第二四九話 禁句
「あの人のこと、助けたいって話だけど」
未来は俺の返事を待たずに言葉を継ぐ。「凪は、なんて言ってるの」と。蛇口を捻って出てくる水の音が、妙に大きく聞こえる。
「まじないのせいであんまり伝えられなかったから、臨世から引き出せる情報次第だって言われた」
「……そう」
「でも、俺に戦意がないのを察して、見方を変えるための努力はすると約束してくれた」
水が入ったコップを片方渡され、喉を潤した。飲んだら寝ろとばかりに未来に軽く押され、倒れるように仰向けに寝転がる。緊張してるから話せるだけらしい。
――隆一郎の判断は、正しかったと思うよ。
俺の断片的な話を咀嚼して、凪さんは自分が見た師走と照らし合わせてそう言った。
――あの男は、お前を助けようとしていたみたいだから。どんな話があればそう思うのかわからないけど……少なくとも、その気持ちを否定しようとは僕は思わない。言わされているでもない限り、お前が嘘をつく理由もないだろうしね。
「ただ、そのせいでこの国の人たちが危険に晒されるなら容赦しない、僕が無理だと判断したら従ってもらうって、釘は刺されたよ」
「……凪らしいね」
未来は俺のそばに座って、一口水を飲む。
「もうひとついい?」
「何個でも、気が済むまで聞いてくれ」
まじないが出てこないならなんでも話すから、と続けると、未来はコップを置いて、いまのところひび割れていないか確認した。前髪を優しく払われる。表情がかすかに歪んだのは、左耳の傷跡を見たせいだろう。
「……なんで、危ないってわかってるのに丸腰で行ったの。産月だって確信を持ってたんでしょ?」
咎めるような声だった。
「キューブを展開していれば、凪の治療法が効いた。あんなに危ないことにはならなかった。生きて帰ってきたから言えることかもしれないけど、キューブを展開していても話し合いには応じてくれたかもしれないじゃない」
座り直した未来は、もう一度、なんで、と言った。もしかしたら、俺の意識がない間ずっと考えていたのかもしれない。言葉の端々に怒りが感じられた。
天井の木目を見ながら、なんて答えようか考える。
「……どうしようか、迷いながら行ったんだ」
木目が師走の店を思い出させる。手入れが行き届いた、隠れ家みたいなあのお店。
「でも、相手の近くに立って、ダメだって思った。戦ったら、負ける。護身用だとしても、キューブを使ったらその時点でやられる気がした」
情けない答えを未来はどう受け取っただろう。不安になって未来の顔を盗み見る。未来は表情を変えていなかった。
「……凪も、戦っちゃいけないやつだって言ってた」
俺は目を見開く。
「謙遜かもしれないよ。私が足手まといになるからかもしれない。だけど凪が、あんなふうに言うのは初めてだったから……」
未来は本棚のほうを見て沈黙した。
――隆一郎の判断は、正しかったと思うよ。
聞いたときにはなにが、と思ったけど、戦わなくて良かったって遠回しに言っていたのか。
「生かされたって言ったね」
再度、咎める響きを感じ取る。
「死ぬつもりだったの?」
俺は息を飲んだ。自分が取った今朝の行動は、死の可能性を考えていた以上、そんなつもりはなくてもいまの未来と同じだ。
「自分が犠牲になればなにか変わるかもって、そうやって考えるのはマダーの本質なのかもしれないね」
「……未来」
「起き上がらないで。熱下がんないよ」
身体を起こそうとして、すぐに布団に押し付けられる。未来が見ていた本棚には、難しいタイトルのほかに自殺の文字が書かれた本も入っている。
未来の思考がどちらに傾いているのか、俺にはわからない。
「そんなつもりじゃ、なかった」
声が震えた。
「死のうなんて、そんなつもりはまったくなかった。ただ、俺だけが知っていて、誰にも共有できない状態で。タイムリミットがあるってわかってたから――」
瞬間、激しい痛みに襲われた。
「ぐあ……!」
「隆!」
バキッと割れる音と液体がぶちまけられる音が重なった。未来の瞬時の判断が俺の生死を分けた。
未来が迷わず完治薬を全量使ってくれたおかげで、俺のまじないは食い止められた。けれど、亀裂が。自分で触ってわかるくらいの深い網状の傷が、右耳の付け根から鼻筋を通り越して左頬まで残っていた。
――死。
ドクン、ドクンと心臓が大きく鳴っている。
身体を起こして、もう一度頬を触る。必死に息を継ぎながら、俺は布団を取っ払って、袖や裾を捲った。腕にも、足にも、似たような皮膚の段差がある。
完治薬でも治らない。どんな傷も治せる俺たちマダーのお守りでも、ひび割れを食い止めることに精一杯で、傷そのものの手当てにはならなかった。
未来がボロボロと涙をこぼす。
肩で息をする俺を、壊れないように優しく抱きしめた。
「もういい、もうなにも聞かない」
声も、俺に回した腕も、全部震えてる。
「なにも言わなくていいし、私も逃げない。逃げない、から。だから、死なないで」
それ以降は、泣きじゃくってなにを言っているか不明瞭だった。
無意識に力を込めてはまた力を抜く未来を、平気だと伝えるために抱きしめ返した。俺のひび割れは、なにも言わなければ進行しない。どれだけ傷が深くても、刺激を与えられてさらに広がるようなことはないと、まじないを持っている自分にははっきりとわかる。
俺の感覚を共有できないから、未来は怖がって力を入れようとしない。大丈夫だと言葉にしても首を横に振る。刺激しないよう、そっと触れている。
心はぐちゃぐちゃのはずなのに、俺のために必死に落ち着きを取り戻そうとする努力が痛々しくて、けれど、これまでのどんなときよりも、愛おしく感じた。
「……そばにいてくれ」
まじないと完治薬の痛み、熱も相まって、意識が朦朧とする。まぶたが重くなってくる。
「死んだりしないから、未来も俺の前からいなくならないでくれ」
「……でも、私は」
「俺が守る。臨世でも『あのお方』でも、俺の願いが届かなくて産月と戦わなくちゃいけなくなっても、俺が絶対、未来を守るから」
守られるのが情けないとこぼしていた未来に、こんな宣言は適さないかもしれない。それでも俺は未来を守りたい。
「未来が好きだ」
耳が近くて、囁くように想いを伝えた。腕の中で未来が身じろぎして、俺は少し力を抜く。鼻まで真っ赤になった未来が、涙を湛えながら俺を見上げた。
「……なん、て」
「好きだ。未来のことが、ずっと前から好きだった」
人の気持ちには敏感なのに、自分のことになると未来は急に鈍感になる。俺が未来を好きなことなんか大抵のやつが知ってるのに、未来本人はまったく気づいていなかったらしい。目がまんまるだ。
「絶対失いたくないくらい、お前が好きだ」
未来の青い瞳が俺を見つめる。海みたいに深くて綺麗な目が、思い出したように瞬きをする。
下を向いて、また俺を見上げる。視線があちらこちらに向けられて、混乱してるのがよくわかる。頬や耳が真っ赤になっていった。
「……なに、笑ってんよ」
指摘されて、ようやく自分の顔がニヤけていると気づく。
「好きって、何回言えば気が済むんよ」
「いままで隠してた回数分」
「いままでって……ずっと前って、そんなんいつから」
「もう覚えてないくらい、ほんとずっと前からです」
なにを返していいかわからずに、未来は真っ赤な顔を下に向けた。その挙動があまりにも可愛くて、意地悪したい気持ちに駆られる。けれど、それが叶わないことは自分でもわかっていた。
「ごめん、未来。俺……」
もう寝ると思う、と言ったつもりだけど、自分の耳に聞こえてきたのはぐにゃぐにゃの声だった。
未来が身体を支えてくれたのがわかる。力が抜けて重すぎて、俺と一緒に布団に倒れ込んだのも、なんとなくわかる。
意識が遠のくのを感じながら、未来が下敷きになって潰れていないことを祈った。
【第二四九回 豆知識の彼女】
隆は真っ直ぐ告白するタイプ
回りくどい伝え方はしません。好きだ、一択です。
お読みいただきありがとうございました。
《次回 青春》
朝です。倒れ込んで、その後の朝です。
どうぞよろしくお願いいたします。