第八章「境界線」
静かすぎた。
さっきまで、確かに“何か”があった場所。
彼女が消えた、その空間。
なのに今は、ただの部屋だ。
何も変わらない、はずの。
「……いるんだろ」
誰に向けたのかも分からないまま、呟く。
返事はない。
当たり前だ。
けれど。
床に落ちた影だけが、不自然に揺れていた。
「……っ」
目を凝らす。
照明は、変わっていない。
なのに影だけが、遅れて動く。
まるで――別の何かに引っ張られているみたいに。
「……ふざけんなよ」
拳を握る。
怖い。
理解できない。
それでも。
あいつを、あのままにしておくわけにはいかない。
「……出てこい」
一歩、踏み出す。
その瞬間。
足元の影が、ぬるりと広がった。
「――は?」
影が、床から“浮いた”。
あり得ない。
現実じゃない。
分かってる。
でも、確かにそこにある。
黒い膜のようなものが、空間を裂くように広がっていく。
そして。
その“向こう側”が、見えた。
「……あれは……」
真っ黒な空間。
底のない闇。
そして――
遠くに、微かに光るもの。
「……っ……!」
心臓が、跳ねる。
分かる。
あれは。
「……あいつだ」
理屈じゃない。
でも、確信だった。
あの光は、彼女だ。
「……繋がってる……」
手を伸ばす。
触れられる距離じゃない。
それでも、伸ばさずにはいられない。
その瞬間。
背後から、声がした。
「やめておけ」
振り返る。
彼女の父親が、そこに立っていた。
さっきと同じ場所に、同じ姿で。
まるで、時間が止まっていたみたいに。
「戻れなくなるぞ」
静かな声。
けれど、その奥にあるのは“警告”じゃない。
“確信”だ。
「……関係ねぇよ」
即答だった。
自分でも驚くくらい、迷いがない。
「戻れなくてもいい」
一歩、影に近づく。
「向こうに行けるなら、それでいい」
空気が、変わる。
冷たく、重く、沈むような感覚。
「……本気か」
父親の目が、初めて揺れた。
ほんの、わずかに。
「当たり前だろ」
笑っていた。
こんな状況で、笑える自分が少し可笑しかった。
「置いて帰れるわけねぇだろ」
その言葉に。
影の向こうの光が、かすかに強く揺れた。
まるで、応えるみたいに。
「……愚かだな」
父親が呟く。
けれど、その声には、ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ、人の感情が混じっていた。
「だが――」
次の瞬間。
空間が、大きく歪んだ。
影が、一気に広がる。
部屋の壁も、床も、天井も。
すべてが黒に飲み込まれていく。
「ならば見せてやる」
父親の背後に、あの“何か”が現れる。
あの時と同じ。
いや、さっきよりも、はっきりと。
「お前が踏み込もうとしている“世界”を」
黒い手が、無数に伸びる。
現実と異界の境界が、完全に溶ける。
「――っ……!」
足が、沈む。
引きずり込まれる。
抵抗しようとしても、意味がない。
それでも――
「離すかよ……!」
拳を握る。
視線は、あの光から逸らさない。
「絶対、連れて帰る」
その言葉と同時に。
胸の奥が、熱くなる。
“繋がり”が、強くなる。
光が、一瞬だけ強く弾けた。
闇が、揺れる。
「……面白い」
“それ”が、初めて反応した。
感情のようなものを、見せた。
「ならば――来い」
完全に、境界が崩れる。
落ちる。
現実から、あちら側へ。
「試してやろう」
最後に見えたのは――
闇の中で、確かに輝く、彼女の光だった。




