二十八
遥はすぐに京子に連絡を取り、佐保を連れて明日京子の家を訪問することになった。
それまで佐保は東院美術館で保管してもらえるらしい。
「おひめさまだー!」
「これ、獅子丸。その方は大事な客人故粗相をしてはならぬぞ」
東院美術館に帰って早々、いつも通り来客者に飛びつこうとした獅子丸の首根っこを藤代が難なく摘んで抱き上げる。明里も獅子丸が佐保に飛びつかない様に間に入ろうとしたが杞憂に終わった。
一方、佐保は相変わらず布を被っているものの、布の下では驚いて目を丸くさせていた。
「すみません、騒がしくて」
遥が苦笑を浮かべながら詫びると、佐保はふるふると首を横に振った。
「いえ、久しぶりにこの様な賑やかな場所に来たのでびっくりしてしまって……」
今まで長い間稲穂と二人で暮らしていたのだから、そう思うのも無理無いだろう。
「落ち着かないかもしれませんが今日一日こちらでゆっくりして下さい」
「とんでもございません。ご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします」
二人が深々と頭を下げ合う。
その光景をぼんやりと眺めていると、ふわりとお香の香りが明里の鼻孔をくすぐった。香りの元へ目を向ければ、獅子丸を抱いた藤代が明里の近くへやって来ていた。
「明里、足の方は大事ないか?」
「はい。おかげさまでよくなってきています」
「それは良かった。それにしてもよぅ見つけて来たのぅ」
藤代は獅子丸の極彩色の毛並みを細く長い指で梳きながら感心した様に呟いた。
「本当に見つかって良かったです」
力無く笑う明里を藤代が不思議そうな目で見つめる。
「元気が無いの。やはり足が痛むか」
「明里だいじょうぶー?」
藤代と獅子丸に心配そうに声を掛けられ、明里は慌てて頭を横に振る。
「だっ大丈夫です……!」
怪我が痛む訳ではない。ただ、自分の力の無さを再確認して落ち込んでいた。
こんなことを口にしてしまえばただの弱音だ。誰かに話を聞いて欲しくはあったが、誰かに慰めて欲しい訳ではない。
だから、言葉にするつもりはまったく無かったのだが、藤代の目がじっと明里を見つめて離さなかった。
話すつもりは無かったのに藤代の視線に耐えきれず、明里は口を開いた。
「私にも何か出来るかもって思って色々やってみたんですが、たくさんの人に迷惑を掛けるばかりだし、何か言わなければいけない時に何も言えなかった。結局天澤さんに助けてもらって、情けないなぁって思って」
居たたまれなくなってついつい口を開いてしまう自分の弱さにまた嫌気が差す。
真面目な話をしているのだと感じた獅子丸は、藤代の腕の中で大人しくしており、藤代はじっと話を聞いている。
やがて明里の言葉を静かに聞いていた藤代は目元を細めてゆっくりと口を開いた。
「痛みを伴わぬ成長などありはしない。ほれ、人の子はよく背が伸びる時に体の節々が痛むと言うではないか。あれと同じじゃ」
恐らく藤代が言っているのは成長期の時に見られる成長痛のことだろう。
藤代の口から「成長痛」という言葉が飛び出した事と今この場でその言葉を選んだ事に驚く明里。
「そなたは今、成長している途中であろう。痛みも情けなさも感じて当然じゃ。それに遥のことは気にせずとも良い。あやつも今は涼しい顔をしてこなしておるが、昔は随分周りに世話になったものだ」
正直藤代の言う遥の姿は明里には全く想像が付かない。
明里の戸惑いを感じた藤代は苦笑を浮かべる。
「信じて進めば必ず道は開ける。もがき苦しむ姿が例えどんなに無様でも、愚かでも、無意味に立ち止まったままより価値がある」
藤代の言葉に明里は心が軽くなる心地がした。
先程、佐保の背を押したのは遥の言葉で、今の明里を救ったのは藤代の言葉だ。
かつて明里は両親の言葉によって深く傷付いたが、今はこうして言葉に救われている。
物心ついた頃から人は言葉を操るが、言葉がこんなに大切なものだと生まれて初めて心の底から感じた。
「ありがとう、ございます……」
色々な思いを込めて、明里は言葉を紡ぐと、藤代はたおやかに微笑んだ。
「むつかしいおはなし、もうおわった?」
話の内容がいまいち分からなかったらしい獅子丸が、藤代の腕の中から恐る恐る様子を伺う。いつもの元気いっぱいの姿とは正反対の様子に、明里と藤代は声を上げて笑った。
翌日、佐保を連れて京子の家へと訪れた。
インターフォンを鳴らすと京子が出て来て三人を迎えてくれた。
佐保を見た瞬間、京子は息を呑んだ。
「あなたが……覚えていらっしゃるでしょうか?敬一郎さんとの結婚式の日にお義母様からあなたを貸して頂いた、嫁の京子です」
感極まった京子が手を差し出すと、佐保は京子の手を包む。その瞳には薄らと涙が浮かんでいた。
「ええ。今でも昨日のことの様に覚えております。再びお目にかかる事が出来てとても嬉しく思います」
数十年の時を経て、姿形は変わっても大切な時を共有した者同士という絆は変わらない。
「さぁ、ここで立ち話も何ですし、どうぞ上がって下さい」
京子も薄らと涙の浮かんだ目元を拭って、三人を案内した。
「明里ちゃん足は大丈夫?」
心配そうに京子は明里の足下に目を向けた。
明里の怪我についてはマスターから聞き、遥に詳しい事情を聞きに行ったらしい。明里のアパートにもお見舞いに来てくれた。佐保の所へ向かう前もくれぐれも無理をしないでくれと念を押された。颯爽とやり通したかったのに、自分の無様さに頭を抱えたくなった。
「はい。大分痛みも無くなりました」
明里が答えると京子はほっと息をついた。
「良かった。困った事があったら遠慮せずに言って頂戴ね?」
「ありがとうございます。あの……今日舞鶴様は……」
自分達はともかく佐保が来ると分かれば迎えに出て来ると思ったのだが、舞鶴の姿はどこにもなかったので明里は少し不安になって小声で京子に尋ねる。すると京子は、小さく笑みを浮かべた。
「ちゃんといるわ。平静を装っているんだけど、どうもそわそわしていて、今は庭に出ているわ。こんなに寒いのにねぇ」
京子はおかしくてたまらないと言った様子でくすくすと笑っている。
一度しか会った事が無いが、何事に対しても冷静な印象があったので正直意外だった。
「ほら、あそこに」
つい、と京子が窓の向こうを指差すと舞鶴が冬の庭で晴れた空を見上げていた。今日は晴れている分ひどく冷え込むが、舞鶴は身じろぎ一つせずにひたすら空を眺めている。その凛とした佇まいは、まるで雪原の鶴の様だった。
京子は静かに庭と廊下を隔てるガラス戸を開けた。
「名を呼んであげて下さいませ」
少し戸惑っていた佐保は、ゆっくりと顔を上げてかの人の名を呼ぶ。
「舞鶴様……」
空気に溶けて消えてしまいそうな美しい声音。それでも、舞鶴の耳にしっかりと届いた様で、舞鶴は弾かれた様に振り返った。
二人が互いを視界に捉えた瞬間、時間の流れが止まった様な気さえした。
京子が先に庭に降りて佐保の足下に履き物を揃えてやると、佐保はおずおずと庭に降りる。
庭に降りた瞬間、佐保が被っていた布が風の所為でふわりと肩に落ちた。佐保はぎくりと肩を跳ねさせ、怯えた様に舞鶴の方を見つめた。髪も風で煽られ、傷跡が露になっている。
舞鶴なら佐保の全てを受け入れてくれると信じていても、実際その瞬間が来てしまえば不安になる。明里も息を呑んで成り行きを見守る。
しかし、舞鶴は皆の心配をよそに、花の蕾が綻ぶ様に笑顔を浮かべた。
「……やっと花の顔を拝む事ができた」
佐保は白い頬を桜の花の様に染める。
ゆっくりと舞鶴の所まで歩いて行くと、舞鶴は佐保の手を優しく取った。
「ずっと、あなたにお会いしたかった」
涼しげな表情が印象的だった舞鶴が、泣き笑いの様にくしゃりと顔を歪め、佐保の瞳から涙が一粒零れ落ちた。
「私も、ずっと、あなた様にお会いしとうございました……」
晴れた冬の庭にちらちらと風花が舞う。
それはまるで桜の花弁の様に見えた。




