十二
明里は泣きそうになりながら六条の君と人通りの少ない階段に座って迎えが来るのを待っていた。
どうして良いのか分からず、取りあえず東院美術館へ電話をすると美喜が電話に出て、こちらの状況をなんとか伝えるとどうやら向こうも六条の君を探しまわっていた様で、遥が六条の君を学校まで迎えに来てくれるらしい。
今は太陽が頂点にあり、一日で最も暑い時間だ。日向に居るのは自殺行為以外の何ものでも無いので木々が空に伸び伸びと枝を張った木陰に身を寄せている。
「…………」
六条の君はまるでフルマラソンを走った後の様にぜいぜいと息を切らしており、見た目も相まって大分危ない人に見える。
今のこの風景を普通の人が見れば、明里が一人で黄昏れているというちょっと痛い風景なのだが、それでも六条の君が見えなくて本当に良かったと明里は心の底から思った。
いくら無法地帯の芸大と言えども通報されかねない。
「……何でこんな危ないことをするんですか?」
六条の君を刺激しない様に明里はできるだけ声のトーンを小さく平坦にして問い掛けると、数秒の間を置いてまるでホラー映画の見せ場の様に六条の君が膝から顔を上げた。反射的に悲鳴を飲み込んだ自分を褒めてやりたいと明里は思った。
「あんた、なんなのよ」
六条の君の黒い瞳の奥に真っ黒な焔の様な情念を見た気がして背筋が粟立つ。
事なかれ主義で生きて来た明里は剥き出しの敵意を向けられることなど皆無であった。
女の情念などドラマや漫画など別世界の産物だとすら思っていた。だが、人生で初めて女の『嫉妬』というものを目の当たりにし、蛇に睨まれた蛙のごとく縮み上がった。
息を詰めてぎゅう、と掌を握りしめていると、六条の君は眉間に深い深い皺を刻んでふいと明里から目を反らした。そして激しい雨音の様に降り注ぐ蝉時雨を背に六条の君はゆっくりと言葉を紡いだ。
「……私は、あの子が小さい頃からあの子を知っている。おじいさんに手を引かれながら東院美術館に初めてやって来た頃から、ずっと」
先程まであれほど烈しく揺らめいていたというのに、今では凪いだ海の様に穏やかに遠くを見つめている。
「小さい頃の遥は私を見て『きれいだね』って言ってくれたの」
その目の先には幼い頃の遥がいるのだろうか。
「それだけ。たったそれだけで、私は生まれて初めて救われた」
六条の君が製作されたのは江戸時代中期。遥が生まれたのは二十数年前だろう。この世に生み出されてから二百年以上の間、六条の君は苦しんで来たことになる。
自分が望んだ様に他人に認められない虚しさを抱えながら、長い時間を過ごして来たのだ。
「いくら供養の為に描かれたとは言っても美術品として、女として生まれたんですもの。一度で良いから誰かにきれいって言われたかった」
陽炎がゆらめく夏の景色をぼんやりと眺めながら六条の君が呟いた。
生まれも育ちも生き物は何一つ選ぶ事は出来ない。
何一つ思い通りに選べない環境の中で、自分の生きる為の答えを探して生きて行く。
例えそれが望んだ道でないとしても、進まなければならない。
変える事の出来ない己の欲望と反する現実に挟まれながらもがき、苦しみながら生きて行く。
そして一生のうちの数少ない奇跡に心を震わせ、生きる糧としていく。
「生まれた時から存在を祝福されて生まれて来たあんたには到底分からないでしょうね。この喜びも、そして、怖さも」
自分を卑下している所為で零れた言葉。六条の君は明里を責めるつもりは到底無いのだろうが、それは明里の心を容易く抉った。
腹の底からどろどろとしたものがせり上がって来る。
蓋をしていた筈の思い出したく無い記憶たちが鮮明に脳内に映し出され、耳の奥には聞きたくも無い言葉が何度も何度も繰り返し響く。
明里は蝉時雨に必死に耳を傾け、ゆっくりと息を吐いて自分の内側に渦巻く激情を沈める。
そして、淀んだ言葉の海から的確な言葉をひとつひとつ拾い上げていく。
心を乱さぬ様、高く、そして青く澄んだ夏の空を見上げて。
「……誰にも他人の痛みなんて全て分かる筈がありません。例えどんな善人だとしても本人でない限り物理的に無理です」
生まれた場所、育った場所、出会った人、起きた出来事。
様々な要素が複雑に作用しあって、一つの命となる。
同じ命など世界のどこにもありはしない。
似た価値観を持つ人は居ても全く同じ様に感じることは不可能だ。命が命である限り。
「でも、全てが分かり合えてしまったら私は私でなくなるし、あなたはあなたでなくなる。分からないことがあるからこそ、私は私で、あなたはあなたでいられる」
孤独だからこそ命は尊く、寄り添えることが奇跡ことだと理解出来る。
それがたとえ一瞬のことだとしても、心の拠り所となる。
遠くを見つめていた六条の君の目がつい、と明里の方へ向き、静かに見据えた。
「あんたもひとりぼっちなのね。寂しい子」
力無い声で蝉時雨に紛れるかと思う程小さな声で六条の君が呟く。
そして頬杖をついて、また遠くを見つめる六条の君。紡ぐ言葉は刺々しいものだが、嫌な感じはしなかった。
明里も六条の君と同じ方向を見つめる。
「一人の方が気楽で良いです」
「……そう」
二人の視線の先では陽炎が揺らめき、相変わらず割れんばかりの音量で蝉時雨が鳴り響いていた。
グループ展もいよいよ大詰めとなり、最近ではグループ展に参加する面子が実習室にも顔を出す様になった。
明里は以前染織の授業で習った型染めを出品するつもりだ。
明里の所属する工芸科では一、二年で美術の基礎や工芸の様々な分野を授業で体験し、三年で専門分野に分かれてそれぞれの分野に特化した道に進んで行く。
今回のグループ展に出品する作品も彫刻や陶芸、漆芸、彫金、そして染織などなど種類も豊富だ。
展示物の種類が豊富な為、展示場所で揉めに揉めるのだが。
隣に展示するもの同士の兼ね合いもあるし、単純に作者の場所の好みもある。
展示全体の流れもあるのでそれも考えながら調整する。例えば淡い色の作品の隣に極彩色の作品を持って来てしまえば、どれだけ良い作品でも前者の作品は後者に食われてしまうし、そもそも展示の流れがぶち壊しだ。それを回避する為と自分の作品を最も魅力的に演出する為の仁義無き戦いが繰り広げられるのだ。
そして今日、無事印刷会社からDMが納品された。研究室宛で送られて来た荷物を解き、グループ展の参加者に個人分のDMを配る。
全員に配り終えても大分多くの枚数が余っているが、これは大学周辺の公共施設や店舗に置いてもらう分だ。あらかじめ持って行く店の見当は目をつけており、手分けしてDMを置いてもらえないか交渉しに行くのだ。
明里の担当はアルバイト先の喫茶店と大学近くの本屋さんだったのだが、何故か東院美術館の分も押し付けられてしまった。
釈然としないとは思うものの、文句を言う方が面倒なので口をつぐんで引き受ける。遥に借りていた資料も返さなければならないので丁度良いタイミングだったと思う事にした。
バイト先は今度出勤した時に持って行くとして、面倒なことはさっさと済ませる主義の明里は自転車に乗って本屋と東院美術館へ向かう。
本屋で店員に事情を説明すると、さすが芸大の近所に店を構えているだけあって快くDMを置いてくれることになった。
太陽がじりじりと照りつける中、明里はぜいぜいと息を切らせながら東院美術館までの緩い坂道を自転車で登る。
緩い坂も真夏に登れば汗が滝の様に流れ、いくら美術館に来るのが好きと言ってもここまで来る苦労を考えれば来る事を少し躊躇ってしまう。
「明里ちゃん、いらっしゃい」
「明里殿ー!」
なんとか券売窓口に辿り着くと、窓硝子一枚隔てた快適な楽園から優雅に手を振る美喜。美喜の肩には管狐が乗っており、明里を見つけると前足でぴょんぴょんと飛び跳ねている。
「こんにちは。獅子丸は?」
「今はお昼寝中」
「なるほど」
建物の陰になっているだけで大分涼しいが、窓の向こう側の空間はまるで天国の様に見えた。
「すみません、今日はお願いがあって来たんですが」
「うん?」
「この間言っていたグループ展のDMが出来たので、こちらの美術館にも置いて頂けないかと思って……」
「そんなことならお安い御用よー。見せて見せて!」
美喜は目を輝かせて身を乗り出し、明里はチケットや金銭を受け渡す小さな小窓からDMの束を渡す。
「おー、さすが芸大生。私達とはセンスが違うわねー」
管狐は美喜の肩から降りて一緒に手元を覗き込んでいる。
「そうですか?こちらの美術館のDMも毎回素敵じゃないですか」
遥が丁寧にファイリングしていた歴代展覧会の広報資料に目を通したが、展覧会の特色を現したシンプルなデザインのものが多かった。
「まぁ偏にパソコン様の力よね。手描きだったら私も天澤君の画力も見れたものじゃないもの」
「…………」
遥の資料にはデザイン案がいくつか手描きで描かれたものが一緒に残されており、一瞬呼吸も忘れる程衝撃を受けた。デザイン案と実際に使用されたものを見比べてみると、確かに特徴が一致するので手描きのデザイン案を基にしたことは辛うじて分かるのだが、よくこの下書きから昇華させたなと心の底から感心してしまった。
だが、遥や美喜は服などのセンスは良いので、単に描いて表現する力がないだけなのだろう。そこに文明の利器が加われば生まれ持ったセンスを遺憾なく発揮できる訳だ。
「あの、すみませんが天澤さん呼んで頂けませんか。借りていた資料を返そうと思って……」
明里が頼むと美喜は快く遥へ内線を掛けてくれた。
「丁度今仕事が一段落したみたいだし、すぐに来てくれるって」
「ありがとうございます」
ここまで足を運んでもらうことに少し申し訳ない気持ちもあったのだが、やはり直接お礼が言いたかったので少しほっとした。
「暑い中ありがとうな」
数分すると遥がやって来た。背後には最近見慣れてしまった六条の君を引き連れて。
先日二人で話した時、勝手になんとなく距離が縮まった気がしていたのだがどうやら気のせいらしい。
相変わらず見るものを射殺す勢いで遥の肩越しに明里と美喜を睨みつけてくる。
美喜は乾いた笑みを浮かべて明後日の方向を見つめる。同僚ということで遥と関わることが多い美喜も六条の君に嫉妬されているだろう。見目麗しいとなれば敵意は一層激しいだろう。
「すごく勉強になりました」
頭を深々と下げてまるで賞状を受け取る人の様にして遥に資料を返す。
「これ、展覧会のDMだって」
美喜が先程渡したDMの束から一枚取り出して遥に渡す。
「おお、やっぱり本職は凄いな」
美喜と同じ様な感想を述べ、遥はしげしげとグループ展のDMを眺めている。そんな遥の肩越しに六条の君が遥の手元を覗き込んでいた。
「ふーん。ブスにしてはセンスがあるのね」
DMを見た六条の君は興味無さそうに呟いた。
その言葉をどう受け取ったものかと明里は考えあぐね、なんとか言葉を捻り出す。
「……ありがとうございます」
「褒めてないわよブス」
「…………」
捻り出した言葉は容赦無く叩き落とされた。
「なんだか私より当たりがあからさまね」
美喜がぼそぼそと呟くと、机の上から美喜の肩に登っていた管狐が自分の居心地の良い場所を見つけると短い足を折ってくつろぐ体勢を取ってから口を開く。
「美喜殿はやり過ぎると倍返しされそうですからねぇ。明里殿は言い返すのが面倒だから取りあえず聞き流す御人ですし」
「失礼な」
「あいたっ!」
頬杖をついた美喜が管狐の鼻面を軽く弾いた。言った傍からやり返しているが、本人はそれに気付いているかどうかは微妙な所だ。
管狐は弾かれた鼻面を美喜の肩に押し付けて痛みを紛らわせている。
確かに二人は気の強そうな所はよく似ている。やられたら少なくともやられた分以上のことはやってのけるだろうと明里も思ったが、口に出せる勇気は流石に無かった。
「ありがとな。必ず行く」
収拾のつかなくなった場を収める様に遥が穏やかな笑みを浮かべた。
誰かが自分達の作品を見る為に足を運んでくれることは単純なことの様に思えるが、これが実はとても難しいことである。
道行く幾百、幾千の他人に興味を持つ事など到底不可能なのと同じ様に、昨日まで何とも思っていなかったものに興味を持つことは大変難しい。
人が自分の作ったものに興味を持ってくれることは嬉しいが、何だか恥ずかしい。
制作者と作品という違いはあれど、付喪神達も今の明里と同じ様な気持ちで来館者を迎えているのかもしれない。




