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第二十八話

また大分間が空いてしまいすみません。

2回目のコールで誰かが出る音がした。


私はごくり、と生唾を飲み込んで声の主を特定するために待った。


『―――はい、もしもし』


女性の声だ。千里さんとも違うのでゆみ子さんの可能性が高い。


「こんばんは。夜分遅くにすみません。雫です。ゆみ子さん、ですか……?」


『あ、雫さん?こんばんは。大丈夫よ、この時間帯はまだ起きているから。千里があまりぐっすり眠ることがないからそれに合わせていたら睡眠が細切れになってしまって。日にちが変わらないと眠ることはしなくなったの』


「そう、でしたか」


ゆみ子さんは明るくそう話すが、それは人として本来の睡眠の流れではないと思う。私自身がそもそも人が眠るべき時間帯に眠れなくなってしまい、きちんとした生活を送れなくなってしまった。それは悲観すべきことだが、今となっては【月夜の森】を見つけて、様々な人たちに出会えたので感謝している。


だけど、ゆみ子さんはそうじゃない。眠れるべき時に眠ることが出来ない。それは、千紘くんも同じで二人で千里さんを支えようと頑張っている。


いつか千里さんも抱えている病気を治して、三人で幸せになって欲しい。


そして、その輝かしい未来の中に私は加わることが出来ない。それが今になってとてつもなく悲しい。


『……雫さん?どうしたの?』


ずっと声を発しない私を心配したのか、ゆみ子さんが声を掛けてくれた。


「すみません、大丈夫です。あの、ゆみ子さんたち家族はあの後大丈夫でしたか?【光の苑】の人たちは来ませんでしたか?」


ゆみ子さんは少し間を開けて、ああ、と思い出したように口にした。


『大丈夫よ。あの後、仲林さんという女性の方が来て千紘に治療費ですと封筒を渡してきたけれど、あの子は頑として受け取らなかったわね。でも、知らぬ間に新聞受けに入れられていたけれど。それぐらいかしら』


「そうでしたか、今回のことは本当にご迷惑をお掛けしてすみませんでした。お詫びというわけではないんですが、【月夜の森】で簡単なティーパーティを開くことになりました。三日後の夜11時からなんですが、良かったら皆さんに来ていただきたくて―――」


そこまで話すと公衆電話がぴーぴーと音が鳴り始めた。宮原さんに対処法を聞いていたので、私はすぐに200円ほど投入した。


『雫さん、間違いだったらごめんなさい。それは、あなたが戻る意思を固めたからお別れのためのティーパーティを開催するってことなのかしら?』


ゆみ子さんの指摘に、私はひゅっと息を飲みこんだ。


『あの時、理由を聞きそびれてしまったけれど、その意思が翻ることはないのね。ずっと何かを我慢して思い詰めていた表情しかしなかったあの子たちが、最近はちょっとずつ笑顔が出るようになってきたの。それは、雫さんのおかげだと思う。これからも、あの子たちの傍にいてあげて欲しいというのが、叔母の私の願いよ』


「ごめんなさい、ごめんなさい。私も、千紘くんと千里さんの傍にいたいです。だけど、母のことや、意識がない父のことや、家族のことを私自身の意思を率先して蔑ろに出来ないんです。ずっと、私は守られてきたから、守ってもらってきたから、その恩を返さないといけないんです」


『―――それは、雫さんのご両親がそうするように言ったの?』


ゆみ子さんの指摘に、私ははたっと我に返った。


父には時が来たら戻るようにと、言われてきていたがそれを強要することはなかった。むしろ、今回父が倒れて【光の苑】を導くべき人が不在になったから戻って欲しいという乾さんや有沙さんの願いを受け入れてのことだ。


そもそも母は、私が一週間後に【光の苑】に戻ろうとしていることさえ知らない。


すべては、自分の憶測で「戻らなければならない」と暗示を植え込んでいるだけ。


でも、それに気づいたところでもう考えを変えることは出来ない。


「戻ることは、私の意思です。それはもう、変わることはないと思います」


私は一言一言をしっかりと刻んだ。


少しの沈黙の後に、『分かったわ』と諦念が混じったゆみ子さんの声が聞こえてきた。


『それじゃあ、千紘と千里にも声を掛けてみるわね。もし、何か悩むことがあったらまたこの番号に連絡をくれる?』


「分かりました。ありがとうございます。お待ちしています」


ゆみ子さんの電話が切れる音を確認してから私は受話器を耳から離した。


ツーツーという不通音が先ほどの言葉の再考を促しているようだ。


私は少々強めに受話器を元に戻すと、その場にうずくまった。


夜の闇と少しの街灯と無音の世界に私はたった一人だ。そして、今後自分がどうすればいいのか考えるのも、私自身だ。


うずくまったまま、天井を見上げる。何か犬か猫のようなものを書きなぐったような落書きが見える。その犬か猫の落書きの横に吹き出しで「元気だせよ」と書かれていて、何だか慰められているような気がして少し笑みがこぼれた。




【月夜の森】に戻ると、聖良ちゃんが待ってましたとばかりにポニーテールを揺らしてこちらに向かってきた。


「雫さん、三日後ティーパーティを開くって聞きました。私も、お手伝いさせてもらってもいいですか?」


「うん、もちろん。まずは、どんなメニューにするか考えてみようか」


「雫さんのコーヒー、教わりたいです」


聖良ちゃんは目を輝かせながらそう言った。正直、宮原さんに教わればいいのにと思ったけれど、また彼女への負の感情が表情に出てくる前に私は口元に笑みを浮かべた。


「そうだね、まだ私も宮原さんのお墨付きってほど上手くはないんだけど……コーヒーの淹れ方の知識とか基本的なことは教えられると思う」


その日は早速聖良ちゃんとコーヒーを淹れる練習をした。


コーヒー豆の種類のこと、挽き方の種類、コーヒーの淹れ方など簡単な説明をしてから厨房のコーヒーミルで焙煎されたコーヒー豆を粉砕し始めた。聖良ちゃんは学校で使っていたノートなのか、表紙には現国と書いてあるノートにしきりにメモを取っている。


「手動のミルだと淹れたいコーヒーの粒度が変えられるし、挽くというプロセスが楽しめるから私は好きなの。あとは何といっても直に香りを楽しめる、ってところかなぁ。この香りを楽しみながら挽くっていう時間が、何とも言えなくて。あとは、飲んでもらうお客様のことを考えてね、飲んでもらう時にコーヒーの立ち上る香りを鼻孔に感じる瞬間って、皆さん幸せだなぁって表情をするの。その一瞬の時を見られることがとても幸せだなぁって思う」


ドリッパーにペーパーフィルタをセットし、コーヒー粉をフィルターに入れて平らにならす。


「コーヒーの旨味を抽出するには、お湯は90℃から96℃くらいが適温なの。この温度をできるだけ保てるよう、事前にドリッパー、サーバー、カップにお湯を通して温めておくのが大事かな」


一回目の注湯(蒸らし)はお湯が全体にまんべんなく行き渡るようにコーヒー粉の中央から楕円を描くようにゆっくりとお湯を注ぐ。


聖良さんは緊張しながらもゆっくりと注ぎ入れた。


「上手上手、次は二回目ね」


同じように中央から小さな円を描きながらお湯を注いでいく。徐々に高さを出してくのが大事だ。そして三回目は二回目のお湯が落ちきる前に注ぐ。注ぐ量をコントロールしながら数回注湯する。


必要量に達したら、コーヒーが落ちきる前に待たずにサーバーからドリッパーを外して完成。


「―――出来た!」


聖良さんはふうっと大きく息を吐いた。緊張のあまり額には汗が見える。


「凄い凄い、上手に出来たよ」


私の言葉に聖良さんはえへへ、と嬉しそうに笑みを浮かべた。


そして、コーヒーの淹れ方を勉強し始めたころの自分を思い出していた。数か月前、宮原さんからレクチャーを受けながら、緊張のあまりお湯を零したこともあった。


コーヒーが思いの外苦くて落ち込んだこともあった。


そんな失敗を続けながら、宮原さんやお母さん、千紘くんにコーヒーを淹れてあげることが出来た達成感を思い出し、感慨深いものがあった。


そして、もう私は誰かにコーヒーを淹れてあげることもなくなるのだろう。


あんなに私が淹れたコーヒーを喜んでくれた母の顔も見れなくなる。


「私のコーヒーは、まだまだ生半可なものだから。聖良ちゃんはコーヒーの挽き方とか種類とかもっと勉強して、お客様一人一人の好みに合ったコーヒーを淹れることが出来たら本当に素晴らしいことだよね……」


私の呟きに、聖良さんは勢いよくがっと両手を掴んだ。


「―――雫さん、これから私はコーヒーの淹れ方を上手くなるように勉強するから、絶対に絶対に飲みに来てくださいね!」


私より10以上も下の少女の両目は深い海のような色をしている。


悲しみや無念を何もかも見透かされそうで、私は直視出来ずに目を伏せた。


そして、ゆっくりと顔を上げ、


「うん、聖良ちゃんのコーヒー、絶対に飲みに来るよ」


あっけらかんとそんな嘘を言ってのけた。




「以前、雫さんが五十嵐さんにカモミールティーを出しましたよね。あんな感じでコーヒーだけじゃなく、台湾茶や中国茶も提供してみたいんです」


宮原さんは先ほどの聖良さんのように目を輝かせて息まいた。血がつながっていないとはいうものの、そこは親子だなと思わせた。


「台湾茶や中国茶、ですか?」


「実は知り合いが数年台湾に出張に行っていて、そこで台湾烏龍茶をお土産でもらったんです。よく私たちが飲む烏龍茶と全く違ったもので、発酵度が低くて青々とした葉の爽やかな香りとフルーツのような甘い香気が特徴の【緑の烏龍茶】なんですよ。もっと濃度をあげて抽出したら朝淹れるコーヒーのように飲めるんじゃないかと思って、コーヒーミルで茶葉を挽いてみたんです。茶葉の粒度や抽出時間、途中でも温度調整によって独特の渋みが軽減され、フレーバーが華やかに、より明確な甘みが出ることに気がついたんです。まだまだ本場の味には程遠いんですが、雫さんにはこの台湾茶に合うスイーツなんかを考えていただけたらと思っています」


「台湾茶に合うスイーツですか?」


全くピンと来なくて声が上ずってしまった。


「台湾スイーツといえば、豆花トウファとかですか?」


聖良さんが厨房からひょこっと顔を出した。


「豆花、ですか?」


「実は私も食べたことはなくて、雑誌か何かで見ただけなんですけど。杏仁豆腐みたいな感じです」


「杏仁豆腐……も、すみません、食べたことがないかも」


「雫さん、多分父の蔵書の中にはそういったものはない気がするので、明日にでも何冊かスイーツの本を持ってきますね。雫さんが考案したオリジナルスイーツでもいいですし、ちょっと考えてみましょう」


「はい」


三日後のティーパーティに向けて色々と考えるのがとても楽しい。この楽しい時間を忘れないよう、一日一日をきちんと心に刻みつけたいと思う。




聖良さんは疲れたのか途中で机に突っ伏して寝てしまった。


「高校生に早朝までの仕事はやはり酷ですね。とはいえ、途中で家に帰すのも心配ですし。仮眠室に寝かせてきますね」


宮原さんは聖良さんをおんぶして二階へ上がっていった。


私は厨房の片づけをしたりテーブルを拭いたりしていると、段々と空を白んできているのが見えた。


今日も、朝がやってくる。


前までは朝の光を感じることが恐怖に感じていたけれど、今は朝の光を体全体で浴びることが心地よくて仕方ない。


【光の苑】に戻った後も、朝の光を心地よいと思えるのだろうか。


にゃーん、という声と共に入口のドアを誰かがかしかしと爪を研いでいる音が聞こえた。目をやると、何やら黒い物体が見える。


「―――ヨル!」


【月夜の森】を去る前に会いに来てくれた。


私は急いで入り口のドアを開けて、ヨルを抱きしめた。


ヨルは夜と朝の匂いがする。


そのまま抱き上げてヨルの体に顔をうずめた時、店の前に誰かが立っていることに気が付いた。


視線を上げると、パーカーを着た千紘くんが立っていた。


「え?千紘くん?」


何でここに、という前に「おはよう、雫さん」と声を掛けられた。


「おはよう……どうしたの?早いね」


「うん、何だか目が冴えちゃって。叔母さんから連絡があったってきいて、直接雫さんと話したくて来たんだ。仕事もそろそろ終わりの時間だよね」


「うん、今は後片づけをしていて、あと少しで出られると思うけど」


「そっか、でもすぐ終わるから今ここで話しちゃうね」


何故かその時の千紘くんはいつもの千紘くんじゃないような気がした。


何が違う、と言われてもこれとは断定できなかった。


「俺さ、再来週から正社員で働くことになってるんだ。その話は、以前にもしたよね。それで、近々あの家からも出ようと思ってる」


「あ、そうなんだ。じゃあ、ゆみ子さんと千里さんは二人暮らしになるってこと?」


「正社員で働くし、ちゃんと叔母さんにはいくらか生活費を送ろうと思ってるよ。千里のこと、任せちゃうわけだし。何もかも、新しい生活を一人で始めようと思ってる。だから―――」


千紘くんは一歩踏み出し、私を見下ろす形になった。


「雫さんも、ここから離れるんだよね。じゃあ、俺たちここで別れようか」


「え―――?」


「あー……別れるも何も、俺たち付き合ってもいなかったよね。別れるって言い方もおかしいか。互いに想い合ってはいたけれど、それだけの関係性で、別に未来を誓い合ったわけじゃないし、問題ないよね」


頭を搔きながらははっと軽く笑う千紘くんは、私の知ってる千紘くんとは違う人に見えた。


『―――雫さん、いつかゆりが丘動物園に行こう。もし、それがクリア出来たら、俺ともっと遠くに行こう。自転車の練習をしてサイクリングで海沿いを走ってもいいし、電車でずっとずっと遠くに行くのもいい。行ったことのない土地の食べたことのない名産を食べて、温かい温泉に浸かって、手を繋いで一緒に夜の温泉街なんかを散策してもいい』


笑顔でそう話してくれる千紘くんの姿に段々と靄がかかる。


「……それは、千紘くんの本心からの言葉なんですか?」


私の呟きに千紘くんは困ったような表情をした。


「だから、そうだって言ってるじゃん。あ、でも、ティーパーティには参加させてもらうよ。千里も楽しみにしてるし。俺たちは知人としてその場で過ごすってことでいいよね」


「―――わかりました、今までありがとうございました」


私が早口でそう言うと、千紘くんはこちらに手を伸ばしてきた。私は目の前でその手を大きく払うと、靄で見えにくくなっているまま千紘くんを睨みつけた。


「さようなら」


ヨルを抱いたまま店の中に逃げ込んだ。千紘くんは追いかけてこない。


靄が、晴れない。腕の中のヨルの温もりは感じているのに店内がすべてぼやけている。呼吸が苦しい。


「雫さん、雫さん、どうしたんですか?」


宮原さんの心配そうな声が聞こえるが、胸が苦しくて返事が出来ない。


しばらく口を開いて呼吸を続けていると、空気が胸に入り込んできた。


「……宮原さん、苦しくて苦しくて息が出来ないの。靄も掛かっていて、何も見えなくて―――」


いつの間にか宮原さんの腕の中にいた。ヨルは苦しいのかぴょん、と腕の中から飛び出した。


「大丈夫、落ち着いてください。大丈夫、あなたを責めるものは誰もいません」


ううう、とくぐもった声が漏れ出た。


夢だといいのに、と思いながらも、そのまま私は宮原さんの腕の中で目を閉じた。

なかなか【光の苑】に帰らない……

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