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会場係の一人に案内されて私とレティシアは休憩室の一つに入った。怪我の手当てって事もあって万一血を苦手な人が休憩しにやってきてトラブらないよう貸し切りにもしてもらった。
レティシアから急かされるように入ってすぐの長椅子に腰かけて、手の傷の上から包帯を巻いてもらう。素手で刃を握ったのは右手で、左手だけじゃ一人だと包帯を上手く巻けなかったから助かった……と、思う事にする。
「ごめんなさいエマあぁ、こんなはずじゃなかったのに何度やっても同じになるのぉ……」
「あははいいよ、ありがとレティ」
私の右手は現在、五本指ごとぐるぐると包帯で一つに纏められて指を使えない状態になっていた。
ちょっと、ううんかなり奇抜な包帯の巻き具合のせいで右手がズシリと重い……。ハンマーとかトンカチみたいだよ。これで人殴ったら凶器になったりしてねーあははは。
レティシアの手当てはハッキリ言って下手っぴだった。
まあねえ、私みたいに稽古して小さな怪我が茶飯事なわけじゃないだろうし、使用人達がほとんど全ての世話を甲斐甲斐しく焼いてくれる公爵令嬢だもの手当ての経験がなくたって不思議じゃない。でもやってくれるって気持ちだけで十分嬉しいから今夜はこのトンカチ手のまま帰ろうかな。
「ねえレティ、あの最低殿下はさっきので懲りたかなあ」
「そこはわたくしにも微妙な所なのよね。無駄に威張り散らすし迷惑系ポジティブだから。顔を合わせる度にホンット何度股間に蹴りを入れて使えなくしてやろうって思ったかしらね。去り際にうっかり放ったわたくしの暴言に腹を立てて乗り込んで来ないかは実は少し心配ね」
んん~、うっかり、なんだあれ?
「じゃあまた何かしてくるかもしれないんだね、注意しないと」
この部屋にまで来たらレティシアの安全確保が最優先だなと私がトンカチ手の有用性を想定して心構えを新たにしていると、怒ったような顔だったレティシアは愁眉を下げて私の短くなった毛先に触れてきた。その薄青の瞳が悲しげに揺れる。
「エマ、本当にごめんなさい。わたくしの厄介事に巻き込んでしまって」
彼女が今は無惨な有り様の私の髪の責任を感じているのは明らかだ。世間一般の淑女達にとっては長くて美しい髪の毛は恋の相手へのアピールポイントでもあるし、国によっては髪の短い女性は罪人の証だなんて古臭い慣習が残る所もあるくらいだ。
大袈裟に言えば髪は女の命。レティシアもそんな認識の持ち主だ。
うーん、正直ちょっと少し後ろめたい。
帰ったら綺麗に毛先を整えないとなあとは思うけど、バッサリ短くなった髪に全く悲しいとは思わないんだもの。
ショックなんて微塵もない。
ここは私ってば変わり者だな~って自分でも感じる所。前々から剣士としては髪が短い方が楽なのにって思っていた。でも私が髪を切るのにはさすがに屋敷の誰も賛成してくれなかったんだよね。だから今まで仕方なく諦めて伸ばしていた。
これ以上はもう気にしないようレティシアには私の正直な気持ちを教えてあげないとね。
「レティ、そんな顔しないで。実は全然平気なんだよ。むしろ念願叶って短くなったって感じだしさ」
「念願? エマはそうやってわたくしが気に病まないように言ってくれるけれど、わたくしには無理がお目通しよ」
「え、いやホントに大丈夫なんだってば。何よりこの方が剣の稽古も捗るし」
ジトッとまだ疑わしい目で見つめてくるレティシア。
「ホントのホントだってば。だからこの件は気にしないでよ、ね?」
まだ猜疑的な目付きは変わらない。ええとどうしよう。どう言ったら信じてくれるかな。
「お兄様に……」
「え?」
「お兄様の名に懸けても?」
思わず目をぱちくりしちゃったよ。急にクラウスさんが出てくるんだもの。まあでもホントにそうだから答えに躊躇う必要はない。
「うん、クラウスさんの名に懸けても!」
「そう。なら信じるわ」
ここまで言ってやっとレティシアは納得したみたい。
「あははクラウスさん効果絶大だね」
「ええ、だってエマはお兄様にベタ惚れだからお兄様を出せば嘘なんてつけないじゃない」
「ベ、ベタ惚れって……まあ否定はしないけど」
「うふふっお兄様もだし?」
「えっ……とそれはどうだろう?」
レティシアが横から二の腕をつついてくる。
「あらあらお兄様の気持ちの深さを信じていないのねえ?」
「えっ!? 滅相もないよ! そこはそのー、うん」
やらかされてわかっている……とは思う。照れるっ!
だけど私はふと僅かに目を伏せた。
「でもさ、もしも……」
「もしも?」
やや視線を下げ言葉尻を小さく曖昧にした私へとレティシアが怪訝にして覗き込んでくる。
「迷惑を…」
――コンコンコン、とノック音。
ハッとなって直前までの言葉を止める。レティシアと揃って部屋の入口へと顔を向けると、入ってもいいかってクラウスさんの声が扉を抜けてきた。
王子がやり返しに来たのかもって一瞬ヒヤリとしたけど、親しい相手の声にホッとした。会場係からここだと聞いてきたんだろう。レティシアが返事をした。
中に入ってきた彼は真っ直ぐ私達の方に寄ってくると、前に立ったまま見下ろして随分と残念そうな目をした。その目は私のトンカチ手に向けられている。
「お兄様、何か?」
「可哀想な程に奇抜な手当ての才能だな……」
「失礼ね。これでも真剣にしたのよ。エマだって一応はこれで大丈夫って言ってくれたわ。ね、エマ!」
「あー、うん。そうです、大丈夫です」
クラウスさんが困った顔になる。
「レティをあんまり甘やかすなよ、エマ」
「そういうつもりはないですよ。レティの思いやりはとても有難いです。これだって努力の結晶です。ね、レティ」
肩で肩を軽く押すようにすれば、横のレティシアは彼女自身でも本当は不格好で微妙だと思ってはいたんだろう、少し気まずげにしながらも嬉しそうにする。
クラウスさんはハアと嘆息した。
「箱貸して。俺がやる」
「あ、いいえこれで大丈夫ですよ」
「いいから」
クラウスさんは譲らなそうな口調だった。試行錯誤と言うより四苦八苦しながらのレティシアに折角巻いてもらったのに申し訳ないよ。するとレティシアが素直に脇に置いていた救急箱を差し出した。
「お兄様にやり直してもらって?」
「え、でもホントにこれで…」
「お願い、やってもらって」
「え、うーん、じゃあ、レティがそう言うんならまあ……」
了承の途中でもう私の前に膝をついたクラウスさんが早速と手際よく包帯を解き始める。
「えっ、巻き直すにしても座ってやって下さいよクラウスさん! あっちの大きな椅子空いてますし移動しましょう」
決して安くはない夜会服が汚れるのもお構いなしだ。沢山他の服があるんだろうけど気まずいよ。
見かねたレティシアが立ち上がった。
「ところでお兄様、主催者にはご挨拶してきたの?」
「いや実はまだ」
おそらくは探していたけど私達の騒ぎに気付いて一旦引き返してきたんだろう。私が怪我までして余計に事を大きくしちゃったのが心苦しい。
「それじゃあわたくしがお兄様に代わってご挨拶してくるわ。早く帰りたいしね。エマの手当てをお願いね」
「わかった。宜しくな」
レティシアがすぐ傍の出入口からするりと出て行って、彼女と入れ替わったクラウスさんが包帯を全部取り払った私の手の具合を見て確かめる。
「念のためもう一度消毒もするか」
「ええとそんなに丁寧にしなくても大丈夫ですよ。別に錆びた剣じゃなかったですし、実は掴み方に注意していたのでそんなに深くもないですから。これくらいの傷なんて嘗めておけばじき治りますって」
随分と眉間を寄せて深刻な顔をするから敢えてからからっと明るく返せば、彼は表情を変えず私をじっと見る。
ふとその瞳に切なげな漣が広がった。
「エマ、ごめんな」
「え?」
「戻るのが遅かったせいで、止められなかった」
彼は私のざんばらな髪に手を伸ばしていた。先のレティシアと同じような顔をする。何だかなあもう。苦笑が漏れる。
「レティにも言いましたけど、これは平気ですよ。私、前々から髪を切りたいなあって思っていたんです。本当に。……だって鍛練中に激しく動いてるとしっぽビンタされて痛いんですよね。ホントにもう毎回ビシバシって当たるんですよ顔に」
だから気にしないで下さいって続けようとした時、ふわりと首の回りにそよ風が吹いて私の細かな黒髪が舞った。それらは床に一纏まりになる。
「伸ばしてはやれないけど、一先ず毛先の長さだけ整えたから。あとで髪型はエマのしたいようにしてくれ。どんな髪型でも世界一可愛いだろうけど」
この人はまた一言甘い言葉が多いんだから。照れる一方で私は髪を触って感激した。
「すごい、一瞬で……」
彼はこんな魔法もできるんだ。まだ鏡で見ていないから全部はわからないけど無事な左手で確かめてみればなるほど長さが綺麗に揃っているみたい。彼にお礼を言おうとした矢先、今度は右手にピリリと小さな痛みが走った。
「――っ、クラウスさん!? ななな何をしてるんですかっ!」
見れば掌の裂傷に彼が唇を当てている。
「悪い。痛かった?」
「だだだ駄目ですよ汚いですから!」
「レティがちゃんと消毒しただろ。……まあしてなくても嘗めたけど」
「何でですか!」
「嘗めておけば治るってエマが言ったんだ。消毒も兼ねてるけど」
それはよく言う言葉のあやだ。ってか消毒う!? 嘗めときゃ治るなんてのは眉唾な民間療法と一緒だよ!
「ほっ包帯巻いて下さいクラウスさん! 包帯のターンです包帯の!」
彼は無言でまた傷を嘗めた。
「――っ」
痛みは小さかったけど何だか妙に緊張して肩が凝りそう。
こういう恥ずかしいのレティシアの本棚ラインナップの中でも見かけた。自分の手を見ていられなくて目を逸らして半ば反射的に手を引いたけど、手首を掴む彼の手からは逃がしてもらえなかった。
今はこの距離の近さが得体の知れない薬に毒されるみたいだ。頭の中でパレードでもやっているみたいにどうしようもなく気持ちが落ち着かない。
本当にどうしよう、手当てどころじゃなくなりそうにくらくらする。
傷口から実は媚薬でも流し込まれた?
視線だけを上げた彼の目が獲物でも定めるようにぎらりと艶めいた……ような気がする。
一層ドキリとして咄嗟に手を引こうとしたら彼から予期していたかのように阻止された。手首を逆に彼の方に引かれてしまった。むしろ逃げようとしたせいでより彼の束縛の意識が高まった、とか?
ああ、嫌じゃないから嫌になる。
気恥ずかしくてじわじわと頬が熱くなるのに彼の目から目を逸らせない。私の掌の皮はレティシアみたいに繊細で薄くない。剣士としての剣だこだってある。美しい白魚の手には程遠いのに、彼は嫌な顔一つしないでこんな攻めを講じてくる。
こうやって迷惑だってかけてるのに……。
あなたは私で本当にいいの? 社交界にはおしとやかで綺麗で可愛い女の子が沢山いるのに?
「あっあのクラウスさん、お願いですからまずは手当てを……」
突如湧いた不安に戸惑い尻すぼみになった私だけど、早鐘の心臓のせいで体温は三度は上がったよ。平熱が三六度ちょっとだから三度も上がればヤバい。死ぬかも。思考がボーッとして鈍るのも不思議じゃない。
これは私達の本物で、いくら動揺しても無意識に気持ちの歯止めができていたBL演技の時と違って好きが駄々漏れてどうしようもないんだもの。
見つめ合って胸がキュンキュンする。ううんそれしかしない。
ああもう誰かこれを止める方法があるなら教えてーっ。
内心じゃめろめろの私の懇願にも似た促しに、クラウスさんは自分を律するかのように小さく息を吐いた。私の手をようやく解放してくれて包帯を手に取る。
「はあ、エマはまたそうやって自覚なく……そそる顔をするんだからなあ」
「はいっ!? なな何ですかそれは!」
超絶恥ずかしくなって思わず両手で頬を押さえた。
「――った!」
「ほらほら大人しくして」
圧迫された傷が痛んで顔をしかめると、彼が今度こそ手を取って包帯を巻き始める。
だ、誰のせいだーっ。そそる顔? ってどんな顔だそれは。ってかこの人まつげ長いな。鼻筋も綺麗だし。唇だって理想の形じゃない? 彼が手当てに集中していて目が合わないから遠慮なく観察できてしめしめ……ってその前にっ。
「またってことは、私、前にも変な顔したんですか?」
「変なって……」
クラウスさんは視線を落としたままちょっと可笑しな話でも聞いたように微笑する。
はああ何その自然体な反応っ、萌える!
「顕著だったのは決闘の日のベッドでだったかな……危なかった」
危ない? うーんそう言えばあの日も凄くドキドキしたっけ。
「そうですか。でも表情とか、私自身じゃ見えないとこで揶揄わないで下さいよ」
「んー、確約はしかねる……というか揶揄ってもないし」
「クラウスさんっ」
「はい、できたよ」
思った以上に早く包帯を巻き終えた彼が顔を上げる。巻き方が整っていて無駄がないのに感心していた私も目を上げた。視線と視線がもろにぶつかった。
またの不意討ち。
さっきの肉食系な眼差しを思い出せば僅かに頬が強ばった。
あの艶さえあった眼差しでまた攻められたらどうしようって焦ったけど、彼の反応は思ったのとは違っていた。
何故かジト目になった。
「さーてエマ、理由をきちんと説明しなさい。髪の毛を切りたかった云々以前にどうしてこんな無茶をしたんだ。自分を蔑ろにし過ぎだよ」
「そ、それはだって……性別がバレたらレティの立場がまずかったですし」
「もし嘘が知られても、レティは自分でどうにか対処するよ。いつもはあはあしている危ない面もあるけどあれでも腐っても公爵令嬢だ、か弱そうに見えてしたたかだからな。自分の評判よりエマが怪我をする方がレティには余程堪えるよ」
言われてみればそうかもしれない。レティシアは手当てをしてくれながら凄く辛そうにしていた。でも彼女への言い種……。妹が妹なら兄も兄だった。ホントは仲悪いのかにゃ?
「そこは私の思慮不足でした。ごめんなさい。でも私の油断も一因でしたし、私のせいで迷惑をかけるのが嫌だったんです。レティだけじゃなく、もしもクラウスさんにも公爵家にも面倒をかけたらって……。要は自分のためでもあったんですよ。自分を蔑ろにしてるって心配してくれましたけど、そこは私も打算があっての大立ち回りというか何というか、だからもう怒ってくれなくていいんですよ」
好きな人が自分を案じてくれるのが純粋に嬉しい。
だけど案じるより安心してほしい。
「丁寧な手当て、どうもありがとうございます」
長椅子の上、隣の幼馴染の青年にはにかめば、彼はどこか困ったように眉尻を下げた。叱る気でいたのに毒気を抜かれたのかもしれない。
「あの、馬車での話の続きいいですか?」
クラウスさんは意外な展開かのように瞬いた。私から振るとは思っていなかったみたい。うん、今日ここへの馬車に乗る前の私なら引き延ばしていたかも。
「いいけど、俺はエマを諦めないよ。君が受け入れてくれるならすぐにでも婚約したい」
少しだけ硬くなった声の変化には、一言一句聞き逃せない大事な話をするような真面目な緊張感と、同時に微かな不安さが垣間見えた。
ああ、そっか、そうなんだ、考えてみればこの人も私も一緒なんだ。
想う相手の反応に信じられないくらいに一喜一憂できちゃう心情はさ。
心がくすぐったくなる。
「クラウスさん、この先私はあなたに迷惑をかけるかもしれません」
男装してるし、女だてらに剣士だし、師匠と魔物退治にだって行っちゃうし、そもそも彼と釣り合う家柄でもない。継承問題で手間もある。そんなうちの何かが彼の重い負担になる日がくるかもしれないのだ。
それは常に心の片隅にあった。
でも、友人としてじゃなく、奇跡にも彼は私に恋してくれた。
だからこそ胸にある不安を直接問おうと思う。一人で悩んで勝手な思い込みをして身を引くより、もしもそうなる結末だとしても、一度は正面から向き合いたい。
「それでも本当に私でいいんですか? 誰も予想もしないとんでもない厄介を背負うかもしれなくっても? 最悪路頭に迷うかもしれなくても?」
彼は目を瞠った。私が言わんとするものを理解したんだろう。ややあってふわりと微笑む。その青空色の瞳にはもう直前まで微かにあったどんな負の色もない。
「ああ、エマとならどんな重荷を背負っても必ず克服していける自信しかない。何なら抱っこしてでもいいし?」
……言い切るんだ。そんな潔さに無駄な肩の力が抜けた。彼はとっくに彼の心の中心に私との決意を据えていたんだ。
ああ、こうやって好きな人に想われて人って強くなれるんだね。彼となら酷い通り雨みたいな困難も虹がさす雨上がりみたいな幸福も、地にしっかり足を着けて見上げられるってそう思うよ。
「沢山怒らせるかもしれませんよ?」
「それ以上一緒に笑うから平気。エマのお腹を擽ってでもね」
「あはは、何ですかそれ」
思わずふっと緩んだ頬に彼の温かくて大きな掌が触れて包み込まれる。
少し驚いたけどそれがまた満たされて、私はこの掌が極上の癒しとばかりに柔く目を細めた。
「エマは俺の評判を気遣ってくれるけど、俺は外野のどんな陰口もどうでもいいんだ。ぶっちゃけ称賛さえもさ。君の言葉だけが俺の心を揺らすんだ。この世で唯一俺に打撃を与えられるのも幸せをくれるのも、エマだけだから。わかった?」
だから迷惑だとか面倒だとかでいちいち躊躇うなとクラウスさんは言ってくれている。私が私にあった躊躇を取り払ったのを見越したように彼が身を乗り出してくる。
「返事は、エマ?」
「はい、わかりました」
「本当にわかった?」
「はい」
「結婚しよう、エマ」
「はぃ――え!?」
うっかり流れで返事を半分しちゃったけど、率直な求めにドキドキし過ぎて息が止まりそうになる。
「……返事OKなら、キスするけど」
はっ!? 普通OKならキスしてって言わない?
内心で思わず呆れちゃった。
「エマ、俺は公爵家の全てを費やして周囲の人間を黙らせてでも君を手に入れたい。そうしてもいいか? 君以外には止められない。だから嫌ならキスを拒んで」
話の流れで私の答えなんてわかり切っているくせに、こんな事を言う。しかも笑い含んだ声で。いい性格してるよねホント。
でもさ、余裕な声なのに……。
吐息が頬に掛かって鼻先に掛かってまつげの先が触れそうで……。
「クラウスさんは、どうして……」
「どうして? エマが好きだからだよ。何度も伝えているだろう。強引だって嫌いになる? それでもギブアップなんてできないけどな」
優しい懺悔のような吐露に彼の両手が微かに震える。
ホントにどうしてこの人は……。
「エマがいないと駄目なんだ」
コーナーに追い込まれているわけでもないのに私には最早逃げ場はなくて、唇に吐息が当たる距離にクラウスさんも接近している。
あなたはどうして、嫌なら拒んでとか私がいないと駄目だなんて攻めの台詞を囁きながら、そっちが傷付いたような泣きたいような顔をするの。
今までこっちがたじたじになるくらいの甘い言葉とスキンシップで自信満々っぽく迫ってきたくせに、この土壇場で弱気な顔……堪らない気持ちになる。
これも口説き作戦なの?
だったら残念ながら、私に勝ち目はない。
ずっとこの先寄り添って沢山キスして慰めて笑わせてあげたいってしかもう考えられないもの。
だけど、今にも奪われそう。
「どうしてあなたってそう……っ」
いつもいっつも主導権を握れると思ったら大間違いなんだからね!
こっちから顔を近付けて奪ってやった。
彼の唇を。
よもや奥手と言うよりどうも恋愛事に鈍いらしい私の方からキスするなんて思っていなかったクラウスさんは、最初こそ心底驚いたのか目を瞠っていた。だけど私がこれが答えでどうよってドヤ顔をしていたのを腹の底で悔しく思ったのかもしれない。一度でおしまいのつもりで油断していた私に二度三度と口付けてきた。
「ふあっちょっ、んんっ、やっ待っ、――んんんっ!」
ビックリして恥ずかしくて究極に腰砕けで、それがまた嫌じゃなくて嬉しくてそんな破廉恥な自分に慣れなくて思わず涙が滲む。何だこれ、キスされて胸の高鳴りが止まなくて涙が出るなんて。こんな女の子女の子しいのなんて私らしくない。こんな私にクラウスさんは引くかもしれない。不安が顔に出た。
彼はハッとして一度離れるとこっちの頭を抱き込むようにして抱きしめてきた。
「ごめん、エマ! 泣かせる気も無理強いする気もなかったんだ。俺も少し、いや結構舞い上がってて君にやらかした。本当に悪かったよ、ごめんなエマ? 頼むから泣かないでくれ……」
彼はあたふたとしたけど、大きな誤解だ。
私は顔を離して彼ときちんと向き合った。
「違います。やらかしていいです」
「え?」
「あの……クラウスさんは今みたいな私に引いたりしませんか?」
「どういう意味?」
私は怪我も構わず両手で熱い頬を押さえ込む。声も震えた。
「自分でも手弱女みたいで調子が狂うというか、あなたに触れられるだけでドキドキが爆発しそうでこんな頼りなくて格好悪くなっちゃうんです。あなたが見てくれていたいつものエマ・ロビンズじゃないんです。私自身も自分の無節操に戸惑ってるんです。普通じゃないんです。こんな姿を晒す私に幻滅……しませんか? 泣いたりしないので正直に言っちゃって下さい!」
「………………」
赤らんだ目で半ば懇願の眼差しを向ければ彼はぐっと何かを堪えるようにしてから手で自身の目元を覆ってしばらく押し黙った。
やっぱりクラウスさんも本音を言えば思っていたのと違った的なあれかもしれない。どうせ失恋するなら傷は浅いうちがいい。
ごくっと唾を呑んで心身ともに構えて待っていると、彼がようやく顔から手を退けた。私から見てもいつになくその頬は赤い。
「……っんとに、どこまでもとろっとろに甘やかしたくなるな。理性飛びそうでマジにヤバかったっての」
「?」
目線を逸らした彼の口元が何言かを紡いで小さく動いたけど、生憎よく聞こえなかった。
怪訝さと裁定を下される前の囚人のような気分で心なし力んでいると、彼がやっとこっちを見てくれた。思わず不安定な感情共々瞳が揺れる。
「エマ」
「は、はい」
「超絶大好きだ」
「……へ?」
「君をまるっと好きなのに幻滅なんてしないよ俺は。そんな事で俺を疑わないでほしい。もっと色んなエマを見たいんだ。それこそ生涯をかけてね」
ふわりと額に口付けが落とされる。
「さっきは性急に過ぎたよな。OKはもらったんだし、これから二人の時間はたっぷりあるわけだ。一つ一つゆっくり行こう」
優しい微笑みが私の気持ちを落ち着かせてくれる。……どこか物足りない気もしないでもなかったけど、私もお互いの好きを一個一個重ねていけるならそうしたい。
私達の気持ちは固まったけど、将来一緒にいるためにもまだ諸々の整えるべき物事もあるしね。
私ははいと同意の返事を口に、とびきり微笑んで返した。
「や、エマ、やっぱたまに少しくらいは駆け足でもいいかもしれない」
耳まで赤くなったクラウスさんがそんな事を言った。
それからは二人で大人しくして熱を冷ましていると、レティシアが戻ってきた。どうやら挨拶を終えたみたい。
私の髪の毛先が整っているのを見てちょっと目を丸くした彼女はすぐさま兄がそうしたって悟った。で、顔をまだ火照らせる私と、そしてクラウスさんを見るや何かあったのを察したようであらまあってにやりとした。後で弄られないといい。
彼女にはクラウスさんと結婚を前提に正式に付き合う事になったって報告した。
予想通りとても喜んでくれたけどバサリと手扇を広げて「ホホホお兄様ってばこれからは正当な立場でエマのうなじを齧れるわね」って言うや、早速BLオメガバースを連想したのか興奮して途中からはあはあし出したっけ。
……でも、レティシアには例の甘噛みの件を話していなかったはず。
「ええと、クラウスさんが教えて……?」
私は彼に軽く怨じるような目を向けて両腕で首元を隠すようにしちゃったよ。照れ臭かったんだもの。
「いやまさか。いくら妹でもあれはさすがにプライベート過ぎて話さないって」
本気で焦った様子だった。クラウスさんは白。じゃあ……。
「レティにはどんな隠し事もできない気がします……」
「俺もだよ……」
どう知ったのかは怖くて訊けないけど驚異の情報収集能力だねー。コソコソした私とクラウスさんはお互い咳払いして気を取り直した。
この日はもう心配していた第二王子の出現はなかった。彼は私達よりも先に早々と帰って行ったって話だった。あー良かった。
帰りの馬車じゃ、レティシア命令で私とクラウスさんが隣同士、向かいにそのレティシアって席順になってドキドキしっ放しだった。
でも緊張は長くは続かなかった。私は疲れたせいかいつの間にか彼に寄り掛かって眠っちゃった。
ふと途中車輪がやや大きめの石でも踏んだのか、馬車が小さく跳ねた拍子に微かに覚醒したけど意識はまだまだとろんとした眠り加減の間、ポソポソ、と声を小さくして兄妹二人が会話しているのをぼんやり聞く。幼い時分から親しんだ彼らの気配とその声がとても心地よかった。
ふふっ、何という幸福時間。
どんな宝石も敵わない心満たされる輝きが胸一杯に広がっている。いつまでも味わっていたい無防備になれる私の安息地。
ただ、眠た過ぎて何を話していたのかはこの時は理解もできなかったけど。まあどうやらクラウスさんがレティシアから弄られていたそれらしい。彼女から後でそう聞いた。あはは。
とにもかくにも、騒がしさが印象的だったこの日はそうやって幕を下ろした。
因みに、わたしもこんな自分だけの騎士が欲しいわとレディ達の間で密かに人気が高まった少年騎士エドウィンだけじゃなく、フレデリック王子にメンチを切った公爵令嬢レティシアも、ある意味伝説になった。
翌日、仕事の早いクラウスさんは早速もうあとはサインするだけ~な正式な婚約の書類一式を揃えてうちにやってきた。最初見た時はサインするだけなんて、すわ婚姻届かと焦ったよね。
焦ったのはいつもは忙しくしていて留守がちな両親もちょうど屋敷に居たからってのもある。
昨夜は送り届けてもらった馬車から降りた私の髪の毛と手の怪我を見て卒倒しそうにもなった両親や屋敷の皆は、またもや度肝を抜かれた顔をしていたねー、ははは、さもあらん。
話は逸れるけど昨日の夜会に両親は出なかった。他の集まりに顔を出していたんだよ。レティシアとクラウスさんの計らいで男装している時には会わなかったから私が騎士の真似事をしているのは知らないはずだ。
でも行き先は知っているから、両親は私が彼らと一緒に夜会に参加していると思っているだろう。加えて、両親は私が公爵令嬢と令息のおかげでついに社交界に顔を出したって喜んでいた。
しかし、私とクラウスさんが恋仲になるなんてこれっぽっちも想定って言うか想像していなかったらしい。
ご近所さんだしレティシア共々仲良く友人としてやっていってくれればいいと考えていたみたい。
一般的に結婚相手の家柄が宜しいのは歓迎されるけど、必ずしもそればっかりじゃない。歓迎されない時だってある。
善き友人から唐突に娘をさらっていこうとする狼に豹変したクラウスさんに苦い思いを抱いたのか、応接室に通された彼と向き合ううちの両親……主に父親は最初はかなり敵意を含んだ面持ちだった。だけどクラウスさんはやり手なベテランの商人顔負けに両家が姻戚になる利点をペラペラペラ~と並べ立てて両親を圧倒した。
それと、如何に自分がお買い得で誰より私に相応しい男かを自信と威厳と専ら私への愛情表現を交えて訴えた。
彼の隣で一緒に両親を説得しようって意気込んでいた私は、両親の前なのに甘過ぎる恋人扱いにたじたじで、その一方じゃ彼のそこ以外は仕事モードに近い姿が新鮮で萌えて見惚れっぱなしで到底戦力にはならなかった。
かえってその私のめろめろな様子を目の当たりにした両親はこれは重症だと思ったらしく、案外あっさり認めてくれた。とりわけロマンス好きな母親が渋る父親を説得してくれていたっけ。
手続き上その日のうちってわけじゃあなかったものの、私は晴れてクラウスさんと婚約できた。
アドレア公爵家の方でも反対はされなかった。
公爵家のおじさんとおばさんは遊びに行って顔を合わせるといつもにこにこしていて親切だったけど、さすがに私が息子の結婚相手になるとなったら手厳しくなるかなあ、なんて懸念していたんだけど全くの杞憂だったみたい。
おばさんからは「おばさんとおじさん的にはね、少しくらい羽目を外して予定が早まっても別にいいかなあ~って思っているから、あの子とは常識に囚われないラブを遠慮なく貫いてね?」なんておっとりと微笑まれた。しかもおばさん手ずから贈り物を渡された。
箱を開けたらかなり色っぽい下着だったっけ。
女の私から見ても見ているだけで何かこうムラムラして鼻血が出そうなセクシーさだったよ。うふふ今はまだ早いよねってわけでクローゼットの奥にそっとしまった。
そんなわけで驚くくらいに障害もなく、私達は婚約した。
でも、世間一般の貴族の恋人達がするように大々的な婚約式を執り行ったわけじゃない。
そこは私が渋ったから正式だけど書類上の婚約者ってだけになっている。
つまり、エマ・ロビンズがクラウス・アドレアの婚約者なのはまだ世間には秘密だ。
公になれば公爵家だけじゃなく男爵家にも記者達が押し寄せるだろうからって言って、騒がしくなるのを嫌った両親の意見が大きいけど、私もまだ内緒でって思っている。
それでも彼が婚約した事実だけは周知になっているからこそ、婚約者はベールに包まれたミステリアスな女性として社交界での話題をさらっていた。
私は変わらずレティシアの専属騎士のエドウィンをやっている。
男装して上流階級の集まりに行けば、そこで主にレティシアのBL好き仲間から同情的な眼差しを向けられたっけ。
まあ、外野から見れば結局クラウスさんはどこぞの女と結婚をする事になって憐れエドウィン少年は日陰の身に……って思ったろうから、それもさもあらんだよねー。
貴族の中には政略結婚故に心が通わず互いに恋人を持つなんて仮面夫婦もいるから、エドウィン少年とクラウスさんも将来的にはそんな関係かしらと思われている。
勝手に泥沼とか愛の縺れとか悲恋の要素がプラスされて腐令嬢達は私とクラウスさんがたまたま並んでいると余計にはあはあするようになって困りものにもなっていた。
いつかは社交界に溢れる他のイケメン達でのカップリングにも注目して、私達への熱も冷めると期待したい。
因みに、クラウスさんは婚約したからもうわざわざ女除けのために男装の私とイチャイチャ演技をする必要がなくなった。だから私もエドウィンでいる時はもう過度なスキンシップはないよねって安心していたけど……そうでもなかった。
未だに腐令嬢達への萌えを提供し続けてまーす。……はあ。
一方、これも相変わらずで、私は日々剣を振っている。
クラウスさんに見合いたいって思いが一層強まってもいた。
展望も実はもうある。
どうしたら偉くなれるかなってうちを訪れた師匠とステファンに相談してみたら筋道を示してくれたんだよね。
そうそう、師匠は元気溌剌な様子でうちに顔を見せたんだ。孫息子のステファンと一緒にね。自慢のマッスルもすっかり快調で、療養中は私に合わせるマッスルがないって嘆いていたそうなそのマッスルも十分だった。すごくテカってた。
二人が言うにはさ、私なら手っ取り早く王宮の女騎士として君臨したらいいんじゃないのかって言われたよ。
大納得だった。
王宮騎士として師匠が現役だった一昔前とは違って、最近の王宮騎士の地位は格段に上がっているんだって。師匠は面白い通り名まで付けられた歴代最強とまで謳われている騎士だけど、一代限りの準男爵の位しか授けてもらえなかった。
でも今や各騎士団の長ともなれば、仮に庶民出身でも下級貴族以上の地位を得られる。それが数ある全ての王宮騎士団を統括する王宮騎士団総長ともなれば更に上は確実だ。クラウスさんの妻としても箔が付く。
だから、私は王宮騎士団に入ろうと思う。
王宮騎士団の話題じゃ師匠は懐かしそうな目になって、それから精進するようにって激励をくれた。私が騎士団に入っても師匠は変わらず私の無二の師匠のまま時間がある時は指導してくれるって言ってもくれた。ありがとう師匠。
まだ複雑な部分はあるんだろうステファンには悪いけど、師匠は私の師匠だから譲らないよ。
ただねえ、女騎士はまだまだ好奇の目や偏見の目を向けられて、正式な昇進のかかった試合でさえも時には妨害されて出場できなかったりと、地位向上が中々に難しいみたい。
まあ嫌がらせするのは一部の奴らだけって話だけどね。
私は邪魔されながら悠長に騎士としての階級を上げている暇はないから、それなら一計を案じるしかない。
功績を立てて王宮騎士として頂点に上り詰めてから女だって明かしたらどうだろう?
一番効果的なんじゃないのかな。
騎士団の古臭い男達皆をぎゃふんだよ。
私の心にはそんな野望が生まれていた。
最悪性別を偽っていたって非難されるかもしれないけど、そこはどう転ぶか読めない。やってみないとわからない。
ただしさてどうやって性別を隠したまま入団試験をパスしようって考えていたそんなある日、王宮からアドレア公爵家に少年騎士エドウィン宛の手紙が届いたんだって連絡があった。
エドウィンはレティシアの専属騎士として公爵家に住み込んでいるって設定だから手紙は公爵家に届いたってわけ。
まさかエドウィン宛に手紙が来るなんて予想もしていなかったから驚いた。
加えて手紙を開いてびっくりした。
「これは……」
公爵家の誰もエドウィン宛の手紙を勝手に開封したりはしなかったから、レティシアに呼び出されて公爵家の応接室で一番に手紙を読んだ私の反応に、向かいの長椅子に並んで座るレティシアとクラウスさんが興味津々だ。
読み終えた私は二人へと居住まいを正すとこほんと咳払いする。
「ええっとですねえ、この度私エドウィンは……騎士団にスカウトされちゃいました~」
「「はああっどこの!?」」
ワオ、息ぴったり。私は向かいの席から身を乗り出してくる兄妹へと、たじたじな顔を張り付けた。
「それが、下弦の月騎士団から」
「下弦の月って確か、現在は王太子専属の騎士団だったよな。どうして急にそんなところから?」
「はい何でも、王太子達もあの第二王子との騒動があった夜会にお忍びで来ていたらしくて、私の動きを目撃したんだとか。只者じゃないって思われたみたいです。それで私みたいな実力のある若手が欲しいんだそうです」
王宮騎士になりたいって希望をクラウスさんには既に話してある。そこに来てのこの手紙だ。時に危険を伴う騎士団に婚約者の私が入るのを彼はよく思っていない。そこは当然かなとは思う。
言葉もなく考え込み少しだけ眉間にしわを寄せたクラウスさんとは裏腹に、レティシアが両目をこれでもかって程輝かせた。
「王太子と言えば、彼の周辺と言えば、美形男子ばかりよね! しかも王太子は何と男色家! 彼はゲイだって言われているわ!」
「え、あ、そうなの?」
「へえ、そうなのか」
眉間を開いたクラウスさんが何だかホッとした様子を見せる。レティシアがそんな兄を残念な目で見据えた。
「お兄様、その顔はエマを狙われなくて良かったとか思っているわよね。でも生憎エマは美少年騎士エドウィンなのよ。社交界での性別は未だに男認識なのよ。わたくしの言わんとしていることがわかるかしら?」
クラウスさんがハッと大きく息を呑む。
「そうよ、エドウィンはこんな綺麗で涼しげな少年騎士だもの、うっかりしたら王太子に服を脱がされるかもしれないのよ。まあ本当は女子だから脱がされるだけだとは思うけれど」
ああうん、女には萎えるから最後まではされないって意味だよね。際どいなあもう。
「だがしかしよ、エマの裸は見られるわ。お兄様よりも先に他の男に嘗め回されるのよ!」
「――!?」
え、いやいや女嫌いなら嘗め回される心配はないでしょ。
呆れていると、席を立ったクラウスさんがこっちに回り込んでくるなり私を抱き上げた。お姫様~な抱っこで。
「へ? クラウスさん?」
「お兄様、頑張って!」
「え? え?」
レティシアを置いて部屋から出るクラウスさんは無言だ。その顔には決意しかない。
「あ、あのクラウスさん? 一体どこに? 自分で歩きますから下ろしてくれませんか?」
彼はこっちを一瞥するも何故かまだ無言。
「……しよう」
かと思いきや何かを発した。
「え、何ですって? しようって何を?」
今度はしかと見つめ下ろしてきた彼は頬を染めた。
「今日にも結婚しよう!」
「は、い?」
「良かった承諾か!」
「えっ、いえ今のは違…」
「早速教会だエマ。元々俺達は近いうち結婚する予定だったんだし、少しくらい早まっても問題ないだろう。うちの両親もそこは推奨しているし。ああ馬車はもどかしいからすぐにでも転送魔法で飛ぶか」
「い、いきなり気力に溢れてる!」
公爵家には転送魔法のできる場所がある。緊急時にしか使わないそこへときっと向かっているんだろう。ズカズカと逸るように進むクラウスさんはまだ下ろしてくれない。本気で教会まで行きそうな様子には焦った。
だって、結婚なんてまだ心の準備ができてない。
特に……初夜の!
夫婦になったらそれがあるわけで、だけど私はまだまだBL演技じゃない本物の、しかも演技以上深く甘いスキンシップには免疫がない。キスだけでお腹一杯だ。私だって本能じゃ彼を欲しているけど、理性がまだ先行して照れちゃって駄目なんだよね。一段ずつ階段を上がっていかないと転落する。それなのに今日にもだなんてどうしよう。
「クラウスさんどうしてそんなに焦ってるんですか!」
私の問いかけに答えるためだろう、彼が甘く掠れる声で囁いた。
「最初にエマの全部を知るのも、知っていいのも俺だけだから」
「なっ……」
「俺の嫁になったら、わざわざ王宮騎士団になんて行かなくても君が主導で公爵家に騎士団を新設するといい。思う存分やってくれていいから」
「え……」
一部の貴族には私兵が認められている。アドレア公爵家もその認められた家の一つだ。
利己的な思惑でにんまりとするクラウスさんのかんばせが尋常じゃない艶を醸している。唇の赤さがやけに際立って彼の男の魅力にどこか妖しい要素を帯びさせる。
じ、冗談でしょ?
騎士団新設云々は置いておくとして、彼のこのただ事じゃない色気は何事ですか?
今まで隠してたんですか? 誰この人? それともキスの時にもこうだけど私が鈍くて気付かなかっただけ?
こんな男との初夜を想像したら死にそうになった。もう動悸が半端ない。
極めつけとばかりに「早くエマとしたい」って耳を甘噛みされた。
ななな何をですか!? 結婚式を!?
「……っ……っ……っ――――うっ!」
「エマ……?」
刺激が過ぎた。
朦朧とする中、クラウスさんが悲痛な顔で何度も何度も私の名を呼ぶ。
この日は、エマ・ロビンズ山鼻血大噴火という大惨事が起きて結局何もなかった。
そして私は珍しくも数日寝込んだ。
師匠と雪山でビバークした時だって風邪なんて引かなかったのに。
クラウスさんは思い切り先走り過ぎたのを反省したらしい。結婚の日取りは予定通りになった。
そんで以て後日、私は密かな野望と女騎士の地位向上のために張り切って下弦の月騎士団に入団する運びとなった。
クラウスさんは渋々認めてくれた。ごめんだけどありがとう。
そう言えば何とステファンも下弦の月騎士団に入った。
レイブン騎士団から移って来たんだって。まあ理由は何となく察せた。こっちとしては顔見知りがいるだけで少しは気が休まるよ。
早く王宮騎士としての仕事にも慣れて、クラウスさんとも無事に結婚できますように。
騎士の制服は男女兼用だから普段はほとんど男装って言えるけど、クラウスさんの前でだけはとびきり可愛い私でいたい。
デートの時に「おしゃれ頑張るよ」って言ったら、彼は複雑そうな面持ちで「可愛いのは俺だけの前ですればいいのに」なんて言った。本気の声だった。
そんなわけで、デートの時でも男装がメインになったんだけど……それってどうなんだろう。
デートを尾行する気満々のレティシア的には万万歳だったみたいだけどねー、あはは。
そういうわけで、私エマ・ロビンズは、恋にも剣にも一生懸命取り組む所存であります。




