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私の笑顔

『お前の妹をしっかりと教育しておけ! 二度と恥をかかせるな!』


 嫌味な黒髪眼鏡の男、オスカードの言葉が蘇る。

 恐怖とともに、頬と腹の痛みまで蘇る。


「祖国と、王家と、民衆のために……!」


 私は歯を食いしばって頭を左右に振っては、オスカードの幻影を振り払う。


「ディアーナ」

「なに? お姉ちゃん」

「そろそろ始める。心の準備は良い?」

「……うん、わかった」


 今回のターゲットは共和国のドブネズミ。

 王国に仇なす憎き相手だ。


 私は国境から程無く離れたこの街に隠れ住む、ターゲットの家に行く前に御茶所へと足を踏み入れる。

 途端に匂う、香草と珈琲の香り。


 私はディアーナを連れて手ごろな席に着くと、やって来たウェイターに香草茶を頼んだ。


「ディアーナ、覚悟はできてる? 今度の始末は全てディアーナに任せるから。追い込むまでは私がやってあげる」


 私はディアーナを見上げた。


「覚悟……」


 息を呑むディアーナ。


「できるわよ、ね?」


 目を見れば、ディアーナはぎこちなく頷いた。


「……うん」

「わかったわ」


 私がディアーナの返事を喜ばしく思ったとき、ちょうど香草茶が二つ運ばれてきた。


「頂きましょう、ディアーナ」

「うん、お姉ちゃん!」


 ディアーナの顔が綻んだ。




 ◇




 薄闇の中、私の目が粗末な家から出て来たターゲットを捕らえる。


「ディアーナ、出て来た」

「追おう、お姉ちゃん」


 カンテラを手にしたターゲットが下町に抜ける。

 私とディアーナは物の影を踏むように、音もなくその後を追った。

 幾度目かの角を曲がるうち、私たちとターゲットの距離は着実に詰まっていた。


 ──射程内。


 私は判断し、太腿のベルトからナイフを三本取り出す。

 構えては、


 擦る音。


 空気が音を立ててターゲットに迫る。

 私は右手のナイフを三本とも投擲していた。


 カンテラが翻る。

 小さな悲鳴が上がる。ガラスが割れる。明かりが消える。闇が辺りを支配した。


「走って!」


 私がディアーナを促すと、背後方トテテ……と足音が続く。


「天誅!」


 私が傷ついたターゲットの両肩に両膝を押し付けて組み敷きマウントを取れば、相手はもがき、なんとか振り払おうとする。

 だが、相手がもがけばもがくほど、ターゲットの体が私に食い込むだけだ。

 私はコインを握りしめた拳を使って顔面を左右から交互に殴りつける。


 ターゲットの若い男は一撃殴っただけでおとなしくなったが、私は殴るのを止めない。


「ディアーナ!」


 私はディアーナを促す。

 止めをさせ、と促す。


「お姉ちゃん」


 暗い声のディアーナが前に立っていた。

 私は顔を腫らした男をよそに、妹を見上げる。


「かわいそうだよ、もう止めよう」


 私は脳天を拳骨で殴られたような衝撃を受けた。

 なにを、ディアーナはなにを言っているのだ?

 理解できない。理解できないことが、恐ろしい。


「ディアーナ、早く止めを。ナイフを出して」

「止めようよ、お姉ちゃん」


 私は一呼吸置き、


「なにを言ってるの? 早く止めを──王国の敵とはいえ、この人も苦しいの!」


 吐き出した。

 だが。


「お姉ちゃんこそなにを言ってるの!」


 ディアーナが体当たりを仕掛けてくる。私はバランスを失って男の体の上から滑り落ちた。


「なにを……」

「人殺しは悪い事なんだよ?」

「人じゃない。ターゲット」

「人殺しだよ!」


 ディアーナは叫ぶ。

 夜道に、夜の最中に木霊する。


 ディアーナにできないのなら。

 私は起き上がりざま、私の太腿のベルトから、ディア―ナの替わりにナイフをもう一本抜き放つ。


「ディアーナ。いい加減にしなさい!」


 私はナイフをディアーナに向けた。


「お姉ちゃん、私にはできないよ!」


 両手を突き出し迫ってくるディアーナ。

 私はそっちがその気なら、と牽制を込めてナイフを振るい──あってはならない手ごたえを感じた。

 指が、手の平が、温かい液体で濡れてゆく。


「お姉、ちゃ……ん」


 か細いディアーナの声が耳元で聞こえる。

 ディアーナが私の胸元に飛び込んでくる。

 そして、


 ──あろうことか、ディアーナの体温は、私の腕の中で徐々に冷め、次第に冷たくなっていった。


 私がディアーナの喉を傷つけた。私がディアーナの喉を傷つけた。私がディアーナの喉を傷つけた。

 私が●ァーナを●した。私がディ●ーナを殺した。私がディアーナを殺した。

 私はジェライスも殺した。私はアメリッサも殺した。


『おかえり。疲れたでしょう、リリアーナ』


 スカーレットが微笑みを持って迎えてくれた。


 でも、私は●カー●ットも●した。


 私が、私が、私が……この手で!


 私が、この手で、スカーレットも殺した。

 私は、この手で、みんなみんな殺した──。

 共和国のドブネズミも、裏切り者の貴族も、賄賂をばらまいていた商人も。

 そして、同じ施設の人間を。

 親友を。

 ──血を分けた実の妹さえも──殺した。


 殺してしまった。

 ……もう、後戻りできない。

 私は、黒い液体に濡れた手を見て、そう思った。

 私は、見開かれたままのディアーナの両の目を閉じて道端に横たえさせた。


 私は震える手で、ディアーナの髪を少しナイフで切り取って懐にしまう。


 私は左右を見渡す。

 人影は、無い。私は、男の心臓を一突きすると、ビクンと震えた男の荷物を奪う。

 そして急ぎ、共和国へ伸びる国境に向けて走り去る。

 ディアーナから逃げるように。


 ──そう。

 今わかる、己の罪深さから逃げ去るように。




 ◇




 逃げ出した私は、王国から遠く離れた共和国の裏びれた街の裏路地を歩いていた。

 ボロをまとい、顔を汚し、素性をわからなくする。

 腹が減れば、捨てられたばかりのゴミ箱を漁り、喉が渇けば、公園へ行って噴水の水を啜る。

 私は夢を見ていた。

 親友を、妹を殺した夢を。

 そんなことはあり得ない。

 私がそんなことをするはずがない。

 私は、私は──腐ったリンゴを握りしめた手は、赤い血に染まっていた。


 ──夢じゃない。


『お姉ちゃん、どうして私を殺したの? 私はもっと生きたかったのに』

『リリアーナ。元気にしてる? でも、どうしてあなただけが元気なの? あなたも、死んでよ』


 私の目の前にディアーナとスカーレットの血濡れた両手が伸びる。

 私はこれでもかと目を見開き、体をくの字に折って咳き込むと、その場で激しく嘔吐した。

 涙が流れる。

 だが、いくら涙が流れようと、頭の中で繰り返される二人の怨嗟の声は、いつまでたってもおさまらなかったのだ。




 ◇




 ──どれほど時が過ぎただろう。

 無限ともいえ、無ともいえた。


『死ね、死ね、死ね。お前こそ死んでしまえ!』

『もっと生きたかった。お前さえ私を見逃してくれてさえいれば!』


 私は、何者かもわからない声に突き動かされるも、膝を抱えてうずくまり、誰も立ち寄らぬ裏路地の街角で震えていた。

 ネズミが走る。ハエが飛ぶ。

 お腹は鳴り続け、淀んだ空は幾たびも揺れた。



『あの施設を壊して』

『私たちの家を消し去って』

『みんなの呪縛を断ち切って』

『さあ、立ち上がってリリアーナ、残った仲間を王国の魔の手から救って!』


 私が目を上げ、顔をを少し上げると、


「黙れこの王国の犬!」


 見れば、浮浪児が衛視二人に殴られていた。一方的だ。

 その浮浪児はちょうど私の目の前まで殴り飛ばされてくる。


「留置所の空もありませんぜ、この場でバラしちまいましょう、班長」


 班長と呼ばれた男は、腰に吊るした警棒を抜くと、それを無言で振り上げて──。


 グシャリ。

 熟れたスイカの割れたような音がした。


 石を握った私の拳が班長の頬に食い込む。

 腕を取る。胸を蹴る。そのまま引き倒し、後ろ手にねじり上げるとそのままへし折った。

 苦痛を訴える班長を哀れに思った私は慈悲を与えることにする。


「貴様!」


 班長の同僚が吠え、掴みかかって来るが、私の足は止まらない。

 班長の喉を蹴り砕くと、男の腕を取って後ろ手に投げた。壁に向かって男が激突、赤い飛沫をの起こして男は崩れ落ちる。

 私は班長の持ち物を漁ると金を抜き、今だ呻いている男に近寄ると、鳩尾に蹴りを入れ、浮かび上がった体に足を入れると、落ちてくる頭を蹴り砕く。首があらぬ方向に曲がり、真っ逆さまに錐揉みをして崩れる男。

 私はこの男の体からも金を抜き取ると、浮浪児に向き直る。

 その時、私のお腹の虫が鳴った。


「食べ物は無い?」


 見れば、浮浪児が火が付いたように、切り裂く悲鳴を上げては泣きだした。

 返事を待っていると、動かぬ私をどう思ったのか、浮浪児は突然信じられぬ敏捷さを見せて立ち上がる。

 そして足を絡ませて、転がるように走り去って行く。


 ──ため息一つ。


 私は胸ポケットに金を入れようとして、封筒に指が当たるのを知る。

 ディアーナの遺髪を入れた封筒だ。


『お姉ちゃん、帰ってきて。施設の子を救って』


 確かにディアーナの声だった。

 私は別のポケットに紙幣を突っ込み、その場を足早に立ち去ることにしたのである。

 白いふりかけご飯が恋しい。

 オスカードがいつも私に与えていたあのふりかけは、一体どこで手に入るのだろうか。




 ◇




 私は金で服を買い、駅馬車に潜り込む。

 王国へ向かう駅馬車だ。


「軍人さんだよ、嫌だねぇ」

「戦争はもう終わったって言うのに」


 人々は戦争の終結を心から喜んでいるようだった。

 共和国のドブネズミも、王国の犬も、全てが喜び、花咲いていた。

 だが、私の前に映る景色はモノクロームの灰色だ。

 人と人が行きかうようになり、駅馬車が復活した。

 王国と共和国、どちらが勝利したのかなど関係ない。民衆の喜びと苦悩、そして戦争の爪痕だけがそこにあった。


 日が傾いたころ、駅馬車は王都に着き、私はその足で施設に向かう。

 勝手知ったる街だ。

 寄り道などせず、真っすぐに向かった。


 ──違和感。


 白いアーチがあった先にあった建物は、全て崩され、なにも残ってはいない。

 私は敷地に足を踏み入れる。

 更地だった。首の取れかけた人形が一つ落ちている。

 カレンが大切にしていた玩具だったと思う。


 ……違ったかも、知れない。


 人の気配はない。

 夕闇が迫る。

 虹が見える。みんなが呼んでいる。

 七色のシャボン玉が私を包んだ。


『よく帰って来たね』

『よく帰ってこれたわね』

『どの面下げて帰って来たの? リリアーナ』


 私は、踵を返すと、夜の街の闇へと向かった。

 施設にいったい何があったのあろう。

 疑問は膨らむばかりだ。


『遅かった。遅すぎた』

『リリアーナが悪いのよ? なにをしてたの!?』

『あなたがだらしないから! リリアーナってば最低!』


 背筋に寒いものが走る。

 私は足早に駆けた。




 ◇




『リリアーナ、リリアーナ! ご飯は美味しく食べるものよ?』

『お姉ちゃん、きついでしょう、辛いでしょう。でもね、お姉ちゃんがそれを選んだんだよ?』


 手っ取り早くお腹を満たすべく、安い飯屋に向かう早道しようと通った裏路地。

 だが、それがいけなかった。


「よう、姉ちゃん」


 目の下にクマを作った男が、私に声をかけてきたのである。


「!」

「おっと。動かない方が良いぜ」


 私は振り返る。

 私の後ろに三人。総勢四人の男たちが私を囲んでいた。


 私は危険を感じ、石を拾う。石を口に含む。

 掴みかかってくる相手を脇に避けては、足を引っ掛けて転倒させる。小石を相手の目に吹く。

 かばった顔面。私がら空きになった腹に石を握った拳で殴りつけ、突き込んだ。

 くの字に折れる相手の脳天に、踵を落として卒倒させる。

 二人掛りで挟み撃ちを仕掛けてくる敵の一方に、私は石を投げつける。

 怯んだ敵を尻目に、もう一方の相手の脛を蹴りつけ、飛びあがる相手の横腹を蹴っては転倒させ、首を踏み砕く。

 振り返っては砂を蹴り上げ、目がくらんだ相手の腕を掴んで転倒した最初の男の上に投げた。


 倒れる四人の男たち。

 私は容赦なく止めの一撃を見舞うと、男たちの持ち物から路銀を巻き上げる。

 そして、私は彼らの持ち物から白い粉を見つけた。


 ──ふりかけに似た粉!


 私は少し舐めてみる。

 間違いない。私は、この男たちの足取りを少し調べることにした。




 ◇




「戦争孤児なんて、珍しくもないさ」

「あの白い家の連中よりはマシだったな」

「そうだな、王家に盾突くとは。バカな奴らもいたものだ」

 

 私は屑どもが持っていたふりかけを食事に混ぜている。


 あの家、とはなんのことだろう。

 そんなことを思いつつ、私は食事をしながら、薄汚れた酒場の隅で、男たちの話を聞いていた。


 店の外に出ると、瞬く星が今にも落ちそうだった。

 夜空に輝く星々はいつも、私たち孤児を見守ってくれていたような気がする。

 お腹が膨れると、少しだけ私は気が楽になった。

 

『お姉ちゃん、好きだよ』

『リリアーナ、良く戻って来てくれた』


 ほら、ディアーナもスカーレットもそう言ってくれている。


 だが無粋にも、私は懐かしい気配を感じた。


 ──殺気である。


 逃げる私。

 追う追手。


『お姉ちゃん死んで』

『死になさいリリアーナ』


 私は駆ける。

 追っ手は迫る。


『お姉ちゃん、無駄だから立ち止まって』

『リリアーナ、止ってよ』

「ディアーナ、スカーレット、ごめんなさい!」


 逃げても逃げても、声と足音だけは追ってくる。

 夜空が白み始める。


『諦めてよ!』

『諦めなさい!』


 私はそれでも、駆けた。駆け続けた。




 ◇




 気づけば私は街の郊外の、湖の畔に来ていた。

 追っ手の気配は消えていない。


『無駄よ』

『無駄』


 ──無駄かもしれない──。

 私は初めてそう思った。


 私は足を止めた。

 残りの白い粉、ふりかけを口に含んでは、湖の水で嚥下する。

 そして、湖に足を踏み入れる。

 針のように刺す水の冷たさ。

 この水温では、案外簡単に死ねるかもしれない、などとバカなことを考えた。

 

『お姉ちゃん、こっちにおいで』

『リリアーナ、さ、こっちよ』


 ディアーナとスカーレットが呼んでいる。


 足首まで濡れる。

 湖底は柔らかい砂で覆われていた。


『お姉ちゃん、できるじゃない』

『そうよ、もう一歩よリリアーナ』


 膝下、腰下……。


 私はどんどん進んでゆく。

 寒い。痛い。熱い。


 そう思えたとき、私は首まで水に漬かっていた。


『お姉ちゃん、来て?』

『リリアーナ、いつまでも一緒だよ?』


 あと一歩、踏み出すだけ。

 そう考えた私は、本当にバカな人間だった。


 ──私は目を閉じ、しばし立ち尽くす──。






「簡単に死なせてなるものですか、リリアーナ・キャロレッタァー!」


 その金切り声に、私のぼんやりしていた意識が覚醒する。

 風を切る音に、私は湖に潜った。


 水面に潜る数本のナイフ。

 どこにそんな力が残されていたのか、自分でも疑うほどの速さで泳ぎ寄る岸辺。


「リリアーナ! あなた、許さない!」


 声に聞き覚えがあった。

 確か、カレン。

 同じ釜の飯を食べた友。


 水から出る。重い衣服が邪魔をする。寒さは私の肌を冷たく覆った。

 小柄で幼いカレンが悪鬼の形相で私をなじる。

 カレンの手には、鋭いナイフが握られていた。


「あなたのせいで、あなたのせいで、みんな死んだ、みんな死んだ、みんな殺されたのよ?!」


 よく考えれば、矛盾のあった話かもしれない。

 だが私は、カレンの言葉を信じた。


「私のせい?」

「そうよ!」


 睨み合う私とカレン。

 しかし、次第にカレンの姿が二重、三重に分かれて行く。

 七色に染められた、カレンの清楚な顔が狂気の色に染まっていった。


「終わりのようね、でも、手加減しないわリリアーナ! 私は王家の客となったのよ!」

「お願い、見逃して!」

「黙れッ! 王家の敵!」


 カレンの持つナイフが空中に躍る。

 腕の先で魔法のように煌めいていた。

 私は避ける。

 それでも避けた。


「みんなの敵。戦争が終わっても、あなたが死なないことには私の中の戦争は終わらないのよ!」


 カレンが吠える。

 その小さな体が巨人のように膨れ上がると、上から下に振るわれたナイフの先が私の頬をわずかに傷つけた。


 足が崩れる。

 倒れた私にカレンの体がのしかかる。その体は、巨体ではなく、小柄。

 しかし、私は抑え込まれて逃げられない。

 私は全身の神経を集中して振り下ろされようとするナイフを持つ腕を必死になって止めていた。

 集中が乱れる。

 カレンの腕が曲がる曲がる。

 濡れた体は冷たさを失い、汗さえ噴き出している。

 じりじりと迫るカレンのナイフ。


「死ね!」

「見逃して、私は生きたいの!」


 私は願った。

 心の限りに願った。


「どの口が言うかッ!」


 罵声。

 カレンがぐっと体重を乗せて私の顔面にナイフを落としてくる。


「止めて、カ、レ、ン……!」

「許さないわ。許すもんですかリリアーナァ!」


 カレンは泣いていた。

 虹色の涙が私の頬に落ち濡らす。


 カレンの顔がぐにゃりと曲がる。

 私の手から、力がふっと失われた。

 途端、ナイフが、落ちてくる。




 ◇




 私はゆっくりと、飴のように曲がるそのナイフの虹色の輝きを眺めつつ、横眼で追いながらそれをかわして。




 ──そこから先は、覚えていない。


 また、闇が迫っていた。


 気づく。

 カレンが、私の胸の上に顔を埋めている。

 なにがあったのだろう。


「カレン?」


 カレンの手からナイフが落ちている。


「カレン?」


 私はカレンを揺り起こす。


「カレン!」


 しかし、カレンは力なく私の体に身を預けるだけ。

 カレンは濡れた私のように、全身が冷たくなっていたのである。

 カレンの脈をとる。




 ──動いていない。


   ……死んでいる。




『お姉ちゃん?』


 私はその声に、顔を上げる。

 見れば、ディアーナが立っていた。


『お姉ちゃん、生きて』


 私の目尻から、涙が一筋零れ落ちた。

 涙は、滝のように止まることなく零れ続ける。


『そうよ、リリアーナ。生きて』


 スカーレットの声が聞こえる。

 涙を通して、スカーレットがディアーナに寄り添うように立つのが見える。


「こめん、ごめんなさいディアーナ、スカーレット。……そして、ありがとう」


 朧なディアーナとスカーレットの姿が薄れる。

 闇が、私を覆った時、そこには私とカレンの躯だけが取り残されていた。




 ◇




 私はカレンの両眼を閉じた後、花を手向けた。


 もはや、虹色は感じない。

 ねじ曲がった景色もない。

 私はその足で、北に歩く。

 やがて、花園に出た。

 花の咲く色とりどりの原っぱだ。


 私はその中央に、胸ポケットに入れておいた封筒を取り出す。

 湖水で一度濡れたそれは、カサカサと乾いていた。


 浅く穴を掘り、ディアーナの髪の毛と共にそれを埋める。

 小さな土饅頭を作った。


 ディアーナとの思い出を、この地に刻む。

 スカーレットとの友情を、大切に心の宝石箱にしまっておく。

 私は、ディアーナとスカーレットにお別れを言い、その地をそっと後にした。

 気づけば私は笑いながら泣いていた。

 そして涙が枯れ果てたとき、私は本当の笑顔を、数年ぶりに自分の手元に取り戻したことに気づいたのである。

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