平和に微睡む
私の朝は、頂点魔女の一人であるアスル・アクソイ様を起こすことから始まる。
夜明けの気配が樹海を薄く染める頃、私はアスル様の部屋の前に立ち、扉を三度叩き、入室する。
「おはようございます、アスル様」
「……あぁ、おはよう。イペク」
寝起きのアスル様は、普段よりもさらに口数が少ない。長い髪は乱れ、薄暗い部屋の中で、眠たげな瞳だけがこちらを見ていた。
「昨日は如何でしたか?」
「別に。ただの雑談だよ。見てただろ?」
「えぇ、珍しく楽しそうでしたね」
「お前は何を見てそう思ったんだ」
不機嫌そうなアスル様の朝の支度を終えると、側仕えである私は、一礼して早々にアスル様の部屋を立ち去る。アスル様は朝の時間は一人で過ごしたいらしい。この習慣は、私が仕えるようになってから一度も破られたことがない。
アスル様の部屋から退室すると、次の仕事へと取り掛かる。屋敷の掃除、洗濯、朝食の片付け。それから、魔法具の点検や、庭の手入れも私の仕事だ。
ひと通りの仕事を終える頃には、太陽はすっかり高くなっていた。
「あぁ、今日も平和だなぁ」
誰に聞かせるでもなく、私は呟いた。
庭の木の幹に背を預け、草の上に腰を下ろす。木々の間からこぼれる柔らかな日差しが心地良い。
今、この瞬間の平和が愛しい。
本来なら、私はこのような場所にいる人間ではなかった。すべては奇跡的な偶然と、アスル様の温情によるものだ。あのときの、自身の身体が冷たくなっていく感覚。今思い出しても身震いがする。
もしアスル様が手を差し伸べてくださらなければ、私はあのとき死んでいた。今こうして穏やかな朝を迎え、掃除や洗濯に追われ、疲れた身体を草木に預けていられるのも、すべてアスル様のおかげだ。
だからこそ私は、この平和を決して当たり前のものだと思わない。
どうか皆、安らかでありますように。
暖かな日差しと、静かな風に包まれながら、私はそのまま、ひとときの眠りへと落ちていった。
イペク・アクソイは樹海の外縁の村の一つに生まれた。
年々拡大していく樹海の進行に合わせ、樹海内部の危険な魔獣に遭遇する前に外へ、外へと逃げる暮らし。だがイペクは、それを決して不幸とは感じず、年に一度の引っ越しがあるだけのようなものだった。
イペクの住む村だけではなく、他の同じような村でも、基本的には自衛が義務だった。危険な魔獣に遭遇する可能性もあるし、樹海の外の、耳の丸い変わった人間との戦闘もあると教わった。イペクはそれが苦手で、訓練のたびにそこから逃げては、自宅に引きこもって母に甘えていた。だが、イペクには魔法の才があったため、村はイペクが自ら前向きになってくれることに期待し、強くは言わなかった。
そんな穏やかな生活が、いつまでも続くものと思っていた。




