十四 新たな旅立ちのブルース
午後になって降り出した冷たい雨が、夜になっても、信号や車のライトをにじませた漆黒の車道を、しとしとと濡らしていた。
御茶ノ水のライブハウス、【ゲイン】の勝手口から、僕は狭い路地裏に顔を出して、表通りの車の行き来を眺めていた。
もう開演時間は三十分も過ぎているというのに、デュオの相方は一向に姿を現しそうにない。
やっぱり、ライブ当日は是が非でも彼を掴まえておいて、現地まで引っぱって来るべきだった。
肩を叩かれて、振り返ると、ゲインのマスターが渋い顔で、
「もう始めなよ。お客さんに謝ってよ。」と言った。
「すみません。」僕は頭を下げてマスターに続いて店内に戻ると、従業員用の通路を通って、ステージ裏の薄暗い扉の前まで来た。
すると、部屋の中から、ハーモニカの力強い演奏が聴こえてきた。
クリームの〝Traintime〟に似た急速調のリズムだ。
扉を開けると、舞台中央のスポットライトの下で、新藤がお客さんから手拍子を受けながら体を折り曲げてハーモニカの吹奏に没頭していた。
まるで場違いな人みたいに登場してしまった僕は、背をかがめてこそこそと舞台を横切ると、新藤の隣の椅子に腰かけて、用意されたアコースティック・ギターを胸に抱えると、頃合を見計らって彼の演奏に加わって行った。
とはいえ、〝Traintime〟は、ハーモニカとドラムスの掛け合いが聴き所の曲だし、彼のスペースを埋め尽くすような迫力ある吹奏の魅力を活かすべきだとも思ったので、僕はギターの弦やボディを手のひらや拳で叩いて、打楽器的なリズムを演出するだけに留める事にした。
新藤は、「う!」とか「Yeah!」とか、激しい息遣いなどを掛け声にしながら、聴き手の耳が釘づけになるような即興演奏を繰り広げて行く。
お客さんも体でリズムを取りながら、夢中になって新藤の一挙手一投足を目で追っている。
僕が加わってから、実に十分くらい、新藤は休みなく吹きまくり続けた。そして、最後は終点についた列車のようにテンポを落として行って、唐突なくらいあっさりと演奏を終えた。
狭い客席を埋めた二十人程度のお客さんから拍手喝采が起きて、新藤はようやく顔を上げて僕の方を見た。
その得意げな表情に遅刻を反省する様子はみじんもない。
仕方なく、僕は一人でお客さんに頭を下げて、「開始が遅れてすみませんでした。」と謝った。
「いいよ、いいよ!待ってました!」お客さんの一人がありがたい助け舟を出してくれて、会場を和ませてくれた。
そこで、僕は新藤に注意するのはライブの後にする事にして、手早くチューニングの微調整を済ませると、本来のセットリストの最初の曲を始める事にした。
「次の曲は、僕にブルースを教えてくれた、高谷公吉さんに捧げます。タイトルは、〝新たな旅立ちのブルース〟です。」
ちょっと会場にしんみりした空気が流れたところで、新藤がいきなり、予定になかった無伴奏の前奏を三音吹き鳴らしたので、僕は不意を突かれて出遅れかけたけれど、何とか彼の演奏に合わせてリズムを刻み始めた。
本当にこいつは……。僕が睨んでも、彼は空々しい顔で明後日の方を見ながら演奏を続けている。
でも、彼のたった三音の前奏の、何と激しく深みのある演奏だった事か。僕は実のところ、演奏家としての彼のセンスにぐうの音も出ないのだ。
今では、僕を教え、導いているのは新藤の方だとさえ言える。
そして、彼が演奏で言わんとしている事も、僕には分かっている。
それはこうだ。
『ここまで来いよ。お前なら来れる。』
だから僕は、自分の全てを懸けて彼に挑みかかろうとする。
負けん気、というのもあるけれど、やっぱり、優れた演奏家と一緒に本物のブルースを力いっぱい演奏できることが、嬉しいのだ。
新藤だってそうに違いない。
なぜなら、僕が良い切り返しを見せた時、彼は決まって、わざとらしく目を丸くして、こちらを振り返ってみせるから。
まるで、「やっとお前も分かって来たじゃないの。ブルースの真実ってやつを。」、とでも言いたげに。
だから、僕も目つきで答えてやるんだ。
「まだまださ。僕らのブルースは、ここからが始まりなんだから。」、ってね。
完