第九章「奪還」
空気が、震えていた。
目には見えない。
けれど確実に、“何か”が集まってきている。
圧が増す。
息が、重くなる。
それでも――
足は止めなかった。
彼女の手を、強く握る。
「……行くぞ」
低く、言い切る。
その瞬間。
“来た”。
背後。
左右。
上。
下。
あらゆる方向から。
気配が、一斉に押し寄せる。
視界の端で、影が歪む。
形を持たない“何か”が、輪郭を作り始める。
人のようで、人じゃない。
無数の“それ”が、こちらを見ている。
――排除。
そんな意思が、はっきりと伝わってくる。
「……上等だ」
小さく、笑う。
怖くないわけがない。
全身が震えている。
それでも。
引く理由にはならなかった。
「お前らが、何だろうが関係ねえ」
一歩、踏み出す。
その瞬間。
圧が、さらに強くなる。
まるで、押し返そうとするように。
「……どけよ」
低く、吐き捨てる。
彼女の手を、さらに強く引く。
「帰るぞ」
その言葉に。
“何か”が、動いた。
一斉に。
視界が、歪む。
音が消える。
代わりに。
耳鳴りのような、不快な振動だけが残る。
そして――
“触れた”。
見えないのに、分かる。
腕に、足に、背中に。
冷たいものが絡みつく。
引き剥がそうとする力。
「……っ!」
歯を食いしばる。
踏ん張る。
一歩も、下がらない。
「離せ!」
叫ぶ。
その瞬間。
彼女の手が、わずかに動いた。
「……やめて」
小さな声。
けれど。
確かに、あいつの声だった。
「……苦しい」
その言葉で、すべてが変わる。
「……戻ってこい」
強く言う。
彼女の目を見る。
「お前は、そっちじゃねえ」
揺れる。
ほんのわずかに。
その隙を、逃さない。
「こっちだ」
さらに手を引く。
「俺のところに来い」
その瞬間。
彼女の目に、感情が戻る。
ほんの一瞬だけ。
「……っ」
何かを言おうとする。
けれど。
すぐに、歪む。
“向こう”が、引き戻そうとしている。
圧が、さらに強くなる。
体が、軋む。
限界が近い。
それでも。
手を、離さない。
「……聞け」
低く、言う。
「俺は、お前を諦めない」
一歩。
踏み出す。
重い。
それでも。
「運命だろうが、先祖だろうが」
もう一歩。
「全部、関係ねえ」
空気が、揺れる。
明らかに、“怒り”が増す。
それでも。
止まらない。
「お前を連れていくなら」
さらに、踏み込む。
「全部、敵でいい」
その言葉が、響いた。
空間そのものに。
“何か”が、反応する。
ざわめき。
歪み。
拒絶。
それでも――
もう止まらない。
「来い!」
叫ぶ。
その瞬間。
彼女の手が、強く握り返された。
「……っ!」
確かな力。
あいつの意志。
「……帰りたい」
かすれた声。
それだけで、十分だった。
「……よし」
強く引く。
一気に。
その瞬間。
“何か”が、暴れた。
空間が、崩れる。
圧が、限界を超える。
引き剥がそうとする力が、爆発的に強くなる。
それでも。
離さない。
絶対に。
「……返せ!」
叫ぶ。
自分でも驚くほどの声だった。
「それは――俺のだ!」
その一言で。
何かが、弾けた。
音はない。
けれど。
確かに、“断ち切れた”。
空気が、軽くなる。
圧が、消える。
静寂が、戻る。
――気づけば。
立っていた。
元の場所に。
夜の道路。
街灯の下。
彼女の手を、握ったまま。
「……はぁ……っ」
荒い呼吸。
心臓が、壊れそうなほど打っている。
隣を見る。
彼女が、いる。
ちゃんと。
「……戻ってきた」
小さく、呟く。
彼女は、ゆっくりとうなずいた。
その目には、はっきりと感情が戻っていた。
「……うん」
涙が、こぼれる。
「帰ってきた」
その一言で。
全身の力が抜けた。
思わず、抱きしめる。
強く。
二度と離さないように。
「……遅いよ」
泣きながら、笑う。
「ごめん」
それしか言えなかった。
それでも。
それで、よかった。
――そのとき。
ふと、背後に気配を感じた。
振り向く。
誰もいない。
けれど。
“完全には消えていない”。
分かる。
終わってはいない。
ただ――
“取り戻した”。
それだけだ。
それでも。
十分だった。
「……行こう」
静かに言う。
彼女が、うなずく。
二人で、歩き出す。
夜の中へ。
もう一度。
最初から。




