買って、単純なその交換の間には、凪さんの気持ちは考えられていない。
「……そんなことしたら、凪さんは」
「そう。呑まれたくないものに呑まれてしまう」
俺が懸念することなんかお見通しで、ユキさんは「だからだよ」と続けた。
「凪が『闇』に染まらないように、隆君や未来ちゃんは笑っていなくちゃいけない。昨日みたいに心配をかけるようなことはしちゃいけないんだ」
ユキさんは、俺の目をまっすぐに見る。わかるね、と念を押すように、眉が少し上がる。
俺は自分の右頬に軽く触れた。ひび割れた部分はガサガサとしていて、鏡を見てないからわからないけど、ユキさんが遠目でも気づいたのだから目立つのは明らかだ。
「……追加で心労をかける。なんて謝ればいいか」
「謝る必要はない。なにがあったかきちんと説明して、それからは普通にしていればいい。でも、拷問については知らないふりをすること」
ユキさんはお茶を飲み切って、綺麗な動きで立ち上がる。
「凪の相談係はこれまでどおり俺が引き受ける。隆君は無茶しない程度に自分が守るべきものに集中してくれ」
湯呑みを洗って干したユキさんは、じゃあまたあとで、と部屋の扉を開ける。
「凪さんが言わなくても、ユキさんは俺たちに伝えるつもりでしたよね」
紫音の映像を俺が見せてと頼まなくても、凪さんを心配しているユキさんならきっと。ゆっくりと振り向いたユキさんは、いつもの微笑を浮かべた。
「未来ちゃんがまた自分のせいにしてしまわないよう、配慮して教えてあげてほしい」
ユキさんが出ていくと、遊び回っていたうさぎと紫音がその後ろに続いて出ていった。騒がしい声が遠くなっていく。ユキさんが好かれる理由がわかった気がした。
【第二五二回 豆知識の彼女】
凪のキューブが最初に黒くなったのは、隆たちがヘンメイとの戦闘を終えて、あいかと話したあとのこと
光の先導者らしからぬ感情の起伏にキューブは『あれっ』となったようです。拷問自体は鞭の死人(華弥)相手にしていたものの、こちらは国の将来のためだったのでキューブは納得していました。でも臨世相手だと、恨みという凪の私情が入ってくるので許せない。境界が曖昧な生きた武器キューブ。山吹色の三分の一は現在黒色です。
お読みいただきありがとうございました。
《次回 前線の今後》
朝ごはんのあと、凪たちを送り出してから流星とのお話です。
どうぞよろしくお願いいたします。