十六
けたたましいスマートフォンのアラームが鳴り響き、明里は重い瞼をゆっくり開くと何の変哲も無い自分の部屋が横向きになって目に映る。
結局昨日は美術館から逃げる様にして家に帰って来て、物思いに耽るうちにそのまま眠ってしまったらしい。
ぐちゃぐちゃな頭の中を整理しようとしても堂々巡りで一向に整理がつかない。
ここ何年か繰り返して来たことなので整理がつかないことは分かり切っていた。
寝たと言っても考え事をしていた所為でよく眠れていないので疲れが取れなくて体が怠い。だが今日も学校があるので明里はのろのろと学校へ行く準備を始める。
落ち込んでも当分は東院美術館に行く事はできない。
見たく無い自分の内側を目の当たりにしてしまいそうで怖かった。
臆病で卑怯だと言われても、今それと真っ向から向き合ってしまえば明里は人でいられなくなる気がしていた。
人生とは奇なるもので、一つのことに躓くと他のことも上手く行かなくなる。
「う、わっ……!」
がしゃん、と無惨な音が店内に響く。
昼時の忙しい時間帯にお盆に乗せた飲み物をひっくり返してしまったのだ。さっと自分の顔から血の気が引くのが分かった。
「明里ちゃん大丈夫か!?」
「す、すみません!」
焦るのと情けないのと恥ずかしいのとで涙が溢れそうになるがぐっと歯を噛み締めて意地で涙を堪えた。
その後もおつりを間違えたり注文を間違えたりと散々だった。
締めの作業を何とか終えて、マスターに謝罪をするとあまり無理はしなくていいと言われてその優しさに触れてまた落ち込んでしまった。
寝不足と疲れの所為で重くなる体をやっとの思いで動かして自転車のペダルを踏み込む。
明里の心情とは裏腹に今日も雲一つ無い秋晴れだった。日が沈みかけた今は透き通る様な青色と柔らかな火の様な橙色が絶妙なバランスで混ざり合い、哀愁を感じさせる。
ただ色が変化しているだけなのに、夕焼け空を眺めていると悲しくなってしまうのは人の性なのだろうかと明里は疲れ切った頭でぼんやりと考えていた。
バイト先の喫茶店から家に帰るには東院美術館の近くを通る。
美術館に続く坂道の下の交差点で信号待ちをしている時にふと紅葉が始まった街路樹の桜の木を見上げる老人の姿が目に入った。
薄鼠色の着流しと深い蓬色の羽織りを着ており、老人と言ってもしゃんと背筋が伸びている。明里は日本人女性の平均身長くらいなのだが、老人は明里より頭二つ分くらい背が高い。彼の世代でここまでの長身は珍しいだろう。まるで長い年月を経た大木の様な印象を受けた。
この辺りは古い寺社も多く観光客もよく見掛けるのだが、着物姿の人はあまり見た事が無い。見た事があるとしても女性が圧倒的で男性の着物姿、特に老人が着物を着ている所は珍しい。
本人自体に独特な雰囲気があるので、着物姿も相まって目を引く人だなぁと人並みな感想を心の中で述べながら老人の横を走り抜けようとしたが、
「そこの娘」
ふいに目が合ったかと思うと声を掛けられた。
そこまでスピードも出していなかったので柔らかくブレーキを握って自転車を停めて地面に足を付ける。
「な、なんでしょうか」
明里が老人の方へ顔を向けて自転車から降りると老人は何故か目を丸くさせていた。
「東院美術館はどこにあるか知っておるか」
低く腹に響く声で問い掛けられ、明里は無意識に背筋を伸ばした。
「えっと、この坂を登った所にあるんですが……一緒に行きましょうか……?」
明里は道案内が苦手だ。目と鼻の先に見えているのならまだしも、自分の説明で果たして辿り着けたのかと後で悶々と考えてしまうので一緒に目的地まで連れて行った方が聞いて来た人の為でもあるし自分の為でもある。
「うむ」
明里の提案に老人はゆっくりと頷き、自転車を降りて歩く明里の隣に並んで歩き出す。
「そなたは儂が見えるのだな」
「え?」
突然の質問内容に首を傾げる明里。思わず足を止めてしまうと、老人も二、三歩先に行った所で立ち止まって明里の方へ振り返る。
「何じゃ、分かっておらなんだのか?儂は人ではないぞ娘よ」
「ええ!?」
動揺する明里に老人は目を丸くしている。
「儂は『木守り(きまもり)』という茶碗の付喪神だ。東院美術館の企画展に出品する作品の一つとして讃岐の国より参った」
そういえば美喜が今度の展覧会は茶道をテーマにすると言っていた。
外見は堅物そうな印象を受けたが、以外と話しやすいし美術館を抜け出して散歩するくらいには茶目っ気があるらしい。
付喪神が本体より離れ過ぎると良く無いと以前遥に聞いたのでとにかく急いで美術館へ向かって歩き出すが、結局木守りは歩みの速度が変わらずゆっくりで、明里がもだもだと多く足踏みするだけであった。
「人外のものが見えると言うのに人と人外の見分けがつかぬとは妙な娘だな」
先程明里に声を掛けた時も目を丸くさせていたのは明里が自分の姿が見えぬと思って声を掛けたからだろう。
「最近視え始めたばかりなんです」
明里の返事にそうか、と木守りは腕を組んで頷いた。
「もしかして東院美術館縁の者か」
「縁かどうかは……頻繁に行き過ぎたみたいで……」
木守りは腕組みをして夕焼け空をついと見上げた。
「あそこの館は人も物もいわく付きが多いし無理も無い。だがな、娘よ」
木守りの口調が変わり、それを敏感に感じ取ったのか風がざわめき立ち周囲の木々を揺らす。
「目覚めてしもうた力を封ずることは出来ぬが、せめて人と人ならざるものの区別は付く様にしておかぬとあちらへ連れてゆかれるぞ」
凪いだ水面の様な静かな瞳に射抜かれ、明里は緊張で息が止まるかと思った。
今まで状況を受け入れることに精一杯だったので気付けなかったが、人外のものの中には当たり前だが人に害を成すものもいる。そういった害のあるものに会わなかった今までが寧ろ幸運過ぎた。
「分からぬうちは何でもかんでも付いて行かぬことだな。まぁ、人間にも同じ事が言えるがな」
「……肝に命じます」
恐ろしさのあまり急いでいた歩みがいつの間にか鈍くなっていた。
「まぁ悪い出会いばかりでもなかろうよ。注意を怠らなければ多くの実りをそなたに授けるであろう。己の力を生かすも殺すもそなた次第ということだ」
動揺している明里を宥める様に柔らかい声音で木守りが説くが、木守りの最初の言葉は重く明里の中にのしかかった。
気落ちしてのろのろと歩いていたものの歩んでいれば着実に進むもので、いつの間にか東院美術館の門前に着いていた。
「じゃあ、私はこれで……」
美術館の門前まで来れば流石に大丈夫だろう。ここで長居をして誰かと鉢合わせしても明里が一方的に気まずいのでそそくさと自転車を方向転換させてこの場を後にしようとした。
だが、世の中そうは問屋が卸さないのである。
「明里だー!!」
「げぇっ!?」
美術館の入り口から見慣れた極彩色のポメラニアンこと獅子丸が疾風の如くこちらへ向かって来る。
「何で昨日帰っちゃったのー!?獅子丸と遊んでないのに!」
「うわ、わ、わ、わ!ちょ、獅子丸!ストップ!踏んづける!!わーっ!!?」
獅子丸は明里の足下にまとわりついてバランスを崩した明里は自転車ごとその場に転けた。
木守りは少し離れていたので巻き込まれずに済み、奇異なものを見る目で明里を見下ろしており、獅子丸も運良く巻き込まれず、きょとんとしている。
「……大丈夫か」
あまりにも派手に転けたので木守りが恐る恐る声を掛けてきて手を差し出してくれた。獅子丸も心配そうに明里の顔を見上げている。
「ありがとうございます……」
ありがたく木守りの差し出してくれた手に捕まって立ち上がり、慎重に倒れた自転車を起こす。残念ながら前籠が歪んでしまったので力任せに元の形に戻してみるが、まだ少し歪んでいるが仕方無い。
転倒するなんて久しぶりなので全身のあらゆるところがひどく痛んだ。
「肘から血が出ておるぞ」
「うわ」
何だかやけにひりひりすると思っていたら右肘が派手に擦り剥けていた。
バイト中ずっと変な汗をかいていたので長袖を着ていたにも関わらず袖を折っていたので、右肘は無惨なことになっていた。
「明里ちゃん!?」
どうするかと思案していたのが運の尽きで、建物から出て来た遥が声を上げて走り寄って来た。
「木守り様!」
遥の後ろから憤怒の表情の光が出て来て木守りの名を呼ぶ。
「おお、光。出迎えご苦労」
今日の光は仕事が休みだったのか、光はいかにもなお出掛け用の上品な紺色のワンピースを着ており、艶やかな栗色の髪はハーフアップにされている。ぼろぼろな自分の姿との差があまりにもありすぎて明里はまた勝手に惨めになった。
「出迎えご苦労じゃありませんよ!私たちがどれほど探したとお思いですか。出掛けるのなら出掛けると言って下さいね?私、これから出掛ける予定だったのに休日返上ですよ?」
「そうかそうか、すまなんだな」
「……全然思ってないでしょう?」
光が半眼でじとりと木守りを睨む。
崩れることの無い鉄壁の美女がころころと表情を変える様子はとても新鮮だった。まるでホームドラマの頑固な祖父と孫娘のやり取りの様だ。気心の知れた仲の様で言葉のやりとりに遠慮が無い。明里はこんな言い合いが出来る相手がいないので今の様なやりとりが楽しそうに見えて羨ましく思った。
そんな人のことばかり羨む自分がまた嫌で落ち込むという自己嫌悪の無限スパイラルに迷い込んでしまう。
「明里ちゃんその肘どうした!?」
明里の怪我に気付いた遥が珍しく慌てた。
どう誤魔化したものかと頭をフル回転させるが、答えを弾き出す前に先手を打たれた。
「獅子丸殿に飛びつかれて避けているうちに自転車ごと転けたんだ」
木守りから事の次第を聞いた遥がじとりと獅子丸を見つめ、獅子丸は蛇に睨まれた蛙の様に縮み上がり、小さな体をぷるぷると震わせている。
遥は大きく溜め息をついて、まるで悪戯した子犬にする様に獅子丸の首根っこを摘んで持ち上げた。獅子丸は珍しく悄気ている。
「手当てをするから中に行くぞ」
それだけはどうか勘弁して欲しかった。劣等感やいろいろなマイナス感情が刺激されて今すぐこの場を去りたかった。
「いや、もう帰るだけなんで……」
「いいから」
明里に上手な断りの理由をすぐに考えられる訳も無く、もごもごと断りの言葉を口にしていると途中ですっぱりとぶった切られた。
流れる様な動作で自転車のハンドルを手に取り、明里の代わりに自転車を押して行く遥。
このまま走り去りたかったが、今の遥に対してこれ以上愚行を重ねようものなら何が起こるか正直想像がつかない。
何より体全身が痛いので無理だ。
「大丈夫ですか?もしかして足挫いたりしました?」
いつまで経っても動こうとしない明里を心配した光が明里の顔を覗き込んで来る。突然美女の恐ろしく整った顔がドアップになり、明里は少し仰け反った。
「ダイジョウブデス」
片言で伝えると、光がほっと息をついた。
結局明里はすごすごと木守りと光に付き添われて美術館の中へ入って行った。




