【清掃日誌17】 ネイルケア
今日という今日こそは家から一歩も出ない。
それが今朝立てた俺の誓いである。
いや、どうせならずっと部屋でゴロゴロしていよう。
最近は働き過ぎたからな。
俺の本職は子供部屋おじさんだ。
そこらの真人間と違ってキャパシティに限りがあると言うのに、最近は余事にかまけ過ぎた。
作りかけの模型、書きかけの懸賞エッセイ、読みかけの冒険絵巻物、練習中の新曲。
レビューを頼まれていた新作の駄菓子も、まだ包み紙すら開けれていない。
だから、今日くらいは引き籠もらせてくれよ。
(ちゃんとジミーの許可も取ったぞ!)
最近の俺、こんなに頑張ってるんだからさ。
『マーサ。
休日なのにゴメンな。』
「いいえ、坊ちゃんのお世話をさせて頂けることが私の生き甲斐で御座います。」
マーサは我がポールソン家の使用人だが、週に1日だけ俺専属の使用人となる。
これは幼い日の俺が両親に駄々をこねて与えられた権利だ。
原則的にこの日のマーサには休養を取らせるが、何のかんの理由を付けて俺が側に置いている事が多い。
これが母さんや元嫁やエルデフリダが発狂する原因の主たる一つではある。
「お洗濯もの、畳みますね。」
『そんなの後でいいだろ。』
本当はやりかけの雑務をこなす為の一日なのだが、どうもモチベーションが沸かない。
こういう日はマーサの膝枕にもたれ掛かっているに限る。
連日連夜、戦争だの音楽祭だの国際情勢だの。
正直、疲れた。
「坊ちゃんは社会にとって必要不可欠なお方です。
大切なお仕事が舞い込むようになったのも
世間がようやく坊ちゃんの真価に気付き始めているからですよ。」
大好きなマーサの言葉だが、流石に真に受けるつもりはない。
今の俺に仕事が集中しているのは、ドナルド・キーンが長期出張中だからである。
どうやら世間は俺をあの男の腹心か何かと誤認しているらしく、様々な嘆願や陳情の窓口として俺を利用しようとしてくる。
先日、あまりのわずらわしさに我慢し切れなくなった俺は、キーン不動産に強めのクレームを入れた。
だが同社の社員達も俺をあの男の懐刀か何かと誤認しており、その場で雑用を押し付けて来ようとしたので逃げ出してきたわけだ。
(どうして俺が社長夫人のショッピングなんぞに付き合わなくてはならんのだ。)
『マーサ。
その服も買ってやって大分立つだろう。
貴族区に新しいブティックが出来たんだ。
今度、新しい服を買ってあげるよ。』
「ありがとうございます。
ですが、坊ちゃま。
御言葉ですが、坊ちゃまは御自身の衣装を先に揃えなければなりません。
その様な粗末な衣服を着ていては、坊ちゃまの格が下がってしまいますので。」
『俺は、マーサが繕ってくれたこの服が気に入っているんだ。』
「なりません。
坊ちゃんはこれからも御出世して、もっともっと大きな舞台に出られるお方です。
キーン社長様やブラウン様に負けない立派な衣装を揃えておかなければ。」
『それでも俺はマーサの…
わかった。
礼服もちゃんと揃えていくよ。』
「いつも口うるさい事ばかり申し上げてしまいます。」
『いや。
マーサは俺の為に諫言してくれているからな。
もっと虚心に耳を傾けるべきなのだろう。
ただ、ブティックには連れて行かせて欲しい。
俺がそうしたいんだよ。』
「まずは奥様やポーラ様にお気遣い下さいませ。」
『…うーん。
わかった。
2人には父さんと相談してちゃんと気遣いをする。
それが終われば、マーサは受け取ってくれるか?』
マーサは何も言わずに温かく微笑んで俺の髪を撫でた。
この女は昔からそうだ。
こうも明確に拒絶する。
…仕方ないさ。
俺が知る中で最も難しい女だ。
『マーサ。
最近、スキルの面白い使い道を見つけたんだ。
街でネイルサロンが流行っていてね。
俺のスキルを使えば、マーサの手先をピカピカに出来ると思うんだ。』
俺は彼女の手を取ろうとするが、やはり優しく拒絶されてしまう。
「爪の手入れでしたら、それこそ奥様になさるべきです。
きっと坊ちゃんの孝心が伝わることでしょう。」
『あ、うん。
母さんには今度、…まあ。
また今度孝行するよ。』
「…それに、あまりスキルの話をしてはなりませんよ。
坊ちゃんはもう公職に就かれたのですから。
その様な下賤仕事は奉公人にやらせなくてはなりません。
坊ちゃんは偉い方なのですから。
政治や社交といった、身分に相応しい重要なお仕事をなさって下さい。」
『…まあな。』
反論は出来ない。
俺も来年は40歳だ。
それに、たかが売春イベントとは言え、準公式イベントの実行委員まで務める身分になった。
いつまでもスキルだレベルだ、などと若造のような事を言っていれば…
周囲の信用まで失墜させてしまうだろう。
『そうだなあ。
同期にも役職付きは増えた。
アルマークの奴なんかは親の七光りとは言え副区長になったからなあ。
いつまでもスキルだ何だと言ってる訳にもいかんか。』
「キーン社長様もいつも公職への推薦話を持ちかけて下さっているではありませんか。
マーサ如きが口を挟む事柄ではありませんが、次に公職の話が来たら迷わず受けて下さい。」
『いやあ。
まあ、理屈は分かるんだけどさ。
俺はどうも、そういう猟官染みた話が苦手でさぁ。
ああいう、己の見栄の為に公的リソースを食い物にするのはなぁ…』
「ではマーサの為に御出世なさって頂けませんでしょうか?」
『マーサの為に?
どうして?』
「当たり前ではありませんか!
世の母親の願… 」
そう言いかけてマーサは絶句し、唇を噛んで俯いてしまった。
流石に俺も歳が歳なので、彼女が何を言い掛けたかは理解出来る。
真面目なこの女の事だ。
それを失言と認識しているのだろう。
マーサが本当の息子と思ってくれているのなら、俺は嬉しい…
『母さんには悪いが…
俺は、マーサこそが我が母だと思っている。』
「…!」
『ゴメン。
口に出したら、何か重荷になっちゃいそうでさ。
今まで言葉にした事はなかったけど。
ずっとそう思っていたから。
…勿論両親にも孝養はするが、マーサを優先したい。』
マーサは何も言わずに俺の手を振り払うと、無言で部屋を飛び出してしまった。
俺はしばらく呆けてからノロノロと立ち上がり、マーサを追うために上着を羽織った。
最愛のマーサに手を振り払われたという事実が、俺の心を酷く傷付けた。
少し息苦しくなったので1分だけソファに座り込んで呼吸を整える。
他の事などどうでもいいが、マーサに拒絶される事だけには堪えられない。
1分経過。
立とうとして、再度腰を沈める。
追いかけて嫌がられたら、俺は泣いてしまうかも知れない。
世に男ほど女々しい生き物は無い。
何とか思い立った俺が屋敷に彼女が残っていないか探していると、妹がやって来て俺を強く詰り始めた。
マーサは俺の乳母だが、流石に妹が生まれた時期まで母乳は残って居なかった。
妹にとってマーサは単なる使用人に過ぎない。
「兄さんはいつもマーサにばかり構って!」
『…ゴメン。』
妹よ、俺はオマエにも構ってはやりたいのだが、それはロベール君の仕事だからな。
「大体、兄さんは昔からマーサマーサと!
私には興味も持ってくれないじゃありませんか!」
そうかなあ?
兄としてオマエには気を掛けて来てやったつもりではあるのだが。
そもそも40前のオッサンが既婚者の妹にベッタリしてたら、それ凄くキモいと思うぞ?
『そうだ、ポーラ。
久しぶりに兄さんが新技を見せてやろう。
オマエだけの為に考えた世界に一つだけのスキルだ。』
「…。」
『ボーラ、ポーラ。
俺の宝物ポーラ。
ちょっと指を拝借。
秘技、ネイルサロン♪
セット。
清掃。
おお!
実験成功!
どうだこの爪。
すっかり綺麗になったな。
ロベール君も惚れ直すだろう。
いいか?
兄さんはいつだってオマエの事だけを考えているんだからな。
この世にたった一人の兄妹じゃないか。
愛してるよポーラ。
ところでマーサを見かけなかったか?』
「…ギャオーーーン!」
…クッソ。
昔はチョロかったのに。
女って歳を取れば取るほど、余計な知恵を付けて扱いにくくなるよな。
「2人共!
どうしたの!?
屋敷の中で騒いで。」
『ああ、母さん。
実はね…』
「ギャオーーーン!」
どうやら2人の情報によると、マーサは「日用品の補充」と言って出掛けたらしいな。
いやあ、持つべきものは家族だよな。
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何となくマーサの行きそうな場所をプラプラ歩く。
まあ、概ね生活圏の範囲内だ。
ここは金持ちや公人が多く住む中央区だが…
その分使用人の人口も多く、裏路地に行けば使用人やその子弟の為の食堂や公園もある。
暗黙の了解として雇用側は立ち入ってはならないルールがあるらしいのだが、俺は昔から無遠慮に出入りしている。
特に駄菓子屋。
この歳になっても、高級ラウンジなどより遥かに落ち着く。
『オバちゃん、チョコ干し柿を頂戴。』
「あらぁ、ポールちゃん。
音楽祭いいの?
役職に就いたって聞いたわよ?」
『えーっとねえ。
今日はお休みー。』
「本当に?
またサボってるんじゃないの?」
『えへへへ。
ホントだよお。』
オバチャンと言っても、もう老婆だ。
俺が子供の頃には、既に娘さんが嫁ぎ終わっていたから、今はかなりの歳なのだろう。
『ねえ。
マーサ見なかった?』
「何? 迷子?」
『ん?
マーサはこの辺結構詳しいよ?』
「違う違うw
ポールちゃんが迷子になったのかなってw」
『…むう。
まあ、人生迷走してるけどね。』
「いつまでもゴロゴロしてちゃ駄目よ?
今、このお店に来てる子供たちは
みーんなポールちゃんの同期や後輩の子供達なんだからね?
離婚は仕方ないけど
今はいい人居るの?
男の人はちゃんと身を固めなきゃ…
あっ!
真面目な話になると逃げるんだから!」
最近、駄菓子屋もいよいよハードル高いよな。
この前なんて後輩のヒクソンの息子さん(11歳)に説教されたからな。
どうやら子供にとって、オッサンが駄菓子屋にタムロしているのは犯罪らしい。
否めないのが辛い所である。
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その後も、俺の行きそうな場所をプラプラする。
行きつけのオモチャ屋とか、書店(ここは出版社も兼ねているのだ。)とか、ナンパスポットのテラスカフェとか。
で、裏通りをグルグル回っているうちにマーサの後ろ姿を見つける。
掲示板を見ているらしかった。
『マーサ。』
足音で俺だと分かっていたのだろう。
背後から話しかけても、驚く気配はなかった。
『どうせなら、何か食べて帰ろうよ。
あ、知ってる?
最近、この辺にマフィン喫茶が出来たんだ。
ブランデーに漬けて食うのが流行ってるんだぜ。』
マーサは振り返りもしない。
少し肩が震えているようにも見える。
「坊っちゃんも、とうとう広報に名前が載るようになったのですね。」
『広報?
ああ、音楽祭の案内インタビューだろ?
こんな端っこ記事なんて誰も見てないよ。
ジミーと連名だしね。』
「いいえ、坊っちゃん。
世間様は意外に見ているものですよ。」
そう言えば、本名が公的掲示物に載るのは初めてかもな。
いつもペンネームの《子供部屋おじさん》を使ってるからな。
『俺は、マーサが見てくれていればそれでいいよ。』
顔を拭ってから、彼女はようやく振り向いてくれる。
「仕事場にお戻り下さいませ。」
『今日は休暇日なんだよ。
それよりマフィン食べに行こうぜ。
貴族区の連中が買いに来る位の人気店なんだ。』
「でしたら尚更です。
そのお菓子を多く買って、お仕事場で配ってみて下さい。」
『差し入れしろってこと?
うーん、俺は理事会入りしてないヒラの委員だし、そこまでの義理はないけどな。』
「だからこそです!
坊っちゃんが将来世に出て行かれる時に、必ず意味を持ちます。」
『俺はそういう猟官が苦手なんだよ。』
「お言葉ですが坊っちゃん。
猟官に近い振る舞いも殿方のお仕事ですよ。』
それ、いつもドナルド・キーンや父さんからしつこく言われてる。
「もしもご職場に配って頂けるのでしたら、マーサもご相伴に預からせて下さい。」
…落とし所だな。
それ以外に、この女の口に何かを放り込む事は不可能だろう。
俺はマーサの手を引いてマフィン喫茶に向かう。
「坊っちゃん、皆が見ております。」
『昔は、こうやってマーサに手を引いて貰ってあちこち行ったなぁ。
覚えてる?
俺が商業区で迷子になった時。
泣き疲れてた俺をおぶって帰ってくれたじゃない。』
「昔の話で御座います。」
『俺にとっては掛け替えのない思い出なんだよ。
今でも商業区に行く度に、マーサが迎えに来てくれた跳橋をわざと通るんだぜ。』
皆が見ている、と言うのはマーサ特有の大袈裟だ。
実際はすれ違う相手からチラ見される程度。
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マフィン喫茶。
普段は混んでいるらしいが、音楽祭期間なので殆ど客は居ない。
陳列ケースには潤沢に並んでいたので、全て購入することに決める。
「全てで御座いますか!?」
オーナーが目を丸くする。
一つ600ウェン強のマフィンが目算200個強。
『イベントの世話係をしていてね。
皆に配ってやりたいんだ。
今、全部で何個位あるかな?』
「はっ!
もしや音楽祭の!?」
『ははは、そんな所。』
「現在、在庫が保存庫内も含めて300個強しかありません。
材料も余り残ってないので、追加で焼けるのは150個が限度かと。」
『50万ウェンあれば足りるかな?』
「はい!
恐らくご予算の範囲で収まるかと!
直ちに臨時閉店しますので、少々お待ち下さい!」
『テラスで待たせてよ。
たまには、親孝行したいからさ。』
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「まさか、ここまでして下さるとは思いませんでした。」
『前に首長国の王族が裏方スタッフ全員に差し入れをしていた場面を目撃してね。
その真似事だよ。』
忘れもしない。
第十一王女カロリーヌ姫、真に恐るべき女だ。
「このテラス席の話で御座います。
こんな立派な席に私の様な婢が腰掛けるのは場違いです。」
『そうかい?
俺はマーサと毎日こうやってのんびり暮らしたいのだけどね。』
「勿体ないお言葉ですが。
まずは、坊っちゃんはちゃんとした家柄の方とご結婚なさって下さい。」
『マーサも居てくれるんだろ?』
「…居付きの使用人は、嫁いで来られる方に嫌がられますから。
前もそうであったではありませんか。」
『マーサを受け入れない女なんて、俺からお断りさ。』
「坊っちゃん!」
そんな遣り取りをしている間にマフィンの準備が終わったので、呼び付けておいた馬車に乗せて中央音楽堂に向かう。
ジミーにはメッセンジャーを送ってある。
「おお、ポールソン委員。
休暇日にも関わらず、このお気遣い。
感謝致します。」
『ブラウン委員。
メッセンジャーにも伝えさせた通り
あくまでこれは我々一同からの差し入れということで。』
「承知しました。
些か数が多いようですが?」
『スタッフの分です。
照明や給仕、警備や連絡。
そして便所の清掃係に至るまで。
全員に行き渡るように徹底させて下さい。』
「なるほど。
ご趣旨に強く賛同します。
是非、その様に取り計らいましょう。」
『ブラウン委員。
変わった事はありませんでしたか?』
「ふふふ。
色々あった気もしますが。
この差し入れ事件が全て上書きしてしまいました。
きっとポールソン委員の御徳業は長く語り継がれる事でしょう。」
『差し入れ位は、皆さんなさってますでしょう?』
「美女や役職者には山の様に届きますな。
ほら、そこのテーブル。
あれは全て我々2人への差し入れです。」
『あんなに!?』
「そう、あんなに。
でも便所の清掃係にまで目を向けた者はおりません。
大体、こんな巨大な劇場に何人のスタッフが居るのやら。」
『常勤107名。
音楽祭の期間中は59名が増員されます。
また委託業者が74名配置されます。』
「!?
…ふふふ、はははは!」
『ブラウン委員?』
「失礼。
これ程の御仁にジュースだけ配らせているのは社会の損失だと再認識しましてな。
貴女もそう思いますよね?」
ジミーとマーサが静かに頷き合う。
友よ、オマエはマーサをちゃんと視界に入れてくれるから好きだよ。
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「ムシャムシャ!
いやー、まさか自分にまで差し入れが貰えるなんて
思っても居なかったっス!」
『衣装係。
口に物を入れながら喋らないで下さいね。』
「ムシャムシャ。
はーい!」
『仕事には慣れた?
君の希望からは少し離れてしまったけど。』
「ムシャムシャ。
ファッションに関われてるから、気分いいっス。
モグモグ。
今年から急遽導入されたっていう、この制服もやたらカッコいいし。」
『気に入ってくれたなら幸いだ。』
「ところで、そっちの方はどなたさん?」
「はじめましてポールソン家にお仕え『母のマーサだ。』
「!?」
「へぇ。
あんまり似てないっスね。
ムシャムシャ。
息子さんには色々お世話になってるっス。
レニーっス。
モグモグ。
あ、お母さん折角なんでこのチョコバーあげるっスよ。
お母さんも音楽祭楽しんで行って下さいっス。
んじゃ、アタシは仕事あるんで。」
『…ああ、衣装係。
ちょっと手を出してみて。
指先見えるように。』
「はい?
クッチャクッチャ。
他にも何かくれるっスか?」
『セット。』
「クッチャクッチャ?」
親が施しを受けたのだ。
これくらいの返礼はさせてくれ。