第1話 プロローグ 秋の旅路と、冷え切った男
秋になると、不思議と温泉へ行きたくなる。
それは、前世から変わらない私の癖だった。
放課後。
オレンジ色に染まる坂道を、自転車を押しながら歩く。
「リアって温泉好きだよね」
隣を歩く少年が笑う。
「うん。紅葉を見ながら入る露天風呂って最高なんだよ!」
「まだ高校生なのに、おばあちゃんみたいだな」
「失礼な!」
私は笑いながら彼の肩を軽く叩いた。
彼も笑う。
夕焼けに照らされた横顔は、少し照れくさそうだった。
「いつかさ。」
彼が小さく呟く。
「大人になったら、一緒に温泉旅行でも行く?」
胸がどきりと鳴った。
私は返事をしようとして──
「もちろん!」
そう言いかけた瞬間だった。
キキィィィッ!!
激しいブレーキ音。
眩しいヘッドライト。
世界が真っ白になった。
最後まで、返事はできなかった。
夢から覚める。
「……また、この夢。」
リアはゆっくりと目を開けた。
冷たい朝霧が山道を包んでいる。
木々は紅く色づき、落ち葉が風に舞っていた。
背負った荷物はたった一つ。
古びた木箱。
中には湯守として使う道具が入っている。
温度計。
竹筒。
源泉を調べるための鉱石。
祖父から譲られた古い湯守帳。
「……ここからやり直そう。」
そう呟いた。
三日前。
リアは実家を追放された。
代々続く名門温泉旅館。
しかし経営は年々悪化していた。
「女のお前に旅館は継がせられん。」
父はそう言った。
「温泉なんて古臭い。これからは娯楽施設を増やす時代だ。」
兄も鼻で笑った。
「お前が湯守をやっていたから客が減ったんじゃないのか?」
違う。
本当は逆だった。
湯の管理をやめたから泉質が悪くなった。
源泉を軽視したから客が離れた。
それなのに。
誰も耳を貸さなかった。
「出て行け。」
その一言だけだった。
リアは涙を見せなかった。
温泉だけは嫌いになれなかったから。
「ここが……。」
地図を広げる。
目的地は山奥。
ほとんど人が来ない秘境。
古代テルマエ跡。
数百年前に栄えた巨大浴場だったという。
しかし今は。
「……ほんとに廃墟じゃない。」
石柱は崩れ。
蔦が絡まり。
巨大な浴槽には枯れ葉が積もっていた。
それでも。
リアの瞳は輝いていた。
「すごい……!」
思わず駆け寄る。
床を見る。
排水路を見る。
石材の組み方を見る。
「この配管……!」
しゃがみ込み、土を払う。
古い石管が顔を出した。
「ローマ式……じゃない。でも似てる。」
石管の角度。
水圧を利用する構造。
地下から湯を循環させる仕組み。
「こんな技術が異世界にも……!」
胸が高鳴る。
壊れている。
でも。
直せる。
そんな予感がした。
「誰だ。」
低い声。
振り返る。
そこには一人の青年が立っていた。
銀色の長い髪。
澄んだ青い瞳。
黒い外套。
秋風が裾を揺らす。
あまりにも整った顔立ち。
しかし。
その瞳だけが、氷のように冷たかった。
「ここは立入禁止だ。」
リアは慌てて立ち上がる。
「あ、あの!」
「観光客なら帰れ。」
冷たい。
本当に冷たい声。
「違います!」
リアは木箱を抱え直した。
「私は湯守です!」
「……湯守?」
「このテルマエを復活させたくて来ました!」
青年は一瞬だけ目を細める。
そして。
「帰れ。」
短く言った。
「もう二十年、お湯は止まったままだ。」
静かな声。
諦めきった声だった。
「誰も直せなかった。」
「でも!」
「何人もの職人が来た。」
「……。」
「学者も魔導士も賢者も。」
青年は浴場を見つめる。
「誰一人、湯を戻せなかった。」
その横顔は。
まだ若いのに。
何年も戦い続けた人の顔だった。
「だから終わりだ。」
そう言って背を向ける。
リアは思わず一歩踏み出した。
なぜだろう。
その背中を見た瞬間。
胸が締めつけられた。
どこかで見たことがある。
そんな気がした。
夕焼け。
笑顔。
放課後。
記憶の欠片が胸をよぎる。
「待って!」
リアは咄嗟に青年の手を掴んだ。
温かい。
だけど少しだけ冷えた指先。
その感触に、心臓が大きく跳ねる。
(この手……。)
(前世のあの人と、同じくらい優しくて綺麗な手……。)
青年も驚いたように振り返った。
互いの視線が、秋色の風の中で交わる。
リアは真っ直ぐ彼を見つめ、強く言い切った。
「お願いです!」
「私に、この温泉を復活させてください!」
冷え切ったテルマエに、少女の声が凛と響いた。
その瞬間――青年の止まっていた運命の歯車が、わずかに音を立てて動き始める。
秋風が、二人の間を静かに吹き抜けた。
青年はリアの手を見つめる。
細く白い指。
温泉仕事で少しだけ荒れている掌。
それでも不思議と温かい。
「……離してくれ。」
低い声だった。
リアは慌てて手を放した。
「あ、ご、ごめんなさい!」
勢いで掴んでしまったことに気付き、耳まで真っ赤になる。
「つい、その……」
「人の手を急に握る趣味でもあるのか?」
「ち、違います!」
リアはぶんぶんと首を振った。
「そんな趣味ありません!」
「なら、なぜだ。」
「それは……」
答えられない。
“前世の初恋の人と同じ手だったから”
そんなことを言えるはずがない。
青年はため息をついた。
「私はエリス。」
「この街の領主だ。」
リアは思わず目を丸くした。
「えっ!? 領主様?」
「見えないか。」
「い、いえ! 見えます!」
(むしろ王子様みたい……。)
整った顔立ち。
長い銀髪。
背筋は真っ直ぐで、立っているだけで気品がある。
けれど、その瞳だけはどこまでも冷たい。
まるで冬の湖だ。
「私はリアです。」
「湯守をしています!」
「見れば分かる。」
エリスの視線が木箱へ向く。
「その道具箱は珍しい。」
リアはぱっと笑顔になった。
「分かりますか!」
「これは祖父から譲ってもらった湯守箱なんです!」
勢いよく蓋を開ける。
「これは湯温計。」
「こっちは泉質を調べる鉱石。」
「この竹筒は源泉の流量を測るためで――」
次々と説明が始まる。
エリスはぽかんとした。
(……よく喋る。)
さっきまで緊張していた少女とは思えない。
温泉の話になった途端、まるで別人だ。
「それからですね!」
「湯花の状態を見るだけで泉質って結構分かるんですよ!」
「硫黄泉だったら――」
「もういい。」
「あっ……。」
リアは口を押さえた。
「すみません……。」
「温泉の話になると止まらなくて……」
エリスは思わず口元を押さえる。
少しだけ。
本当に少しだけだが。
笑いそうになった。
(変わった娘だ。)
この街へ来る者は皆、金や利権しか見ていなかった。
廃墟を買いたい。
鉱山を掘りたい。
土地を奪いたい。
そんな者ばかりだった。
だが目の前の少女は違う。
崩れた石壁を見て目を輝かせ。
壊れた配管を見て嬉しそうに笑っている。
本当に温泉が好きなのだ。
その純粋さが少しだけ眩しかった。
「……だが無駄だ。」
エリスは表情を戻す。
「このテルマエは終わっている。」
「まだ見てもいないのに?」
「地下配管は崩落した。」
「源泉も枯れた。」
「魔力も流れていない。」
「全部調べた。」
「二十年間。」
リアは言葉を失った。
二十年。
それは諦めるには十分すぎる時間だ。
「父も。」
エリスは静かに言う。
「祖父も。」
「この温泉を守ろうとして死んだ。」
リアは息を呑む。
「街は温泉で生きていた。」
「湯が止まってから、人は減り続けた。」
「商人も去った。」
「宿屋も閉じた。」
「今では老人ばかりだ。」
彼は山を見つめた。
「私は守れなかった。」
その一言だけで十分だった。
この青年がどれだけ一人で背負ってきたのか。
痛いほど伝わる。
(この人……。)
(ずっと一人だったんだ。)
リアは胸が苦しくなった。
自分も居場所を失った。
家族に追い出された。
だから少しだけ分かる。
“諦めたくて諦めたわけじゃない”人の顔を。
「エリス様。」
静かに呼ぶ。
「私は温泉しか取り柄がありません。」
青年は黙って聞いている。
「剣も使えません。」
「魔法も得意じゃありません。」
「戦うこともできません。」
一歩前へ出る。
「でも。」
リアは胸を張った。
「お湯なら信じています。」
紅葉が風に舞った。
「温泉は人を元気にできます。」
「身体だけじゃありません。」
「心も。」
「笑顔も。」
「家族も。」
「街も。」
真っ直ぐな瞳だった。
「だから私は諦めません。」
「一度止まったお湯なら、もう一度流せます。」
「冷え切った温泉も。」
「冷え切った心も。」
「きっと。」
エリスはその瞳から目を離せなかった。
昔。
ずっと昔。
こんなふうに笑う少女がいた気がする。
秋の夕暮れ。
赤く染まる帰り道。
「温泉っていいよね!」
そう笑っていた誰か。
(……誰だ。)
思い出せない。
思い出せるはずもない。
前世の記憶など、この世界の誰も持っていない。
なのに胸が騒ぐ。
リアを見るたびに、懐かしさが込み上げる。
「……好きにしろ。」
ようやくエリスが口を開いた。
リアはぱちぱちと瞬きをする。
「え?」
「一週間だ。」
「一週間だけ時間をやる。」
「えっ!」
「何も見つからなければ諦めろ。」
「それでも構わないなら。」
リアの顔がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます!」
勢いよく頭を下げる。
その弾みで木箱が倒れ、中から丸い石が転がった。
ころころ、と石畳を転がり、崩れた浴槽の縁に当たる。
――カチリ。
乾いた音が響いた。
「……?」
二人は同時に顔を上げた。
崩れた浴槽の中央。
長い年月、土砂に埋もれていた床石が、わずかに沈んでいる。
次の瞬間。
ゴゴゴゴゴ……
地面全体が低く震えた。
「な、何!?」
リアが目を見開く。
浴場の奥、巨大な女神像の足元から、淡い金色の光がゆっくりと漏れ始めていた。
まるで何百年もの眠りから目覚めるように。
古代テルマエが、二人を歓迎するかのように――。
エリスも思わず息をのむ。
「……地下施設が、動いた?」
誰も起動できなかった古代遺跡。
二十年間沈黙していたテルマエが、リアの訪れとともに初めて反応したのだった。
こうして、止まっていた街の運命と、二人の運命は静かに動き始める。
本作は連休限定の特別連載として、期間中毎日更新でお届けしていきます!
連休中に8話で完結する短期連載です。
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